イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「渋谷事変」:第40話『霹靂』感想

 人命、伽藍、宿願、未練。
 何もかもが稲妻に打ち砕かれて瓦礫に変わり、紅蓮に巻かれて燃え溶けていく。
 幾つもの闘争が複雑に絡み合って弾け、敵も味方も激戦に命を燃やしていく渋谷事変、真骨頂の第40話である。

 

 Aパートは伏黒親子、Bパートは特級呪霊の激闘を経糸とし、渋谷に行きあってしまった連中の様子を横糸に挟み込みながら、血と炎で編まれた「渋谷事変」というタペストリーを眺める今回。
 ”最後のWeb系”土上いつき   渾身の筆が随所に踊り、このアニメらしい圧倒的な迫力とスケール、緩急とメリハリを腹一杯に味わうことが出来た。
 あくまで人間サイズの……だからこそ冴える超人技量の粋を、渋谷を股にかけて展開する前半のバトルで味あわせて貰って、それが何もかも燃え落ち砕けていくカタルシス、人間社会に全く遠慮しない邪神たちの激闘が大きく弾ける。
 時系列、あるいは地理的距離をシャッフルしながら進む構成は、複数人が一つの蠱毒に投げ込まれた渋谷事変の醍醐味でもあり、それぞれの戦場に滲む認識とバトルのスケールが、十人十色の人間模様を描いてもいた。
 ”群れる”という人類種の習性を惰弱と断じ、独善と孤高に溺れるからこそ強い宿儺の、天災のような生き方。
 テキトーに時間を潰して生き残りたい日下部の、あまりに人間的なスケールはそれと対比されて矮小……というには、ヤツラがぶち撒ける緋色の破壊は巨大に過ぎる。
 真人たらんと人類社会への反抗を試み、道半ばに倒れた漏瑚に投げた宿儺の送辞が、悪霊の垂れ流す呪いでしかないことと、世界の真理……その一面を穿っていること。
 あれだけの力を見せつけられてしまえば、真理なのだと受け入れざるを得ないこと。
 圧倒的な作画と演出でもって、そんな怪物のアイデンティティを思い知らされる回だった。

 宿儺の驕った生き様は、それを否定できるほど強い存在が立ちふさがるまで真理でありつづける。
 天上天下唯我独尊。
 釈尊最初の言葉を最悪に解釈したような蹂躙を、『間違っている』と言い切るには力がいる。
 群れずにいられるほど強い個体こそが、人類の代表選手だとうそぶく態度はどこか五条悟にも通じていて、しかし夏油傑と触れ合ってしまった彼は青春の残骸を握りしめて、”教師”であることを己に任じた。
 宿儺という獣に、その軛はない。
 同時に完全な蠱毒の中独覚に浮遊しているわけでもなく、己のすべてを燃やし尽くした特級呪霊に泣ける餞を手渡したり、隣に並び立つことを許すたった一人が、一応いたりもする。
 意思なき災害と遠ざけるには、奇妙な人間臭さが残る人間サイズの災厄を止めうるのは、一体誰なのか。
 社会の守護者という責務を負わされた呪術師達は、現状この暴虐に”否”を突きつけられない。
 そんな現状が渋谷を廃墟に変えつつ、事変はとどまることを知らず加速していく。
 たくさんの命と願いを、車輪の下に轢き潰しながら。

 

 

 

 




画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第40話より引用

 

 というわけでAパート、伏黒恵 VS 伏黒甚爾である。
 甚爾が呪力を持たないフィジカル極振りの魔人だってのもあって、戦いは色々ぶっ壊し高速で戦場を入れ替えつつも、人間社会という器を壊すことなく展開していく。
 無論甚爾の速度と破壊力、それになんとかついていく恵くんの術式と気合は常人を遥かに超えているわけだが、彼らの戦いはビル全部を溶かし、渋谷を火の海に変える戦いとはテイストが違う。
 奇妙にトボけた可愛さすら漂う脱兎クンフーも描かれ、合間合間に別の場所で誰が何やっているのか、カメラを横に振る余裕もある。
 問答無用で引力に吸い寄せられてしまうような、人外の存在感をギリギリ消した人間サイズの戦いは、彼らが(現行の定義での)”人間”であることを上手く示しているように思う。

