イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

異修羅:第12話『修羅』感想

 かくして新魔王戦争は幕を閉じ、夢の骸が大地に転がる。
 世にありふれた残酷の一片を足場に、生き延びた修羅たちが向かうは黄都。
 アニメ異修羅、一期最終回である。

 終わってみると『なげープロローグだったな!』という話ではあり、同時にこの世界に起こる悲惨のモデルケースとして、それを飲み込むより大きな無惨の啓示として、なかなか良いスタートだと感じた。
 リチアを舞台に巻き起こった惨劇は、終わってみれば『まぁまぁマシな殺戮』として収まっていって、殺すべきを殺し生かすべきを残し、極めて政治的で経済的な決着が張り付いていく。
 そうなるように始まった戦争であるし、タレンが街を巻き込み自分を焼いて辿り着こうとした結果にちゃんと収まったことが、黄都という巨獣(リヴァイアサン)を動かす顔のないシステムがどれだけ強大か、しっかり示していたように思う。

 どんな理不尽も独力で跳ね除けられる、怪物的……に思える”個”をいかにして社会集団が飲み込み、無力な人間の群れが不定形の同意の元、少しはマトモな人生を送れるよう世界を作っていくか。
 リチアはそのための大きなネズミ捕りであったし、今後展開されるトーナメントもまた、”修羅”と持ち上げられた勇者候補を潰し合わせ、突出した才無き普通の世の中を形作るための罠になるだろう。
 無力であるがゆえに群れ、群れるがゆえに強い”人間”の社会が、世界のルール全部を一人で曲げてしまえた魔王が斃れた後、なお”人間的”であるためには不必要な、強さに特化した歪な”個”。
 長い牙を持った猛獣のようでいて、数に駆り立てられる害獣でしかない勇者候補達がはたして、悪辣極まる人間社会を相手取りどこまで生き延び、我欲を通せるか……という、作品全体を測るスケールが一期最終話、暴かれる回でもあった。
 ともすれば主人公様の超絶チートでなんもかんもぶん回して、無双の快楽だけ与えてスカッと終了な転生モノを相対化し、新たに掘り下げる画角として、今回顕になった『強者を包囲する弱者の社会』はなかなかに面白い。
 より戦いが激化する中で何が描かれるのか、見届けたい気持ちも強くなった。
 つーか本番全然始まってねぇし、続いてくれなきゃ困るのよ、アニメからのニワカとしては……。

 

 というわけで冒頭、一番聞いてほしかったポイントにクゼさんが切り込んでくれて、大変良かった。
 ”冷たい星”に頼り切りの武力、不安定な軍備構造、全体的なヴィジョンの無さ。
 魔王を自称し世界に牙を突き立てるには、あまりに不自然なポイントが目立つタレンの反乱であったが、自身と新公国を薪にして未来に不要なクズを減らす、壮大な害獣駆除計画であったのなら色々納得は行く。
 終わってみれば戦後処理もスマートかつスムーズに、黄都が新興国を併呑する形で収まっていきそうであるし、そうなるように戦争を編んで綺麗に決着させて、まこと警めのタレンは名将であった。
 彼女が養子への私情引っくるめて自分を殺す道を選んだ背景には、死してなお残響する魔王の存在感を、黄都中心の新秩序から払底し、人間が人間らしく生きられる世界(これがユノが旅の中見つけた夢と重なっているのが、グロテスクでいい)への希求があるのだろう。
 勇者が欲しい。
 その末期に、嘘はなかったと思う。

 魔王殺しの勇者は、いったい誰か。
 大きなフーダニットが物語の牽引役として秘されている以上、『魔王がいて、恐怖の中で死んでいくのが当たり前な時代』と『魔王がいなくなり、巨大な空白が世界に不安定を撒き散らしている時代』の実像がどの程度かは、この戦役が終わっても、正直自分には見えきらない。
 巨大な獣の影を追うように、全体像を把握しきれないからこそ死したる魔王の凄みも高まり、その影響力が黄都を非常に狂わせている現状にも、納得がいくわけだが。
 イカれた反逆者として死んでいくタレンが、声望も愛も焼いてなお決着させなければいけないと思った、人が生きるには不安定すぎる魔王以降の世界。
 その実像がどんなもんかは今後……あるいはタレンの犠牲それ自体によって、一筆ずつリアリティを増していくのだろう。

