イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ダンジョン飯:第4話『キャベツ煮/オーク』感想

 畑仕事に過酷な歴史。
 実際手を動かし身近に触れてみなければ、分からぬことは山程ある!
 生きるか死ぬかの瀬戸際で、生まれる学びと縁を食卓に描く、ダンジョン飯アニメ第4話である。

 ポップで楽しいグルメRPGネタで、視聴者を迷宮に引きずり込むフェイズも落ち着き第三層。
 地上に生きていられない連中の避難所という側面も持つダンジョンの、新たな顔が見えてくるエピソードとなった。
 ゴーレムを畑として活用するダンジョン・ネイチャリストなセンシを仲間に加えて、刹那的な快楽と一瞬の栄達を求めてダンジョンに入り浸る連中とは、ちょっと違う視点に立ちつつあるライオス達。
 育てて食って出して、簒奪するだけでは終わらない一つのサイクルに自分を置いているはみ出し者の迷宮管理人の隣で、ギャーギャーやかましいエルフの小娘もつやつやキャベツに愛着を持つ。
 流されるまま冒険者稼業を続けてきたライオスも、追い立てられた被差別民の歴史を間近に聞いて、旅の果てに何を願うかを考え出しもする。
 ”狂乱の魔術師”というラスボスを倒せば、古代の遺産全てを手に入れ王になれる冒険が、その舞台たる迷宮が、一体どんな意味を持つのか。
 そこに根を下ろして生きる……生きるしか無い存在の今を描く中で、遠い未来に少し目が行く回であった。

 

 街に馴染めぬセンシは酒場に吹き溜まるロクデナシとは、ちょっと違った視点でダンジョンを捉えている。
 日々の糧にこだわり、健康に留意しながら時に農作業、時にし尿の処理に勤しむ彼にとって、迷宮は汗の染み込んだ生活空間であり、愛情を持って育むべき場所だ。
 寝泊まりしないキャンプ地が、良く整頓され清潔だったことに、センシが己が身を置く環境をどう整えたいのか、良く見える気がした。
 整理整頓の行き届いた私邸(というには、安らぎから遠い危険な隠れ家ではあるが)と同じように、センシは自分が足を運ぶダンジョンを良く整った、循環が成り立つ場所にしたくて、しかし彼をはじき出しつつ一部に乗り込んでいる迷宮経済は、金剥ぎに代表される後先見ない簒奪で成立している。
 迷宮をこそ安住の地と見定め、ゴーレムの背中に畑を作るセンシは、生き様と精神性において地上からはじき出されたアウトサイダーであり、種族全体が人間中心社会と敵対しているオークとは、そのメンタリティにおいて通じ合うものがあるのだろう。

 地上の生活に馴染んだマルシルはゴーレム野菜を最初は拒み、『ゴーレム=使役されるもの、倒すもの』という地上のスタンダードから、なかなか離れられない。
 しかし食って出したものが肥料となり、次なる糧を育むサイクル自体はチルチャックがいうように、地上でも当たり前に回って人間の暮らしを支えている。
 相当な変わり者(マイルドな表現)であるセンシやライオスが、ダンジョンでこそ生き生きし地上に馴染めない理由を示す上で、マルシルが常識に囚われギャーギャーやかましいのは、結構大事なことだなと思わされる回でもある。
 ここら辺、地上では定説になっているだろうオーク=蛮族説にこだわり、どっちもどっちな主張と因縁のぶつけ合いをマルシルが担当するのは、納得の行く役割分担である。
 冒険者のフツーがねじ曲がるからこそ、不思議な痛快さが生まれる物語において、そのフツーにしがみつく頑固者がいてこそ、生まれる変化は鮮明になるのだ。

 

 迷宮にしか居場所がないアウトサイダーという意味では、地下酒場に集うゴロツキ共も同じようなものだが、彼らは自分をはじき出した地上の論理をそのまま地下に持ち込み、”小地上”とでもいうべき空間を、酒場に展開している。
 そこではオークとの血みどろの歴史も継続されていて、野菜で払うの払わないの、銭金を斎場の価値とする地上主義が剣の切っ先でぶっ壊されて、ライオス達は迷宮を己の生活空間と定めた、流離いの民と膝を突き合わせる。
 ただただパンが作りたいだけの異常者が媒となり、迷宮で殺し殺されするモンスターではなく、家を作り家畜を飼い家族と暮らす、”人間”としてのオークの在り方に、否応なく直面することになる。
 一般的なファンタジー像では”モンスター”にくくられてしまうオークが、独自の歴史と文化を持ち、だからといって人間と仲良く隣り合えるわけではない他者として描かれているのは、このお話らしいシャープな描線だろう。

