イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴィンランド・サガ SEASON2:第20話『痛み』感想

 颶風が地を撫で、赤く染める。
 崩壊する前線で、その裏側の本陣で。
 流れる血が、一瞬の凪を戦場に作り出す。
 今また一つ命が、瞬いて消える。
 その死に際の吐息を、暴虐に踏みにじられた涙を。
 怒りの船ではなく、もっと別のやり方で、ここではない何処かへ運ぶために。
 今、奴隷が拳を握り進み出す。

 ヴィンランド・サガSEASONS、クライマックス真っ只中の第20話である。
 生き死にの激流、思念のぶつかりあいが濃厚に描かれ、長かった農場暮らしを総括する結末へと力強く、物語が運ばれていく手応えがある回だった。
 血湧き肉躍る戦争活劇が、その実悲惨で愚かな暴力の繰り返しでしかないと伝えるために、そこを超えた決断へ主人公を送り出すために、数多ありふれた悲惨と流血の実態を、容赦なく描く。
 このお話の本領が、ズズイと身を乗り出してくるエピソードだったと思う。
 大変良かったです。

 

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第20話より引用

 血しぶき舞い散る戦場は、真の強者を知らしめる試金石として厳しく、人のあり方を試す。
 かつてトルフィンに暴力と死のひさぎ方を語った”キツネ”は、いちいち殺した相手の数など数えていないだろう真の猛者を前に震え上がり、立ちすくむ。
 片腕を奪われてなお闘志を剥き出しにする”アナグマ”が、普段は頼りない弱虫に見えていたのと合わせて、戦争という異常事態は容赦なく男たちの仮面を引っ剥がし……選りすぐりの職業戦士たちは、そんな生き死にの現場こそが日常である。
 殺し殺されに慣れきった者たちが、麦穂を狩るように首を切り落とし、畑を潤すように血を絞る中で、”蛇”は予想された通りの虐殺を前に頃合いや良し、撤退を叫ぶ。
 負けること、逃げることを選ぶのにも勇気や資質がいる。
 ケティル農場の虐殺から教訓を引き出せるなら、そういうことになろうか。

 自分自身それに深く傷つけられていたはずなのに、ノルド男児の意地を吠えて撤退を認めない”鉄拳”ケティルは、他人の有名を盗み取ったツケを払わされようとしている。
 大将を張るには器量も武勇も足りぬまま、若造に追い立てられ奪われる恐怖を憤怒で塗りつぶして、立ち向かった挙げ句当然に負けていく。
 その無様は、奇跡の大将首に文字通り足をかけたトールギルの一刀を、すんでのところでせき止めたクヌートの腕前と、残酷な対比をなしている。

 

 若者と老醜、王君と偽勇者。
 北海帝国に君臨する証を財力でも、謀略でも、王才でも、武勇でも常に示し続ける……示さなければ寝首をかかれ理想半ばに倒れるクヌートに対し、ケティルは蓄えた財で他人の頭を下げさせ、死地に半農兵を動員し、”鉄拳”の名を掠め取ってきた。
 両軍の大将がかたや顔も名前も知られぬまま地に伏し、かたや勇者の襲撃を自力で跳ね除け生き延びる姿には、事態がこのように決着していく原因が鮮明に刻まれている。

 しかしケティルが争いよりも平和な日々を求めた『優しい旦那様』だった過去が何もかも嘘っぱちだったというわけではなく、クヌートが持ち込んだ戦火にあぶられて、何事もなければ本性にもなり得た優しさは、脆く崩れ去ってしまった。
 そういうむき出しの人間性……あるいは野獣性をこの時代(に限らず、人が生きていくこと)は容赦なく暴き立てていくし、その荒々しい風に逆らって剣をなげうち、魂を抱きしめる生き方を貫くことはとても難しい。
 あの鮮血の雪原で豁然と、世界の残酷さに気づいたからこそクヌートは、血塗られた道の先にある楽土を求めて殺しの技芸を鍛え上げ、今それを活用して襲撃を生き延びた。
 殺し奪う道を拒んで、その険しさに結局夢破れた獣になってしまう者と、遥か彼方に理想を追えばこそ修羅となる者。
 二人の大将の差は、そういう生き方の違いも険しく照らしていく。

