イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

うる星やつら:第26話『電飾の魔境』感想

 徒歩三分の大魔境、待ち受けるのは嫁取り原人!?
 奇っ怪なSFセンスと恋の駆け引きが混ざりあう、鋭くも奇妙な味わい溢れる令和うる星第26話である。

 一本繋ぎの長いエピソードでもって、何を書くかというとまぁトンチキ……ではある。
 遠い惑星の奇妙な風習と言われてもおかしくない、電気野菜はびこる大魔境。
 TV時代劇を祖父と言い張る、クレイジーな若者。
 かなりイカれた要素が並びつつも、異変になれきったあたる達はそこにはもはや突っ込まず、ダーリンをおちょくる恋愛遊戯のはずがガチで嫁取りされかけているラムを、追いかけ追いつきドタバタを繰り広げる。
 いつも通りのるーみっくわーるど……というには、ちと作品のフレームが綻びかける危うい瞬間がいくつかあって、だからこそ照らされる主役たちの本気があって、なかなかに味わい深いエピソードだった。
 真吾は露骨に降って湧いた当て馬なのだが、ここで生真面目に恋愛一直線やるのではなく、真顔で狂った電気ジャングルの王者(時代劇脳)という濃いめのキャラを投げ込み、シリアスになりすぎないさじ加減なのは面白い。
 あくまでいかにも”うる星”な、奇想に飲み込まれたクレイジー人間が求婚するからこそこの話はギリギリ洒落ですみ、永遠の追いかけっこが持つ危うさ、溢れかけた本気の恋情を後に引くことなく、一話で終わらせることも出来る。
 かなり精妙な物語的操作があってこそ、友引町に踊る永遠の狂騒は成り立っているのだし、『いつものうる星』を成り立たせるにはそういう微細な調整が必要なくらい、作品を載せる器がパンパンにもなってきてるな、という印象だ。
 それが無理でも背伸びでもなく、可能な限り長くこの愛しい夢を続けたいと挑み続ける、作家必死のもがきだと思えるところが、このお話の可愛げなのだと思う。

 

 さて、ガールハントに夢中なダーリンはラムとのデートに遅れていき、その間に電撃が効かない真吾はラムを自身の領域へ攫っていく。
 フラフラ捕まらないあたるを電気ビリビリ、嫉妬むき出しのラムちゃんが追いかけるという基本構図は、浮気を許容してくれるラムへの甘え、怒って逃げれば追いかけてくれるというあたるへの信頼が支えている。
 いつの間にか永遠の日常になった恋の追いかけっこが、ともすれば危ういことを自覚しているからラムは『盗まれる自分』を演じることでマンネリ回避のスパイスを足そうとするし、あたるも一時間の遅刻はマズイと真顔になったりする。
 当たり前に、ずっとそこにあるものが実は相当に脆くて、明文化されない(してしまえば、追いかけっこが終わる)ルールの中で成立していることに、あたるとラムは思いの外自覚的だ。

 この遊戯は、面堂筆頭に色んな男を夢中にする(からこそ、あたるが追い邪険にするだけの価値がある存在として成り立つ)ラムちゃんが、本気のアプローチを拒絶する暴力……電撃を有しているから成立する。
 極めて珍妙な電気野菜の設定は、これに慣れ親しんでいるからラムの電撃が通用しない真吾を、彼女に触れ、攫い、お嫁さんになった証としてセクシャルな関係に踏み込める存在として、作中に存在させるため……にもある。
 無論面堂家の裏庭に異常繁茂した、奇妙なジャングルに暮らす異常な蛮人という設定自体が面白いものだし、その魅力を十分以上に引っ張り出しながらお話は転がっていくわけだが、そこに”電気”が絡むのはラムの電撃を無力化し、ただの少女として彼女に向き合う資格を、真吾に与えるためだろうと思う。

 