 彼らを迷宮の果てに追い込むだけの、衝突の歴史が地上にはあり、酒場の冒険者達(とマルシル)はそれを背負って、いがみ合い殺し合いを続けてきた。
 ダンジョンは地上の厄介事やルールから離れた別天地ではけしてなく、拝金主義や民族差別なんかも引き継いで展開している現状が、パンを作る地道な作業の中で積み上がっていく。
 これが殺し合いにならないのが、地道ながら根気のいるパン作りが間に挟まって、怒っていてもお腹が空くばかりな人間の現実を、愉快に反射しているからなのは、大変に面白い。
 どんな歴史と因縁を背負っていても、腹が減るのは皆同じ。
 なら一緒に美味しいものを食べたほうが、実りも多いんじゃないの? ……という、素朴で実直な生活主義が、作品の背骨として生きている手応えがある。

 酒場の冒険者と同じく、オークもまた地上のしがらみを捨てきれぬままダンジョンに暮らしているが、パン作りに魅了されたセンシや、無垢な子どもはそれには囚われない。
 彼らの自由で率直な考えが間を取り持つ形で、いがみ合っていたオークとエルフは同じ釜の飯を食い、オーク風のスパイシーな味付けのキャベツに舌鼓をうつ。
 それは一つの文化であり、口にしてしまえばもう、相手を話が通じない”敵”と見るには難しくなる。
 畑仕事の苦労を通じて初めて、新鮮野菜のありがたみに気づいたように、実際に汗と胃液で身近に触れてみなければ分からないことは沢山あり、マルシルの”常識”も奇妙な冒険の中で、ゆっくりと溶けていく。
 トンチキ愉快な冒険絵巻の中に、こういう人間的変化がじわりじわり刻まれている巧妙さが、やはり良い。

 

 変化はライオスの中にも刻まれていて、な~んも考えず迷宮潜っていた青年は、オークに問われる中で自分の道を考え始める。
 魔物キチガイなりに本気で向き合っている、妹復活のそもそもの原因……赤い火竜がオークの集落を押しつぶし、人間と生活圏が触れ合った結果こういう現状になっているという、無縁に思えた所に不思議な縁が見えたのも、深慮の一員だろうか。
 センシがその一員となって成立させている、ダンジョンという生態系……あるいは社会。
 火竜が起きたから妹が食われ、オークの集落が潰され、自分たちは魔物を食いながら深層を目指し、オークは普段顔を出さない階層で略奪交えてギリギリ、生活を成り立たせている。
 全容定かならぬ迷宮にも、ただ戦って殺す以外の生活があって、しかしそれは安楽に保証されているものではない。
 それぞれ事情と思惑は違えど、迷宮の中で色んな存在が生きているのだ。

 その謎を解き迷宮を踏破した末には、ライオスは”王”となる。
 人々の上に立ち、また人の輪の中心に座り、自分の望む未来を誰かの生活と隣接させる、責任と夢のある立場に、否応なくなってしまう……らしい。
 流されるように冒険者やってきたライオスには、そんな未来は縁遠いものだったが、今回オークが背負う歴史と文化に触れ、かすかな灯火が心に生まれもした。
 前回の魔物キチっぷりをみるだに、どう考えても人間と上手くやる能力に欠けている大奇人が、今後迷宮の奥深くへ切り込む中で何と出会い、どんな”王”へと己を育てていくのか。
 作品の背筋を伸ばす大きなテーマが、一つ提示された回でもあるか。
 そういう大きなものに、美味そうな飯とオークなりの幸せそうな日常の手触りを、親しげに手渡す語り口はやっぱり、優れているし良いもんだなと思った。

 

 というわけで、迷宮内部に確かに存在している生活と文化、循環するサイクルに目を向けるエピソードでした。
 俺はオーク達が危険な迷宮で暮らす自分たちを、可哀想な被害者と考えていない所がとても好きだ。
 地上に構築されている人間とは、違う価値観や文化を育みながらも、逞しく生き延び新たな世代を守っている彼らの生活は、独自のスパイスが効いてて”美味そう”だ。
 そういう蛮族(呼ばわりされている、独自の尊厳を持った他者)の生き様を、大事に個別に削り出して楽しく見せてくれるお話は、やはり面白い。

 奇妙な遭遇を幸せな食卓に繋ぎ、火竜に繋がる道を開いたライオス一行。
 迷宮から金ピカの富を吸い上げる寄生虫ではなく、より身のある何かを学び取る生活者としての足取りを、刻みながら旅は続く。
 迷宮共存者としてのセンシの生き方にも、少し深く踏み込んで次回、どんな戦いと食事が待っているのか。
 次回も楽しみです。