イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「懐玉・玉折」:第27話『懐玉-参-』感想

 かくして若き白魚たちは、血沼の岸に打ち上がりたり。
 上げて上げて落とす残酷の極み、クオリティとレトリックの暴力で綴られる青い春の終わりの始まり、呪術廻戦アニメ第27話である。
 原作のテンションとノリをしっかり維持しつつ、圧倒的な質と熱量のアニメーションで隙間を補填し、最高のタイミングでぶっ放す残酷が見事、見ているものの心を穿つ。
 無敵な二人の不器用な優しさ、神となる少女の当たり前の寂しさ、人と人を繋ぐ縁。
 思わずそれが全部の正解なのだとすがりつきたくなる、綺麗で優しいものをたっぷり描いた上で、横合いから殴りつけてぶち壊しに終わらせる……だけでは、当然飽き足りない。
 既に知ってのとおり夏油傑はこれを契機に袈裟をまとった外道に成り果てて、人間の世界を呪詛しきる呪いに落ちていくのだから、この悲惨はただの始まりだ。
 彼が”呪術師”であるために飲み込んでいるモノのおぞましさは、既に先々週冒頭モノローグされているのだから、後はそれに引っ張られて堕ちるだけだ。
 世の中、大概そんなもん。
 祈りが反転した自己防衛的ニヒリズムへと、突き落とされるだけの相転移を鮮烈に、切ないほど眩しく描いてくれた、とても良いエピソードでした。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦「懐玉・玉折」”第27話より引用

 錆びた折に閉じ込められ思いを遂げられない理子ちゃんを、ぶっきらぼうに解き放つ悟の導きで、少女は涙に暮れるだけのヒロインから強い意志を眼光に宿したヒーローへと、己を変えていける。

 この大長編に突っ込めそうな描写を軽くスカして、浮かれポンチたちの最高沖縄DAYSは陽気に、大変分厚く転がっていく。
 前回冒頭のQの扱いもそうだが、『行くのか!?』と思わず前のめりになって構えを作るネタを、スコンと気持ちよく外してテンポと笑いを作る技術が、アニメで動くと更にパワフルである。
 同時にこのスカシ感……惨劇を予期して身構え、それを外されて安心して幸せにもたれかかる感覚はそのまま、余裕の悪童を演じつつも能力を途切れさせず、張り詰め続けている五条悟の心境と、視聴者を繋ぐ橋である。

 呪詛師の包囲網に追い込まれ、大事な人の命がかかった戦いを幾度も乗り越えていく、緊張と緩和。
 どこまでも青く幸せな沖縄の風景が、たとえ一瞬の夢であったとしても世界の真実で、何もかもを幸せに解決してくれるのだと信じたくなる、人間当然の心理。
 それを利して人類の規格外に不意打ちカマすチャンスを作る、煤けた面した大人の策略を見抜けないから、後半の惨劇がある。
 それでもこれだけ幸せな景色を、たくさんの子ども達が必死に抱えた決意の行く末を、本当だと思い込みたくなるのは画面の中も外もおんなじで、だから同じように裏切られ、断ち切られていく。

 天元様の生贄になる少女も、それを守り捧げる呪術師も、どこまでも高い青の中でずっと笑っていたかった。
 人間として当たり前の幸せがあって、それを守ってやりたい気持ちがあって、だからこそ裏切られて傷つく心もある。
 そういうモンを抱えたまんま呪術と向き合っていると、とても生きてはいけないから伏黒甚爾はドブ川の色に目を染めて、人間殺して荷物に手渡す稼業を当たり前と飲み込んでいる。
 それは夏油傑が飲んでいる呪霊と同じ、ゲロ雑巾の味わいなんだろう。

 そういう場所からなんとか人間が生きていられる上澄みを守るべく、天元様の結界はある。
 その礎になる誉れを当然と受け止め、しかしそこに耐え難い息苦しさを感じてきた少女が、ようやく水槽の外に出て見つめた、美しい魚たち。
 子ども達最後の休日は、後に吐露されるその内心を見事に予言して、呪術師と過ごした三日間が天内理子にとってどれだけ価値のあるもので、無敵コンビがどんだけ価値のあるものを手渡し得たかを、鮮明に可視化する。
 だからこそここで作られたものが無惨に断ち切られ、ずっととどまってはいられない一瞬の夢だとも暗示する非常口のカットで終わるのは、極めて的確だ。
 その美しい風景に、延々続く苦界の出口はないのだ。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦「懐玉・玉折」”第27話より引用

 伏黒甚爾は一回だけ交錯した六眼持ちの圧倒的實力をけして忘れず、仕える武器をフル動員して勝てる状況を作った。
 どれだけの怪物でもしょせん学生では得れない知識、経験、社会的立場と薄汚れた金の運用法……自分の欠損を利して勝ち切る戦術と、自分がクズだとわかっているからこその油断のなさ。
 天与呪縛 VS 無下限術式のど迫力バトルは、その見た目に反して非常にシビアな大人と子どもの戦いであり、五条悟は希望を捨てきれない子どもであるがゆえにそこをこじ開けられ削られて、たどり着くはずのない土壇場へと駆り立てられていく。
 無敵の防御をこじ開けるために甚爾が積み上げてきた心理的・社会的な罠に、悟が気付いていない様子とか、能力それ自体よりも油断せず自分を窮地に追い込める精神性を、甚爾が一番厄介な壁だと感じていたりとか。
 青い理想の中で優しさを抱え続けていた青年と、そういうモンドブに投げ込んで殺し屋稼業に身を沈めたオッサンの対比は、的確かつ残酷だ。

