イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

葬送のフリーレン:第7話『おとぎ話のようなもの』感想

 人語を紡ぐ猛獣、不倶戴天の宿敵、人面獣心の外道。
 かつて勇者達が戦い、今も人類を食い散らかす魔族との本格的な対峙が始まる、フリーレンアニメ第7話である。

 今回もAパートとBパートを分けた作りで、一見ナルシシズムに酔っ払っているようでいて深い愛情を未来に向けたヒンメルの暖かさが、言葉を欺瞞の道具にしか使わない魔族の本質が暴かれる後半、良く効いてくる作りだった。
 時間、死、立場の違い。
 ここまで人がどれだけのものを飛び越え、繋ぎうるかを暖かく積み上げてきた物語だが、その背後には魔族という人間型の異物が生み出す悲劇が、重たく横たわってもいた。
 なにしろメインキャラの殆どが故郷を魔族に滅ぼされ、天涯孤独になった上で血の繋がらぬ誰かを家族とすることで、なんとか生き延びた過去を持つ。
 それは人と人がわかり合える暖かさ、その媒となる言葉の豊かさを照らす鏡であり、その光が届かぬ影にこそ、魔族はいる。
 産み捨てて育まず、孤独と殺戮を常態とし、生きることの意味も死ぬことの悲惨も知り得ない、人間型の虚無。
 人が人らしくあり続けるためにはけして共存できない、人にしか見えず人を欺く怪物たちの実態が、穏やかな語り口に冷酷な切れ味を宿して語られていく。
 ここまで過去から受け継いだもの、新たに紡がれていくものを豊かに見せてくれた語り口が、魔族が種族特性として持っている無慈悲、それに対峙するためにフリーレンがむき出しにする冷酷を語るのに、ピッタリハマる面白さもある。
 淡々と積み重なる謀略と欺瞞、簒奪と死。
 そういうモノをクズどもが押し付けてくるからこそ、勇者たちは下らない暖かさを必死に身近に引き寄せて、人間のまま魔族に勝とうと戦ったのだと、ある種の答え合わせが行われる回でもあった。

 

 というわけでAパート、80年目の開放祭に銅像本人が立ち会うお話である。
 夢現に思い出にひたり、胡蝶に鼻をくすぐられて目覚める出だしからして、タイトルにある”おとぎ話”が確かにそこにあるのだと、間近に伝える手応えに満ちている。
 やっぱ正統ファンタジーの手応えをハイクオリティに削り出し、俺が見たい幻想をしっかり形にしてくれる画筆には信頼しかねぇ……。
 ああいうファンタジーの一番美麗な部分を、どっしり構えた見せ方でたっぷり食わせてくれる贅沢を、毎週毎回味わえるってのは得難い体験よね、本当。
 早起きフリーレンに甘い、フェルンのママぶりっぷりも最高で……しかし後々、家族を装う最悪の獣が描かれることを思うと、ただのほっこりギャグで終わらないのが上手いところだ。
 魔族共は、この愛おしい無血縁の絆をけして紡ぎ得ないし、そのくせ『紡げる』と装って悲劇を撒き散らすことしか、出来ない動物なのだ。

 ヒンメルから受け継いだおせっかいな生き方を今回も貫いて、フリーレンは開放祭への道を開けていく。
 世は勇者の戦いを忘れかけているけども、この村はその奮戦と栄光を忘れず……しかし100年先、1000年先はどうだろうか?
 魔術の始祖たるフランメに見出され、人間としての彼女に触れたフリーレンは、時の流れがあまりにも儚い事実を良く知っている。
 それでも一瞬の瞬きを、そこにつながる想いを大切に抱きしめていいし、抱きしめるべきなのだとヒンメルとの旅に学んで、未来を祈る。
 それはナルシストな勇者が、永遠を生きる友人のために世界に自分の似姿を刻んだのと、多分同じ暖かさがある。
 定命と永生、人間とエルフに分かれていても、言葉にならないものも、言葉として手渡されるものも、人と人をたしかに繋いでいる。
 それは嘘ではない。

 

 そしてそれを嘘にする怪物共が、この世界には蔓延りすぎている。
 グラナト伯爵が収める街で、フリーレンからすれば噴飯物の”和睦の使者”を処理しようとして、彼女は獄に繋がれる。
 魔王撃滅から80年、戦時の記憶も薄れ……とするには、特に北方諸国には魔族起因の傷跡が多すぎ、伯爵だって怪物共の本性は身にしみて良く解っている。
 それでも、我が子の思い出を部屋に刻んだ自分と同じ思いを、目の前のヒューマノイドが抱えているのだと思いたくなる、強い共感能力を持っている。
 優しいということが強いということもであるのは、ここまでのエピソードでも直近のAパートでも描かれた。
 しかしそんな人間用の真理からかけ離れた、冷たく動かしようがない業で魔族は動いていて、ヤツラが見た目通り人に近い存在なのだと信じたい人たちの思いは、あらゆる時代あらゆる場所で裏切られ、漬け込まれ、殺されていく。
 フリーレンはそれを良く知っている。
 1000年、魔族を駆除し続けてきたからだ。