 クラスの兵六玉どもが追いつけない(あたるだけがギャグ面で耐えられる)ビリビリに、真吾は平然と耐えてラムの手を握り、奇妙な恋の挑戦者としての資格を得る。
 この略取はダーリンをメラメラさせるためのお芝居であり、ラムは自分が恋(あるいは性)の対象として見初められたり、あるいは暴力的に奪われたりする可能性を、危うくも考えていない。
 狂っていながら純情な真吾にとって、繰り返される時代劇(箱の中に閉じ込められ、繰り返される時間)だけが生きるための指針であり、そこで演じられている(が、真吾にとっては唯一真実な)恋模様の相手として、本気でラムを求める。
 TV時代劇にしろサンデー連載のラブコメにしろ、夫婦がリアルにどういう行為をするのか描くことはなく、セックスは輪郭だけを挑発的に描いて踏み込まれないわけだが、真吾は結構マジにラムちゃんの肌に接近し、その手を取って押し倒そうとする。
 そこには真吾なりのリアリティがあり、ラムちゃん(と共犯者であるあたる)はそれを恋路の燃料として玩弄し、解りきった元サヤに新鮮に戻るための遊戯として、使い潰そうとしてしまう。

 『遊びだったのか? 俺を弄んだのか?』という、真吾の問いかけはもしこのお話が、電気ジャングルの中で狂人と戯れるコメディでなければ作品全体を曲げてしまうような、危うい重さに満ちている。
 ラムが真吾との”夫婦ごっこ”を通じて、自分に本気になってくれないダーリンを少し前のめりにさせようと画策したこと……うる星の当たり前である二人の追いかけっこが、時に他者を道具化してしまうことを、あの瞬間ラムは突きつけられる。
 しかしこのエピソードはあくまでコメディであり、コメディになるようにキャラも舞台も整えられて、あたるもラムも自分たちの追いかけっこが孕む危うさ、その奥にあるお互いの本気から、ギリギリ目を背けることが出来る。
 生真面目な顔をしてしまったら、笑いに満ちた狂騒の時間は終わるのだ。
 だから真吾は現実と隔絶されたイカレ人間でなければならないし、彼が住まう場所は日常と隣接しつつ超越した、面堂邸の電気ジャングルでなければいけない。

 

 そういう道具立てをしてまで、ラムとあたるの”うる星”追いかけっこがもつ加害性を、誰かを傷つけてまで遊びに変化をもたらしたい本気の色を、書きたかったから生まれたエピソードでもある。
 あたるは冒頭のガールハント、連れてしまった女の子とねんごろになるわけでもなし、友人に喫茶店の座席を譲っている。
 断られるのが当たり前、ラムの隣が俺の定位置と、同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う宇宙人との暮らしを位置づけているあたるにとって、玉砕覚悟の移り気こそが一つの遊戯であり、本気は別のところにある。
 これと向き合ってしまえばもう横道に外れることは出来ないほどの、高校生らしい純情が自分にあることをあたるはおちゃらけた態度の何処かで気づいていて、だからこそ浮気な外装でラムとの距離を作っている感じがある。
 アイツが俺に惚れていて、俺がアイツを翻弄して、時々攻守が入れ替わる。
 それでいいし、それがずっと続くのだという信頼と甘えは、電撃をものともしないもう一人の男が挟み込まれることで、かなり動揺する。
 動揺した上でラムちゃんに片腕を抱かれ、一緒に家に帰る”いつものうる星”に帰還するべく、あたるはかなりシリアスな顔で真吾と対決し、ラムを追いかけていく。

