嵐迫る農園に、鮮血が飛沫く。
良かったじゃあないか”鉄拳”ケティル、借り物の異名が本物になって。
ヴィンランド・サガ二期第18話である。
王の軍勢が迫る中戦備より感動の再開より、執着が反転して暴力に転じる瞬間がまず描かれる。
クヌートがかつて雪原、豁然と世界の真実として悟った愛の真相を、一番見たくなかった形でしっかり描写されて、クライマックス始まってもいないのに最悪の気分である。
状況がここまでに詰まる前、奴隷たちが人生に悩めていた思えば贅沢な時代に描かれていた、優しい旦那様から漏れ出るカルマ。
それが命を打ち据えるときの納得と、解っちゃいたが実現して欲しくなかった苦味と、やっぱこうなるかという諦め。
いつだってヌルい後退はしないアニメだが、妊婦を瀕死になるまで棒で打ち据える場面から一切目をそらさず、そらさせず、暴力の本質を顔面になすりつけてきたのは、最悪すぎて大変良い。
見てて血が沸き立った”蛇”とトルフィンの手合わせと、今回馬小屋で描かれたものは根本的に同じで、これからクヌートが振り回す冷たい権力も、また同じだ。
血みどろで生臭いものしかないこの場所で、最後に選ばれるべき手段が真っ先に、手っ取り早く選ばれる現実を前に、何が”最初の手段”か。
答えのない問いかけは、まだまだ続く。
元々顔面の作画が大変良いアニメだが、戦嵐を予期させる曇り空の下で、男たちがどんな顔をしているか、筆はノリにノっている。
農園を接収するためにクヌートは謀略を編み上げ軍隊を動員したが、人命というリソースを無碍に消費する愚かさを知っている。
……というか、命が砕かれる痛みを嫌というほど思い知って、それを止めるために優しく弱くあり続けることをやめて、父も兄も殺して玉座に座り、なおこの面相である。
犠牲の亡骸で舗装された覇道は、なにもかにも地上の楽土にたどり着くために。
そう己に言い聞かせても、暴力の本質を知りその愚かさに溺れる現状は、王に憂いを生む。
隣じゃフローキが面白くもねぇ牽制貼って、自尊と野心をチラつかせて生臭いし、権威と武威を兼ね備えた王君たるべき態度を取っていても、クヌートの現在地は常に憂き世である。
一方追われる立場の親子は三者三様、トールギルのテストセトロン出まくりなパキパキ眼が、うんざり感を加速させる。
男なら人を殺してなんぼのノルド社会、このくらい異常事態(と、僕ら現代人なら感じこの時代でも結構な人がうんざりな状況)に滾れたほうが成功するんだろうけども、振り回される方はたまったもんじゃない。
とはいうものの、憂鬱にうんざり顔なオルマルがそうやって”男”になることを望んでいたのも事実であり、へなちょこボーイが待ちに待っていた殺し合いの現場がそう遠くない場所で、愚行を追いかけて帆を広げている。
その実感が、手に染み付いて離れない血と肉の感触が、消えてくれないからこの表情でもあろう。
そして親父の茫然自失は、それを満たす唯一の光への渇望……それが己を裏切ったときの狂妄を、上手く予感させる。
もはやガチャ目と息子のいがみ合いを丸く収め、融和の食卓を共に囲んだ知恵者の面影はどこにもなく、あっという間に転がった運命によって、心には大きなヒビが入っている。
長子のように生きるか死ぬかに滾ることも出来ず、末子のように罪悪感を噛みしめることも出来ず、ただただ自分を打ち据え積み上げた夢を壊す嵐に、怯えるしかない。
この虚無にかすかな希望が流れ込むからこそ、さらなる悲劇が加速していく。
唯一すがれると思ったものが打ち砕かれた時、人は何をするのか。
一番見たくないものをこそ、今こそ描くのだ。
その前に、主人公は縄にくくられつつ世界と自分のあるべき姿を熟考する。
トルフィンがたどり着く非暴力主義は世間のスタンダードを無批判に、頭だけで受け入れた結果などでは勿論なく、この時代何も考えずに自分を運んでいったら、男は軒並み”ヴァイキング”になる。
女を犯し、殴り、村を焼き財産を奪い、あっけなく誰かに殺される剣を握った動物であることが、時代が要求してくる”当たり前”だ。
