イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

鬼滅の刃 刀鍛冶の里編:第11話『繋いだ絆 彼は誰時 朝ぼらけ』感想

 かくして長い夜は明け、断罪の刃が遂に振り下ろされる。
 長かった戦いよさらば!
 70分スペシャルでお送りする鬼滅アニメ刀鍛冶の里編、最終話である。
 想定通りというか想定以上というか、ドッゴンドッゴンパなされる高画質のスローモーション、掟破りの一話に三回の回想シーン、鬼滅アニメらしいコッテリ感満載の最終話となった。
 トコトコ逃げる半天狗を追いかける場面だけで、アバンの三分使ってるの見てなんか異様な笑い出たもんな……。
 『あ、当然ですけど”それ”でいくんですよね最後まで。ここまでこの味付けできちゃったら、最終話サラッとやったらそれこそ裏切りですもんね。それにしたって初手から濃いですね……』みたいな気持ちが、最後の最後までしぶとすぎる半天狗の生き汚さやら、ファン待望のド外道過去やら、活きるか死ぬか竈門禰豆子やら、こいつも食っとけ無惨回想やら、ドカ盛りを超えたドカ盛り襲来に押し流されて、なかなか不思議な感触だった。
 ぶっちゃけ鬼滅アニメのクドさは僕にあんま合わないし、常時力んでいて消化カロリー高すぎだが、放送枠確保含めコストも段違いだろうこのスタイルを、一切の緩みなくやり切っている気合をモニタ越し浴びると、畏敬の念みたいなものは確かに湧く。

 

 つーわけで恋柱が最強の敵を単独で抑えている間に、クソ上弦の首をどうにか切り落とすラストミッションに、炭治郎たちが挑む今回。
 いやー……70分スペシャルもらうと原作以上にマジ死なねぇな、半天狗。
 最終局面ともなると、さんざん小さな被害者ぶっていた卑怯者の性根が、剛力を誇る怪物であったり、でもそれは真実本性ではなく心臓の奥に潜むちっぽけな卑劣漢がその核であったり、半天狗という存在……鬼になる輩一つの真実が、より鮮烈に暴かれる。
 遊郭編でたっぷりと、鬼になるしかなかった人の悲しみを掘り下げ、『それがこのお話の怪物のスタンダードなのだ』と思わせておいてからの、一切救いようのねぇ生前からのカスっぷりも、良い回想でバキバキに暴れた。
 鬼の力に抗することは出来なかったが、罪から逃げずに立ち向かう正しさを苛烈に押し付け、断罪の刃を白洲に示そうとしたお奉行様の瞳に、強い力が宿っていたのはとても良かった。
 結局半天狗は炭治郎と鬼殺隊にツケを払わされることになるのだが、嘘と血に塗れたその罪ははるか昔、名前もなき正しさに裁かれようとしていたわけで、決着の刃を届けたのはなにも里の刀鍛冶、あるいは無一郎くんだけではないのだろう。

 最終局面は敵味方ともに判断ミスが多く、手負いの炭治郎を半天狗が優先して潰していれば活路が見えただろうし、炭治郎も恨みの鬼を殺した時点で安心し、勝負の手綱を手放してしまっている。
 自分の罪から逃げ、弱い犠牲者であると思考を捻じ曲げて生きてきた半天狗だが、その本性は血に飢えた獣そのものであって、虐げられる弱者が目の前にぶら下がった時、なぶり殺す誘惑には勝てない。
 というか、炭治郎というしぶとく強く、耳に痛い正論ばかりがなり立てる相手と向き合うのが、イヤでイヤでしょうがないから楽な道に逃げた……という形か。

 

 炭治郎がらしからぬ油断をしたのは、鬼である妹に致命の朝焼けも迫る中で、ズタボロの体を休めたい気持ちが、どこかにあったのだと思う。
 太陽の如き眩さで正義を体現し、悪を焼き尽くす憤怒の炎を迸らしていても、竈門炭治郎も一人の人間、血を流しもすれば休みたくもなる。
 その間隙を突く形で、半天狗に無辜の人々をみすみすぶっ殺させるか、大事な妹の命を繋ぐか選ばなきゃいけない土壇場に放り込まれて、禰豆子自慢の足で”正しさ”へと蹴っ飛ばされる。
 手のかかる幼女に戻ってしまった禰豆子を、守り教える炭治郎兄ちゃんが背後の惨劇を見落とし、己を焼く陽の光に怯まずそれを伝えるべく禰豆子が飛び出してきたのと併せて、なかなか面白い構図である。
 炭治郎に欠けているものは禰豆子が補って、大事なものを忘れてしまったのなら蹴ってでも思い出させて、行くべき場所へと届かせる。
 そういう絆が鬼には大概なく、あるいはそういう絆を手に入れられたものが、鬼でありながらお天道様の裁きに焼き尽くされるのではなく、日光を克服した初めての鬼の資格を得るのだ。

