イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

BanG Dream! It's MyGO!!!!!:第9話『解散』感想

 本音を隠して紡いだ積み木は、あっという間に壊れていく。
 傷だらけの残骸の中にまだ、私たちだけの音楽があるというのなら。
 思いの丈を音に乗せて突っ走ったら、なんもかんも大崩壊……地獄の連鎖反応が止まらない、MyGO!!!!!第9話である。
 最終話の背中も見えてくる話数、ある程度ブレーキかけてソフトランディングの気配漂わせてくるかと思っていたら、むしろ全力で加速して虚飾をぶち抜いてきた。
 初ライブに炸裂した”春日影”が祥子を壊し、覚悟を固めた彼女がそよのエゴイズムを暴き立て、ぶっ壊れたそよが立希の怒りを跳ね除け、突き立てた真実が愛音を遠ざけ……。
 『青春まっしぐら、素直な自分でいよう!』というお綺麗なお題目の奥にある、毒まみれな本音がお互いを差し合うとどんだけダメージデカいか、一切の嘘なく掘り下げていく筆先は、終局に差し掛かってなお緩む気配なし、むしろクライマックスに向けて加速を続けていく。
 その容赦の無さがどこか心地いいのは、積み上げた嘘が壊れていくカタルシスと同時に、嘘で覆ってなお消えない本当が、壊れつつあるバンドの中に確かに、瞬き輝いているからだろう。

 それぞれ求めるものは違って、別々の不器用と嘘と都合で覆って、欲望と願いは不可分で。
 でも確かに、そこには柔らかく輝く何かがあった。
 CRYCHICにも、まだ迷子にすらなれていない名前のないバンドにも、情熱と愛と、それが生み出す歌が確かにあったのだ。
 それはとても大切な本当で、だからこそ掴み取って抱きしめるのはあまりに難しくて、本気で向き合うにならばぶつかって間違えてばっかりが、人間の当たり前だ。
 傷つきながら何度でも、手を伸ばしてしまう引力の強さと、それに抗えない無様な必死さを幾重にも塗り重ねながら、描かれる青春の肖像画
 それはキラキラドキドキなポップ・ロックとは程遠い、ノイズまみれの青春パンクの響きを持っていて、新鮮でありながらどこか懐かしく、個別の熱と闇を宿して普遍だ。
 そういうモノに本気で向き合い、自分たちだけの物語を今作り上げようとする身じろぎを、特等席で見届けられている幸運に感謝しつつ、泥濘にのたくる乙女たちの軌跡を、しっかり見届けたいと思う。
 どこにたどり着くにしてもみんな必死で、その切実が生み出す傷は許されないだろうけど、優しく許し癒やすことだけが人間の正解なのかと、問う話でもあろうから。
 身勝手で残酷で、愛に満ちた愚か者たちのお話を見れていることに、心のどこかが震え続けている。
 ありがたいことだ。

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第9話より引用

 というわけでどん底まで加速する第9話、出だしは長崎そよという謎を解く回想からだ!
 離婚によって家庭が壊れ、自分のために立派な檻を用意してくれる母の愛を無下にも出来ず、”母の母”というグロテスクな役割に囚われることで自分と家族を保ってきた背景を見ると、心地よい場の維持を最優先に立ち回るそよの生き方を、高所から断罪してばかりもいられない。
 母に言われるままお嬢様の装いに身を包み、学校と級友が求める朗らかな淑女の顔を作り続け、自分の願いはどこにも吐き出さない。
 先週鮮烈にそよを引き裂いた祥子の言葉は、他人を道具化すエゴイズムを猛烈に照らすが、そこには肥大化した自我というよりその消失が、強く反射しているように思う。
 自分が何者かであっては保てない、愛しい檻の中で求められる役割を果たすこと。
 そのために、他人の願いに対して敏感にセンサーを張り巡らせ、場が必要とする役割と行動を率先して果たすこと。
 それだけが”長崎そよ”になってしまっていた少女にとって、自分が自分である実感は場の一部となって円滑に(そして表層的に)取り回している時間にしかなく……例えば在るがまま、子どもでしかない自分を母に叩きつけるなんて残酷なことは、とても出来なかったのだろう。
 そのワガママが母の愛を裏切る残酷な行為だと、感じ取れてしまえるセンサーが生来あって、二人きりの生活の中で更に鋭敏にもなって、誰かの頭を撫でてあげれる自分であることが、”長崎そよ”を証明していた・
 いわゆる”ママキャラ”のバックボーンとしてこれ用意してくるの、最高にグロテスクで凄い。

