イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

葬送のフリーレン:第12話『本物の勇者』感想

 雪解けとともに新たに蘇る、勇者の真実と戦士の記憶。
 剣握る者の行ないの真偽を分けるのは、一体何か。
 未だ寒さ残る北方諸国に微かで確かな変化の兆しを見る、フリーレンアニメ第12話である。
 バトル少なめ……あってもバキバキに仕上がった人類最強クラスが余裕で無双ブッ込むな運びで、ヒンメルとシュタルク、二人の剣士を主役に据えた心地よい短編を綴る回である。
 あんだけ力注ぎ込んでアクションしつつ、あくまでそこが主眼ではなくそれをする人間重点な話運びは、やはり見ていて肌に合う。

 Aパートは勇者ヒンメル80年目の真実を描き、時と共に風化し変質していくものと、確かに継がれ変わらないものを削り出していく。
 シームレスな回想シーンの多様で、時を自在に行き来するこの作品、既にヒンメルが偉業を成し遂げ”勇者”になった事実、それ以上に大事な人の魂を変えて救った事実は確定している。
 80年の時が過ぎ、多数の虚飾と実利が張り付いた”物語”になった勇者ヒンメルの伝説にとって、剣を抜けなかった現実は余計な逸話だ。
 大した期待も資金も与えられず旅立ち、下らないこと沢山積み重ねながら一緒に過ごしたヒンメルたちの10年が、フリーレンに手渡した人間的な手触りは、時の流れの中で忘却され、あるいは過剰に美化され利用されていく。

 フリーレンがいつもどおり淡々と、そんな時の移ろいにため息一つ文句も言わず、現実と事実と真実の間に生まれる軋み、その結晶たる魔獣を処理していたのは、とても彼女らしい姿だった。
 祖母の代から教えを引き継ぎ、里の暮らしを脅かす魔獣を討ち果たして貰って、いつともしれない再会を飄々と待つ里長の少女も、どこかフリーレンと似た姿勢で勇者の真実と向き合っている。
 これから先、移ろいやすい人の世の中で勇者ヒンメルの伝説は否応なくさらなる変質を遂げていくわけだが、その無常に拘泥するのではなく、勇者の剣を抜けなかったヒンメルにとって何が一番大事だったのか、自分たちが覚えていればそれでいいのだと、湿り気の少ない視線を向け続ける姿勢。
 この淡々とした味わいは、ここまで紡がれてきた作品のトーンそのものと響き合って、なかなか奥行きのある逸話だった。
 フェルンとシュタルク、若い世代の二人が今回の事件を通じて勇者の真実を知り、ある種の共犯者になったのも、大きなうねりが取りこぼしてしまうものを守りて渡す、フリーレンの旅らしい風景だったと思う。
 大魔族倒したり街救ったりしているが、あくまで旅の道連れってスケールを外れることなく個人の心情、記憶、生活を大事にしていて、そこにコンパクトに収めるからこそ真実大事にできるものを書いてる手応え。
 それは、Bパートにも引き継がれていく。

 

 アイゼンが旅の中、何よりの宝物と見つけた”下らなさ”満載で、シュタルクの誕生日を巡る物語がスケッチされていく。
 服だけ溶かす薬だの、な~んも機微解ってないくせにドヤ顔のボケエルフだの、ぷっくら膨れ顔の輪郭がマフラーで隠れてなお可愛いだの、破壊力満点の『えっち』だの。
 三人の旅がどんなふうに転がっているのか、間近に教えてくれるような暖かな描写の合間に、シュタルクは凄く冷たく痛ましい記憶を掘り返していく。
 失敗作と嘲られ、家族を見捨てて逃げ延びた過去。
 その重たい鎖が臆病な自分を縛り付けて、どれだけ超人的な力量を手に入れても、戦士の背筋を伸ばさない。

 フェルンと街を歩き回る中で、シュタルクは自分が誰に愛され何を託されたかを思い出していく。
 それはなにより得難い誕生日プレゼントであり、後悔と自虐に満ちた自分を新たに生まれ直させる、新生の兆しである。
 シュタルクはフェルンに自分の過去を語り、今心を支配している恐れを差し出すことで、未来に進み出せる新しい己と出会うわけだが、それは過去を再解釈すること……見落としていたことを思い出すことで為されていく。
 回想シーンにおける兄の描写は相当客観的で、一族の誇りであるはずの純白のマントが、出来損ないな弟に泥で汚されても、彼は嫌な顔ひとつしない。
 弟の稽古に付き合うために膝を曲げ、マントを泥に汚す兄は、確かに不出来な(と、自分以外の全てが切り捨てた)弟を愛していた。

 それは客観的な事実のはずだが、『一家皆殺しの果てに逃走』という過酷過ぎる記憶に目を塞がれて、兄がどんな顔で自分に向き合ってくれたのか、末期に何を託して守ってくれたのかを、シュタルクは思い出すことが出来ない。
 それは凝り固まった心のかさぶたを、愛していたからこそ流れた赤い血の証を、一緒に引っ剥がしてくれる誰かがいなければ開放されない、重たい荷物だ。
 フェルンにとってシュタルクという青年は、そういう手間をかけて人生の一部分背負うに足りる相手であるし、シュタルクにとってフェルンという少女は、そういう心の切開手術を預けられるだけの、信頼と親愛に足りる存在だというのが、今回のふれあいから見えてくる。
 『命がけの修羅場くぐり抜けてんだから、そんなのあったりまえじゃん!』と思わなくもないが、しかし彼らを紐帯させるものは苛烈な戦いだけではなく……むしろ穏やかで下らない日常の共有にこそ、あるのだろうなと思えるエピソードだ。