 

 例えばユノが己の支えと選び、例えばラナが無念の中で答えなく祈った、弱者が弱者のまま、人間が人間のまま生きていけれる、当たり前の世界。
 何より重要ななずの人命がちゃんと尊重される社会は、非常に現代的なものであり、”魔王”なる遺物に未だ支配されている中世的世界においては、顧みられなくて当然ではある。
 僕らが識る地球の歴史においても、無力な民草はみな生きたいと願いながら荒れ狂う暴力に無惨に殺されてきて、血のインクを涙で溶かし、悲憤と怨嗟に塗りたくりながらなんとか、社会契約の鎖で人間を縛った”当たり前”が到来している。
 そんな倫理的変化(”進歩”と言っていいのか、言うべきかは悩ましい)を異世界転移してくる客人達は手渡してくれなかった世界は、極めて中世的に命が軽い。
 正確には『俺の生命は重たいぞ!』と言いたいのなら、他人をぶった切るだけの強さを示す以外に手がないルールで動いている。
 それが魔王亡き後もそのままであり続けるのなら、個として怪物的な力をもつ修羅たちが新たな勇者として世界を蹂躙し、新たな支配を圧倒的多数の弱者に押し付けることにもなろう。
 個が個として強すぎる限り、異修羅世界に近代は訪れないのだ。

 それはド許せぬと、薄墨のジェルキを筆頭に黄都を動かす官僚集団が腹に固めたからこそ、この戦役は起きたし、勇者決定トーナメントも開催される。
 名誉や理想や戦乱の興奮を釣り書きにして、強すぎるバカを世界から排除するための大きな罠を駆動させて、数の暴力で世の中からはみ出す個を狩り殺す。
 極めて民主的な殺戮が正義の名のもとに、幾度も展開していくだろう。
 その智謀と惨殺が”正義”たりうるのか、グロテスクに戦場の悲惨を描き続けてきたお話は無言で問うてくる。
 しかしこの世界においても人間は群れることでしか生き延びられない動物であり、高度な技術と社会システムを発達させ、人間らしく弱いまま強くなろうとしている有り様を見ていると、修羅のエゴを社会が食いつぶそうとするのは、むしろ自然な反応に思える。

 殺したり奪ったり、愛したり守ったり。
 修羅ごとに望むこと、出来ること、やろうとすることは違えど、それぞれが抱えた狭い祈りを強引に押し通し、世界を支配するルールとして運用しうる身勝手が、修羅には許されてしまう。
 その独善に自分でブレーキをかけれないほど、抱えたエゴが強力だから修羅は修羅足りえ、つまり無数の人間、無数の祈りを調整してなんとか張力を保っている社会の在り方とは相容れない。
 殺すことにしか興味がなく、殺し合える相手しか”人間”と思えないソウジロウの独白は、そんなふうにしか在れない、遠い故郷からも追放された異邦人の姿をよく削り出している。
 修羅は、修羅としてしか生きられないのだ。

 

 このままならなさは、勇者を求めつつ偽物の魔王で終わるしかなかったタレンにしても、告解を受け取る宗教者のはずが極めて優秀な暗殺者でしかないクゼさんにも、複雑に反射する。
 新公国を理想の元統制し、戦争状態に突っ込ませるだけの指揮能力を持っていても。
 誰もが許される理想を見据え、盲目の歌姫の末期を聞き届ける優しさを確かに残していても。
 彼らは自分が望んだ圧倒的な力には届かず、狂って残酷な世界の在り方を変えれる”勇者”にはなり得なかった。
 この時”勇者”の定義が、魔王を殺したという行動でも、それをなしうる怪物的な強さでもなく、傷ついたまま取り残された無数の人民に向き合い、人のあるべき姿を示してくれる倫理的理想として見られているのは、個人的には面白い。