 そんなそよにとってリッチな部屋が檻でしかないことは、そこを満たす寒色からも見て取れる。
 差し出されたよそよそしい愛がそれでも愛であることを理解してしまって、でもそこに体温を感じられない不満足は、祥子と出会いバンドに誘われることで、暖かな光へと導かれていく。
 『オメーも祥子で狂ったのかよ!!』と思わずツッコむ、光明との出会いはとても鮮烈で、CRYCHICに何故あそこまでこだわるのか、嫌っていうほど思い知らされる謎解きだった。
 唯一絶対の光と出逢えばこそ、それが失われた後の闇は濃くなる。
 どれだけそよが計算高く身勝手に、他人を道具に使って不誠実であったとしても、頬を伝う涙に嘘はない。
 嘘がなかったから何もかも許されるわけではなく、本気で取り戻したいからこそどんな不実も行えるってのが、なかなかに難しい所でもある。
 眼の前にいる誰かと生成される”今”に、ただただ真っ直ぐ向き合うことはあまりに難しくて、影の中唯一の光として追い求めていたものが、自分を裏切り引き裂いていく。
 因果応報と叩き切るには、長崎そよの気持ちが分かり過ぎる描き方である。

 

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第9話より引用

 初華にすがる形で心を整え、新たな道へ踏み出した祥子に縋った手を、強烈に振り払われ奈落に叩き落されたそよは、今回己を変えない。
 エゴイストでしかない自分がそれでも、表層だけ取り繕って優しい”長崎そよ”でいられる場所に立ってさえ入れば、なんとかなるのだと自分を誤魔化しながら、追いすがってくる人たちを跳ね除け、見て見ぬふりをもう隠さないまま離れていく。
 今回なにかに結実することはないけど、変化の中心にいるのは実は立希で、苛烈すぎ強すぎる自分が今どんな顔をしているのか、色んな人と擦り傷生みながら学び取っていく。
 エゴイストで身勝手で、燈が震わせてくれた感動に突き動かされるあまりあまりに激しく、周囲を振り回してしまう狂犬。
 全くもって正しい青春とは言えないが、誰も彼もがどっか間違えているこのお話において、間違いまくるのはいつかより良い場所にたどり着くためのパスポートみたいなもんだ。
 なので、立希ちゃんは今回も空回りしまくり、周りを傷つけまくる。