 そういう甚爾に悟が切り刻まれたのは、無敵コンビが守りたかった理子ちゃんの人間らしさ(それを守ることが、彼らの人間性を守ることにも繋がる)が、銭金と狂信でその生命を奪おうとするクズカスに……学園の外に広がってるクズみたいな大人の世界に、踏みにじられていく前兆でもある。
 この血みどろから五条悟が生還することを僕らは知っているけども、それはこの過酷な通過儀礼が彼の中の何かを削って、無敵の怪物が完成する未来にも繋がっている。
 青い夢を見れた五条悟はここで完膚なきまでの敗北を喫し、否応なく大人にされてなお、ちったぁ世の中救いがあるかもと思いながら人間として生きれる道を、彼は進んでいくことになる。
 大人であることの意味を、この惨敗の後に掴み直せた悟と、誰かに手を差し伸べる優しさをそれ以外を皆殺しにする残虐に繋げてしまった傑の道が、決定的に食い違う一歩目。
 二人を”人間”に繋いでいた何かが決定的に破断するこの戦いを、スタイリッシュでありながら凄惨に描ききってくれたのは、とても良かった。
 悟が撒き散らす赤い血は、彼(ら)が子どもでいられた時代への手向けの花だから、せいぜい美しく書いてほしかったから。

 

 

 

画像は”呪術廻戦「懐玉・玉折」”第27話より引用

 そんな青春の葬列は、悟が命がけで切り開いた血路を追いかけて、奈落に引きずり落としていく。
 いよいよ永訣の瞬間が近づくに連れて、理子ちゃんが取り澄ましたわらわ口調を投げ捨てて”素”になっていき、元々それを知っていて大事にしようとした夏油の差し出した手のひらは、その手を引いて水槽から出そうとする。
 あの沖縄で一瞬夢見た輝きを、現実の中で永遠に続けようとする。
 そういう男なのだ。
 少なくとも、この瞬間までは。

 青年たちがまばゆく輝かせる、美しくも淡い夢。
 家格や因習よりも人間一人一人の願いと涙が、それを繋げる優しさと強さが、何より大事だと信じたい初心は、とても大事で価値あるものだと描かれ続ける。
 そこにあるのは外野からの嘲笑ではなく、みずみずしく脈打つ祈りに本気で寄り添う筆先で、見ている僕らもそれが本当のことなのだと、最後にかならず正しいものが勝つのだと、信じて体重を預けたくなる。
 流れ始める一回目のEDはそんな気持ちを追いかけて、幾度も幸せに油断し残酷を忘れようとした、甘っちょろく青臭く愛おしい青春のハッピーエンドを、エモく結晶化させていく。

 

 だからそれを、銃弾で撃ち抜く。
 だってそんなもの世界の本当でもなんでもなくて、汚れきった世界に順応したゴミみたいな大人が、薄汚い手段で最後は勝つんだから。
 前回人間離れした捕食者の顔をボートレース場で強調してた甚爾は、今回も獣のように歯をむき出しにする場面が多い。
 ひどくあっけなく理子を殺され、親友も屠られたと告げられた傑が、己の錨の形としてこのように呼び出す呪霊もまた、牙をむき出しにしている。
 ピカピカな夢を打ち砕かれたものも、それを踏みつけにした汚い大人も、同じ顔で喉笛を狙い合う。
 世の中、まぁそんなもんだよ。

 ……で諦めてしまえば、世の中呪いだけが残って人間が生きていく領分はなくなっていく。
 それを避けるために呪術師は呪術という毒で呪霊というを毒を制し、自身毒に侵されない生き方を貫くことを求められる。
 でも祈りすらも絶望と憤怒の中で呪いに変わっていくのなら、何を以て正しさを形作れば良いのだろうか?
 何もかも諦めてなお生きる無様な強さは、伏黒甚爾が良く示した。
 何もかも踏みつけにされて諦めきれない辛さは、この後夏油傑が示すだろう。
 とびきり優しく、名誉ある死を生まれた時から定められていた少女に手を差し伸べられる男だからこそ、ああいう外道に落ち果てたのだと、心底納得できる物語がこの後に続いていく。

 ほんの少し前まで目の前で笑っていて、宿命や因習に負けない未来を一緒に掴むはずだった友達が死に果てた、この赤黒い闇を前にして、五条悟は何を思うのか。
 何を掴み取って、同じものにすり潰されかけていた虎杖悠仁の前にさっそうと、”いい大人”であろうと立つ自分で、いられるのか。
 惨劇は続く。
 もううんざりだと思ってなお、後から後から湧いてくる悪意と呪詛に満ちた世界を描きながら、物語は続く。
 次回も楽しみだ。