 様々な式神を高速で切り替えながら、魔人の追撃にどうにか追いすがっていく伏黒くんの奮戦は、人間の街たる渋谷が今どうなっているのか、後の大破壊を下見するような意味も宿していく。
 何もかも瓦礫に変える力もなく、そうする意思もない等身大の人間が、鍛え上げられたフィジカルと技術を交錯させながら展開する、超スピードの殺し合い。
 甚爾の立ち回りに遊びがなく、最適効率で目の前の障害を排除していく機械的な味が、プロの仕事はしつつベタついた嗜虐が香っていた生前のそれと、大きく違っているのも、なかなか面白い。
 稲妻呼んだりとんでもない大ジャンプしたり、常人の範疇は超えつつ人間には収まっているバトルは、しかしだからこそ自分の全部を絞り出している余裕の無さ、生き死にの崖に追い詰められながら最善を探すあがきが滲んで、相応の善さがある。
 このサイズ感だからこそ、日下部の日和った思惑が挟まる余裕もあるかなー、って感じ。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第40話より引用

 死者の色に黒く瞳を染めた甚爾は、我が子の名を問うてその濁りを抜き、殺戮人形のスイッチを自分で切る。
 急に素性も知らねぇ魔人に襲われ、傷ついた体に鞭打つハメになった恵くんには大変災難だし、そういう厄介な生き方に追い込まれている根源は、このクズ親父が大人の、親の、人間の責務何もかも投げ出して捨て鉢に行きたことにあるわけだが。
 彼が殺した五条悟が、死を経ることで人類最強へと覚醒したように、甚爾は死んで戻ってくることでようやく息子と正対し、窮地を救って殺さず消える道に立つことが出来た。
 バカは死ななきゃ治らない、外道を救う法はなし。
 呪詛師としてヤツが積み上げてきた死体の山を思うと、そういう言葉も思い浮かぶが、五条悟が宿敵の遺言をちゃんと果たしていたことが、恵くんの命を救い甚爾が生前払えなかった業を、極めて勝手に精算するチャンスに繋がってもいる。
 『んじゃあ生きてる間に、家の呪いに抗って子を助けろよ』てぇのは外野の気楽な寝言であり、クソみたいな呪術界の色々に人生微塵に揉まれた結果、人殺しのクズに落ちるしかなかった弱虫、最後のロスタイムは不思議に感情を揺さぶってくる。
 それが呪いに満ちた場所に打ち捨てられ恵くんにとっては、知ったこっちゃない災難でしかないとちゃんと書いていること含め、玉折一つの始末として好きな場面だ。
 綺麗に終わったら何もかも拭い去れるなんてことは欠片もないけど、でも折り重なった呪いの決着が”こう”なのは、なんか良いなと俺は思う。

 そしてそんな一つの終わりはあくまで甚爾の退場でしかなく、渋谷に取り残された恵くんは血みどろの現実に背中を刺される。
 今明王折伏されたはずの外道が、手負いの呪術師を切り刻んで喜悦を歌い、炎の激戦が終わった後、その無様な絶望で次回へ引く。
 アバンで漏瑚最後の戦いを先取りして見せる、時系列をシャッフルして始まったこのエピソードが、最悪の襲撃が一転二転した後、恵くんが血みどろに倒れクズが絶望しきってる結末へと、これまた飛んで終わる構成が好きだ。

 想定外のアクシデントと、常理を超えた圧倒的破壊と、人間のタガを揺るがす死闘に巻き込まれた、呪霊と呪術師と呪詛師たち。
 それぞれの力、縁、立場に応じて向き合い方は様々で、善悪貴賤が入り混じれる混沌の中で、時系列はかき乱され場面の主役も入れ替わる。
 そんな加速した狂騒劇を牽引する力は、祈りと呪い、生と死という相反してなお相補する、不思議な真理だ。
 必死なやつもだらけた奴も、志高い聖人も見下げ果てたクズも、圧倒的な力を持つ怪物も無力な常人も、様々な存在が同じ地獄に投げ込まれ、暴力的に撹拌されながらその生き様……時には死に様を晒す渋谷。
 特定の主人公を持たず、「」にくくられた事変それ自体が主役であるかのように躍動する物語は、複雑怪奇な人間模様を多角的にえぐり取り、”呪い”がどこから生まれてくるのかを描き出していく。
 超高速で渋谷中を飛び回り展開した親子の戦いも、それが終わって襲いかかる不意打ちの連鎖も、この渋谷に凝集された人界の一様相。
 曼荼羅のごとき色合いで、業と術と血と死を絵の具に、群像劇は続く。
 僕としてはそこで誰が生き残って誰が死ぬかより、どう祈ってどう呪ってどう戦っていくかが大事で、力入りまくりなアニメの描き方は、そんな期待に良く応えてくれている。
 ありがたいことだ。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第40話より引用