 立希を鏡にする形で、燈のある種の身勝手というか、選り好みの強さが際立ってくるのは面白い。
 立希が燈好きすぎ人間であり、愛音やそよのようにいい塩梅に声量抑えて持ち前の尖り方を整えられないことで、燈は立希を受け止めきれない。
 大きい声急に出す人、びっくりしちゃって怖いよね……解るよ……。
 立希も自分の熱意が燈を遠ざけている現状を自覚できていないので、素の自分のまんま突っ込んでいって、どうしても距離が空いていく。
 燈は愛音がそうしてくれているように、離れていくそよを『はぁ? 関係ないし』で跳ね除けるのではなくて、なんとか間を繋ごうと頑張ってほしいのだ。
 人間になれていない自分では、そういうことが器用にやりきれないから、誰かにやって欲しい。
 立希はそういう、自分にないからこそ憧れる何かを持っていなくて(持っていても、燈に届く形で差し出せていなくて)、だから燈との間に壁がある。
 光と闇に遠く切り裂かれて、それでも諦めたくなくて必死に追いすがって、言葉と真心を届ける距離まではどうしても近づけない。
 それは椎名立希が椎名立希であるのなら、けして譲れない牙の強さが生み出す断絶で、燈が急に人付き合い上手くなれないように、燈が求める優しくて器用な人に、立希はなれないのだ。
 他人の傷に絆創膏を貼ってあげたいと、ずっと優しさの使い道を探してきた燈が、実は同じような不器用と誠実を自分に向け続けている立希の顔を、ちゃんと見れていないのはリアルで残酷だな、と思う。
 主役たる燈が全肯定されるべき”正解”でもなんでもなく、色々ヤバくて勝手で足りてないモノだらけなんだと告げてくる筆は、甘えと容赦がなくて好きだ。

 

 そよは”長崎そよ”であり続けるために部活仲間との表面的な付き合いに逃避し、傷つけ傷つけられるバンドに目を向けつつも、身を交わし続ける。
 ガラスの向こう側、実感なく遠い光を見上げて諦めるような湿気た生き方が、CRYCHICを復活させる奇跡に届かなかった自分にはちょうどいいのだと、笑顔の仮面で諦める。
 路面電車に乗って逃げていくそよを、追いかける情熱は燈や立希にあり(つまり愛音にはまだなく)、しかし追いすがって思いを届けれる資格は、まだ二人にもない。
 睦を伝書鳩として便利に使って、そよを捕まえようとする立希の振る舞いは、後に糾弾するそよのやり口と哀しいほど共通している。
 眼の前にいる誰かの顔をしっかり見て、そこに反射する己の願いを抱きしめて、ただただ嘘なく真っ直ぐ進む。
 ロックンロールの本道からズレまくった道を歩く限り、青春迷子は出口にたどり着けないのだ。

 燈が苦しんでいるから、燈が求めているから。
 誰かを言い訳に自分のエゴから目をそらしているのは、立希も同じだ。
 身勝手で他人の傷や誇りなんてしったこっちゃない、優しくなんて全然ない自分を見据える足腰が整ってないから、おためごかしに自分を守る。
 狂犬の牙は弱虫の防御手段であって、自分を包囲する理不尽をかみくだく武器になり得ていないから、立希はあれだけ愛し求めている燈との距離を縮められない。
 その不自由は、求め満足しているはずの満たされた関係性を直視せず、常にガラス一枚隔てて描かれるそよと、真逆のようで同じなのだろう。
 あまりに似すぎているから、正面から向き合えない二人はホームの正反対、すれ違って逃げ惑う。
 痛みも汚さも全部自分で引き受けて、欲望の主体としての自分、そこに繋がった他人をちゃんと見ないまま立ち回っている限り、このお話は少女たちの願いを叶えたりしない。
 優しく強く嘘がない、本物のロックンローラーになることだけが、迷子たちが答えに近づいていく手段なのだ。
 そんな衝動に任せてかき鳴らした、自分たちだけの新たな”春日影”こそが、人間関係ガッタガタに揺らして壊しているのは皮肉……で終わらず、完全にぶっ壊れたからこそそこから新たに始まるものに、しっかり目を向けて書いてるところが強いとも思う。
 こうMyGO!!!!!だけの新曲作らないと物語内部のルールが彼女たちに決着届けない状況なの、物語的必然とビジネスとしての要請が高度に噛み合ってきてる味わいで、なかなか面白い。
 夢の残骸が残骸でしかなく、しかし確かに夢でもあったのだと受け止めることでしか始められない物語が、既に動き出しているのに電車に乗れない。
 迷子はどこまで行っても迷子なのだから、迷子のままなりたい自分へたどり着くしかなかろうよ。

