イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『トラペジウム』感想

 元乃木坂の高山一実さんの原作小説を、CloverWorksがアニメにしたアイドル青春物語……ってパッケージで売り出してる映画を見てきました。
 モロ看板に偽りあり、むしろ狙って不意打ちしている感じすら公開後の広報の動き方を見ていると幻視する、極めてクセとアクの強い、アイドルに呪われた主人公が色んなものを蔑ろにして地獄まで突っ走るお話でした。
 主人公のエゴイズムとアンチ・ヒューマニズムが炸裂する終盤戦まで、パッと見キレイな絵面を作り込みながらも凄まじく細密に『コイツ、このキラキラ青春をぶっ殺す真犯人です』とサインを出し続ける。
 そんなCloverWorksの職人仕事に関心しつつ、『そういう映画』というハラを作ってから見に行った結果、自分的にはなかなか面白い作品と感じられました。

 世に溢れ燦然と輝く、アイドル活動を通じて自己発見や自己実現を成し遂げ、希望に満ちた正しい未来へと力強く突き進んでいく数多の物語とは真逆の味わい。
 ですが、そういうところに窒息するまで身を投げだしてみなきゃ描けないアンチ・ドラマのドラマが、鈍色の輝きを確かに放っていました。
 怪作……という評価も自分的には結構しっくりこなくて、かなり計画的にどんなお話になるのかを見据えた上で、精妙かつ周到に違和感とイヤさを積み上げて破裂させる理性的な作り方でした。
 この路線に全力疾走するのはなんかこー……静かな覚悟を感じます。

 素直に気持ちのいい作品では全く無く、共感できる主人公や物語を求めるのならば全然噛み合わないと思います。
 が、口に苦い奇妙な果実から、キレイな棚には並んでいない栄養素を摂取してみたい方(つまり僕みたいな捻くれ者)には、大変オススメです。
 『全国大ヒット! ロングラン決定!!』って、コレほど『なるわけねーだろ!』と言いたくなる作品もなかなか珍しいので、行くなら今しかないッ!!
 オススメです……って叫んだら嘘になるかもしれないが、かまわぇね俺の脊髄が叫べて言ってんだッ!
 オススメですッ!!

 

 

 というわけで、アイドルに呪われた人間を愛してないスーパーエゴイストが、キャンパスノートに書きつけた稚拙な犯行計画をありえないほどのラッキーにさされられながらトントン拍子で実行していって、さんざんほのめかされてきた『コイツが夢叶えて、幸せになって良いわけねぇだろ……』という予感のとおりに周囲巻き込んで大爆発し、残った廃墟から遠い星とホコリだらけの微かな輝きを見つめるまでの、青春残酷アイドルミステリを見てきました。
 公式サイトではフッツーのアイドル夢見て全力全身群像っぽいオーラを出しているのに、蓋を開けたら他人に全く興味がない爬虫類女が、『アイドルとは何なのか』という本質への問いかけに向き合うこともなく、自分が巻き込む人間の血潮や体温に触れ合うこともなく、つーかそのチャンスはたくさんあるのに全部土足で足蹴にして、待ち受ける破滅へ超特急で飲み込まれていく話なのは、そらー賛否両論あるわなぁと思う。
 描いているものに極めて率直に『ゴミクズがゴミクズのまんま突っ走っていって、因果応報青春大失敗する話です』と告げていたら、不意打ちするよりなお悪い結果しか商業的には待っていないだろうから、ある程度以上の大嘘も自分的には納得行っているのですが。
 それにしたって、『色んな人たちと遠い星を追いかけてます!』みたいなキーヴィジュ(映画『トラペジウム』公式サイト )は詐欺……良く見たら、ゆうだけがアイドル星を求めて他の連中と視線が合うこともなく、そっぽ向いてるなこの絵。
 まぁそういう、極めて精妙な物語的詐術が、随所に埋め込まれている、意地が悪くて誠実な映画である。

 

