イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

呪術廻戦「渋谷事変」:第41話『霹靂-弐-』感想

 宿儺と魔虚羅。
 人知を超えた最強の二体が激突し、渋谷の街は切り刻まれ、燃え落ちていく。
 巨象の足元で踏み潰される蟻たち、一人ひとりに生きるべき人生があったと強く知る青年は、漆黒の虚無に絶望を吐き出す。
 綺羅びやかな惨劇が悍ましくも激しい、渋谷事変最大の花火をぶち上げる呪術アニメ第41話である。

 

 アニメになってみると渋谷壊滅、爽快と悲壮が同居する極めて奇妙なカタルシスとなった。
 後に主人公が地面に伏してゲロを吐く、数多の命が奪われた惨状。
 これを大破壊エンタメにしすぎないように、要所要所でこれから死ぬモブを挟み込みつつ、宿儺と魔虚羅は己の極限を尽くして戦う。
 毎回劇場版クラス、クオリティに胃もたれしそうな勝負回の連発を作画のギアを上げ続けることで乗り切る、異様なテンションが独自のグルーヴを生むが、甚爾と恵くんの等身大な人間バトル、灼熱が踊りつつも遊びの色があった漏瑚と宿儺の戦いとも、また違う大規模な破壊。
 渋谷事変に入ってから、丁寧に丁寧に積み上げられてきた美しい渋谷と、そこに確かに息づく人間の営みが、なんの価値もないと崩壊していく痛ましさと……後ろめたい快楽。
 こんだけの大破壊を積み上げれば、呪術を秘匿して成立していた日本社会の屋台骨は大きく歪むし、体を勝手に使われた立場とはいえ虎杖くんの心も、めちゃくちゃに軋む。
 かけがえない日常を守るために、己を殺し血まみれの奉仕を続けるダークヒーローの物語が、決定的に相転移してしまう瞬間の、突沸する異様なテンション。
 それが暴れ狂う作画の中、大変元気だった。

 同時にただ喜んでもいられない被害の大きさ、取り返しのつかなさも随所に埋め込まれて、楽しんでいいのか悼んでいいのか、心の置きどころがわかんない気持ちよさのある回だった。
 長かったハロウィンが終わり、呪霊に侵されつつもなんとか形を保ってきたあの世界の当たり前は、不可逆に形を変えてしまう。
 その前にとにもかくにも”渋谷事変”の決着は付ける必要があり、この大惨事はまだその途中だ。
 顔と名前がある人も、そんなもん与えられないまま死んでいく人も、山と積み上がって狂った未来に届く臨界点は、まだまだ先だ。
 こんだけのことがあっても終わってくれない、物語の行き先に嵐のごとく飲み込まれて、流されていく気持ちよさ。
 どんだけ大事なものを人間が抱きしめても、その腕ごとすりつぶす運命の過酷さ。
 これから待っている幾つかの死を前に、”渋谷事変”の心臓がどんな色をして脈打っているか、顔面に叩きつけられるエピソードでした。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第41話より引用

 今回のエピソードは宿儺と魔虚羅、圧倒的な力を持った怪物二匹の衝突を、徹底的に追いかけ続ける。
 そのキャンバスとなる渋谷の街の描かれ方は、これまでとはまた違った味わいで美しく、このアニメが風景を見つめ描く鋭さにまた新しい1ページを加えていた。
 白紙にこそ色彩が映えるように、序盤の渋谷は血の赤だけが映えるモノトーンで描画されていく。
 その白けた闇は、恵くんが追い込まれた死地、魔人たちの庭となる渋谷がどんだけ”死んで”いるかを鮮烈に暴く。
 人で賑わう祝祭の色、当たり前に過ぎていく日常の灯りはもう遠くにあって、渋谷は静まり返って死んでしまった。
 そこにある色合いは血の赤だけで、暴力と死だけが支配する非日常だ。

