イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

うる星やつら:第33話『あやかしの面堂/最後のデート』感想

 少女幽霊が囚われた夢は、真夏に揺れるスノードーム。
 原作屈指の名エピソードを見事に描ききる、令和うる星第33話である。

 軸足は明らかに第2エピソードにある構成だが、タコの生霊と少女の幽霊、二つの”霊”をブリッジにしてエピソードを繋げ、何かと忘れられがちなサクラ&チェリーの霊媒設定を生かす、面白い作りだった。
 第2エピソードがぶっちぎりにロマンティックでエモーショナルなのに対し、第1エピソードは作中屈指の何でもアリ領域、面堂邸を舞台にしてシュールでナンセンスな味わいを全面に出して、ガラリと味を変えていたのも良かった。
 第2エピソードのハンサムなあたるも、第1エピソードのしょーもないあたるも、全部ひっくるめて”うる星やつら”の主役であり、短編連作だからこその芸幅の広さ、傑作選だからこその連続性が、良く効いていた。
 そもそもタコをペットにして、館ひっくり返しての探索行に勤しむあたりでぶっ飛んでいるわけだが、『枕に迷い込んだタコの生霊が、主に助けを求めていた』というオチも大概であり、おまけに最後に出された謎掛けもシレーっとトボケた返しでどっかにぶっ飛んでいって、落ち着くトコロなく話はまとまっていく。
 この極めて投げっぱなしなナンセンス・テイスト、一歩間違えればドン滑りな語り口だと思うのだけど、”うる星”がもつ洒脱な魅力(を、新しい表現で新たに蘇らせんと頑張っている制作陣)が良く活きて、らしい味わいに仕上がっていた。
 こういうワケの分からない、でも確かに面白いネタを力みなく投げつけられると、『ああ、うる星食ってるなぁ……』としみじみ思えるのは、なかなか面白いものだ。

 

 

 

 

画像は”うる星やつら”第33話より引用

 というわけで本命Bパート、幽霊少女とスケベ男が織りなす、真夏のデート絵巻である。
 諸星あたるという少年が持つ、純情な優しさが全面に出て大変いい話であるが、アニメとして新たに描かれると、身体を失い時が止まった”幽霊”という属性を、見事に生かした話だなと思う。
 ガールハントに余念がないあたるが、望ちゃん相手にはいつもニコニコ、押し付けられた真冬の装いも笑顔で飲み込んで、紳士的に過ごせている。
 それは性欲滾らせて追いかけるべき身体が彼女にはなく、しかしその残影に囚われて恋を求めていることを、出会って語らう中ですぐさま知ったからだと思う。
 あたるはスケベで卑俗な浮気性を装いつつ、セックスへの入口としての恋愛も、その先にある身体の触れ合いもホントのところはさっぱり解っていない、イキったクソ童貞である。
 そんな彼の本性はどうあがいてもセックスできず、セーターを完成させることも大人になることも、自分が死んだ冬から抜け出すことも出来ない望ちゃんを相手に、彼女が求める理想のダーリンを演じる中で、むしろ純化され顕になっていく。

 少女の遺品がスノードームなのは大変示唆的で、死んで以来時間が止まっている望みちゃんは眼の前の相手をちゃんと見れる大人になれず、自分を解き放って成仏することも出来ないまま、真冬の恋に閉じ込められている。
 それを『間違っている!』と大上段から切り捨てるのではなく、霊がいるのも当たり前、デートもできれば狂人扱いも耐えられる、優しい友人としての距離感であたるが付き合うことで、少女の無念はほどけていく。
 あたるは触れられるはずもない望ちゃんの生身が、確かにそこに在るかのようにしっかり握り、彼女が押し付ける理想のダーリン像を、感じられない夏の熱気にうなされながら、頑張って演じきる。
 それはラムが危惧し期待していた、スケベでバカな”いつものあたる”とは程遠く……しかしだからこそ、諸星あたるの真実を照らす優しい嘘だ。

 

 うだるような熱気を感じず、あたるの限界っぷりが見えない望ちゃんは、普段のラムのシャドウでもある。
 理想を押し付け裏切られて、ビリビリ電流で八つ当たりする”いつものうる星”は今回鳴りを潜め、ラムは恋のライバル……になり得ない可哀想な幽霊、幼くして死んだ子どもを遠くから見つめながら、ダーリンが本当はどんな人なのか改めて確かめる。
 そんな他者への視線は、変わることが出来ないはずの少女幽霊の目を開き、止まっていた時間を冬から夏へ動かしていく。