 主人公・東ゆうは自分がエゴイストであることに自覚と覚悟がない独善者で、何度足蹴にされても諦められないアイドルという呪いを叶えるべく、生身の人間に東西南北のレッテルを貼り付ける。
 嘘を重ねてカードゲームのように人間を集め、他人の痛みや喜びを見もせず積み重なる数字だけを見つめて悦に入る、極めて恐ろしい人間である。
 この異常性はミステリーを成立させるのに必要な、隠蔽と暴露の傾斜に従ってじんわり示されたり、衝撃的な事件によって表に出ることになる。
 そして物語の開始時から、結構フェアに示されてはいる。

 ゆうは瞬きをせず、瞳を揺らさず、蘭子やくるみちゃんが涙を流すロボコン準優勝にも済まし顔を維持し、境界線を越えて誰かと隣り合うことがない。
 二人と出会う時は網の向こう側だし、明確に光と影に分断された場所で陰の場所に立ち続けるし、後にレッスンルームの鏡や電車の座席が作る明瞭で幾何学的な分断の垂直線がなくても、なんとなく収まりが悪い、阻害された構図に立ち続けている。
 アニメーションが『描いた絵』でしか作られていない美術である以上、おそらくこの疎外感は意図的であり、極めて信用のならない主人公……物語に期待される理不尽の突破や心地よい善の勝利を、この言葉がその内側に内包しすぎているというのなら”視点担当人物”として、東ゆう被疑者は作品の真ん中に立ち続ける。
 しかし彼女が打算と嘘っぱちで動かした物語が、確かに内包する”人間らしい”青春の輝きからは、徹底して阻害され続ける。

 四人初の共同作業として、ボランティアで登った山頂でもレジャーシートに無防備に座って一緒に弁当は食べず、本来口に運ぶべき味噌汁で溺死するアリを、冷たく処刑する現場を目撃されてもしまう。
 あるいは蘭子たちが当たり前に膝を曲げて、同じ視線で対応できている車椅子のサチちゃんとは、アイドルの衣装を譲ってもらった時、同じ呪いを共有していると思い込んだときにしか、人間らしい触れ合いを行えない。
 一見活発に友達を求め縁を繋いで、人間を愛しているように思える存在が、人間のフリするのだけは上手い冷血動物……あるいは未熟な子どもである事実。
 それは非常にClover Works的な隠微で繊細な暗号でもって、丁寧に積み上げられ続ける。

 このひっそりした描き方は、ある種キラキラな外装で釣って裏切りで殴る作風の不親切さと合わせてともすれば不快なノイズにもなるのだろう。
 だが、数多の作品の中に結晶化した”CloverWorksらしさ”を……僕の一番好きな部分を土台にアニメを作ってくれて、個人的には大興奮の大満足であった。(一番好きなCloverWorks作品は『ワンダーエッグ・プライオリティ』です!)
 なにしろゆう自身が、自分がイヤな人間だと気付いていない(気付くことで、物語は終わってしまう)話なので、彼女を視点担当人物に据えたこの物語は、彼女の冷たさと無明を明言することがない。
 それは周囲の風景に反射し、キラキラな日々の隙間から滲み出し、偽装された人間愛をぶち破って顔を出して積み上がる、破局を派手に彩るための爆薬だ。
 この積み上げが周到かつ徹底しているからこそ、ゆうの本性がアイドル活動の軋みのなかでむき出しになって、約束された破綻へ突っ込んでいく瞬間に、極めて奇妙な納得とカタルシスを、しっかり覚えられるのだと思う。

 

 このアニメ、原作よりも遥かに東ゆうを突き放しながら描かれ、積み上げられている感じを受ける。
 人間に根本的に興味がない彼女が、モンタージュで済ます夢への途中経過。
 普通のアイドルスポ根ならそこにこそ、大事なものを見つけ苦境を一緒に乗り越えていく大事な素材がある場所を、このお話は片っ端からスキップし続ける。
 それは視線担当人物であるゆうが見ている、夢への最短ルート(≒破滅への回り道)をそのまんま物語の進行に焼き付けた選択だ。

