イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴィンランド・サガ SEASON2:第21話『勇気』感想

 抜き放たれた剣の行く先を、白刃に怯まず見据える心意気。
 真の勇気を仕組まれた負け戦に問う、ヴィンサガアニメ二期第21話である。
 前回のドラマチックが少し落ち着き、長く続いた平和と全てを焼き尽くす戦乱の行き着く先へ、勇気あるもの達が進んでいく回である。
 嘲笑われる事を受け入れる強さをもっていなかったばかりに、血みどろの惨状を呼び込んだ後悔に泣きじゃくるオルマル。
 真の強さを示し、時代と世界の当たり前を捻じ曲げるべく死地に挑むトルフィン。
 男たちの肖像が、いつも以上に色濃い回だったと思う。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第21話より引用

 颶風が過ぎ去って残されたのは、山のような死人と重傷者。
 戦の腸がいかな臭気を放つか、クヌートは幾度嗅いでも慣れはしないし、オルマルはその実態を間近に見て嘔吐する。
 父王の首はクヌートが生み出した”秩序と慈悲のある戦場”を嘲笑い、ニヒリズムに満ちた王の勤めを囁く。
 生き死にを勝手に定める傲慢と、野放図な暴力に軛をかける偽善こそがお前の夢の本質だと、嘲り笑うのは父殺しの妄想なのか、亡霊の囁きなのか。
 どちらにしても、クヌートもまた己を笑う声に耐えながら立つ勇気をもって、楽土追求の罪業に向き合おうとしている。
 その屹然とした姿勢が、虐殺と簒奪を許すのかは、また別の話であろうけども。

 アルネイズの墓前に呆然と座り、気づけばいなくなってるトルフィンを追うエイナルが描かれたのは、個人的に凄く良かった。
 心の底から愛し、幸せを願った女を守りきれず無惨に殺されて、魂が抜け落ちてしまうのも。
 それでも生者の岸に足を置いて、これ以上の悲劇を防ぐために死地に赴いた友のために立ち上がるのも、エイナルの魂の色を鮮明に反射する描写だ。
 安らかな夢に向かって家族とともに進む前に、『ありがとう』を告げてくれたことがこの再起の根っこにはあり、苦痛の中で死にゆくアルネイズがそれだけは果たそうと思える日々は、エイナルの優しさが育んだ。
 死が何もかもを奪い去っても、目の前に広がるのが苦難だけでも、それでも歯を食いしばって生きる者の逞しさが、悲しみに暮れつつも瞳を開け、未来を見据えようとするエイナルには宿っている。

 

 こういう”弱い強さ”は農夫の専売特許ではなく、戦争の火種となったバカ息子もまた、目の前の惨状を吐き出して、飲み下して、ようやく自分の足で立つ。
 黒塗り連発の惨状こそが、”男”になるために憧れた暴力のなれはてだとようやく思い知って、泣きじゃくりながらゲロを吐くオルマルには、己の分と望みを知ったものが持つ、確かな強さがある。
 手首を貫かれてなお矍鑠と背筋を伸ばし、誉れに満ちた大逆転を望む兄のようには慣れないが、だからこそ自分の弱さを認め、飲み込む最後の矜持がちっぽけな体に満ちていく。
 コミカルな艶笑譚で終わるはずだった娘の慟哭、日常の一コマを友に過ごした親父の傷は、彼だけでなくその日々を見守った僕らにも、戦争なるものの素顔を叩きつけて、『もうたくさんだ!』という叫びに共鳴させていく。
 それは男の価値を試す試金石でも、英雄叙事詩めいたスペクタクルでもないと思い知ったからこそ、オルマルは兄の視線を真っ直ぐ受け止め、停戦の決意を叩きつける。

 腰抜け共に三行半を突きつけたトールギルが、どこか寂しそうなのに弟の意思を尊重したのは、”蛇”とはまた違った距離感で弟が見つけた生き方を、心の何処かで認めたから……っていうのは、あの人面獣に期待しすぎた考えかもしれない。
 自分の傷も、他人の命も大して重きをおかず、ただただ社会的承認と殺戮の快楽にむかって全力で走る、得難い資質を備えた傑物。
 ノルド社会生粋の”男”とは、どだい違う気性しか備えていなかったと自分を知ってようやく、オルマルは自分の足で未来に進んでいく。
 その先に待っているのが死に等しい平和剥奪刑だったとしても、進む理由が苦しみから逃げるためでも、それでも後悔を取り戻すために歩む男には、確かに戦士の気概が宿る。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第21話より引用