 目をえぐり首を絞め、それでもなお殺し合う屠殺場のなれ果て。
 大地を埋め尽くす屍の贖いは、戦の中心に立ったものにしか収められないことを、”蛇”は良く知っている。
 殺して、奪って、強さが正しさになっていつもの結末。
 それを覆す何かを、積み重なる涙の果てにトルフィンは見いだせるのか。
 まだ主人公は、戦場に還り立たない。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第20話より引用

 情け容赦のない刃の嵐が吹き荒れ、冷たいリアリズムに命が蹂躙される場所から少し離れた、曇天に光柱そびえ立つ荘厳な舞台で、アルネイズが死ぬ。
 理不尽な運命と暴力に蹂躙され、傷つききった彼女が死の床で夢見るのは、もはや失われてしまった穏やかな思い出達だ。
 ここでガルザルとトルフィン達は美しい夢に登壇を許され、彼女を愛し子まで育んだはずのケティルが一切思い出されないのは、彼女が何故死んでいくかを思えば当然ではある……し、果てなく哀れでもある。
 真実『優しい旦那様』であったのならば、彼もこの夢に招かれて穏やかに微笑み、あるいはこの末期の慰めをもっと未来に……苦しんだ分だけ幸せに生きて老いて、例えばスヴェルケルのように死んでいける死の床に、持っていくことが出来たかもしれない。
 しかしそうはならなかったからこそこの夢なのであり、この死なのだ。
 その無常が、やはり哀しい。

 アルネイズは夫が引く馬車に乗ったまま、苦界に戻らず旅立つことも出来た。
 しかしただ『ありがとう』を言うために、良いことなんてなんにもなかった現世に立ち戻って死んでいく。
 その終わりもまた、彼女が夢見た平和な過去と同じ眩い光で描かれているのは、それが救いだからか、儚い夢だからだからか、どちらなのだろうか。

 

 アルネイズの命を継ぐべく、渾身の救命活動(どう考えてもオーバーテクノロジーなんだが、トルフィンが目覚めようとしている人道主義もまたそうであることを考えると、似合いの技な感じもする)に勤しむ青年たちは、戦場に満ちていたのとはまた別種の……しかし同根の懸命さで、消えゆく命にすがりついた。
 穏やかに流れていった井戸端の、もはや遠い朝にもまたそんな懸命さが静かに燃えていて、ただ生きていることの難しさを笑顔の下に噛み砕きながら、それでも笑いあって日々を生きたこと。
 それが、何も幸せなことがなかったと囁きつつも、『ありがとう』を告げるべく苦界に戻った女と、彼女を愛した男たちにとって救いであった事を、僕は信じたい。

 アルネイズ末期の絶望は、農場に流れ着いた時トルフィンが抱えていた虚無と、同じ響きを持つ。
 愛する人の死に際、鏡のようにかつての自分が囚われていた虚しさと苦しさを突きつけられて、トルフィンは何を思ったのだろうか。
 そればかりが全てではないのだと、土を耕す暮らしの中に、友と呼べる存在と日々向き合った時間に、生きることの難しさと喜びを噛みしめる日々に思う時、隣にはずっとアルネイズがいた。
 その人が、美しい顔をボコボコに腫らし、お腹に宿った命が消える様子を静かに告げて、無惨に死んでいく。
 その死に、生き延びてしまった己は何が出来るのか。
 問う顔相には、たしかに聖人の兆しが立ち現れてきている。

 