 他の子達がお互いを思いやり、自分の夢を見つけていく大事なイベントにしてきたロボコンやガイドボランティア、学園祭やアイドル活動の下積み時代は、輝く光に呪われてしまったゆうの視界には入りこまない。
 アイドルの本質とはなにか、焼かれた眼を閉ざした彼女は考えずただただ結果だけを求め続ける。
 SNSに写る数字の増減、ファンレターの束の分厚さだけで、自分の位置を定量化しようとする。

 そこには嘘っぱちのお友達ごっこでも確かに育まれた絆とか、向いてないアイドル活動に軋んでいく友達の心とか、過去の自分が確かにやってのけていたヒロイックな眩しさとかは、なにも見えない。
 ”人間的”なる、ノートに記せず数字にも現れない……キラキラピカピカなアイドル物語で一番大事にされるだろうものは、徹底してゆうの視界の外側にある。

 

 だが、ないわけではない……というのが、この映画のなかなか難しく精妙なところだ。
 狭い部屋に飾り立てた犯行計画へ、他人を踏み込ませないゆうには、見えない部分があまりにも多い。
 何故アイドルに惹かれたかはOPのシルエットでしか描かれず、彼女たちの四方形の外側に確かにあってファンレターを贈ってくれている、アイドル活動の余波もまた意識して切除されている。
 唯一のライブシーンは観客がいないスタジオ収録で、人間を記号に堕する東西南北収集計画にどういう意味があるのか、話の終わりまで全然分からない。

 それが分からないのは多分、他の要素と同じくゆう自身に見えていないからだ。
 彼女の狭く閉じたクローゼットの外側で、被害者たちは結構身のある触れ合いを果たし、お互いを大事に出来る関係性を気づき、大事なものをたくさん積み上げている。
 それは確かにあって、しかしゆうには見つけられない。
 全てが終わり果てた後、携帯電話に取り残された外部記憶を指でなぞって、存在を確認しつつ取り戻せない、届かぬ星の光に焼かれるものなのだ。
 自業自得の切なさなんだから、触れぬまま終わったほうが物語の因果としてはスッキリ収まりが良いが、あの岬で三人が戻ってくれるのがまぁこの話であり、東ゆうの描かれ方ではある。

 

 他人の心に取り入り、誰にも見せないノートに描きつけた東西南北のコンセプトにのみ従って、人間を収集していく異様さ。
 それを押し流しかねないくらい、ゆうが強引かつ稚拙に周囲を巻き込んで展開するイベントには、瑞々しい青春の力が溢れている。
 すべてが終わり果てた後、巻き込まれた被害者たちがそれでも偽りなく供述するように、そこには確かに自分がどんな存在であるのか、何を求めているのかを教えてくれる青春の輝きと息吹があったのだ。

 しかし自分が始動させた青春の現場にいる時、東ゆうはその意味と意義を感じ取れない。
 アイドルに呪われ、アイドルになることのみを目的化し、『アイドルとはなにか』を問わずに外形的な犯行計画≒プロデュース・プランを練り上げ続けた結果、全てを台無しにしてしまう。
 愚かで怠惰で傲慢で、残酷で冷たいアホであり、しかしそんな怪物が人間の皮被って青春ごっこしたことには、嘘のない輝きが確かにあったのだ。

 

 それに気付くことも出来ず終わっていってしまう直前、優しいけど優しいだけだった母に、並んだ椅子の境界線を越えて肩を抱いてもらって初めて、ようやく東ゆうは泣ける。
 そんな事したって一度ぶっ壊れた”アイドル”は元の形に戻るわけではないが、十代の甘っちょろくも強靭な友情は、タフに後戻りを許してくれる。
 他人を傷つけながら『イヤな奴』だった自分を知り、押し付けただけだったはずなのに果たしてくれた宿題をやり遂げて、一瞬だけ流れる私たちだけの歌。
 そういうものを作れる存在として、敗残に終わったアイドル未満を。
 同じ夢に突っ走ることなんて最初から無理だったけど、確かに友だちになった女の子たちを描くのは、俺は良い優しさだなぁと思った。