 ドタバタ愉快で、あたる渾身の痩せ我慢で良いデートにもなっている逢引除霊のなかで、望ちゃんは暗い死者の国にいる自分に気づいてしまい、暗闇に囚われる。
 死ぬことの怖さと寂しさすら忘れていた、忘れることでノンキにデートできていた望ちゃんが死者の現実を突きつけられた時も、あたるは優しく隣に寄り添い、存在するはずのないその輪郭を、片袖の不格好なセーターで確かめてあげる。
 それは優しくて宇宙一カッコいいクソ童貞の顔であり、ここに至ってようやく、望ちゃんは自分が死者でありながら生者を呪うことがない、未練無き幽霊であることを思い出していく。
 死者が死者であることを思い出してしまえば、もはや消えるしかないわけだが、しかし止まっていた時間をあたるに動かし直してもらった彼女は、恋人の腕に甘え存在しないはずの肉体を、一瞬蘇らせる。
 それは死者を蘇らせ、止まった時間を動かし直すという、あたるが成し遂げた優しい奇跡だ。

 

 

 

画像は”うる星やつら”第33話より引用

 真夏に降るはずもないま白い雪を、あたるの優しい嘘に届けてもらった望ちゃんが消え去った後の、あたる青年の表情が良い。
 鼻の下伸ばしながら女の子を追いかけるいつもの表情の、奥底にある強い感受性と慈悲が嘘じゃないからこそ、肉体もないのに確かにそこにあったと思えた、幽霊少女の面影が消えた時彼は、とても苦しそうにしている。
 そんなダーリンの痛みも優しさも、ラムは今回電撃ビリビリすることなく穏やかに見届けて、暑苦しいセーターをまだ着続け散りゆく花を見上げるあたるの、側に残り続ける。
 望ちゃんはこの短くも鮮烈なエピソードで退場していくわけだが、彼女を鏡に照らされたものは確かにあたるとラムの、変わりようがない日常に波紋を残していて、永遠に続く日常が確かに、一つの答えにたどり着く大事なきっかけになっていると思う。
 そうなるだけの強さと叙情性がこのエピソードにはあるし、優しい嘘を貫いたあたるのダンディズムを目の当たりにすることで、ラムも僕らもダーリンを更に好きになっていく。

 自分が幽霊ならば、こんな素敵なロマンスを主演出来るのかと、ラムは戯けて墓地に問う。
 フワフワと重力から自由に飛び交う異性の少女は、確かにどこか幽霊的でもあって、そういう意味でも望ちゃんはラムのシャドウだったのだろう。
 しかしいつもの調子を取り戻し、夏服に戻ったあたるは生きているからこそこの後の物語でも、一緒にいられるラムを(極めて彼らしい、素直じゃない言いぐさで)肯定し求める。
 幽霊も宇宙人も当たり前にそこにいて、大事な隣人として向かい入れることが出来るトンデモナイ世界に、主役とヒロインとしてそこに居続けることを寿ぐ。
 生きて騒いで楽しくて、でもそれが当たり前ではないことを死者との触れ合いに学び取って、今回のあたるはちょっと大人びている。
 やっぱ好きだなぁ、諸星あたる……。


 これはあくまで夏の夢、素敵で不思議な一瞬の番外編だ。
 だがだからこそ、いつもどおりでは描けない素朴な純情が話の主役にちゃんとあって、その気配を痴話喧嘩の中感じ取っていればこそ、ヒロインが彼に夢中であると思い出すことも出来る。
 こうい染みる話をしっかり力入れて、見ているものに届くように描いてくれることでのみ、”うる星やつら”とはどんな話なのかを各々掴むことも出来て、それはたった4クールの傑作選を編む令和うる星が、アンソロジーとして何を届けたいのか、かなり真摯に教えてくれているようにも感じた。

  ”Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus”(ホラティウス『詩集』第1巻37.1)
 死によって確かに終わったはずで、しかし終わりも始まりすらしていなかった恋をロマンティックに優しく終わらせることで、終わらぬ狂騒の中に確かに、終わっていくからこそ美しいものを見つめる視線があることを、しっかり書いてくれた。
 そういうエピソードをこの美しさで届けてくれたことが、僕はとても嬉しい。
 大変良かったです。
 次回も楽しみ。