 というわけで、Bパートは漏瑚 VS 宿儺……なんだけども。
 とにもかくにも作画が冴えまくっていて、圧倒的なイカレっぷりで本当に凄かった。
 Aパートで激闘の舞台になっていたのと同じ人間の領域が、堅牢なはずの日常にそびえるビル街が、炸裂する炎に雨のように溶かされ、木っ端微塵に砕け散る。
 あってはいけないことだが、だからこそ強烈なカタルシスで脳を揺さぶってくる神域の戦いは、ただ激しい早いだけでなく細かいアイデアが随所に盛り込まれ、大変な見ごたえがあった。
 漏瑚が放つ熱波がどれだけ激しいか、街頭気温計がバグる様子で見せたり、高速で展開する空中戦に一瞬、最強の怨霊の凶相を印象的に焼き付けたり、いろんな工夫をしてくれて凄く良かった。
 激しい作画一本槍で押し切られると舌が麻痺するというか、どっかで強い味わいに慣れて飲み干せなくなってしまう傾向が自分にはあるのだけど、色んな画角で、色んな速さで、色んな形の炎でもって街を壊しまくる映像のスペクタクルは、頭から尻尾までたっぷり味わうことが出来た。

 漏瑚の本気は渋谷の街を揺るがし、砕き、帳程度では隠蔽できるはずもない人間社会の終わりを、山積み生み出す。
 しかしそれすら嘲弄しながら、宿儺の実力は生真面目な呪霊を上回り、”傷ひとつ”はあまりにも遠い。
 ど派手な破壊絵巻は宿儺がぶっ壊しまくっている渋谷の風景、それを生み出すために費やされた資産や社会や平穏よりも、宿儺の”傷ひとつ”が固く強いことを語っていく。
 街より強い怪物は、かけがえない祈りを包み守ってきた人間の証を、踏みにじる資格を持つのか?
 呪いそのものである宿儺は傲慢に”持つ”と言い切り、その傲慢と独善こそが自分であると、斬撃によって無言で主張している。
 このエゴイズムの究極が、漏瑚と同じ声のおじいちゃんに人を守り人と生きる道を定められた少年に、巣食い乗っ取って渋谷がこうなっているのは、なんとも皮肉なことである。

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第40話より引用

 この圧倒的大破壊の前で、日下部の小市民的生存戦略は児戯でしかなく、巨象に踏み潰されるアリであろうとも、生きたいという願いも譲れない祈りも、確かに持っている。
 『手頃な相手』とうそぶいたのはフロックではなく、日下部は夏油の残党を見事な居合で制してみせるが、パンダを良いように翻弄していたクズ大人の知恵の遥か上空で、漏瑚の全てを振り絞った火球が練り上げられ、宿儺は凡人必死の戦いを戯れに貶めていく。
 文字通り地面から浮き上がった距離感で、邪神達が渋谷を……そこにまだ残っている人命を巻き込みながら暴れ倒す時、しみったれた教師の生存戦略も、衝撃の真実に二つに割れた家族の決意も、何もかもが一緒くたに燃やされていく。

