イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

蒼穹のファフナー THE BEYOND:第7話『帰らぬ人となりて』感想

 数多の屍の上に、全能の救世主が覚醒を果たす。
 激戦の果てに悲痛な叫びが谺する、ファフナーBEYOND第7話である。

 前回衝撃のヒキから続いて戦闘継続であるが、犠牲も数多出る極めて絶望的な状況でありながら、戦闘に関わる人皆が感情を乱さず、為すべきことをやり遂げて死んだり生き残ったりしているのが、なんとも印象的だった。
 フェストゥム来襲から幾十年、感情のままに戦士の宿命に苦しんでいた者たちは危機を乗り越え、あるものは子を持ち家庭を手に入れた。
 それは喪失や哀しみを受け止めて大人になっていく家庭であると同時に、生まれたときから戦争し続けてきた世界に慣れ親しみ、身勝手なエゴや感情に押し流される”人間らしさ”を遠ざけていく歩みでもあったと思う。
 それはより善きもののために、愛し守るもののために戦う必須の条件であり、とても立派で正しいことなのだが、やはりどこか歪で……しかしなら欲望や憎悪に身を任せ”人間らしく”生きると何が起こるかも、このお話は既に幾度か描いている。

 だから、こうなるしかない。
 諦観とも理性的ともいえるこの結論を、島の敵であるマリスが口にしているのは印象的だ。
 あの世界の誰もが……対話を祈って果たせず、スーパーザインビームでなんもかんも消し飛ばした美羽ちゃんすら言葉にする、『この物語はこういうものなのだ』という苦い納得は、もはや人間の専売特許ではない。
 人間から憎悪と敵意を学び、あるいはあの偽りの島で家族になろうとすらしたフェストゥムと、その懐にこそ救済を夢見たエスペラントもまた、同化と救済がどこか遠くに浮遊する、”人間らしい”戦場に適応している。
 前回沢山の絶望をばらまいたフェストゥムライダーは、もはや人間に同化と救済というフェストゥム的理念を押し付けることはなく、人間を人間的な方法で殺すために最適化されている。
 恐怖と憎悪に突き動かされ、相手が消え去るまで死をばらまくことを人間から学んで、フェストゥムは効率的な殺し合いをするようになった。
 それが人間からケイ素生命体への正の影響なのか、負の共鳴なのか、なかなか分からなくなる戦場だったと思う。

 

 そんなどん詰まりにクソガキ力で横殴りをかけうるのが、新主人公ソウシくんの特権ではあろう。
 初搭乗時は変性意識に飲み込まれ、街を壊すばかりだったニヒトを今度は自分なりの力に変えて、マリスの致命的奇襲をぎりぎりせき止める働きをやってのけていた。
 俯瞰で戦場を見てみるとガキっぽい独走ではあるのだが、運命に選ばれて何かを直感できるソウシが突っ込んでくれなきゃ、千鶴さんに続いて更に犠牲は増えていただろう。
 可能性は良き方向にも悪しき方向にも拓けていて、それを望ましい未来に繋いでいくのは、零央を筆頭とする導き手達の頑張り次第なのだと思う。
 『出来の悪い弟子だぜ!』と独断専行に釘を差しつつ、しかしチームとして生き抜くための戦いにソウシを引き入れる姿勢は、数多の死を乗り越えて彼がどんな武道家に……あるいは大人になったのかを語ってくれていた。
 でもなぁ……そんな立派な益荒男振りよりも、フツーに駄目なところがあったりズルかったり、立派じゃなくても生き延びられる場所でだらけていて欲しいってのは、叶わぬ願いよな。
 『同化現象なんて、唾つければ治る!』じゃないんだよ美三香ッ!!

