首だけ探偵名推理、偽の緞帳剥ぎ取って、七五の調子も景気よく、踊りだしたる真打津軽。
死なずの鬼すら打ち殺す、悪魔の拳が幕引きの合図、後に残るは虚しき始末。
家族にとって同族相食む惨劇は、探偵にとってありふれた笑劇でしかないのか。
ゴダール邸殺人事件決着の、アンデッドガール・マーダーファルス第4話である。
黒沢ともよ圧巻の前半長尺喋り倒しを受けて、悲惨な真相が牙を剥いたのを圧倒的暴力と嘲弄でもって、真打津軽は踏み砕いていく。
”鳥籠使い”は現代的倫理観や手厚い人権(怪物権?)保護を振り回す付き合いやすい連中ではなく、エゴイスティックで悪趣味で残酷な、世紀末に相応しいロクでなし御一行なのだと、一つの事件を解決まで導いて教えるエピソードだ。
真相を暴き事件を暴力でもって解決し、それで御仕舞。
家族としての関係修繕とか、ズタズタにされた絆と心のケアとか、果たすべき正義と理想の行方とかは、土地に根ざし家族に縛られて現場に居残るしかない被害者たちがやるべきことで、さすらいの探偵たちはあくまで自分たちの目的を追いかけて、軽やかに立ち去っていく。
この風来坊な軽やかさ……喜劇と打ち捨てられた惨劇をシリアスに受け止めるような姿勢を作って、最悪の地口でガタンと終わらせるナンセンスは、根性ドブ色の味わいがあって大変良い。
無論その戯けた態度の奥に、彼らなりの真剣さや感情が滲んではいるものの、犯人にも被害者にも寄り添わず、人間的悲劇を悪趣味な笑みで消費していく態度は、タフで残酷だ。
そのザラリとした質感がなかなか独特で、時代や設定、テーマと馴染んでいて善いと思った。
なにしろ首だけの不死者とその従者、鬼殺しの半鬼という、人でなしどものお話なのだから。
理性と智慧がたっぷり詰まった頭(だけ)を持つ鴉夜は、津軽に持ち運んでもらって見聞した現場の状況をつなぎ合わせて、惨劇の実行者を冷静に暴き立てる。
だがそこには動機の追求などなく、ただただ殺人が可能だったキャラクターを絞り込み真実を暴くだけの、機械的な機能のみが存在している。
『このクールで人情のない暴き立ては、ともすれば津軽が振り回す七五調の嘲弄よりも残酷かもな……』などと思ったりもするが、事件に関わった人たちの心に寄り添い、義憤と正義を心に満たして惨劇に挑むべとついたヒューマニズムは、この奇っ怪な探偵物語にはあまり似合わないかもしれない。
それでも夜明け前の一瞬、死ねない怪物ゆえの再起を微かな共感を持ってゴダール卿に告げたのは、理性的であるしかない頭一つの、微かな情だったのか。
鴉夜は職業探偵として事件の解決を依頼され、それを果たして去っていく。
欲しいものは自分たちの大事な体を奪い去った”M”の情報であり、職能に付随する家族の悲惨やら、怪物と人間の軋轢などはどうでもいい……というか、鴉夜自身が被害者となっている本命の事件で扱うべきネタなのだろう。
人と怪物の融和を信じた被害者の祈りも、それを夜の貴族への侮辱と受け取りぶち抜いた犯人の憎悪も、遠く他人事に遠ざければこそ冴え渡る、推理の刃。
それこそが、輪堂鴉夜の武器であり強みだ。
そんな彼女が物理的に遂行し得ない、圧倒的暴力を担当するのが真打津軽である。
薄汚い人間とは大違いなはずの、誇り高き怪物としての誇りをいい調子であざ笑いながら、津軽は見世物のように犯人を殺す。
その表情はけして崩れない余裕と、自分を含めた何もかもを笑い飛ばす諧謔に満ちていて、圧倒的な実力で死にゆく若き吸血鬼の矜持を、母を殺してでも守りたかったプライドを突き崩していく。
嗜虐とはまた違った、何もかも嘲笑するからこそドブの底を笑って這いずり回れる、生存技術としてのニヒリズム。