 しかし宿儺と魔虚羅の激突はそんなまどろみを許さず、段々と虚無に色を生んでいく。
 激烈過ぎる衝突は電気配線を見出し、渋谷の街全体が狂ったように明滅を繰り返す中、段々と風景に色合いが戻ってきて、そこにまだいる命が描かれていく。
 怪物たちは命がけの遊びに、運悪く迷い込んだ蟻たちなど気にもとめず超越的な破壊を存分に撒き散らし、名もなき命を薪にして街が燃え、色づいていく。
 虚しく、恐ろしく思えた序盤のモノトーンに、狂った色合いが戻ってみると安心するどころかより悍ましく、色を取り戻すのではなく押し付けられる蹂躙の手応えが、街の描写に狂って宿る。
 その暴力的なおぞましさを、一瞬一瞬緩みなく、美しく書ききってしまう所に、このお話の……呪術師達が面々と守ってきた”日本の風景”を決定的に壊す、”渋谷事変”のパワーがある。

 

 第37話では社会的・工業的デザインの極限、過剰で適切な意味に満ちた人間の領域としての渋谷駅に限定して展開していた闘争は、109周辺を抉り取りながら展開していく。
 虎杖くんが人間としての意識を保ったまま、人間が人間であれる世界を守るために戦っていたスケール感と、そこで乱される圧縮された意味論は、今回より野蛮に、より大きく揺るがされていく。
 宿儺は虎杖くんが大事にしたかったものを何一つ顧みないし、自動的で圧倒的な呪的災害である魔虚羅に、価値を決めうる意思は存在しない。
 虚しいモノトーンに、鮮烈な命の飛沫に、狂って踊る色彩に、徹底的に”渋谷”が蹂躙される様を、なすすべもなく見ている虎杖くんの視界と、僕らが戦いを見る視線はおぞましく重なり合っていく。

 そして炎が全てを焼き尽くして、何もかもが終わり尽くした虚無が戻ってくる。
 虎杖くんの体を使って生まれた数多の命の蹂躙は、そこかしこに残骸を残して何も生み出すことはなく、彼に事実を告げてくる。
 お前は、最悪の人殺しだ。
 白黒に赤が添えられた色合いは冒頭と同じだが、あの時は恵くんに迫る死が画面の真ん中にあったのに対し、話が終わるこのタイミングでは虎杖くん(の形をした災厄)が生み出した死が、渋谷を更地に変えている。
 文明の退廃、日常の安らぎを夜景に反射した大都会東京に、ポッカリと空いた虚無の穴。
 それが虎杖悠仁の胸に開けられた、己を終わらせたいほどの後悔と絶望の色なのだということを、このエピソードが描いた都市の情景は上手く語る。
 どれだけ激しく美しくとも、圧倒的な作画力によるカタルシスに満ちても、破壊は破壊だ。
 あとに残るのは灰色の虚無、ぽっかり空いた伽藍堂のみ、何も生み出さない。
 宿儺の圧倒的過ぎる暴力に、ともすれば爽快さを感じてしまいそうな観客の顔面に、大変正しく冷水ぶっかけるモノトーンへの帰還は、凄く良かった。
 どれだけ圧倒的であっても、肯定しちゃいけないものってのは確かにあるもんだ。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第41話より引用

 そして『でもさぁ……それって圧倒的にぶっちぎりですよね~~~~』ってことを、凄まじいテンションで長尺駆け抜けるバトルシーンが、全力で殴りつけてくる回でもある。
 いやー、凄かった……。(幾度目かの感想)
 何しろ作中日本社会の形が根っこからひっくり返される大事件、どんだけの気合と迫力で挑んでもやり過ぎってことはないんだが、毎回”やり過ぎ”が更新され続けていくアニメ渋谷事件のテンション、やっぱどっかおかしいってマジ!

