イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

葬送のフリーレン:第25話『致命的な隙』感想

 時代は雷光の如く、一瞬激しく瞬いて不死者達を追い越す。
 最も深き迷宮の底、一千年前に見た夕暮れが死地に去来する、フリーレンアニメ第25話である。

 最強厄介な大魔術師が道を塞ぐ中、重要情報抱えた連中がぞろぞろ集ってきて遂に、複製体フリーレン攻略というお話である。
 一番間近にフリーレンを観察してきたからこそ、本人が隠し周囲が気付かない意外な隙に目が行き、師匠直伝の最速力押しで決定打を担うフェルンの特別さが、相変わらず穏やかな話運びの中で眩しい回である。
 最強の魔術師を殺す栄誉は、最強の魔術師当人が状況解析と必殺技のお膳立てを担当するからこそ成り立つという、なかなか面白くねじれた状況ではあるが、フリーレンは自分が乗り越えられる瞬間を心の底から楽しみ、かつて師匠の師匠が語っていた時の流れを、暗い死地に思い出す。
 一千年の時を経て、あの時破り捨てた願いを今更叶えるように魔法協会のトップに座っているゼーリエが、悪様を装いつつどれだけ、その最初の弟子を敬愛していたのか。
 時の定めから遠く隔てられ、人の世を変えることが出来ない永生者の寂しさを、時代を塗り替え駆け抜けていった愛しき流れ星が照らした先に、まだ続いている未来。
 ゼーリエ-フランメ、フランメ-フリーレン、フリーレン-フェルンという、師弟≒親子関係を重ね合わせながら、一瞬と永遠の幸せな蜜月が、激戦と懐旧にそれぞれ光るようなお話だった。

 

 回想と現代がシームレスに、併走しながら絡み合って話が進んでいくってのは、この物語のスタンダードである。
 自分を殺せると豪語するフェルンをむしろ頼もしく、そのお膳立てに喜んで奔走するフリーレンの姿は、自分に成し遂げられない偉業を果たしてあっという間に死んでいったフランメへ、ゼーリエが向き合う姿勢とどこか重なっている。
 ただ、花に満ちた安らかな奇跡が欲しいと願った子供は人類社会に”魔法”という選択肢を生み出し、ただ魔族に蹂躙されるだけだった社会の形を変え、一千年後勇者が成し遂げる異形の礎を、確かに作った。
 永生者が独占するものだった魔法はフランメの行い……彼女に夢の手ほどきを与えたゼーリエによって解体され、拡散し、魔族に抵抗するための人類の牙になっていく。
 ゼーリエが強めのツンで愛しく見つめる、閃光の如く激しく駆け抜けていく人々の営みは、確かに積み重なってヒンメルの勝利へと繋がり、それが思い出の果てに消え去ってもなお、人は魔法を使い魔族と戦い続けている。
 フリーレンとゼーリエ、二人の永生者を時の観測者として配置することで、夢と希望と不屈に満ちた魔法文明史が激戦の中、その姿を鮮明にしていくのは面白い。

 なにしろ歴史に名を刻むレベルの英雄ばかりだから、ゼーリエ一門が見据えるモノは社会とか運命とか種族とか、とにかくネタが大きくなりがちだ。
 しかし底にはあくまで個人としての情があって、強い言葉で距離を取ることでしか、愛しい存在が虚しく消えていく定めと戦えない、絶対者ゼーリエの哀しみが匂う。
 人と同じ歩幅で歩けない永生者の定めを疎み、また絶大な誇りを持って抱きしめ、時代が変わり魔王が倒される助けとなりつつも、自身は勇者なり得なかった大魔道士。
 愛嬌満載で身近に寄り添うフリーレン式とは違っていても、彼女は彼女なりに愛弟子を愛していて、置いていかれる寂しさと成し遂げた奇跡両方を噛み締めながら、夕日の森に幻を見る。
 ただ、美しい夢としての魔法。
 魔王が倒され、栄達と殺傷の技芸として魔法が扱われる時代になって世界の表側に顔出して、ロマン重点で魔法協会代表やっている彼女がそう生きることで、何を大事にしたいのか。
 じんわりとながら、確かに見えてくるエピソードである。

 

 ゼーリエとフランメの縁が夕景に眩しいほど、フランメとフリーレンとの間にあるものも、より眩く照らされる。
 すごく印象に残る形で描かれた『花畑を作る魔法』が、フリーレンとヒンメルだけに宿る奇跡ではなく、かつて彼女の師匠が夢見た平和の象徴であり、それを継いで魔王打倒を成し遂げた系譜を、改めて感じることが出来た。
 ド派手な大破壊を部屋中撒き散らし、”魔王”という形容がピッタリ来る本気フリーレン(複製)の暴れっぷりが激しいほどに、それを師弟の絆と確かな実力で乗り越えていくフェルンの頼もしさは、より際立つわけだが。
 ゾルトラークがあって当たり前、クヴァール革命以降の時代を生きる新世代代表だからこそ、フェルンは最強の切り札足り得る。
 そうやって継承されていくものは、与えたものの手を離れてあっという間に追い抜いて、瞬くように消えて、偉大な足跡が眩しく輝き続ける。
 そこにある一瞬と永遠のダンスを、ヒンメルの生と死に直面したことでフリーレンは抱きしめられるようになって、痛みも苦しみも共に愛しいと、己の永生を呪わずにすむようになったのだろう。