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第9話より引用

 誰かのためとうそぶく御為ごかしも、本当に欲しいもののために目の前の誰かを便利に使う嘘っぱちも、ロックンローラーに未来を連れてこない。
 立希にとっての本当は高松燈にしかなく、自分ひとりなら冷たく切り捨ててしまうものに必死に追いすがったり、直視したくないコンプレックスの根源をノックできるのは、ひとえに自分を感動させてくれた神様に報いるためだ。
 優しくも強くもない自分が、大間違いな方向にでも突っ走れる誰かがいてくれることは貴重であるが、同時に大暴走の引き金にもある。
 明けたくない姉の部屋を叩いて、睦を便利な伝書鳩にしたててそよにたどり着くよりも、あえて踏み込んで生身でボコボコ殴り合うほうが、いかほどマシなのか。
 祥子に魂をズタズタにされて、少なくとも立希の前では装うことを止めたそよもまた、虚飾のない本音を全力で叩きつけてくる。

 そういう嘘のなさが、世間一般でキラキラ飾られるほどには無痛でも無臭でもなく、むせかえるようなエゴと殴り合いの痛みに満ちていることを、そよと立希の衝突は語っている。
 睦があの雨の中、背中を向けて絞り出すように叩きつけた言葉のように、本当のことは嘘と同じくらい有毒だ。
 都合のいい嘘で、CRYCHICだけを……その中でただただ自分で要られた”長崎そよ”を取り戻したかったエゴイズムを、そよはもう隠さない。
 新入りは余計、新しいバンドはいらない。
 CRYCHICの再生よりも、燈が中心に立って動く”今”のバンドに自分が寄り添っている状況を求める立希にとって、聞き流せない言葉だ。
 でもそれは、ノスタルジーを満たす便利な道具に使われた愛音や楽奈のために、燃え上がってる義憤ではない。
 燈が悲しむから、傷つくから。
 それを盾にして、裏切られ振り回された自分が何を感じているのか、立希は見ていない。
 この欺瞞と虚飾を引っ剥がすのに、自分が祥子に深く刺された言説を逆手に握って襲ってくる所、どんだけ傷ついても何が自分を刺したか把握し利用できる視野の広さを感じて、恐ろしくも哀しい。
 こういうセンサーの良さがあってこそ、そよはCRYCHICのバランサーたり得たのだろうし、自分を窒息させる母の愛がそれでも本当なのだと解ってしまって、その中に己を閉じ込め続けたのだろうから。

 そよがもはや隠そうともしない悪辣は、人の気持ちが(少なくとも表面上は)分かってしまうそよの特性を、とても悪い方向に走らせた結果だ。
 わかった上で、『だからどうしたの?』と開き直った先に、長崎そよが本当に欲しいものがあるとは思えない。
 そして牙を尖らせた狂犬は、悪辣の奥にある柔らかな感情に視線を向けることも、自分を突き動かす衝動のまま追いすがることも出来ず、ただただ拳を握るだけだ。
 ここでそよの内側にもう一歩踏み込めないのは、立希が弱いからではなく優しくないからだと思う。
 優しいことは強いことで、優しくあるためには強くなければいけない厳しさが、『誰かのため』を盾にエゴと向き合うことから避けている二人を、遠ざけ試し続けている。
 このテストに合格するためには、自分だけのロックンロールを嘘なく叩きつけるしかないのだが、正直でいることもまたとても大変なことで、そんな資質は二人にはない。
 それを思い知ったから、立希は最悪なそよを追えないのだろう。