そこから外れる生き方は『あってはならないこと』で、だからこそケティルもアルネイズの膝にすがり甘え、奪われたと思い込んで杖を振るう。
優しく近代的だと思えた旦那様は、時代の波に抗うことなく、むしろ喜び高ぶりながら”ヴァイキング”になる。
エイナルは『しかたがない戦いもある』というが、自分が信じてきたもの、裏切られてなお生きるために選んだものを軒並みぶっ壊されかかっているケティルにとって、アルネイズを打つことはおそらく『しかたがない』ことだ。
自分を愛し肯定するべきアルネイズが、意に反して若く壮健な男を選んで逃げ出すことは『あってはならない』ので、当然暴力によって否定する。
歯をむき出しに猛り、抵抗できない弱者に感情を叩きつけることでしか、彼は己を保てない。
それは(彼の中では)自己防衛のための戦いであり、この怒りを剥奪されれば残っているのは、絶望と虚無だけなのは既に描かれた。
これもまた、生きるための戦いなんだからしょうがないだろ。
しょうがないわけねーだろ、最悪中の最悪だよ……。
そう素直に思う僕と、時代だのキャラの苦しみだの考えて客観する僕が、このお話には同居している。
儂の金、儂の土地、儂の奴隷。
ケティルが執着するモノには彼の存在証明が張り付いていて、これを奪われることは己を奪われること……殺されることだ。
だから、殺される前に殺すことを選ぶ。
しかし忌避した”ヴァイキング”になる前、彼がそうありたいと望んだ優しい旦那様は、愛と平等を謳い時代のスタンダードに背を向けていた。
奴隷にも各々の思いがあって、それに従い勝手にする権利があって、願いに向かって真っすぐ進んでいける自由があるべきだと、先進的に考えているように思えた。
だが王の軍勢に追い立てられる極限状況が、魂の地金をむき出しにする。
奴隷は、女は、かしずいて”鉄拳”ケティルを崇め奉り、愛され生き延びるに足りる存在であると証明すれば良い。
裏切るなら、その躯に証を立てさせれば良い。
そういう手っ取り早い、この時代……にかぎらず様々な人が”最初の手段”に選んでしまう考えでもって、アルネイズと腹の子を殺しにかかる。
哀しみを知り愛を知ったように見えて、その虚飾の奥にあるものは、こんな手触り。
ヒトの魂の根っこに、どれだけ暴力が深く根付き、その行使がどれだけ魂を守るのかを、このお話は深く刻んでいく。
激情のまま振り下ろされる杖を、暴力を商売にする”蛇”が握る。
そこに博愛はなく、トルフィンに命の値段を問うたときの切実もなく、燃え盛る怒りをそれ以上の実力が冷徹に握りしめ、冷やしていく。
自分のすべてを盗まれると、窮地に焦った新米ヴァイキングの暴力は、既に勝ち目なしと自分たちの勢力を見切っている暴力屋にせき止められる程度の力しかないことが、静かに示されている。
絶望がケティルに”鉄拳”を与えるけども、それは多分無力な女奴隷を殴り殺す程度の力しかなくて、”客人”達より遥かに冷静に、精妙に死をひさぐ王下軍勢を相手取った時、なんの抗いにもなり得ないのだろう。
そういう客観的事実を、名前を捨てここに流れ着くまでに”蛇”は常に見据える必要があって、だから感情のままに振り下ろされる杖をせき止めることも出来る。
これから”鉄拳”が向き合う相手は、この冷徹を遥かに超えて暴力を友とし感情を制御しているわけだが、自己防衛意識に飲まれたケティルにはそんな事実は見えない。
儂のモノ、儂の王国、儂それ自身を殺すのならば、何もかもを討ち果たす。
そういう、とても”ヴァイキング”らしい熱に押し流され……少し冷える。
この熱はエイナルにも伝播し、何もかもを焼き尽くしかねない所がまた、暴力の恐ろしいところだ。
他人を尊重しない、出来ないエゴ・セントリズム最初の発露たる暴力は、誰かの魂と深く結びついた誰かを簡単に壊して、奪って、人間を人間でなさせていく。
それでぶっ壊されてガルザルも狂い、邪魔者を殺して過去に帰ろうとして、彼が拡げた熾火に焼かれてアルネイズも死にかけている。
暴力には、強い延焼性があるのだ。
もしアルネイズが死んだら、エイナルはケティルを殺すのだろうか?