 それはつまり、最強の力を持った修羅をどれだけ殺し合わせ、蠱毒の果てに一匹を選んだところで、それが”勇者”の証明にはならないことを示しているからだ。
 タレンが今際の際に願い、クゼさんが死者を埋葬しながら見上げる、ハッピーエンドをこのクソみたいな世界につれてきてくれる、特別な存在の資格。
 それはソウジロウやアルスが戦場に示し生き延びた個としての強さとは全く関係なく、あるいはそれのみを必要条件として実現しうる、多彩で多様で恨み言と祈りに満ちた世界全部に、向き合えるだけの人格的巨大さだ。
 個としてのエゴの強さが修羅を支えている以上、彼らは身勝手で聞く耳を持たない強者にしかなり得ず(ここの軋みを、ソウジロウとラナで照らしているのは良い)、強くなるほどに”勇者”の資質を失っていく。
 トーナメントが進むほどに、真の勇者の正体を探るミステリは解かれていくのだろうけど、そうして示された”真の勇者”がその実、弱き人間が望む立派で優しい勇者様とはかけ離れていることは、十分以上に有り得る話だ。

 そうやって、望まぬ勇者の真実が暴かれた時、今回の戦役で起きたように黄都という巨大なシステムがそれを飲み込み、自分たちに都合の良い勇者像を打ち立てようとすることも、また想像に難くない。
 むしろ黄都に都合の良い勇者像を喧伝し活用し、魔王亡き後の新世界秩序をより善く、より安定し、より優しく形作っていくために、勇者候補選別とその殺し合いが用意されている感じもある。
 とすれば、『ハイ強者でござい』というツラ引っ提げてコロシアムに顔を出す、世界最強のチャンピオン達こそが時代の生贄であり、死んでいくことを期待され約束された”弱者”なのではないか。
 そんな強者と弱者の反転可能性が、12話の物語を駆動させていたカラクリを吐露する、タレンの末期には滲んでいた。

 

 ユノがむき出しのエゴに向き合い、八つ当たりにも似た復讐を遂げてようやく、素直に話せるようになった強者への怨嗟と、弱者としての祈り。
 それは生き延びられなかったラナやカーテやレグネジィの末期が、答えを求め得られない未解決の謎だ。
 世界はどうでも良くない尊さで満ちているのに、全て恐怖で狂わせ支配する魔王とか、倫理観ぶっ壊れた異世界チート野郎とかがボンボコ湧き出すこの世界は、それを大事にしてくれない。
 強さだけが己を示す証であり、世界を塗りつぶすほどに圧倒的なはずなその”強さ”を勇者にぶっ殺され否定されたから、魔王の時代は終わった。

 その好機に人間が人間らしく生きられる世界を求めるのは、為政者としてまこと真っ当な、誠実ですらある決断だ。
 だから修羅を駆り立てる分厚い包囲網が、戦争を血みどろの茶番と弄ぶ傲慢が、必ずしも悪と断じられないのは面白い構図だと感じた。
 黄都の連中は相当に優秀で、自身の手を血で汚しながらある程度の個人的野望と、それ以上の公共心と理想を持っている。
 極めて残酷なシステムによって人間の世界を、魔王亡き後取り戻そうとしている。
 そこですり潰される生命や祈りが、未来への必要経費だと飲み込めたから、タレンはこの戦争を始めて、色んな人が死んでいった。
 こっから先もイヤってほどたくさん死ぬだろうし、賢く計画された殺戮計画を経なければ、変われないほど世界が終わってることも、この序章は巧く教えてくれた。

 