 そしてオルマルの決意よりも、その先にある悲惨よりも早く戦を収めるべく、トルフィンは王の陣地へと向かった。
 彼を追いかけて走るエイナルの、悲しみや後悔を振りちぎるように突き進む姿は、微かながら確かな希望の手応えを宿している。
 どう考えても尋常ではない、生き死にを投げ捨てたかのように思えるトルフィンの決断を、彼の帰還を誰よりも願うレイフおじさんは『誓いよりも重い』と認める。
 庇護するべき悲しき子どもではなく、貫くべき願いを熱く燃やした一人前の人間として、トルフィンを認めたからこその決断だと思う。
 これの願いを追いかけるように、エイナルは必死に走って荒くれた戦士たちの輪に、なんとか追いつく。

 ここでも嘲笑が世界に満ち満ちていて、トルフィンは笑われることなど意にも介さず、ただただすっくと立って対話を求める。
 仲間の嘲りに耐えられないのは殴り傷つける側で、選りすぐりの戦士のプライドはそれ以外の弱者を苛むことで、常に試され危機に瀕している。
 この戦争の火蓋を切った、豚も切れないクゾ雑魚への嘲りを使者がぶっ放すとクヌート達が読んだのは、誉れ高きノルド戦士のアイデンティティが、”男らしい”働きへの賞賛と”女々しい”生き方への嘲笑をベースに成り立っているという、社会構造への洞察が根っこにある。
 『お前は男の中の男だ』という名声は、『女の腐ったようなやつだ』という痛罵と裏腹で、肉体が傷つくよりも遥かに痛い衝撃が、弱さをなじる行為からは生まれる。

 

 空しき復讐に燃え尽き、この農園で生きる意味を取り戻したトルフィンにとって、そんなノルド・スタンダードは遥か過去に通り過ぎた場所だ。
 そういう自己確立よりももっと大事なものが世界にはあるはずで、その欠片が確かにこの農場での暮らしにはあったから、トルフィンは自分の命を賭け金にして、王との面会を求める。
 ここでわざわざトルフィンが命をかけるほどではない、義理も道理も飛び越えた土壇場に進み出ることで、ケティル自身が泥まみれにしてしまった日常の意味を、なんとか取り戻そうとしている感じもある。
 結果として沢山の人が死に、悲しみと怒りに塗りつぶされたように見えるけど、2クールに及ぶ長い物語も、日常の中確かにあった喜びも、けして無駄ではない。
 トルフィンは理不尽の中に己を投げ込むことで、彼を主役とする物語自体の価値を、最後の最後に担保していく。

 王と奴隷。
 かつて雪原で肩を並べた青年たちは、鏡合わせの双子のように共に顔に傷を刻まれている。
 一足先に己が為すべき道を定め、その対価として罪と死骸を積み上げているクヌートと、同じ領域までトルフィンが自分を押し上げれるのか。
 百回の拳打を生き延び、己の命と人の尊厳を買い取る奴隷最後の仕事は、一度は虚無に沈んだトルフィンが見つけた答えを示すだけでも、繰り返す嘲笑と虐殺からなんとか抜け出す道を微かに示すだけでも、多分終わらない。
 レイフおじさんがその慧眼で見据えたように、人間一人が示すべき生き様よりもう少し大きいものを、亡霊があざ笑うようなニヒリズムだけが世界の全てではないのだと、傷口から溢れる血潮で署名するような決断になるのだろう。

 

 本来幸せの表出であるはずの笑いが、何よりも鋭い武器として人間を傷つける皮肉な場所で、嘲意の嵐の中に堂々と立つ強さ。
 愚者が、奴隷が、王者が、それぞれにその姿を示す先に、一体何が待つのか。
 まずは戦士としての逞しさを、憤怒に燃える百の拳に耐え抜くことで示し……さて、その後は?
 なかなかに凄いものが見れそうで、次回も大変楽しみだ。