イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

葬送のフリーレン:第10話『強い魔法使い』感想

 人類の宿敵が言葉を用いて欺くのならば、人は魔力を以て魔族を狩る。
 力量を覆い隠し真正面から不意を打つ、一千年分の知略と鍛錬の精髄が魔貴族に無様な死を手渡す、葬送のフリーレン第10話である。

 前回弟子共がスーパー作画で丁々発止のバトルを繰り広げ、さて師匠はいか程のものか……と蓋を開けてみれば、フランメとの思い出を静謐に削り出し、魔族の驕りを真正面から飲み込んで勝負ありの、貫禄ある決着となった。
 さんざんアウラの極悪非道と実力を持ち上げておいて、それを一千年積み上げた生き様と殺意で上回っていく決着は、ただ戦いの激しさをインフレさせていく方向とは真逆にお話が進んでいく、ある種の決意表明にも思える。
 実力を隠し、相手を欺き、隙を付いて命を立つ。
 力のディスプレイがそのまま社会での地位に直結する、修羅の生き方しか許されていない魔族の生態を逆手に取る勝ち方は、殺される側からすれば卑怯千万、殺して守られる側からすればかけがえのない知恵といえる。
 魔族がどんだけ共存不可能なエイリアンであるかはしっかり描いているので、なけなしの尊厳を首ごとぶった切られ、さかしまに視界を回転させながら終わっていくアウラの無様な死に様は、因果応報な気持ちよさを宿していた。
 人類をナメることで生きている猛獣が、その存在の支えにしている全部をひっくり返し、どうにも取り返しがつくない宿命を呪いながら終わらせる。
 フリーレンがフランメに学び、フェルンに教えた魔力隠蔽ベースの戦い方は、故郷を焼かれた三人の復讐者が人であるまま恨みを晴らす、生存の様式であったのかもしれない。

 

 魔族は詐術でしか言葉を使わず、その社会は力の過多によってのみ成立している。
 これをさかしまにすると、(理想的な)人間は真心を込めた言葉で繋がり、社会は死や時代を超えて託されたものを大事に作られるべきだ、となる。
 ここまでの旅で辿った勇者ヒンメルの行いは、時の流れに忘れ去られつつも確かに地に根付き、誰かを助けた思い出に支えられ生きている人たちが、幾度も出てきた。
 フリーレン自体が見た目の魔力に騙されず、真の実力を直感したヒンメルの言葉によって、長い長い雌伏を経て魔王を終わらせ伝説を作り……終わってなお続く物語の先で、ヒンメルが自分に託してくれたものを拾い集めながら、また進み出している。
 見た目に騙されず相手の真実を受け取ることと、それに導かれて先に進み、誰かの手を取って言葉を伝えること。
 冷酷に冷徹に、人類の敵対者を騙し討ちにする戦い方は見ていて肝が冷えるが、その冷たさはフリーレンがフランメから受け継ぎ、ヒンメルと共に戦い守り、フェルンに教え共に旅した美しいものと、裏腹に繋がっている。

 敵に死、味方に生。
 共同体を成立させる峻厳なルールは、何もかも奪われた怒りをあくまで冷たく、研ぎ澄ませた殺意として制御する教えと併せて、才能に満ちたエルフを史上最強の殺し屋に変えていく。
 何かを憎み殺す生き方は、誰かを守り愛する人生を壊しかねない危うい毒だが、第1話を思い返してみるとヒンメルの死に接して流した涙が解毒剤となり、冷たい無関心から自分を前に進める形で、フリーレンは”葬送”という生き方を実りのあるモノへと変え得たのかもしれない。
 ここら辺、フランメが最も愛した魔法が父母から教えてもらった華やぎの魔法であること、それを末期に受け取ったフリーレンが冷えた殺戮兵器から少し、表情を変えている描写と、いい具合に響き合う気がする。

 表情一つ変えず殺す生き方は、魔族にとっては常態であり人間にとっては修行の成果だ。
 愛された思い出があればこそそれが奪われれば苦しく、奪ってなお辱める猛獣を残さず狩り殺すと、心も滾る。
 しかしその激情に任せては殺しは果たせないと、フランメに教えられてエルフの生き残りは己の力量を覆い隠すこと、その奥に確実に宿敵を倒せる実力を蓄えることを選ぶ。
 護るべき尊いものがあるからこそ、尊重してやる必要すらない人面の獣を罠にかけ、欺いて殺す卑劣は、むしろ誇るべきスタイルとなっていく。
 馬鹿げているようで最短最適な”葬送”への道のりを、着実に歩いたからこそフリーレンは魔王殺しの大英雄になり得たのだし、その教えを受けたフェルンもリュグナーを真正面から不意打って倒し、生き残る。
 そも冷酷で卑劣な闘争の本質を、下手に社会性で飾らず丸呑みした人間三代の、タフな冷徹が呼んだ勝利だろう。

 