 同時に人間のスケールを大きく越えた、社会という弱者に優しいブランケットに絞殺される、圧倒的な”個”の反撃を見てみたい気持ちもある。
 我々は社会と世界という、とても大きな構成要素の一つであると同時に、どこまで言っても自分ひとりでしかない孤独なエゴだ。
 集団と個人という、相反する性質を抱え込んだまま、無慈悲で不条理な世界を生き延びるしかない。
 そんな過酷な定めを背負った我々が、『今日くらいは生きててもいいかな……』と思える大きな助けがエンターテインメントというものであり、超絶チート野郎が血みどろ活劇に暴れまわるこのお話は、その一つである。
 だから当たり前に我々の周囲を保護し、包囲し、常識や倫理や法や正義という輝かしい名前に飾られて首を絞めてくる、ひどく窮屈なものを。
 ”社会”なるものを孤独な怪物たちが蹴っ飛ばし、傷を負いながら暴れている姿に、怯えつつも快哉を叫ぶ。

 ああ、スカッとした。
 いい気分だ。
 無慈悲で無惨な殺戮が画面の中に描かれて、それが今生身で座ってる自分と無縁であることを確認して、心のなかに溜まった面白くもねぇ澱を吹き飛ばさせてもらう。
 そんな、悪趣味で力強い心地よさ。

 それちゃんと向き合った上で、群像がそれぞれの祈りと脆さをこすり合わせ、時代を発火させる群像劇の面白さを描いていること。
 刻めて残酷で救いのない話を描きつつ、血の池にかすかに輝く真摯な祈りが、確かにそこにあったのだと忘れず記すこと。
 そういうことをしっかりやってくれているお話で、大変良かったです。
 モンドテイストを全面に押し出し、読者の悪趣味な期待感にしっかり答えつつも、そういう理不尽で不条理で残酷なモンを扱えばこそ描ける大きな絵に向かって、かじりつくように話を紡いでいる様子が感じられたのは、俺はつくづく良いなと思う。

 

 

 世界は理不尽で残酷で、そんな中で人間は優しい夢を希う。
 この矛盾が話しの真ん中にあった上で、多種多様な向き合い方、叶え方、へし折れ方を描くのが、僕が12話見て感じた”異修羅”だ。
 遅効性の毒で自分の野心を危うくする間者をきっちり殺し、キアを操るための”先生”の仮面を……あるいは微かに残った甘い願いを、しっかり守ったエレアの顛末にも、その色合いは濃く匂った。

 流石に黄都二十九官、情に曇らされて判断を見誤るヌルさではなく、きっちりやりきってくれて良い決着だなぁと思う気持ちと、心ズタズタにされた挙げ句誰にも看取られぬ無残な死を遂げたラナを痛ましく思う気持ち、両方がある。
 『あんな死に方しなくても……』と、現代人の感性で思ったところで、ラナの死はあの世界に極めてありふれた終わり方であり、大概の人間がああも苦しく、無念に斃れていくのが”当たり前”なのだ。
 それをどうにかしたいと願うから、黄都の為政者たちは巨大なシステムを編み上げ、人間の世界を取り戻すべくこの戦争を仕組み、まだまだ戦いを続けていくのだろう。

 そんな世界に対し、幼い世界詞は何でも出来る無敵なのだと、己を打ち立てる。
 目の当たりにした炎と殺戮、不和と断絶を極めて子どもっぽい受け止め方で、『仲直り』出来る未来を夢見て噛み締め、明日への糧にする。
 再会と対話を願ったラナが、眼の前の先生の手で無惨にぶっ殺されており、この話はおしまいになって魔法でも取り戻せないことを、彼女は知らない。
 知らせないことで、エレアは世界詞という切り札を握り込んだまま、陰謀渦巻く政治劇のプレイヤーとしての資格を保った。

 

 世界が想像より遥かに残酷で、自分に出来ることは大してなくて……つまりはただの子どもなのだと、キアが己を思い知った時、世界詞を巡る物語がどうねじ曲がっていくかは、結構興味がある。
 キアの言霊は極めて強力だが、起きてしまった事実にしか影響が及ばぬように見えるし、キアが言葉にしたこと……認識できることしか効果が及ばない。
 彼女が想像もしない悲惨や尊さが世界には山程あって、その無敵の言葉が触れ得ないものがいくらでも転がってると理解った上で、言葉を紡ぐ選択を果たした時、あのあまりに純粋で幼い女の子はようやく、人間への一歩を踏み出す。
 世界を変えてしまえる怪物のような力が、それ故伸びた権力の長い腕が、彼女を当たり前の成長と痛みから遠ざけるだろう。
 けど全く優しくないこの世界、否応なく残酷な現実にぶち当たる瞬間は必ずやってきて、運命に愛されてしまっている彼女はそんな終わりの先へと、(ラナとは違って)辿り着いていくだろう。