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第9話より引用

 でもさぁ~~~~~~~、だからって凹んで迷ってた自分に、不器用ながら優しさを差し出してくれてた女を便利に使って、そよが抜けた穴を形だけ補ってバンド続けようとする最悪が、それで許されるわけでもないよね~~~。
 自分に感動を与えてくれたバンドという形だけが、蘇り続けば夢が叶うのだという形式主義に、今の立希は囚われてしまっている。
 だから海鈴の不器用な純情をミルクチョコで絡め取って、ようやくずっと心を贈り続けてきた女が自分だけを選んでくれたのだと、バキバキに気合入った私服でスタジオに現れた女の子を、道具のように扱ってもしまう。
 それはアンタが襟首掴んだ、愛音や楽奈を便利に使ってCRYCHICを蘇らせようとした女と、全く同じ道でしょうがッ!
 立希がずーっと目の前のドラムだけ見てて、海鈴や燈の顔を見ようとしないことが、彼女が何から目を背け、何を踏みつけにして願いを叶えようとしているか(だから敵わないのか)語っていて、切れ味鋭かった。
 敬意なきロックに、魔法は宿らないのだな……。

 自分では抜け出せない迷路にハマりこんで、一歩も動けない燈のことはむしろ海鈴が一番良く見てて、今弾くべきじゃないと判断して立ち去る時に、燈の苦しさに一言投げかけれる自然な優しさこそが、多分迷子たちに必要なのだろう。
 愛音もそこに近い場所に立ってて、いつものごとく震える燈を見てはいるのだけども、この状況を生み出した不和の当事者でもあり、もはや部外者ではない痛みが思い切った行動をせき止めている。
 ここら辺、CRYCHICの内情知らないからこそ的確な手が打てた過去から、もはや状況が変わってきてる感じがあって面白かった。
 お前もネトネトな引力に引きずられて、どこかに行きたいのにどこにも行けない足踏み感の当事者になれーッ!!

 元々指先の表現力が高いアニメなんだが、御為ごかしの優しさを撫で擦る立希の掌とか、それに振り回されつつもクールに最高のベースを奏でれてしまう海鈴の腕前とか、なんとかしたいけど何も出来ない愛音の戸惑いとか、今回は特に色んなものが宿っていた。
 一見海鈴が不器用に気遣ってくれた思いに応えたように見えて、立希が差し出したのは似て非なる何かであって、『アタシはまた、誰かの代理かよ……』という失望をこらえてスタジオから海鈴が出ていくには、当然のプレゼントかなと思う。
 みんながてんでバラバラに、自分の欲しいものすらも真っ直ぐ見えていない状況下で愛音は一番周囲を見ているけども、彼女だって万能の神様じゃないんだからなかなか正解にはたどり着けないし、便利に使われれば傷つきもする。
 その愛音自身が、確かに他人を便利に使おうとしていた過去もしっかり描かれているわけで、百点満点正解なキャラクターがどこにもいない、つくづく迷子の話だねって感じだ。
 ……こうなってみると、やっぱ第3話の燈視点で祥子が完全無欠の女神様に見えていたのは、大事な何かを見落とした結果なんだな。

 

 

 

 

 

画像は”BanG Dream! It's MyGO!!!!!”第9話より引用

 お前はいらない。
 人間をぶっ壊すのに十分な爆弾を、一切のフォローなく当人に叩きつける残酷を、追い詰められて視界が塞がれた立希は抜身のまま振り回す。
 立希がそういう細かい配慮が出来ない、常時アクセルベタブミの人間だってことはずっと描写されてきたし、これはある種の必然としての破綻なのだろう。
 そんな爆弾を『ああ……』で受け入れてしまえるのは、愛音がただただ便利に騙されてるだけのバカではなくて、今までの行動に秘められた暗号を思い出せるだけの賢さと、その隣でそよを便利に使おうとした自分を、思い返せる洞察の証だろう。
 自分が”そう”しようとしたから、そよさんだって”そう”するよね。
 そういう納得が、衝撃的な事実を告げられた愛音には静かに寂しく、確かにあったんだと思う。