その土壇場で、非暴力と自由を戦士の証と選びかけているトルフィンは、友を止められるのか?
一瞬ヴァイキング的な光を宿したその眼に、そういう危惧も強くなる。
儂のモノ。
自分だけの意志と物語を持ち、それに全てを擲つ最後の尊厳を有しているはずの人間を、そう言えてしまう奴隷という制度。
思い返すと狂気に囚われたガルザルも、他人の所有物になってしまってなお生きてる目の前の女ではなく、思い出の中失われた我が子と故郷を、常に見据えていたなと思う。
幸福に満たされた父、自分の弱さを受け止めてもらえる幸せ者、美しい女に惚れ込んだ純朴な青年。
あって欲しいと願う自分を、残酷な世界は常に否定しにかかり、それに抗うのならば正気ではいられない。
郷愁に、暴力に狂ってしまったほうが”普通”な世界で、人のナリを保ち続けるのがどれだけ高値なのか。
アルネイズを愛し……確かに愛していたのだと嘯きながら、自分の幸せも彼女の自由も削り倒していった男たちを見ると、それを思い知らされる。
ガルザルもケティルも”ヴァイキング”ならざる顔こそが自分の本性だと思いながら生きてきて、結局あまりにヴァイキング”な、歯をむき出しに剣を握る顔で、アルネイズを悲惨へと追い込んでいった。
エイナルもまた、そういう場所へと進みだしてしまうのか。
セカンドシーズンのどっしりとした筆致を通じて、彼を好きになった僕は、今そんな危惧に怯えている。
”鉄拳”ケティルの有名に相応しく抜き放たれた刃は、世界を見据える瞳を塞ぎ、修羅の相貌を刀身に移す。
あの穏やかな日々の中で、なりたいと思った自分も、確かに積み上げた価値も、冷たい鋼鉄に塞がれ見えなくなっていく。
”鉄拳”になりえなかったケティルさんが、その弱さと優しさで奴隷や小作人に分け与え得たものを何もかも否定するように、怪物になった自分しか見えない場所に、突き進んでいくのが俺は悲しい。
刃と、それを抜かなければ己の命も魂も殺されるような極限は、そういう場所をむき出しに突きつける。
いや、もういつだってこの地上に生きる人間には、刃しか突きつけられていないのだ。
クヌートに問えば、そう答えが返ってくるだろう。
その現実に耐えられないから、王は刃を静かに構えて海を渡り、微かな憂いを潮風に溶かして虐殺を運ぶ。
それがさらなる死人を減らす、最も効率的な手段だからだ。
選んでしまえば、もはや引き下がることも改めることもかなわない、大きすぎる決断。
それをケティルも、今回果たした。
やりきれないが、世の中そんなもんだ。
振り下ろされる杖が、胸に燃える熾火に身を投げたアルネイズに、運命が追いついた結末なのだと、スカした達観を振り回すつもりはない。
何もかもが悲しくて、もっと悲しくなる予感しかないまま、曇天の戦備えは進んでいく。
歴戦の勇士のように、アドレナリンに飾られた”鉄拳”の戦化粧がどれだけ脆いものか、”蛇”の冷静な静止とそれを上回る王軍の覇威が既に語っている。
ワタリガラスの先触れを受け取って、嵐が来る。
その只中でトルフィン達は何を選び、選び得ないのか。
次回も楽しみだ。