 正しさか、優しさか。
 選びようがない畢竟に追い込まれた時の情けない/人間らしい声が思い出の奔流に迷い、禰豆子の蹴りで為すべきことを思い出せられた後、炭治郎の声がスッと冷えるのが好きだ。
 慈悲と甘さを残しつつも、厳しい修行と悲しい別れに鍛え上げられた少年はもはや凄腕の戦士であり、倒すべき相手を思い出せば私情を押さえて、そのための最短距離をひた走れる。
 花江夏樹の真骨頂が一気に味わえて、大変ありがたい場面であった。
 逃げ隠れする半天狗を今度こそ断罪するべく、異能の鼻を効かせて急所を”嗅ぐ”のも、自分らしさに立ち返った決着でとても良かったと思う。

 かくして上弦を討ち果たし、朝日の中で言葉を取り戻した妹を抱きしめる炭治郎は、覚悟を取り落として剣の在り処を忘れている。
 鋼鐵塚さんも激怒の薄らボケであるけども、そう出来る所まで血を流してどうにかたどり着いたのだと思うと、禰豆子でなくとも『良かったね』である。
 無限列車では煉獄さんをぶっ殺されて猗窩座を取り逃し、遊郭では上弦を倒しつつも音柱を引退に追いやられてきたが、今回は味方に一人の脱落もなく鬼滅を果たしきり、炭治郎の成長が人名を測りにして見えもする。
 物語が始まった時は獣のように尖っていた玄弥が頑是ない笑顔を見せたり、合理でしか人間の価値を測れなかった無一郎くんが炭治郎に刀を預けれたり、激戦を通じて色んなもんが変わったと、最後に確認できるのも良い。(これはラストカット、美しき刀鍛冶の里から沢山の感謝をもらう場面にも濃い)

 鬼を殺すために己も鬼になるしかない、修羅の住処でずーっと『普通』である(そこでしか、彼女が『普通』でいられる場所がない)甘露寺蜜璃が、メチャクチャ当たり前に全員生存に涙し、妹分が人間らしさを取り戻して笑う姿も、また良かった。
 叶うなら剣も握らず、炭焼いたり木を切ったり家族と飯食ったり『普通』に生きたいと……修羅などではなく人の幸せに浸りたいと思い、しかし叶わなかったから鬼になった人たち。
 人間の在るべき姿、責任と罪の所在に目を塞いだクズの、好き勝手にさせてたら血しぶきと不幸が世の中にはびこるのだから、己の体と幸せを防波堤に戦うことを選んだ(選ばざるを得なかった)人たち。
 そういう異様で異常な連中が、危うい道をフラフラ歩きつつもなんとか人でいられる……いたいと願う気持ちが、暖かな日差しに良く照らされていた。

 そこに隣り合う資格を新たに一つ、禰豆子が得られたのは良かったなぁと思う。
 あの竹筒はあまりに不器用な兄弟子が、鬼であろうと人であると妹を信じる炭治郎の心を汲み、鬼であっても人食いになりたくない禰豆子の思いに応えて、手渡したプレゼントだ。
 それが役目を終えてポロリと外れるのは、水柱にとっては望外の本意なんだろう。

 

 

 んで。
 そういうギリギリ人間性の淵にしがみついてる人らが、宿敵と追いかけるクズカス人間も禰豆子覚醒に歓喜ッ! ですよ。
 鬼滅アニメはナレーションを廃しているので、回想には無惨自身の声が混ざり込むんだけども、ついカッとなって千年無駄足を踏むテキトーさ、それでも人類の宿敵として生き延びれてしまう無法の強さが、不思議に際立ってなかなか面白かった。
 『テメーが言うな……』感満載の過去開陳であるけども、あんだけ愚かで身勝手で行き当たりばったりであっても、正義と復讐の刃を軒並み退けて生きてしまえる強さが無惨にはある。
 それが無惨を孤独にしてもいるのだが、他の鬼を同族ではなく不快な塵芥と見下している彼にとって、一人でいなければいけないことは苦痛でもなんでもなく、その必要もないのだ。
 だから愚かさを正して生き方を改める事はできないし、そのために他者を己の鑑として尊重するなど、とてもとても耐え難い。
 ここら辺玄弥や無一郎くんが炭治郎と触れ合って、頑なだった自分を緩めたスキマに大事な思い出が戻ってきたのとは、本質的な違いが在る。
 人間は間違えそうになったら誰かが助け、それに感謝しながら後戻りも出来るが、鬼はそのきっかけを独善で跳ね除け、暴力で遠ざけていくのだ。