 漏瑚が触れることすら出来なかった宿儺に本気を出させ、圧倒的な斬撃を学習し数多の殺し手に対応し変化していく魔虚羅の凄みを、色んな見せ方がワワワっと押し寄せるアニメートの迫力で教えてくる作画、問答無用の迫力でございました。
 二人の激突の余波でぶっ飛ばされていく渋谷に、崩壊の快楽を確かに感じつつも、そこにまだ人間がいて、ビル一個ぶっ潰れ、車一個ぶん投げられるごとに人が死んでんだという事実を、忘れずねじ込む意地の悪さが誠実でいい。
 人間がいる場所ではモノトーンが薄らいで、生き残る力もないけど確かに生きてて、生きようと願ってる人たちがそこに息づいていることを教えるわけだが、それはなんの救いにもならないままあっけなく踏み潰されて、命が消えていく。
 暴虐の乗り物に貶められた虎杖くんにとって、それは『俺がやってること』になってしまうわけで、冒頭じーちゃんに告げられた祝福≒呪いを人生の支えにしているy彼にとって、この破壊はあまりに辛すぎるだろう。

 強いということの意味と無意味を、宿儺が撒き散らす圧倒的な破壊は良く教える。
 どんだけ許せなくても宿儺を止める手段はなく、思うがまま楽しそうに暴れて街が壊れ、人が死んでいく。
 宿儺は強い。
 群れる必要すらなく圧倒的な個としての暴力、災害めいたエゴイズムは、何も生み出すことなく虚しい。
 それを”虚しい”と感じてしまうことが弱者の証明なのだと、呪的マチズモの頂点に君臨する宿儺なら嘲るのだろうけども、何もかも切り刻む颶風が否定しようもなくそこにあってしまうように、人生や存在に意味があってほしいと願う人間の宿願も、また常にそこにある。
 虚無と無限がお互いをかき消すわけでも、両立し融和するでもなく併存してしまっている世界の矛盾が、祈りを呪いに変えて呪いを生み出すのだとしたら、この崩壊していく渋谷の有り様は、呪術世界の本質を切開する暴力的術式、その最前線に違いない。

 この荒れ狂う暴力が、なすすすべのない無力が、あるがまま世界の実相だとしたら、どれだけ世界は呪われているのか。
 宿儺はそんなふうに嘆いたりすることなく、楽しそうに強敵相手に力を奮い、謀略を編んで伏黒くんを助ける。
 迷いも揺らぎもない強者の生き方は、なんの救いもなく個体で完結し、発展性がない。
 なくても良いと、宿儺は多分廃墟で嘯くだろう。
 ……やっぱ、許しちゃいけねぇな。

 

 

 

 

画像は”呪術廻戦・渋谷事変”第41話より引用

 渋谷の街とたくさんの命を飲み込んで、災厄は満足げな嘲笑を浮かべて消える。
 宿儺最後の笑みが呪紋とともに消え去って、生み出された惨劇が欠片も笑えない少年の背中にのしかかる瞬間の、個人的で重たいカタルシス
 渋谷の街をド派手にぶっ壊した対外的破壊より、ともすれば虎杖くんの心を抉るこの瞬間こそが、一番痛いってのがまぁ、性格悪くて腕がいい演出だと思う。

 残された少年の悔恨は、虚無に真っ赤な血の跡を残して激しく、何もなかったコトになどなってはくれない。
 沢山人が死に、意味に満ちた人間たちの空間は砕け散り、無秩序な混沌と何もない虚無が、大都市だった場所を埋めている。
 それを他ならぬ自分が生み出したのだと、真っ向から受けてしまうところが虎杖くんの誠実さであるし、強さであるし、悲しさでもあろう。

 双子の首を刎ね、渋谷駅に深い傷を刻んだ一撃は、呪いの主が消え去っても残る。
 自分の体がしでかしてしまった惨劇に、少しでも報いるために瞳に虚無を宿して、少年漫画の主人公が立つ。
 その幽鬼の足取りに重なるように、髑髏の面相に焼けただれた七海健人最後の逍遥が、最後に描かれる。
 あれだけの強さで、あれだけの正しさで戦ってくれた男が、この顔相を晒すのが”渋谷事変”というものであり、この悲惨は終わりなどではけしてなく、さらなる地獄の一歩目でしか無い。
 それでも、物語は続く。
 次回も楽しみだ。