 その上で、何かの代用品として便利に使われて甘んじられるほど安くもないから、愛音はギターをしまってスタジオを出る。
 結束、信頼、許容、対話。
 バンドがバンドであるために必要なものを、何一つ持たず取り落としたまんま、MyGO!!!!!のベースもベース候補もギターも皆、去って行ってしまった。
 この分断の根っこに憎悪や嫉妬ではなく、誰かにとてつもなく惹かれて心を揺さぶられてしまった、眩しさの残響があるのが、最高にいい。
 皆いつかであってしまった愛に瞳を焼かれて、大事なものが何も見えない盲目に落ちていくのだ。
 それでもなお光は光なのだから、それを追いかけて突き進むしかないのだ。

 事ここに至って燈は言うべき言葉を喉につまらせたまま立ちすくむし、立希はバンドという形式にだけこだわって他人の顔が見えない。
 かつては祥子、今は愛音に、ぶっ壊れたコミュニケーションとメンテナンスの機能を外注して、自分自身誰かに優しくなったり、必死に追いすがった後相手が受け取りやすい言葉を差し出したりする能力を、育ててこなかった結果。
 『一生バンドやる』なんていう重たい約束を、裏切ったとなじれるほど正しい姿勢で、人生に立てていない女の寝言。
 そうやってただしく燈を突き放すことは、僕にはもう出来ない。
 好きになっちゃってるわけでね、この子達が……。

 立希もまた硬い迷妄に囚われていて、そよが叩きつけてきた痛い言葉をそのまんまぶっ放せば何がどうなるか、想像できないまんまなんもかんもを壊した。
 その優しくなさは、愛音が必死にバンドのこれからをどうしようか、相談されては対話を拒んで牙むき出しにしてきた、椎名立希らしさそのものだ。
 でもそのまんまじゃ、燈だけのために何もかもを捧げ続ける生き方じゃ、燈は満たされないし繋がれない。
 自分のようにドライに、たった一人だけを追い求めれば満足(だと、今は思い込んでいる)ではない、想像以上によくばりで傷つきやすい燈と向き合うならば、立希は椎名立希らしくない自分へと踏み出さなければいけない。
 でもむき出しの自分をまっすぐ見据えて変えることは、何より難しい。
 虚飾を剥ぎ取った己と向き合うことが、夢の残骸を踏みしだいて前に進むための必須案件だとしたら、今回悪意やズルさを……”みんなのママ”である長崎そよらしさをぶん投げて立希に向き合えたそよは、変革に向かって一歩進んだ……とも言えるわな。
 さぁ椎名立希、高松燈……お前らはどうなんだ。

 

 そういう所で、MyGO!!!!!第9話は終わりである。
 いやー……落ち着くかと思ったら更に荒れたね!
 『まーこんなところだろう』みてーなナメた予測を、全速力で裏切って本気であり続ける、制作陣の気合が見えた回でした。
 この暴れん坊に振り回されつつも、『予測もつかねぇどっかに、俺たちを連れて行ってくれるだろう』と期待できるのは、やっぱ描いているものへの真摯さ、それを画面に焼き付けるための技量と語り口が、信頼を生んでいるからなんだろう。
 メチャクチャグッチャグッチャな話なんだが、キャラの性根や思い、目指すべき道はあんま混乱なく受け止めれてて、それは芝居とメタファーが良く仕上がってる結果だからなー。

 ウジウジシクシクな僕もまた僕と、肯定的に開き直るためには多分、そういう足踏みを超えた所まで己を引っ張っていかなきゃいけない。
 我欲、狭量、臆病、偏愛。
 『これが青春でござい』と値札を貼って、表通りにさらけ出すにはあんまりに汚れた思いが全部吐き出されて、でもそこに嘘がないのだから、そこから始めなきゃいけないのだろう。
 迷子達の旅は、未だ結末を見いだせぬまま彷徨う。
 その全部を見届けたい気持ちだけが、今の僕にはある。
 次回も大変楽しみです。

 

・追記 9話時点で僕が思う、MyGO!!!!!アニメの(たくさんある)強み(の一つ)