思い出を逍遥する先に、進むべき未来はあるのか。
一つの祭りを終えた後、真実の答えを求めて進み出す幻日のヨハネ、第9話である。
Aqours九人でのライブという一大事を終えてなお、自分が本当にやりたいこと、やるべきだと思えることが見つからないヨハネの元を、一瞬ライラプスが離れたことで見えてくるもの。
隣りにいるのが当たり前で、だからこそ忘れていたものを取り戻す歩みの先で、取り残される者の切なさ。
クライマックスが動き出す直前、最後にこのお話の眼目を念押しするような、大変”幻日のヨハネ”らしいエピソードだった。
前回みんなでやったステージはヨハネのありふれた青春の答えを持ってこず、誰も隣に置かずにライラプスを探しに行く小さな内省こそが、本当に大事なものを取り戻させる。
廃校とか地域活性化とか、μ'sの後釜とか”ラブライブ”とか、いろんな重荷に縛られていた物語が時を経て、何もかも投げ捨てて身軽に自由になった結果選んだ語り口がこれだと思うと、ファンシーな外装に反して(あるいはだからこそ)一種の凄みを感じた。
魔法が当たり前に存在するファンタジックな世界観すら利して、徹底的に一人の少女の思春期に潜る。
ヨハネが向き合えないもの、置き去りにしてきたもの全部を一匹の獣に託して、鏡合わせに主役と対峙させる。
『都会に行って歌手を目指す』という、物語開始時に挫折して旅立った場所へと戻っていく展開もひっくるめて、迷い道や寄り道に時間を使えばこそ真実を見つけていくジュブナイル・ファンタジーの正道を突っ走っていて、そらータイトルに”ラブライブ!”冠さないよな、と思う。
否応なく迫りくる”卒業”が、学校というモラトリアムの檻が、そもそも存在しない場所において津島善子の形をした鏡像は、異世界に何を削り出され語られるべきか。
思い返せば最初からブレることなく、ヨハネとライラプスのお話だったこのアニメが幕を下ろすにあたり、確認しておくべき一番大事なものはなんなのか。
穏やかに、けして焦ることなく語ってくる、優れたファンタジーだった。
というわけで夢を叶え堂々みんなの前で、みんなのための歌をみんなで歌い上げたヨハネの私室が、これまでで一番暗くカーテンを閉ざして物語は始まる。
かつてスクールアイドルやってた時は、九人(それを取り巻く学校や地域……”みんな”)共通の答えとなるはずの、ステージでの自己表現はヨハネを部屋の外へ引っ張っていく決め手にはならず、むしろ偽りの答えとして安住しかねない、一種のトラップとして描かれる。
去って行ったライラプスを追いかけ記憶をさまよい、自分を見つけ自分を捕まえてもらった後、まだ思い出せない最後の真実をライラプスが告げようとした時の、”みんな”の扱いを見ても、このお話はAqoursに良く似た少女集団に物語の舵取りを、ほぼ委ねていない。
鏡写しの異世界だから、数年越しの外伝だから、別に追いかける必要もない蜃気楼みたいなもんで、そこにこだわれば逆に縛られ不自由になるポイントだとは思うけども、本家本元がそういう決断を、よくもやってるなと関心もする。
でもこんぐらいドラスティックな語り口で切り裂かないと、年月と愛着が積み上がった物語を切り裂いて”今”活きている何かを取り出すことは、難しいのかもしれない。
”みんな”よりもヨハネ個人、彼女の決定的な一部でありながら個別の尊厳を持ったライラプスに足場を置いた物語。
自分の一部を見つけ直す旅はあくまでヨハネのものであり、仲間たちはチャーミングでトボけた表情を瑞々しく描かれつつ、あまり決定的な役割を持たない。
伝言ゲームで状況がややこしくしたり、独立した存在として街に居場所を見つけているライラプスを見つめる手助けなどしつつも、あくまでヨハネは自分の足でライラプスを追いかけ、彼女と自分の歩いてきた道のり、今いる場所を見つめていく。
二人きりカーテンを閉ざし満たされていた場所から、一歩踏み出したライラプスはヨハネ抜きで老人を助け、子どもと遊び、地域共同体の中で果たすべき役割をもっているのだと、ヨハネは今回学んでいく。
自分が考えているよりもライラプスは、独力で為すべきことを見つけ、それに相応しい立ち位置と態度を見に付け、自分の足で前に進んでいた。
その離断を目の当たりにして、落ち込むでも喜ぶでもない複雑な気持ちになる自分も、ヨハネは逍遥のなか見つけていく。