 アイドルは楽しくないし、私の夢でもない。
 アイドルアニメが言っちゃいけないけど、世界の真実でもあるその結末を覆したいのであれば、ゆうはもっとどす黒い己を開陳して、エゴイスティックに他人を振り回してでも叶えたい夢の光を、友だちと一緒に見上げてもらうしかなかった。
 でもそういう薄汚い真実を見て見ぬふりして、都合の良い妄想を叶えるべき夢に定め、他人と触れ合う自分の生身ではなく、文字しか書けないノートに連ねていたゆうに、やけっぱちの友情本音勝負は出来ない。
 網の向こう遠い存在だった二人と違い、覆いのないところから自分に近づいてくれた美嘉ちゃんとの思い出も記憶に残っていない。
 そんな冷たくて最悪な人間のまま作った嘘っぱちが瓦解して、自分を思い知らされた果てにようやく、ゆうは自分の足と眼で自分と並んで歩いてくれた人の顔を見る。

 でも、『もう一度、みんなでアイドル』とは当然ならない。(なられても困る)
 そんだけの最悪をゆうは積み上げ破裂させてきて、それでもなお自分を思い知ったからこそ、ようやく頭を下げれた。
 アイドルやらなくても友達でいてくれる誰かと、彼女の足掻きは結び合わせてくれた。
 東西南北の力を借りて、アイドルの光に己がなるという、積み上げ呪われた犯行計画は(当然)形にならなかったが、偶然と幸運と嘘と最悪が積み重なってできたそんな青春違法建築にも、本当のことは確かにあったのだ。
 その事を改めて、写真家としての夢を叶えた真司くんが教えてくれる写真を描いて、物語は終わる。

 

 真司くんはかなり面白いキャラであり、このお話の分かりにくい陰影に艶と苦みを加える仕事を、いい感じに果たしていたと思う。
 カメラという客観で世界を切り取る彼は、星を見上げる視線はゆうと同じながら、その中心に『見る私、見たいと思う私、だから撮る私』がしっかりある。
  人間が一人も写っていなくても、そこに人の真実をえぐり取ってしまうのが優れた風景写真であり、真司くんはそれを撮れる人だ。(だから写真家として大成もする)
 彼はゆうの犯行計画に巻き込まれてたどり着いたフォトガイドを己の居場所と定めて、(幸運にも)東西南北の躍進と破滅から置いていかれる。
 極めてアンチ・ヒューマニズム的である自分を自覚しないまま突っ走って、アイドルの神様に嫌われて夢敗れるゆうとは真逆に、彼は城の案内で人と触れ合う行為を踏み台ではなく居場所と考え、自分の意志でそこに残る。
 自分でハンドルを握れない電車に象徴される運命に流されるのではなく、自転車に乗って物語から降りていくのだ。

 そんな彼がゆうに恋している気配は微かに匂いつつ、最初の最後のデートでも、8年後の再会でも、それが顕在化することはない。
 『恋愛とか、この人間モドキに与えていいわけねーだろ!』という、シビアな感覚がロマンスをはじき出した感じもある。
 別れ際ゆうに『なんでソロでやんなかったの?』と問う彼は、ゆうよりも先に彼女の中にある真実に、鋭く気付いていたのだと思う。
 そこで自分のどす黒いハラワタを全部見せ、共犯者になってくれと素直に告げてくれていたのなら、協力するのもやぶさかではない情も確かにあっただろう。
 けども、ゆう(が視点担当人物を担う、この物語)がそういう方向に進むには、知恵も率直さも勇気も、何もかもが足りなかった。

 眼の前の人間を愛さず、笑顔にも出来ないスーパーエゴイストにとって、全ては打算であり嘘っぱちであり、なおかつそこには自覚と罪悪感がない。
 光り輝き笑顔を振りまく、形骸化したアイドル像に縛られたゆうがそれでも、”人間らしく”誰かを愛し、形だけの夢より大事なものを見つけられるかもしれない最後のチャンス。
 それがカメラ男子との触れ合いにはあったわけだが、ゆうは己の弱さを隠す意気地のなさで、救いの兆しを蹴り飛ばす。
 自分を好きになることも、真の意味で信じることも出来ていない女が、一番見せたくないが”アイドル”目指すなら誰かに預けなきゃいけない爆弾を、さらけ出せるはずもないのだ。