 力あるものは、そういう風に何もかもなぎ倒す権利を、果たして持っているのか。
 日下部の情けない生き方は不思議に芯のある形で、それに”否”を唱えているようにも感じる。
 圧倒的な力を持った怪物たちが運命に導かれぶつかりあう隅っこで、確かに生きている人たちもまた、それぞれの願いを持っている。
 この渋谷焦熱絵巻はそのすべてを巻き込みながら燃えているが、人が人であるために選んだ形は、そんな蹂躙を許容できない。
 しかし事実、圧倒的な力でこの炎の嵐を遊びと楽しみ、全てを嘲りながら一人立つ”人間”がいてしまう。
 日下部は宿儺の殺意と迫力に立ちすくみ、許しをもらってようやく自分を守れる弱者であり、『手頃な相手』なら瞬殺できる程度には強者でもある。
 渋谷をぶっ壊しながら揺れる強さと弱さの天秤の、真ん中のめちゃくちゃ人間臭い所に日下部は立っていて、降って湧いた惨劇を自分の足で駆け抜け、生き延びようとする。
 それは、とても人間的な姿だ。
 そんな彼が、虎杖くんの体を奪って行われたこの惨劇に何を思うか……アニメがそのシーンをどう書くか、僕はとても楽しみだ。

 

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第40話より引用

 日下部には必死で生き延びるべき災厄だったものは、漏瑚には結果の見えた必死の悪あがきであり、宿儺には嘲弄で退屈をごまかすための遊びでしかない。
 渋谷を巻き込む大破壊を通じて、人間が置かれる立場や力や価値観の多彩さが描かれるのがこのお話の面白さだと思うが、かくして激戦は然るべき場所に収まっていく。
 例えば夏油一派が自分の全部を賭けるほど本気になれたものを、宿儺は『つまらん』と文字通り切り捨て、顧みもせず踏みにじる。
 世界の大多数をしめる”人間”が、それを呪い殺すことでしか存在できない呪霊ですら共鳴できるものが、宿儺には価値のない塵芥に思えて、だからこれだけ殺せるし遊べる。
 ”群れる”という人類のスタンダード(その宿敵たる漏瑚が、仲間との連帯において極めて”人間らしい”のは皮肉だ)がどうやっても体得できない異物は、殺し踏みにじることでしか己を証明できない。
 その強さは、孤独で哀れにも思える……っていうには、宿儺は殺し過ぎだしあざ笑い過ぎだしロクでもなさすぎるんだけども。
 しかしまぁ、そんな血塗られた悲哀を作中最悪の呪いも、”人間らしく”持っていると暴くだけの実力は、漏瑚が確かに持っていた。

 『あんだけ人間ぶっ殺しておいて、綾波みてーな泣き方して綺麗に死んでんじゃねよー!』と、俺も思うけども。
 夏油傑があんだけバカにして、自分に並び立つためのリトマス試験紙扱いしていた特級呪霊は、彼という蓋が封印された瞬間やられ役の道化から炎の権化へと立ち返り、渋谷を燃やした。
 その実力の程を思うまま発揮させる、あざ笑いながら隣り合う奇妙な共鳴は、宿儺が同じ”人型の呪い”だからこそ寄せれたものかもしれない。
 花御を一瞬ですりつぶした五条悟が、唯我独尊の境涯にたどり着きつつ教師として、呪術師として人のそばにあり続けるために選んだ、呪いへの徹底した殲滅思考は、宿儺にはない。
 仲間とともに”人間”になりたかった漏瑚の切望も強さも、蹂躙しつつ全身で受け止め、涙の意味を知らぬまま末期に看取る立場は、宿儺だからこそ可能だ。
 まーその余波で街はボーボー燃えるし、描かれてないけど一般人山盛り死んでるだろうし、なんか綺麗だったからOKって話でもないけどなッ!!

 

 その暴虐を許せない気持ちも、駆け抜け去っていく颯爽を不思議と気持ちよく思う気持ちも、伏黒甚爾と漏瑚両方に共通してて、その戦いがこの一話にまとまっているのはなかなか面白いな、と思った。
 わけが分からぬまま甚爾に”勝った”恵くんの戦いも、謎の同志と再開を果たした宿儺の遊びも、まだまだ続く。
 生き残ったもの、死に伏したもの、今まさに死のうとしているもの。
 様々な存在が壊れかけの渋谷に押し込められて、ぶつかりあって火花を散らす。
 それがどれだけ鮮烈で綺麗で、熱く残酷ではた迷惑なのかを、良く教えてくれる回だったと思う。
 次回も楽しみです。