同時にヨハネの旅は孤独ではなく、ワイワイ賑やかな仲間……ライラプスが身近に支え導いてくれたからこそ出来た友達に助けられて、辿り着く場所へと近づいていく。
ダイヤさんの車に乗せられて思い出の場所に近づき、しかし自分で降りて思い出の核心に近づいていく足取りは、ヨハネという少女が今どういう場所にいて、どこまで自分を作り上げているのかを、上手く語っているように思う。
優しい誰かの手助けを拒むほど閉じておらず、自分ひとりで何もかも出来るほど孤高でもなく、時に安楽な現状維持に沈み込みそうになるけど、一番大事なものが去っていく素振りを見せれば、手に入れた絆に助けられてそれを追いかけていく。
身勝手なクソガキと素直で素敵な女の子の間を、フラフラ彷徨う思春期の足取りでもって、このお話の真ん中を担当してきた主人公が、故郷に戻ってきてちょっとずつ手に入れた変化。
迷ったり、不鮮明だったり、思わず逃げてしまったりする大事な何かと、まっすぐちゃんと向き合える自分を作り上げる、非常にシンプルでオーソドックスな物語の現在地が、過去と未来が交錯する美しい水辺……なのかもしれない。
思い出をたどりながら、ヨハネは木に登って降りられなくなった子猫を助けようとする。
それは迷子になって泣きじゃくっていた幼いヨハネが、もう誰かを助けられる存在になったのだと示す、コンパクトでチャーミングな卒業試験だ。
しかしまだまだ危なっかしいヨハネは自力で危機を乗り越えきることが出来ず、優しい獣は幾度目か、手のかかる姉妹のピンチを身を挺して救う。
ずっとそんなふうに、助け導いてくれるライラプスの尊さを意識することもなく故郷から離れ、独善に溺れて都会で迷っていた時間が、見えなくしていたもの。
ヌマヅに戻ってきてからヨハネが見つけ直した、友情とか願いとかあるがままの世界とか……人生に大事な宝物が、迷子の子猫を前に迷わず助けに行けるヨハネを再生させてきた。
自分一人で出来るかどうかではなく、為すべきと思えたことにためらわず飛び込む善意と勇気を、意地の悪い人は無謀と言い換えるだろう。
でもライラプスはそれこそがヨハネの善さなのだと、暖かな毛皮で包み込んで守ってくれる。
ソウシてくれる存在が身近にいたからこそ、ヨハネは臆病で身勝手な自分を抱え込んだまま、部屋の外に出てまた戻ってきて、また出て行って何かを学ぶ小さな冒険を、ここまでの物語で果たすことが出来た。
ワーシマー島に閉じこもっていたマリちゃんをヌマヅに連れ出し、アホ面でかつサンドかぶりつく屈託の無さへ、手を引いて導くことが出来た。
今の今まで忘れていた、ライラプスとともにあるための約束。
それはかけがえない家族との関係を維持するためだけでなく、放っておいたら凄くイヤな子になってしまうヨハネが、なんとか彼女を愛してくれる人たちとか、思い込みほど悪くない故郷とか、本当は素直に強くありたい自分自身と、手を離さずいるための楔だったのだろう。
思いやりを忘れない、喧嘩しても仲直り、笑顔でいつづける。
どっかの誰かが奇跡を叶えてくれると、空疎に思い込んで都会に出て……当然何も成し遂げられなかった第1話のヨハネは、この全部を裏切っている。
しかし所々トンチキで、素敵な風景と歌が沢山あったヌマヅの日々を通じて、ヨハネは幼い日に守るべきと誓った優しさと強さを、取り戻しつつある。
それを一番身近に守り手渡してくれたのが、一体誰だったのか。
ライラプスを探す旅は、そんな事実もヨハネに今一度、思い出させる。
出会ってくれたこと、一緒にいてくれたこと。
あまりに当たり前で見落としてしまう奇跡に、ちゃんとお礼を言える自分に立ち戻って、ヨハネは思い出に出会い直す。
過去を取り戻すのは思いの外楽な旅ではなく、より良い未来へ進み出すためには真実、時を巻き戻す必要がある。
ファンタジーが削り出す人生の真実は、かつて第1話ラストにハナマルに手を引かれる形で……そして今回ヨハネがライラプスを、彼女と出会った頃の自分を探す旅の中で、瑞々しく描かれていく。
これが奇跡なのだと真実思い知ってしまった瞬間、ヨハネは誰よりも素直で優しく強い”大人”になってしまって、物語は終わるのだろう。
その予兆は、閉ざされた部屋の外に出たからこそ出会えた仲間たちの中、眩しく微笑むヨハネのかんばせに満ちている。
意地っ張りで弱虫で思い込みが激しく、過ちを自分に引き受けないくせに外側に過大に何かを求めている、結構最悪なクソガキとして”ヨハネ”を始めたことで。