 ソウシがクソガキなりに未来への扉を必死に勝ち取ろうとする中、ザルバートルモデルはその規格外の強さで戦場を支配していた。
 旧最強機体を新主人公が受け継いで無双したり、旧主人公が最新鋭の無敵ロボに換装したりするイベントが、こんなに悲壮感たっぷり、禍々しさ満載で描かれるアニメはファフナーだけッ!
 海と敵を喰らい潰し、どう考えてもラスボスなBGMとともに覚醒を果たすマークアレスは、人間が手に入れてはいけない力という説得力が満載で、大変良かった(最悪という意味)
 千鶴さんが死に果てた場所のえぐれ方もそうだけど、もう人間が殺し合ったり生き残ったりする尋常から遠く離れた場所に、対フェストゥム戦争は来てしまっていて、否応なく人のあり方が変わってしまっているのだという感じを、強く受ける回だった。
 人間がしちゃあ行けない死に方、殺され方を山のように積み上げてなお、どうにか人間でいようとするのはある種の狂気であり、そこに必死にしがみつくために死を犠牲と言い換える在り方が、アルヴィスでは一般化しているんだろうな、と思った。

 

 これは憎悪と虚無に己を食いつぶされるのを避けるために、負の感情だけを残して思い出を消し去ったマロスペロとさかしま……でありながら妙に近しい生き方で、彼の能力が絶対静止なのは皮肉だな、と感じる。
 この闇の奥に光はないと諦めることでしか、魂が死んでいくのを止められなかった存在はどす黒い闇として思い出を、自分を支えるものを塗りつぶしてしまっていて、そうやって闇が光に、あるいは光が闇に変わりうる可塑性を放棄することで、不変の停滞に世界を巻き込み、窒息させようとしている。
 その単色が唯一絶対の救済だと、ベノンの旗に集った連中全員が信じてはいないのが、また面白くもある。
 ソウシは自分たち家族のもとに返ってくるのだと、信じて戦いに赴くセレノアやレガートが求めているのは、停滞ではなく自分たちの望む変化だろう。
 それはフェストゥム的というより人間的な行動理念で、彼ら自身が家族ごっこを通じてたしかに何かを得たからこそ、望む色合いに世界を変えうる希望を、戦争と殺戮の中に見出してもいる。
 他者の否定と根絶にこそ、自己の確立と理不尽の超越を見出す思考もまた、嫌ってほど”人間らしい”なと思う。

 この””付きだらけの戦場の中で、大きく戦況も変え得ず無駄死にでもなく、当たり前に戦って当たり前に死んでいった一人の兵士に、結構な尺が使われていたのは大事なことだと思う。
 人間相手の殺しをさせられる現状に飽き果て、それでも家族の写真を片わらにおいて戦い死んでいった男は、あの世界にありふれた人間の死を教えてくれた。
 それはフェストゥムに襲撃されていない僕らの世界でも、歴史が続く限り数多戦場と日常の中にあった終わりであって、ありきたりで普遍的な、人の生きざまだ。
 ああいう決意と無念が、いくつも積み重なって人間の営みが守られ、あるいは守られずに砕かれていった。
 その尊さとやり切れなさはモニタの中でも外でも変わりがなくて、だから”ファフナー”に僕は面白さを感じている。
 超すげぇロボットに乗り、運命に選ばれて戦う子どもたちだけが戦場にいるわけではなく、愛しい家族を守るべく戦って死んでいく当たり前の人達も、あの激戦の中確かにいた。
 それは人でごった返すフリーマーケットや、タンクトップのむくつけき男子で満ちた居酒屋から、地続きの風景なのだ。

 

 それがあの場所で砕かれたから、遠見真矢もあの慟哭を天に溶かす。
 それはとても悲しい声で、でもまだその音が彼女から絞り出されることに、僕は痛みと救いを同時に感じた。
 己の一部を担っていた存在が、理不尽に押しつぶされ奪われる時、人間はああいう音を出す。
 逆にいえば最悪の理不尽を前にあの音が出るのならば、遠見真矢はまだ人間なのだ。
 こんな形で待ち望んでいた、彼女の人間証明を受け取りたくなど、なかったけども。

 ”全能”が目覚めて敵は去ったけども、何の解決も見えぬまま戦いは続く。
 何度繰り返されても喪失になれることはなく、それでも理不尽を飲み下すための処方箋として、人間は殯を必要とするのだろう。
 僕は”ファフナー”がそれをどう書くか、とても気になっている。
 一騎に妹をぶっ殺され故郷を壊されて、その喪失をお前達にも解らせてやると咆えたソウシが、母と認めた人を奪われて何を感じ、どう変わるかを気にしている。
 次回も楽しみだ。