 

 バカでガキでビビリで、シリアスな傷など心にも体にも受けないように思えるシュタルクだって、当然人間だ。
 というか人間一般でも相当悲惨な経験を経た上で、あのアホっぷりなのだから、鈍感というよりは強靭で、無痛というよりは繊細なのだろう。
 後悔も絶望も数多あるけど、手を引いて未来へ進ませてくれた仲間を……そんな仲間が信じる自分をちょっとでも信じながら、明日の方に斧を振るうことを選ぶ。
 そうした時点で、シュタルクが今回思い出した”誕生日プレゼント”を手に入れることは既定路線で、でもそれは、ポンコツお師匠様とヘンテコ魔法使いが旅の仲間として、一緒に生きてくれてるからこそ掴めた奇跡だ。

 痛みと後悔の中で、愛された記憶を忘れてしまうことほど寂しいこともない。
 思い出した所で兄が復活するわけでも、家族が戻ってくるわけでもないが、しかし確かに兄は泥に汚れることを厭わなかったと、自分を抱きしめてくれたのだと、逃げ出したのではなく送り出されたのだと、見捨てられたのではなく守られていたのだと、現実と思い込んでいたものを書き換えることはできる。
 その記憶にシュタルクが支配されたまま生きることは、弟の幸せを誰より臨んだ兄の遺志が果たされないこと……真の意味で兄が死ぬことだったろうし、そういう意味ではフェルンは復活の魔法を、今回確かに使ったのだ。

 

 葬送を主題とするこのお話において、死者の魂がどこにあるのかは実は明瞭には描かれない。
 死ねば全てが終わりなのだという、冷たく魔族的な”現実”を生死の真実にしてしまった時、何が取りこぼされ消えていくかを幾度も書いた上で、死の超越は生きる側の記憶と再生にこそあると書き続けている。
 不滅の魂があろうと、なかろうと。
 瞬きのように移ろう、非情に理不尽に愛するものが失われていく世界の中で、それでも確かに美しいものがあったのだと覚えていること、思い出すことこそが、死者を正しく送り、生かすことなのだと、ずっと書いているように思う。
 今回シュタルクが兄の愛を思い出し、惨めに逃げ出した敗残者ではなく愛され戦ってきた戦士として自分を蘇らせたこと、そのためのかけがえない手助けをフェルンが果たしたことも、数多ある”葬送”の一つなのだと僕は思う。

 兄も好機で優しい愛を、一族唯一の生存者であるシュタルクが思い出せたことは正しいことで、対外的にも社会的にも十分な、意味や価値を持つ。
 でもそれ以上に、苦しい記憶に苛まれて自分を誇ることが出来ない、愛されなかったのだと自分を追い込んで生きてきた少年が、そうじゃなかったんだと思いだして、楽になれたのが良かったなと思った。
 そうして自分のことを好きになれる自分を、自分を好きになってくれた人から手渡してもらうことで、シュタルクはそういう人を、世界を、もっと強く守れるようになるだろうから。
 それは彼自身がそうなりたいと、ずっと願っている理想の体現であり、兄が期待し末期に願った、弟の幸福と同じ形をしているだろうから。
 そういう風に、思い出し受け継ぎ活かしていくことで死者は死を超えていくし、こういう形でしかこのお話における”復活”は無い気もしている。

 フリーレンもまた、ヒンメルから何を継いだのかその死に瀕して思い出すことで、人生という旅の行く先を大きく変えた。
 大ボケ師匠に見守られながら掴み取った、誕生日の贈り物を胸に抱えることで、シュタルクは永遠を生きるエルフと共通の足場を、一つ手に入れたことになる。
 フリーレンとともに進み、これからも長く続く旅にどんな意味があるのか、魂の奥底でしっかり理解できるようになったという意味でも、今回のお話はシュタルクにとって(そして彼が好きな僕にとって)喜ばしいものだった。
 戦士と魔法使い、人間とエルフ、バカと賢者、子供と大人。
 いくらでも数えられる差異を乗り越えて、それぞれ別の人に愛された記憶を足場に旅を続けているのだという共通点が、二人を繋げているのはとても綺麗だ。
 バラバラに思える私達、死と時に引き裂かれていく私達を繋ぐのは、やっぱりそういうものだろうから。

 

 そんな感じの、終わった勇者の物語の秘された真実と、これから伝説になっていく少年の新たな再生でした。
 過去と現在の物理職二人のお話が、こうして横並びに配置されて不思議な共鳴をしているのは、ショートでシャープな語り口が生んだ妙味で、なかなかに気持ちがいい。
 失われてしまったように思えるものも、思い出し蘇らせる手立てが世界にはあって、そのまばゆさの中でこそ、人は生きていく。
 旅はまだ続く。
 次回も楽しみです。