 それは何かと歪んだ連中が多いこのお話の中で、レアリティの高い透明なお話に……なってくれるかも知れない期待感があるファクターだ。
 悲惨で辛いものをたくさん書けばこそ、人間が持っている輝きや祈りをより強く照らせるというスタンスが、色濃く滲むこのお話。
 そこでキアがこの戦役で見たものがどう発芽し、美しく花開き、残酷に摘み取られていくのかは、結構大事な画角だと思う。

 そんな当たり前の挫折と成長は、例えばソウジロウには望むべくもないジュブナイルなのだが、複数のキャラクターが対等な存在感で物語を泳げる、群像劇の強みはその多様さにある。
 人の心も自分の未来も、何もかも理解らぬまま剣を握り、それでいいと飲み込めるソウジロウの物語も、自分の無力を思い知ってなお優しさに包まれ、痛みとともに目覚める時を待っているキアの物語が、同じページに収まるからこその、乱反射するプリズムのような面白さ。
 それが本格的に息をしてくるのは、死ぬべきものがしっかり死んで、その血潮で生き延びた者たちの肖像画に立体感が加わった後の……こっから先の面白さだろう。

 

 

 というわけで、異修羅アニメ一期終わりました。
 お疲れ様でした、楽しかったです。

 初見勢を大層豪快に振り落とす、ゴアゴア血みどろな描写、前半分全部使ってのキャラクター紹介、山盛りの世界設定と複雑怪奇な人間模様!
 色々クセの強いところはありながら、だからこその噛み応えで自分との相性は良く、大変楽しませてもらいました。
 原作が持っている歪んだオリジナリティを、あえてそのまんまアニメの俎上に乗っけて、120%の力が発揮できるよう色々工夫してくれた感じがあって、ググッと引き寄せられました。
 世間からは色々言われる作りになったと思うけど、それでも選び取ったやり方をやり切るんだ! という覚悟と決意が常時滲んでいたのは、大変好みの力み方でした。

 1クール終わってみるとやっぱ壮大な序章であり、こっから本番という感じは色濃くあります。
 幸い終了直後に二期制作の報があり、血みどろの戦争を生き延びたキャラの行く末、彼らを画材に描こうとしている作品全体の未来が、アニメでも見れるのは嬉しい限りです。
 エンタメが飽和している昨今、このペースト語り口でクール使うのは相当な冒険だと感じていますが、だからこその独自性とクセが強くうねっている手応えもあり、何が見れるのか今から楽しみです。
 俺はこの終わりまでちゃんと付いてきたし、自分なり噛み砕き独自の面白さを飲み干せるところまで行けたので、いいアニメだったなーと感じています。
 そう思える人の割合が、そうそう多くない作りだとも思うんだけども、その歪み方あっての面白さだしねぇ……難しいところだ。

 

 どうしょうもねぇロクデナシどもが、生きたり死んだりしながら血の海の中、微かな祈りを世界に投げる。
 群像劇だからこそ、超最悪の異世界だからこそ描けるモノがしっかりあって、このお話を見る意味が色濃くあったのは大変良かったです。
 弱い群れとしての人が、強い個としての修羅をどうにか食い殺して、魔王がいた中世から人間が生きる近代へと時代を変えていく。
 そういう話だと、12話見てみて自分は受け止めました。

 この見切りが正しいのか的はずれなのか、確かめて見るためには最後まで見とどける必要があるわけで、この極めてロクでもない、暴力と悲惨に溢れた作風でもって二期と言わず、全てが決着するまでアニメで描いてほしいものです。
 さらなる残酷を心待ちにしつつ、今はお疲れ様を。
 1クール楽しかったです、ありがとう!!