一二度心揺らされる体験をしても、心地よい寝床と優しい導獣に甘えてズブズブ沈み込んで、行ったり来たりを繰り返す人間のありきたりを、しっかり描いたからこそ。
ライラプスが遠く寂しく見つめる成長は、凄くいい手応えをもって僕に届く。
ヨハネは今ここにいて、誰かの手を取って自分の足で、ここまで来たのだ。
そしてライラプスは、その大きな背中と豊かな毛皮で守ってきた少女の行く末に、追いついていくことが出来ない。
それが霊獣という立場ゆえなのか、ヌマヅに根を下ろした生き方からか、ヨハネの魔法最後の秘密に関係しているのか、それとももっと内面的な、ヨハネから(つまりは視聴者から)見えていたより複雑で人間的な心の問題なのか、語る時にこのお話は終わる。
終わってしまうから、真実を告げるよりも早く仲間が追いついてきて、ヨハネを幸せな”外側”へと引っ張っていく。
その運命の潮流に引き裂かれ、幼年期の岸に置き去りにされるものの表情を、このエピソードは見事に描く。
吹き付ける風、思い出に舞う蝶、引きちぎられる花びら……なにもかもが鮮烈に青い。
それは仲間たちが連れてくる暖かな夕暮れの色、”外側”のオレンジの補色だ。
こういう優れた映像詩を、要所要所でしっかり形にできているのは、このアニメのとても強い部分だと感じる。
ヨハネを物語る主体に据えて進んできたこのお話において、ライラプスはクールにタフに己を語らず、愛する妹がもっと自分らしく、もっと思うままに生きられるよう見守り、導いてきた。
泣くことも揺らぐこともない(だからこそ、私は安心して幼年期に震えることが出来る)無謬の存在として、ライラプスを信頼し阻害する視線は、母親を不在にさせることで駆動しているこのお話が、賢い獣にどういう役割を与えているかを再度あぶり出す。
しかしヨハネが今一度自分の夢を探り、”みんな”で何かをやったからこそ”わたし”が本当に望むものを掴みかけている……物語が終わりかけている今、無敵の保護者としてのライラプスの外殻が揺らぎつつある。
彼女が何を感じ、何を求め、何に怯え、何処に取り残されているのか。
その瑞々しい震えを、人間の証をヨハネに預けないからこそ、少女は大きな獣を支えに自分を見つけ直し、故郷の青春をつっかえつっかえ歩くことが出来た。
でも、そういう時間は終わる。
ライラプスがヨハネの保護者として、抱え込んだなにかを隠さなくても良くなる瞬間が近づいてきている。
それが炸裂したら、もう一緒にはいられないという覚悟と逡巡を、ライラプスが抱え込んでいることを幾度も、このアニメは示してきた。
思う存分甘えられる、いつでも正しく優しく強い保護者と、それに包まれる幼い子ども。
ジュブナイルを成り立たせてきた関係性には大きな変化が生まれ、自分が置き去りにしてきたものがなんだったのか、思い出して取り戻すところまでヨハネは進んだ。
そこまで行ってしまえば、カーテンを開けて部屋の外側に出ていく準備は整っていて、涙を拭ってくれる安心毛布は必要ない。
ライラプスは、いらなくなる。
幼い季節にだけ少女に訪れる、特別で優しく、少しだけ切ない魔法。
その具現として物語を支え導いてくれたライラプスが、見据えている景色が見える回でもありました。
今回その輪郭を描かれたものが、こらえにこらえた沈黙を破って溢れ出す時、ヨハネは大人になって再び故郷を離れ、物語は終わるでしょう。
その時、青春の幻影としてライラプスは置き去りにされるのか。
ヨハネの魔法が、成長がもたらす必然的な分かれを正しく踏襲するものなのか、それとも自分独自の身勝手な結末を引き寄せるものなのか。
今回言葉半ばに断ち切られた真実ともう一度対峙する時、このお話がどういう決着を選ぶのか、僕はとても楽しみです。
とにかくヨハネ一本、その幼さと未熟を描ききって導くための獣一匹に、ふんだんに時間を使う。
思い返すと津島善子(を筆頭に、殆どの少女たち)の在り方をしっかりとは描ききれていなかった、ぎこちなくも愛おしいスクールアイドルの物語が流れ着いた外伝の描き方として、きわめて奇妙でありながらこれしかない正解だとも思える、不思議な手触り。
それこそが、このお話を優れたファンタジーたらしめている足場なのかなと、改めて感じるエピソードでした。
めちゃくちゃ歪なんだが、群像劇という縛りを解かれた鏡合わせの特別編としては最適な描き方だとも思え、このヘンテコさがいかさま”ラブライブ!”だなと思ったりもします。
次回も楽しみですね。