 

 そんなゆうと仲間たちが、それでも確かに眩しく顕にしていたものを切断し、記録するためのメディアとして、カメラは極めて聖なるフェティッシュとして作中に存在し続けている。
 同時にそれは記憶のメディアでしかなく、通り過ぎた後に自分たちが何を生み出していたのか、どこにいたのかを思い出すための補助具にしかならない。

 あの時気づけていたら……という後悔が先に立つのならば、誰も傷など負っていない。
 どんだけ間違っていようが見えていなかろうが、残酷に過ぎ去って運命を叩きつけてくる無常な時の切断面が、微かに差し出してくれる美しい救いとして、このお話の”写真”はあるように感じる。
 だから真司くんと恋愛関係にならず、心の深い部分に踏み込んだ共犯者にもなれない、王道を外したとも言える展開は、『見るもの、見たい撮りたいと心から願うもの/あり得たかもしれない東ゆう』であった彼の存在を思うと、極めて嘘のないものだと僕は感じた。

 

 このお話はアイドルを夢見て他人を便利に使った少女が、当然の報いとして周りを巻き込んでアイドルになりそこね、その果てに己を思い知らされてたった一人、手前勝手にアイドルをまた目指して、見事やり遂げ夢を叶える物語だ。
 アンチ・アイドルでありながら極めてアイドルを真ん中に据えたお話であり、アンチ青春の腐臭を放ちつつなんだかんだ、お互いのどす黒い部分も認めあった上で繋がれる絆を掴み取るお話でもある。
 アイドルになっちゃいけない存在として描かれた視点担当人物が、それに相応しく手前勝手に至上の価値にしてた形骸に裏切られる。
 そんなマイナスにマイナスをかけて描かれる、このアニメなりの『アイドルとはなにか』
 その答えは、極めてスタンダードかつオーソドックスに、『人間を愛すること』なんだと思う。

 東ゆうは目の前にいる実在の一人が、何を願い何に苦しんでいるかをちゃんと見れない。
 人間を愛していない存在だからアイドルになっちゃいけなくて、アイドルがどんな存在なのか見誤って、友達にアイドルの素敵さを伝えられなくて、アイドルになれぬまま終わりかける。
 そこからなお、諦めきれない光に呪われて”アイドル”目指すっていうのなら、ゴミクズみたいに最低な自分と、それを認めて一緒にアイドルの崖っぷちへは進んでくれない友達をちゃんと理解った上で、たった一人エゴイスティックに、自分の足で地獄を進まなきゃ、いけなかったのだ。
 妄念のレールの上しか走れない電車を降り、別にアイドルやりたいわけじゃない……やりたいと思わせても上げられなかった友達を、ちゃんと降ろしてあげなきゃいけなかったのだ。

 ゆうがそれを出来る存在になったからこそ、どの面引っ提げて”アイドル”やってる未来に物語はたどり着くのだろう。
 けど、真実彼女が他人を大事に出来る、ワケのわからない東西南北を実在の女の子に当てはめない存在になれたかは、描写があまりない。
 思い出の残骸が風に飛ばされて、一人ぼっちだと思ってた世界の果てでもう一度、めちゃくちゃ善人過ぎる友達たちに謝って、世界に生まれる前に消えた私たちだけの歌を紡ぐ場面には、確かにその萌芽がある。
 しかしまぁ、ゆうが蔑ろにしていたものは人間にとってあまりに大事なもんだからこそ、彼女を境界線の外に置き去りにしながら展開した日々の中、くるみちゃんや蘭子や美嘉ちゃんを繋いだわけでね……。
 そんな重たい十字架を引きずって引きずって、アイドルの神様にもう一度顔向けできる自分になれたかを描くのは、ヒューマニティに溢れたわかりやすいアイドルスポ根物語としてもう一本映画が成立するだろう。
 だがまーこのお話は、そこを全然描かないんだッ!
 ほんと、ヘンなアイドル映画だね……嫌いじゃない、嫌いじゃないよ俺は!