 鬼になる前からそういうクズカスだった連中も、その総大将を筆頭にうじゃうじゃいるし、鬼に成り果てて真実自分が何を望んでいたのか、忘れている者たちもいる。
 どっちにしたって、首を切り落とされなきゃフラットな心境に立ち戻れないのが、鬼の生き方……って言いたいところだけど、禰豆子にしても珠代にしても浅草のオジサンにしても、鬼の定めに心を焼かれつつ、なんとか人間の岸にしがみついてる連中もおるわけでね……。
 世間一般に言われるほどには、簡単でも当たり前でもない『人であること』をなげうち、戻れない一線を踏み越えた連中の行く先がどうなるのかは、今後の激戦が示すところでもあろう。

 激情にかられて医師を斬り殺し、”青い彼岸花”の手がかりを葬って千年迷う羽目になった無惨は、たいそうアホである。
 同時にそのアホさを正さなくても、大計を練り上げる慎重さも、闇の救いを鬼たちに伝えるカリスマがなくても、不滅無敵の怪物として彼は、延々人類の宿敵を続けられている。
 この人格的なスケールの小ささと、巨大な人形災害としての巨大さのギャップは、『邪悪なるものがその巨大さに見合った、負の高潔を持っていて欲しい』というロマンティシズムを跳ね除けていて、結構好きだ。
 ゴミがどんだけクズカスだろうと、人間性の浅瀬をチャプチャプのたうっていようと、宿してしまった力だけがその存在を押し通し、他人の迷惑顧みずやりたい放題できてしまう事実は、確かにある。
 同時にその傲慢をド許せぬと、血と執念滲ませて追い続ける非公式の正義もまた世界にはあるわけで、この世の中にあっちゃいけない……けど、確かにあってしまう器の小さな怪物の顔が、回想を通じてさらに鮮明に見えた。
 ここでなまじっか崇高な物語性を無惨が背負ってしまうと、死ぬしかねぇクズカスとしての純度が下がるので、昔っから感情任せのアホカスで、勝ち筋結構あるのに見落としてる間抜けが濃厚に書かれたのは、とても良かったと思う。

 

 

 というわけで駆け上がった国民的アニメの頂きに恥じぬ、大変パワーのある作りで刀鍛冶の里編、最終回まで駆け抜けていきました。
 ぶっちゃけ敵役に奥行きがなく、デバフと追いかけっこに満ちた爽快感に欠けるバトルをどう描くのか、見る前は心配でしたが……磨きに磨いた作画の力こぶが、なんもかんも真正面から粉砕する感じで終わった。
 やっぱ鬼滅アニメは異能バトル演出の最前線に立っていて、作画から音響、エフェクトに殺陣にカメラワークにと、アニメの全領域を総動員して人外の極限闘争を描いてくれた。
 裏も表もねぇペラッペラのドクズどもも、『むしろそれこそが鬼だ』という妙な納得を見終わって覚える手触りで描かれて、不思議に良かったですね。
 首が飛んだらノーサイド、悲しい過去も刃が背負う……ってだけが、鬼殺しのスタンダードじゃないもんねぇ。

 ドラマ面は人間サイドが背負ってる感じで、いつものかまぼこ隊を後ろに下げて共闘した連中が、良い濃度でそれぞれの業と哀しみを演出してくれました。
 バトルスタイルがしっかり書き分けられて、圧倒的な才覚で音なく磨き上げられた霞柱の剣技、華やかに跳ね回りつつも圧倒的な力量を宿す恋柱の妙技、どちらも見応えがありました。
 アニメで動いてみると、蜜璃ちゃんは本当異次元の戦い方してて、人中の獅子と生まれついてしまったのに誰よりも『普通』である彼女の、異質な魅力が鮮明だったのはとても良かったです。

 早速柱稽古編の放送も予告され、総身にみなぎる力みに負けない世評を、追い風と勢いを増す鬼滅アニメ。
 こっからどこへ飛び立っていくのか、クドい味付けに時折疲れつつも、なんだかんだ楽しみ嬉しく見させてもらっております。
 胸を張って『鬼滅のアニメ、大ファンです』とはいえないネジレを抱えつつも、やっぱり続きがアニメで見れるのは嬉しく、今後もヒネた角度から奇妙なエールを、感じた楽しさを言葉にさせてもらえばと思います。
 お疲れ様でした、楽しかったです!!