 フランメからフリーレン、フェルンへと継がれていく殺戮の技芸は、しかしあくまで魔族にのみ向いて、彼女たちの日々と旅は暖かに美しい。
 石灰質の白い風景が印象的な、古代ギリシャめいた1000年前の風景の美しさは、ここまで描かれたフリーレンの旅、人生の悲喜こもごもと自然の美しさにみちた”今”と、違っていて同じだ。
 美しい風景、巡りゆく季節のなかで静かに人は何かを愛し、守り、生きて死んでいく。
 出会ったときは若かったフランメは、エルフの永生に追い抜かれてシワだらけの顔を見せるが、その苛烈で清廉な生き方に老いさらばえた醜さはない。
 さっぱりと妄念なく、為すべきことを為して旅立っていくけども、その歩みが花に満ちている豊かさは、師匠も弟子も良く似ている。
 ここら辺の感慨を、ただただ素晴らしい美術でしっかりと感得させてくれるのは、とても嬉しいことだ。

 世界を救った勇者の一人として、フリーレンは富も地位も恣に出来ただろう。
 人類が魔族と共通させる権力のディスプレイを、しかしフリーレンは望まず旅の日々を選び、役にも立たない……例えば冥府に旅立った人を花で満たすような魔法を、探し集める生き方を選んだ。
 人間社会に残り出世を果たしたハイターも、引退して後絶望に死にかけていたフェルンを救い、地位にあぐらをかくことなく目の前の人間を助ける道を進んだ。
 ハイターとの暮らしで授けられた優しく真正な言葉が、どれだけフェルンに届き彼女を支えているかは、今回魔族相手に果たした奮戦が一つの証明であるように思う。
 魔族が生来の業として縛られる力の誘惑を跳ね除け、驕らず実力を隠し、怨敵を殺すチャンスを探る冷たさは、足りるを知り誰かを助ける、一番人間らしい行いと背中合わせなのだ。
 フリーレンが魔族に向けている冷たい殺意が、人間に向いた時の恐ろしさを考えると、それは自然にそうなるものではなく、非常にシビアな線引をした上で己の在り方を守り続ける、修行の成果でもあろうなと思う。
 そう生きなさいよと、謙虚な自嘲に満ちた態度で幾度も愛弟子に教えた結果、フリーレンは二重の意味での”葬送”となれたのだろう。

 

 フランメの教えを一千年守り、人界に交わることなく実力を高めてきたフリーレンは、人間に興味がなかった。
 鍛え上げた魔力と師匠譲りの”卑怯”でもって、故郷を焼き家族を殺した外道を”葬送”した後、手に入れた平和の中をどう生きるか。
 フリーレンという可能性の種を見つけ、手塩にかけて育て上げながらも花開く一千年語を見届けられなかったフランメには、教えられなかったこと。
 それをヒンメルは戦後の長い人生を使って準備し、己の死を通じて解って貰い、無駄で下らない人育て、人守りの生き方を、”葬送”は進むことになった。
 今回フリーレン1000年の修行時代が描かれたことで、たった10年の旅で彼女に新たに種蒔かれたもの、それが芽を出して花開かせたものが、より鮮明になった感じもある。

 フランメ先生は葬送の装置としてしかフリーレンを育てられなかったと(少なくとも自分の認識の中では)語るが、それは人類の敵代謝をぶっ殺しきれていない時代を背景に、仕方がなかったことなのだと思う。
 1000年の修業があり、瞬くような師匠との日々に大きく学ぶものがあったから、フリーレンは地上最強の魔術師として偉業を成し遂げえた。
 魔王を殺しヒンメルが去ったからこそ、ようやく解るものがあり、最後に教えられた優しさを取り戻すように、フリーレンはフェルンと出会って旅をした。
 その最果てに今回の戦いがあって、逃走を装って大将首を相手に落とさせる、今回の戦いがある。

 魔族の本質を知らぬまま恨みを押し殺し、偽りの言葉しか吐出さない獣を相手に”外交”して滅びかけていた街は、そこに住まう人は、新たな勇者の奮戦で救われた。
 それはヒンメルの忘れられていく伝説をもう一度拾い集める、穏やかで平和な旅と裏腹な双子……80年前殺しそこねたクズの首をはね、魔族葬送業をやり切る決着でもある。
 極めて鮮やかに物語の首を刎ねて終わる今回、第7話からバトルアニメへと舵を切り替えたように思えるお話が、前半の穏やかな旅と極めて地続きであると、強く感じた。

 敵に死、味方に生。
 魔族が人間の最も尊い資質をさかしまに嘲り、驕り嘲る殺す存在でしかない以上、フリーレンは冷徹な殺し屋の顔を絶対捨てられない。
 名前に炎(Flamme)を宿す師匠が、飄々とした卑劣の奥に常時燃やしていた憤怒と温もりを付いでしまった弟子として。
 ヒンメルとともに下らない旅をして、世界が愛するに足りる美しいものだと、護るべき人生の揺りかごだと解ってしまったからこそ、フリーレンは”葬送”でありつづける。
 その苛烈さはしかし、美しく優しいものを守るための美しい炎なのだということを、彼女の過去を描く今回は良く教えてくれた。
 とても良かったです。
 次回も、とても楽しみだ。