イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

鬼滅の刃 刀鍛冶の里編:第7話『極悪人』感想

 加速する激闘、鬼滅アニメ刀鍛冶編第7話である。
 んまーネットリ濃い尺の取り方で、半天狗六体目の分身がドドンと登場して好き勝手絶頂ほざく所と、無一郎くんが村瀬歩声の仮面美少年と間接キス所が描かれました。
 憎珀天東城は章のラスボス最終形態なんで、長めに時間使うのは納得するにしても、一瞬があまりにも無限に伸長されすぎてて、やっぱ鬼滅アニメクドい所クドいな……と思った。
 その演出指針がブレることなく、凄い強度で何度も叩きつけられてきたので、自分の中のある種の強度を獲得しているのも、ちょっと面白いけどね。

 

 喜怒哀楽、人間の感情を全部より集めて”憎しみ”になるのも、そのベースが怒りなのも、半天狗らしい所ではある。
 100人200人ぶっ殺してなお弱者、『フいてんじゃねーぞクソカスがッ!』と炭治郎がキレるのもごもっともな歪み方であるけど、そこを客観視して姿勢を改めたり、自分が本当にしたかったことを見つめる(思い出す)事が出来るなら、そもそも鬼まで落ちてはいないのだろう。
 このお話の鬼は狭いエゴに酔って他人の事情やら心やらを見ない、見なくても一つの生物として生き延びられるある種の強さが特徴だ。
 生来共感能力に欠けた、人間社会で生きるには不適切な動物な事もあるし、誰かに寄せた心が辛い現実にすり潰された結果、世界を見なくなった人間もいるけども、行き着く先は無明の孤独である。

 無惨は妓夫太郎の弱さを、妹を見捨てられない愛に見ていた。
 それこそが妓夫太郎が鬼に落ちた理由であることを考えると、他人の話を聞かない、客観的に世界と自分を見れない独善が、強いほどに鬼は力を増していく。
 それは結構身近な奈落で、角が生え血鬼術がつかえることはなくとも、モニターの外側で鬼になりかけている人、後戻りできず鬼に堕ちた人は、いくらでもいるのだろう。
 鬼は人の戯画で、人は鬼のなりかけで、だからお互いに否定し合う。
 そういう宿命を横にどけて、対話可能な鬼を探し当て人として遇する……ことで、鬼を人に戻していくのが炭治郎の主人公力でもある。

 何かを冷静に思い返せる余裕があるなら鬼にはなれないし、鬼でいる間は真実客観的に、公平に生きることは出来ない。
 なので鬼が人であった時代の自分を思い返せるのは基本、首ぶった切られた後になっていく。
 憎珀天の身勝手な極悪人認定は、誅滅の一撃を跳ね返せる強者である限り揺らぐことはないし、これを改めるチャンスはぶっ殺される立場になって、真実”弱者”になったときにしかない。
 声も山ちゃんだし、強キャラオーラムンムンで登場したわりに、存在自体が出現の瞬間から終わっているという、鬼らしい鬼だ。
 ロクでもなさすぎるので、早くしんでくれ……。

 

 そのロクでもなさは玉壺さんも同じで、肉体の傷にも一切揺らぐことのない、鎧塚さんの職人根性を見せつけられ、彼の心を揺さぶることに取り憑かれていく。
 芸術家であることは玉壺さんにとって大事なアイデンティティで、エゴの動物である鬼は自分以外の価値判断軸を持たないから、ひたすら己の道に邁進する姿で自分を否定してくる存在は、理屈や効率を横にどけて殺さなきゃ気がすまない。
 それは自分を支えるものが欠けた時、思わぬところから自分を継ぎ足してくれる存在を持ち得ないということでもある。
 何かに感動できる柔軟性こそが芸術家最大の資質で、鎧塚さんは無名の古刀に心から感じ入って研師三昧の境涯に入れたわけだが、玉壺さんは彼のグロテスクな芸術そのもの、それと繋がった誰かの営み(に、”死”を芸術に選んだ玉壺さんは絶対繋がれないんだけども)に、心から溺れることはない。
 どっかで『誰かに評価される私』を探してしまって、飾り立てた殺しはそのためのツールに落ちている。

 芸術や技術も積み重なる営みの上、あるいは先にこそあるもので、人間の短い一生を孤独に完結させず、過去から受け継ぎ未来に継いでいく奇跡を、人は積み上げてきた。
 それは刀剣という広い技術文化だけでなく、一個人が生きて何かを成し遂げる(あるいは何かを忘れ奪われる)繰り返しの中にも、確かに宿っている。
 無一郎は炭治郎と出会い言葉をかわすことで、自分の間違っているポイントを指摘され改めようとすることで、霞の向こうの記憶を刺激された。
 非効率だと打ち捨てても、切り捨てられない何かに突き動かされて、不合理に目の前の命を助けて、それが巡り巡って彼の息を繋ぎ、逆転の契機を作る。
 剣士たちは、時の営みとしても人の繋がりとしても孤独ではなく、時に後戻りして自分を改めれるからこそ、鬼に勝っていく。

 小鉄くんが土手っ腹ぶち抜かれてでも、かつてマジいけすかねぇ……と腹立ててた相手のために尽くす時、無一郎はクールで何かを諦めた『いつもの霞柱』ではなくなっている。
 命の土壇場を間近にして、当たり前に焦った少年の声が出てくるのが、何かが蘇りつつある手応えがあって良かった。
 それは切迫していて、必死で、時折無様なのだ。
 霞がかった超然でも、効率だけを追い求める正しさでもなくて、血の通った思い出に後押しされた、熱のあるなにか。
 それが消えきってなかったからこそ無一郎は炭治郎との出会いを契機にして、失われた自分を探り当て、過去から受け継いだもの、死を超えていくものを思い出していく。

 父と家族の記憶を取り戻すことで、時透無一郎は14の子どもに自分を戻していくし、無力なガキではいられない惨状を前にして、より強く刀を構えもする。
 前回鮮烈に描かれた玄弥の原点にしても、そこに立ち戻って何が大事だったのか、何を受け継ぎ夢に見たか、思い出せる柔らかさが、やっぱりこのお話では大事なのだと思う。
 今回の鬼たちは、そういう原風景がぜーんぜん無い、生粋のドクズ揃いだしなぁ……抗う人間サイドは、一旦原風景を喪失して鬼に近づき、炭治郎と出会うことでそこから人の居場所に戻っていくのだ。
 他人の意見を聞く耳と、世界の在り方をしっかり見る眼を持ち続けるののは、当たり前に思えて難しく、それを手助けしてくれる誰かの存在は有り難い……つうことなんだろうな。
 こういうフツーで普遍的な構図を、ゴアゴア伝奇バトルの下敷きにしている所が、俺は好きなのだ。

 

 というわけで、鬼の身勝手と人の揺らぎが激戦に煌めく回でした。
 何度ぶった切られてもしぶとく、分割した心全部で世を恨み己を憐れみ、他人の生き血をすすりながらの被害者面。
 半天狗の醜悪が相当にしょーもない所が、僕らが結構簡単に鬼になりうる現実への警句として、大変いい感じだと思います。
 ああはなりたくなし。
 バキンバキンに極まった作画と演出で、超常の死闘をたっぷり描きながら、そういう生っぽい手触りが悪党に宿る。
 ”鬼滅の刃”というお話の、地金に近い部分に触れれるエピソードだったと思います。
 次回も楽しみです。