 

 かなり濃厚に見立て殺人の色が臭う、東西南北の名前を背負うアイドル計画。
 『こうでなければいけない』という呪いがどうやっても外せないゆうが、なぜプロデューサーではなくステージプレイヤーとして、”東”の自分を内包したまま計画を遂行するのか。
 見てても、正直全然わかんなかった。
 しかし最後、身勝手な怪物でしかなかった自分を思い知った上でそれでも、『アイドルになりたい』と告げる彼女がようやく流せた涙を見て、理屈や計算を越えたところで夢に出会ってしまった熱が、彼女の冷たさの奥に燃えていたことを知った。

 たった一人では戦えないと思い知らされた、東西南北(仮)人気最下位の目立たない女でも、だからこそどんな手段を使ってでも、あの時見た光に自分もなりたかったのだ。
 それは、極めてアイドルの物語に相応しい、凶暴な祈りだ。
 それがアイドルとして孵る前に、卵のまんま殻の中殺されていく過程を、丁寧に描く映画でもある。

 

 どうしてもやりたいから、どんだけ身勝手に他人を巻き込んで傷つけても、やる。
 その我欲に焦がされる側には溜まったもんじゃないが、クールで最悪な小学校時代のゆうに確かに救われていた美嘉ちゃん(作中唯一描写される、”アイドル”東ゆうのファン)の態度を見てると、まぁそれでいいんだろうな、とも感じた。
 取り返しのつかない過ちも、そんな歪さを飲み干せる間柄がつなぎ合わせるのならば、苦笑いとともに許してしまえることだって、”人間”ならあるのだろう。
 そういうモンが奈落に落ちかけた自分を助けてくれたから、ゆうは八年間アイドルロードを走りきって、キラキラな夢を叶えたのかもな、と。
 なんだかんだあのサイコ野郎(未遂)のことが好きな自分は、エピローグを甘く見送ってしまう。

 ここら辺の落着がギリギリ受け入れられるのは、利用されつつも確かに生身の温かさを受け取ってきた四方形の外側……ファンや事務所や仕事相手への影響が、極限的に削り取られた、ある種の密室ミステリだからかもしれない。
 最後の別れも、冷たく電話越し。
 アイドルビジネスの怜悧を乾いた質感で叩きつけてくる事務所社長が、一番わかり易いけども。
 このお話は四人の友情と同じくらい実際に響いていたはずの、アイドルとしての東西南北(仮)の残響を、始まりも終わりも描かない。

 ファンが喜んだ、解散して悲しんだ。
 普通のアイドルなら描かれるだろう”外側”を決定的に排除していることが、アイドル(概念)殺人事件としてアイドル映画を描く異質性と、それでもなおこの映画がアイドル映画であるための祈り……みたいなものを、ギリギリのところで成立させている感じがある。
 この精妙な綱渡りは視点担当人物を最悪の被疑者として描く、東ゆうの疎外感の描かれ方にも通じる気がして、僕としては結構精妙で、意志のあるアニメ映画だったと感じた。
 俺はやっぱり、そういうCloverWorksのアニメが好きだ。

 

 というわけで、極めてヘンテコで精妙で不完全燃焼で爽やかな、ヘンな映画でした。
 これ、視点担当人物を例えばくるみちゃんに変えて、プールでいっぱい遊んで練習してロボコン勝ったり、ブーブー文句言ったたけど車椅子持ち上げて山頂で弁当食ったり、向いてないアイドル仕事にゴリッゴリに追い込まれたり、それでもなお隣に立ってくれる友達の存在だったり……ゆうが手早いモンタージュの向こう側、共感の外側に放りだしたものを拾い上げる感じで話にすると、ゆうをヴィランにする形でかなり収まりがいい気がすんだよね。
 友達ヅラしてその実、自分の願いのために他人を巻き込んで好き勝手に使い潰していた存在って、まー普通の話なら悪役だろ……でも、この話では主人公なのだ。

 精神性から言動から、全部が全部”主人公”やるのに向いてない間違いきった女を主役に据えて、間違っているから強いわけでもなく、むしろ愚かで何も見えていないからどんだけ幸運に助けられても当然破滅していく、奇妙に誠実なお話として走り切るこの映画。
 正しい願いが艱難辛苦を乗り越え、正しく報われるストレートなお話では全く無いです。