 美しすぎる光の中で、師匠の師匠と語らった言葉の本当の意味をフリーレンが解るまで、エルフらしく長い時間がかかった。
 魔王を倒し分かれた後、ヒンメルが老いさらばえて死ぬまで分からなかったものを、自身の死をもって教えて、永遠の少女の永遠になってしまった青年。
 後悔を取り戻すことは出来ないとしても、そこに確かに在ったものの意味を考え直す時間と、そこから新たに進み直す時間はエルフには無限にあって、人間からしたらあまりにゆったりした歩調だが、ゼーリエもフリーレンも、愛する人の屍の先に続く未来を、彼女たちなり考える。
 それは無情な事実を飛び超えて、過去が活き活きと蘇り未来と希望が瞬く生き方であり、幻想や理想が面白くもない現実を超越して何かを成し遂げうるという、ロマンティシズムの極みだ。
 『死や時間を夢や理想は超越しうるし、例え道半ばに打倒されるとしても継がれるものはある』つうのは、選び取った表現自体が時を超えがちなこのお話において、物語の真ん中にある視線なんだと思う。
 そうして継承される人間の一番大事なもの……魔族と人を分けるものを、冷たい理想にしないためにも、師弟が親子の質感をも宿す女系魔術師の系譜を描くのは、結構大事なんだろうな。

 

 結局デンケンが言っていたように、生存者の総力を束ねて最強の二人に託す形で、玄室に立ちはだかる魔王攻略に挑んでいるのが、なかなかに面白いけど。
 とにかく複製体が強すぎヤバすぎで、脱出ゴーレムなかったら一次試験なんて目じゃない凄惨さが漂っていただろうから、ゼンゼの”人道主義”は正しいんだろうなぁ、と思う。
 魔王が倒され、対魔族から対人にシフトした現代魔術戦を描くなら本気の殺し合いしてもらわなきゃいけないけども、極めて人間的なメインキャラクターが血に狂うわけないし後味悪いし、さてどうするか……て煩悶の末、生まれた鏡合わせの死闘なんだろう。
 おかげで本気出したフリーレンがどんだけインチキか、良く分かるド派手な大暴れも見れるわけだが、こんな怪獣相手にするならそらー、デンケンも即時リタイヤ視野に入れるわなぁ……。
 『魔力感知を忘れる』という初歩的に過ぎる隙もそうなんだが、相手の力量を適切に測る眼力が一番大事で強いっていう、観察力ベースの世界律で動いている話よね。

 エルフも見る/見据える/看取るという、時代全体を見つめる視力に優れた存在として今回描かれていたわけだけど、それを生み出す終わらぬ命こそが、人生を燃やして時代を書き換える人の特別さから、彼女たちを遠ざけてもいる。
 そこで諦観に飲まれてしまえば、数を減らしつつある同族と同じ道を歩くわけで、自分を追い越していった愛しさを眩しく見つめつつ、ゼーリエもフリーレンも前へ進むことに貪欲だ。
 あるいはえいえいの中を一瞬瞬いた、綺羅星のような奇跡の出会いがあったればこそ、他のエルフのように永遠に飲み込まれず、性格ひん曲がったオモシロ永生者として、人類史に関わり続けれるのかもしれないが。
 『人間って……オモシロ!』とフリーレンが思い続けれる、結構大事な部分をフェルンが担っていて、それはただ善い子だからではなくて、師すら屠れる圧倒的な実力を備えた上で、正しく使う”眼”が育ってきてるから……って話でもある。
 今回フェルンが見せた逞しさ、自分を殺しうる可能性に師匠が満足そうなのは、そういう眼力を育てるべく色々教えて、実を結んだ嬉しさがあるからなのだろう。
 それには多分、立派に生ききって終わっていった愛弟子の遺言を、受け取ったゼーリエと同じ温もりと眩しさがある。
 俺はそういう光を、優しくも鮮烈に書いてくれるから、このお話が好きだ。

 

 というわけで激しいインチキ魔術師攻略戦と併走して、時代と情が交わる炎(フランメ)の温もりを描く回でした。
 シームレスに回想を挟むことで、現代起こっている物語とは全く別のトーン、別の視点から同じものを見据えて、テーマを立体視していくつう作風が、素晴らしいアニメーションに支えられて元気でした。
 全く別物が挿入されているようでいて、根っこで確かに繋がっていると解る構図が、ゼーリエとフランメ、フリーレンとフェルンつう二組の魔法親子の在り方を、優しく照らしているの良かったね。

 さて放たれた必殺のゾルトラークは、鏡写しの英雄を見事に射抜くのか!
 まだまだ続く二次試験、次回も楽しみです!!