 フリーレンが牢屋で語る思い出は、言葉を擬態の道具にしか使わない魔族の本質と同じくらい、それを連帯の奇跡として使いたい人間の習性を物語る。
 人が人でなしにならないよう、強く正しく優しく生きていくほどに、その全てを裏切る魔族との共存は夢のまた夢だし、それでもなお自分たちと同じなのだと思いたがる、群れる動物としての本能に漬け込む形で、魔族は最悪を積み重ねる。
 娘を食い殺された母親から溢れる殺意と憎悪こそが、魔族と相対する時の正解なのだが、人間は自分と似通った部分がある相手を自分に引き寄せて考え、共感と対話を基軸に社会を作ろうとしてしまう。
 眼の前にいる、自分に似通った存在が絶対的にコミュニケーションを拒む異物なのだと理解し、冷たい憎悪をたぎらせたまま生き続けるのは、思いの外厳しい生き方だ。
 優しくあることは時に、憎悪に窒息する前に顔を上げる弱さの現れ……と言い切るのは、あんまりに哀しい気もする。

 

 ここら辺の機微を魔族はしっかり把握し、しかし理解はせずに惨劇を撒き散らす。
 本質的に人間が生きるということ、死ぬということを理解しないから、村長を消して自分が食った娘の代理を用意するという、イカれた算数を世界の真理のごとく差し出しても来る。
 異質で、醜悪で、残酷で、奇妙な滑稽さすら漂う人類の宿敵を描く筆が、これまで表に出てこなかったこのお話独特の魅力を、しっかりと伝えてくる。
 『あ、こいつらと話し合って共存とか無理だな。根本的に異質な生命体なんだな』と理解させるためのエピソード選びが的確で、甘っちょろい対話可能性を信じたかった視聴者もヒンメルと一緒に、何かを諦める体験が出来る。
 ここまで人生の捨てたもんじゃねぇ部分を生き生き描いてきた強みが、切り捨てるべき最悪を理解させる時にも生きるのは、なかなか面白い視聴体験である。

 単体で完結した個体として、群れる必要なく長い時間を生き、徐々に滅びていくエルフのあり方は、魔族とどこか似ている。
 しかしこれまでフリーレンが見せた、選んだ生き方のぬくもりは、フェルンやヒンメルに投げかけた言葉が生み出したもの、届けた思いは、魔族がどれだけ人間に擬しても掴めない。
 言葉と生き様を通じて他者を理解しようと努め、自分を理解してもらおうと歩み寄ること。
 フリーレンがあまり変わらぬ表情の中示した人間の証を、詐術の道具にしか使えない浅ましさこそが、魔族の本質でもある。

 死ぬべき定めにある人間が、それでも尊いと思える証を魔族の生き方は踏みにじる。
 それを許せぬ醜悪だと思えるよう、自然に物語が流れていくのは……やっぱ六話使って時の無常と人の温もり、死が分かつとも繋がるモノをしっかり描いてきたからこそだろう。
 あの非人間性を前にして、『魔族も人間も、どっちもどっち』たぁけして言えない。
 人が人足り得る縁を踏みにじるからこそ、魔族は見敵必殺の宿敵なのであり、魔族がその価値をわかり得ないものを存在の基盤にすればこそ、人は人足り得るのだ。
 そしてそれを示すやり方は、暖かさを強引に押し付けるようなわかりやすさではなく、じんわりと感じ入る穏やかな描き方が、多分ちょうどいい。
 魔族の大間違いっぷりを、冷ややかな策謀と暴力でもって伝えられると、そういう気持ちにもなってくる。

 

 という感じの、これまで六話描かれた温もりとは真逆の、作品を支えるもう一つの極が顔を出すエピソードでした。
 血管の奥のほうが冷えるようなおぞましさが、魔族を描く筆には宿ってるけども、それもまたこのファンタジー世界の消し難い事実であり、ヒンメルが命がけで消し去りたかったものであり、80年経ってなおしぶとくこびりつく、この世の汚点でもある。
 それを殺し尽くし雪ぎ尽くすこともまた、フリーレンがヒンメルに捧げられる”葬送”であり、人間の根源的な優しさに漬け込む外道に、一切揺るがされぬまま挑む冷たさが、不思議と心地よい。
 あんだけポワポワボケ老人っぷりを発揮してたフリーレンが、歴戦の処刑人の顔をする時生まれる魅力的なギャップ……やっぱええわな。

 魔族の欺瞞に飲まれた街がどうなるか、フリーレンは長年の経験から良く知っていて、それが生み出す滅びも一つの必然と、冷たく飲み込めてしまう。
 ここら辺のクールな判断力が、今一緒に旅をしてる若造共の影響でどう変わっていくかもまた、一つの見所かな~と思う。
 いかに人を弄び無惨に殺すかしか頭にない悪鬼を前に、戦士たちはどんな戦いを繰り広げるのか。
 フリーレンの新たな旅に描かれることのなかった、しかし描かなければいけない新たな側面を、アニメがどういう角度から削り出してくれるのか。
 次回タイトル回収回、大変に楽しみです。