  が、しかし極めて的確に『アイドルは楽しくない』という一つの真実と、『それを思い知らされてなお、まだアイドルになりたい』という一つの願いを、やれるだけの精妙さを絞り出してフィルムに叩きつけてくれてます。
 光の方へと真っ直ぐ駆け抜けるタイプの王道青春アイドル物語が、真っ赤っ赤なレッドオーシャンに狩り尽くされたからこそアニメになった、ビーンボールと区別がつかない変化球。
 人によってストライクか大暴投か、当然意見は分かれると思います。
 こんだけ長く感想書いたことから解るように、どうやら僕はストライク側のようです。

 面白かったです、ありがとう!

 

 

・追記 劇中多発する電車の描写、人工的な風景と東ゆうの悪徳。

 このアニメの風景は暗黒城みたいに黒くそびえ立つ事務所ビルを筆頭に、極めて人工的で息苦しく、出口がない。
 何かを成し遂げてスカッと爽やか広い世界が広がるのは最後の最後海の前だけだし、都会的で洗練された風景というのも意図してカットされ、同ポジが繰り返し顔を出して変化よりも閉塞感を、未来よりも破滅の予兆を伝えてくるような場面が多く感じた。
 これも視点担当人物の世界の狭さ、分かってなさ、人間が生きるってことのホントの意味を大事にできなさを反射した舞台構築だと思うが、その最たるものは移動する密室としての電車だろう。
 それはレールの上に乗っかり、自分たちでハンドルを握る自由≒責任もないまま、止まることなく推移していく運命のメタファーでもある。
 特にアイドルデビューが決まってからは館山と東京を往復し、疲労困憊しながら東の欲望に振り回され、だんだんぶっ壊れていく様子が、ベルトコンベアに乗せられた屠殺寸前の動物のように、重苦しく描かれていく。

 だがそこは四人が極限まで近づくボックス席の親密の寝床でもあって、楽しいことも大事なこともそこにはあって、ゆうは他のすべての情景と同じように、そういうものを軒並み取り逃がす。
 去っていったものの意味、壊れてしまった夢の痛み、その根源にある己のおぞましさを知ってなお、頭を下げて見送るしかない覚醒の時も、駅のホームに降りて電車を見送る。
 こっから先は徒歩旅行、最悪に『嫌なヤツ』だと思い知らされてしまった自分を時に飾り、時に本音と向き合いながら、仲間に暴力的に向けていたセルフプロデュース力を自分に行使して、もう一度アイドルの女神様に微笑んでもらうしかないのだ。

 そんな現実に気付いて否応なく歩き出すシーケンスが、ストレス重ねた後の中盤戦ではなくクライマックスに配置されるところが、まぁこのアニメの特異な部分だとは思う。
 行き先が一つしかない空っぽの電車を降りる/降ろされることで、ようやくゆうは自分が何に流されていたのか、どんな存在なのかを考えられる状況になって、彼女なりのアイドル道へと一人きり進み出していく。
 そんな風に間違ったり、そこから学んだり、取り返しがつかない過ちに頭下げて取り返してみたりは、アイドルスポ根物語の結末とするにはあまりにどん詰まりに思えて、しかし確かに否定し難く、人生の中にずっしりある景色だ。
 そういうものを『ある』と、最初から最後まで画角を変えつつしっかり描いたことは、結構褒めていい部分じゃないのかなと思う。
 『アイドルって楽しくない』って事実も、『クズでもアイドルになって輝きたい』って妄念も、正しくなかろうが確かに、そこにあるのだ。
 そこにたどり着けた時初めて、このお話の景色は冷えた人工的な色合いを活き活きした生の色に輝かせて、そこで尺が尽きる。
 ……やっぱ、変な映画だな。

 

 

・24/05/29追記 『このカルトな作品の魅力を、私が見つけたんだ!』というテラ・インコグニタな興奮とのめり込みは、極めて職人的なレトリックの操作によって計画された通りの反応なのかもしれないと、常時疑ってかかるストレス。