 それは永遠に繰り返される恋愛遊戯の中で、それでもダーリンに(自分と同じように)本気でいて欲しい、思いが釣り合っていて欲しいラムの気持ちが、結構本気だからこそ生まれる動揺だ。
 浮気なダーリンに電撃を浴びせかけ、気持ちを発散して元サヤに戻るスタンダードだけでは、維持できない心のゆらぎ。
 それを思い知ってもらおうと、夫婦を演じたラムの本意はあくまであたるにあり、真吾とは遊びでしかない。
 しかしそこらへんの呼吸を知らない、クラスでの日常から隔絶された(しかしすぐに侵入できる裏庭にいる)真吾にとって、それはマジもマジの大本気であった。
 あたるとの思いのアンバランスに挑戦しようとラムが選んだ遊戯は、狂ってるなりにラムに本気だった真吾に、お芝居の恋を押し付けるもう一つのアンバランスを生み出してしまう。
 これに直面した時、ラムちゃんがかなりシリアスに揺れ動いた表情を見せるのは、なかなかに面白い。
 永遠のギャグ時空にいるように見えて、そういう生々しい人間の顔をするときもあるのだと、時折作品が叫ばなければ腐ってしまう停滞と、こういう物語は常に隣り合わせなのだなと思わされる。

 

 真吾の狂気と純真は機械の祖父がぶっ壊れ、しのぶがその代用品たる生身の祖父と引き合わせることで、なんとか収まっていく。
 祖父のボケも放置された異常科学も、その犠牲たる真吾も冷静に考えると洒落になっていないが、それが洒落に収まるよう冷静にしないまま、笑いで押し切るのがコメディーの矜持であり技芸でもある。
 TV時代劇(に投射される、不在なる家族との絆)だけを己の導きとしていたからこそ、そこで示される家族規範、男女規範に忠実であるために、真吾はラムを嫁に取ろうとしていた。
 彼が本気なのはあくまで、祖父が期待するあるべき自分であり、青年になったからには恋をするものだという、TVから差し出される恋の外形だ。
 それでもなお本気で純粋であるところに、彼の可愛げと悲しみがあるのだが、ラムという個人に惹かれて盗んだわけではないので、本来収まる場所へと手を離し、自分も収まっていくことは出来る。

 真吾がラム個人に本気でないのなら、誰が他の誰でもないラムにぞっこん夢中なのか。
 それを示すためにこの騒動はあったし、そんなシンプルで分かりきってる真実を言葉にしないために、ラブコメディには”Comedy”の文字が挟まってもいる。
 永遠に時が進まない青春の夢を見ているようで、その繰り返しが思いの外危うく変化を求めることとか、そのためにはお互い言葉にしないルールを共有した遊戯が必要だとか、戯れには他者を巻き込み傷つける危険性があるとか、かなり自作への批評が強い視線が、揺るがずあるエピソードであった。
 ラムとあたるがお互いに本気で、その気持が釣り合ってしまっている状況に……Comedy抜きの”Love”と正面から向き合えば、追いかけっこは終わりだ。
 二人のゴールには、今回真吾が手を伸ばして届かなかった真摯な愛とか、その必然としての性とかが確かにあり、しかし追いかけっこはそこにたどり着いてしまってはいけない。
 それが語られるべきなのは話の終わりであり、今回はそうではないのだ。

 そうなったのは、真吾と彼のジャングルが笑劇として優秀な存在であり、ただただ面白かったからこそで、マジになりすぎて話が終わっちゃう危険に近づきつつも、まだまだ永遠の追いかけっこを続ける一つの戯れに、挑んだエピソードでもあった。
 そんな試みの燃料にされた真吾は、しかしその野放図なぶっ飛び加減、面白いキャラ立ちでもって、物語の犠牲にはけしてなっていない。
 本気で面白いものを作ろうと頑張り、実際に形にして見せる創作者の実力が、確かに友引町の裏庭に生きて、彼なりに恋し求めた一人の青年を、バカにせず語り切る行為を可能にしていたと思う。
 そういう本気は、確かにそこに在ってしまう愛しい嘘っぱちを物語る上で、とても大事なことだろう。
 そういうモノを感じ取れて、とても良いエピソードだった。
 次回も楽しみだ。