そこに捻くれたユーモアと不謹慎を混ぜ込み、軽やかに相手の本気を受け流し殺し尽くす技芸を加えれば、真打津軽の形になっていく。
津軽は犯人との格闘なんぞで赤い血を流さず、額が割れる傷は静句とじゃれた結果のギャグでしかない。
そういうファルスに乗っかるだけの暴力も執念もなかったから、犯人は終始嘲笑われながら殺される。
冥土の土産に告げる己の過去は相当に重たいはずだが、ペラペラ軽薄に回る舌で告げられてはそうも感じられず、そう感じさせない/感じないために、何もかもを嘲る道化師の仕草を、津軽は取り続けているのかもしれない。
お国が仕掛けた怪物大虐殺の果て、入り交じることのない怪物の血肉を注ぎ込まれてなお生きている津軽にとって、死はたちの悪いジョークでしかない。
その姿勢は、見世物小屋での大惨事を道連れに笑えない心中を仕掛けようとした、第1話の犯行計画からも漏れ出ている。
津軽は犯人の動機だの血族殺しの悲惨なんぞより、”ひ”で頭韻を踏みまくる自分語りの調子の良さや、目の前の障害を片付けた後どうギャフンなオチを付けるのかに、頭が回っている。
笑えない悲劇よりも、それを遠いところから蹂躙して笑える形に強引に整える方に、浅草に流れ着いた元拳闘芸人の意識は向いている。
その裏側で吸血鬼の兄妹は真相にうなだれ、父は朝日がもたらす滅びも気にしないほどに衝撃を受けている。
その衝撃も、自分の命を削る鬼の血がどれだけ人の生き方と交わらないか、よくよく考えるとあまりに重たい半鬼ジョークでサラリと、笑い事にされていく。
『笑う』という行為が持つ客観性の暴力が、半鬼が振るう圧倒的な殺しの技術と重なり合いながら、津軽の特性として描かれていく。
その極限が、『四度目でお”四”舞いと思いきや、四度あることはゴダール』という、全く上手くもないオチだ。
すこぶる笑えないが、津軽にとっても一行にとっても作品にとっても、笑えないことにこそ意味があるのだろう。
鴉夜は推理の装置としての自分を崩さず、あくまで冷静に真実を切開し制圧する。
津軽は嘲弄者としての特権を、命がけの殺し合いの中でも手放さない。
手放させないクソ雑魚が犯人だったのが悪いのか、自身と師匠の命運に関わる自分ごとじゃなかったのが良くないのか、ともあれゴダール邸の殺人事件は探偵も鳥籠運びも、秘めた熱量を見せはしない。
Cパートで顔見世した”M”一派の事件と接近する内に、今回見せた遠い冷たさは埋まって、”人間らしい”顔なんぞ見せてくれるものなのか。
僕としては悪趣味に冷徹に、何もかもペラペラあざ笑いながら本気で、事件に挑んでいって欲しい。
その揺るがなさも、らしくない揺らぎも、ゴシック極まる世紀末を駆けていく探偵とその助手に必要なスタイルなのだろうから。
三話に渡って一つの事件を追うことで、奇怪な事件をこのアニメが扱う手付き……その中で際立ってくる主役のキャラクターは上手く提示できたと思う。
長尺でペラペラ喋り倒すなか、アバンギャルドに画面が暴れ続ける作りは大変好みで、下世話と冷笑の入り混じった作風とも宜しく噛み合っていると感じた。
首だけ探偵と鬼殺し、揺るがぬ理性と嘲弄。
それぞれのスタイルを揺るがすには難度と当事者性の足らなかった事件だが、ここから怪奇文学史に名を残す魔人たちを相手取っていく中で、”鳥籠使い”に本気の冷や汗をかかすことは出来るのか?
人でなし達に微かに人間性なるものが残っているのなら、それは鴉夜の頭脳でも津軽の暴力でも制圧しきれない、厄介な難事件の中でしか発火しないのだろう。
その捻じくれ方も人でなし共の探偵物語としては、いい感じにしっくり来る。
次回も楽しみだ。