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第20話より引用

 やり場のない怒りに突き動かされ、エイナルの瞳に修羅が宿る。
 かつてビョルンが茸の力を借りて、あるいはガルザルが狂気に飲まれて見せた、真っ白に染め上げられた狂戦士(バーサーカー)の眼球。
 沸点を越えた怒りは人を真の”ヴァイキング”に変え、それに突き動かされて命を奪えば、もはや戻れぬ道が眼前に待つ。
 その呪いにうなされ、償えぬ痛みに苛まれ続けているトルフィンは、その拳で親友の顔を……怒りと狂気を撃ち抜く。
 誰の命も奪わず、優しい青年本来の顔を、涙とともに取り戻させるその一撃は、かつて父が追い求め死地に示した、真の戦士の拳……なのだろうか。
 それが本当なのだと示すためには、人生の全てを賭して証明しなければいけないのだから、つくづく生きるという戦いは厳しい。

 生粋の農夫であったエイナルを、ノルド人社会垂涎の”真の男”に変えるほどの怒り。
 それが本物であることを、復讐に突き動かされて戦場を歩いたトルフィンは良く知っている。
 知った上で、その炎が他人も自分も世界も焼き尽くして、その先には死に果てるか死ぬよりつらく生きるしか無いことを、抱擁の中で伝えようとする。
 延々と繰り返す報復の輪、奪い奪われ殺し殺される現世の修羅界。
 そこから抜けるための道程をさがして、今はただ涙する。
 その慟哭が、年相応に幼く響いているのが嬉しく、また哀しい。

 トルフィンは自分を殴りつけて止めてくれる幸運に、出会えなかったからこそ血塗られた道を突き進み、空っぽになって今、友と泣いている。
 自分と同じ過ちを、自分こそがせき止めるのだという決意を込めて拳を振り下ろしたからこそ、エイナルは真のヴァイキングではなく、どこにでもいる農家のにーちゃんに、すんでのところで戻れたのだと思う。
 戻ったところで死と哀しみと残酷が消え去るわけでもなく、悲痛は胸を引き裂いてなお続くけれども、それでも繰り返す悪夢をトルフィンの拳はせき止め、エイナルは殺すより嘆くことを選んだ。
 この悲憤が、滂沱の涙が、惨劇ばかりが積み重なるろくでもない世界から、輝く何かが生まれ直す産声であることを願う。

 

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第20話より引用

 その願いは、海の向こうに理想を見つめ、揺るがぬ決意に拳を固めて進み出す先にしか、形になりはしないのだろう。
 『オメートルフィンマージ……お前心配しすぎてツルッパゲになっちまったレイフおじさんの、気持ちいい加減汲んでやれよッ!』と思わなくもないが、トルフィン・トールズスソンは真なる戦士トールズの子である。
 哀れな犠牲の魂を、奴隷も戦争もない海の果てへと連れて行くためには今、ここで己を証立てる以外に道はないのだ。

 一見三人目の”父”に不義理しているようでいて、かつてレイフが自分に語ってくれた遥かなるヴィンランドを何より大事に思えばこそ、必ず帰ると約束した上で敵軍の只中へ進み出していく。
 その心の内が誰よりも解ってしまうから、レイフおじさんはずーっとトルフィンを探し求め、ようやく出会い直してまた、嵐の中に送り出してしまうのだと思う。
 航海者は、航海者を知る。
 残酷で愚かな戦士として、歯をむき出しに殺戮に励む”戦士(ヴァイキング)”を描くお話が、荒海を乗り越えて未知の可能性に進み出す”船乗り(ヴァイキング)”の旅立ちで終わっていくのは、なかなか印象的である。
 ある意味、ここでようやくトルフィンはクヌートに追いつき、肩を並べる資格を得た形か。
 2クール……長い迷い道であったけども、それに相応しい哀しみと喜びが宿る、良いエピソードだったと思う。

 

 人の中に獣がいて、その手綱が解き放たれてしまう危うさ、容易さを幾度も描いてきた物語は、延々と繰り返す無常を睨みつけ、主人公が自分なりの抗い方を定め旅立つ瞬間へ、ついにたどり着いた。
 これ以上の殺戮を止めるために、剣を握る以外の手立てを探る青年が選ぶ”強さ”とは、一体何なのか。
 次回も大変楽しみである。