うる星やつら 第46話を見る。
一年の長きにわたり続いた、ポップカルチャーの金字塔、何でもありSFラブコメの古典的傑作を再編し再生させるプロジェクトも、遂に最終回。
最後の一ヶ月を全部使い切って描かれた、すれ違いと追いかけっこの決着を描くエピソードである。
闇の宇宙からのインベーダー、地球を覆い尽くす巨大キノコ、全てを忘れさせる巨大装置と、ずーっと変わらず続いてきた”うる星”を壊す終末装置がどんどん出てきては、主役二人はただただ意固地な自分な気持ちと、それでも心に宿るたった一人だけを見つけて、必死に走る。
そういうガムシャラに、あたるとラムを追い込むための終章だったなぁ…と思った。
よくよく考えれば地球がぶっ壊れ、何もかもがリセットされてしまう一大事。
周りの大人はもっとマジに、洒落にならない手段を持ち出して状況打破を目指して良さそうなものだが、あくまで作品最後の運動会ムードが崩れることはなく、諸星家の両親が一番気にしているのも『ご町内の評判』である。
この公的空間の欠如はスゲーこの話らしく感じて、世界全部を天秤に乗っけても、クソガキの意固地を最後まで追いかけさせて上げる優しい夢を、最後まで保つんだなぁと思った。
気持ち一つが、世界より命より重たい子どもの価値観。
”うる星”はそれが二人を重たく縛る未成熟を、デカいスケールの破滅を目の前に置くことで可視化する。
ともすれば身勝手なエゴイズムと”正しく”非難されそうなもんだが、このお話はあくまで永遠の青春を走り抜けていく二人を肯定し、現実と夢を対置しない。
世界全部を巻き込んで、勝手に友達の未来も決めてしまって、極めてエゴイスティックに…つまりは譲れない自分自身に向き合った結果、たどり着ける場所。
周りに何を言われても、”正しい”結論に簡単にはたどり着けないガキっぽさに、ラムとあたるがどう向き合えばいいのかを、徹底して掘り下げるための大きい破滅と優しい社会…であろうか。
まーずっとそういう世界だったから、最後だけ急にマジになっても面白くないからな。
あくまで明るく楽しく、暴力とギャグ満載。
長尺とったお陰で、ラストエピソードでは『やっとる場合か~!』なトボケた素っ頓狂が色んな場所で元気で、作品にお別れを言う前に『ああ、俺はこの話のこういう所が好きだったな…』と、爆笑しつつしみじみ出来た。
やっぱ面堂くんのクール&ハイテンションが気持ちよく、抜き身振り回しての過激なツッコミと、状況に流されてボケを背負わされる役目、両方できるユーティリティ性能の高さが、最後の最後までありがたい。
記憶喪失装置が起動する、アホ極まるシーケンスも含めて、シリアスな湿り気に作品が支配されきらない、いい風通しの最終回だった。
…そういう空気感だから、デカいキノコがジメジメ世界を覆うフィナーレなのか?
ダーリンの本心を試すために、友達の記憶まで勝手に賭けるラムのヤバさに、ブチギレる弁天様は全く正当なわけだが。
そこに真顔のツッコミを入れつつ、物語はウッカリで全部を終わらせるスイッチを押してしまうスラップスティック味で、踏み込みすぎると相当ヤバい部分から、うまーく矛先をずらしていく。
ラムとあたるが”正しく”大人になるのではなく、意固地なガキっぽさを残したまんま、永遠の思春期を走り続けていく決着に、二人だけの真実を確かに輝かせる最終回。
こういう塩梅で、メインヒロインのエゴの強さ、思い込んだ時のヤバさを改めて照らしつつ、『しょうがねーなラムはッ!』で肯定する手つき、なかなか凄かった。
洒落にならない崩壊も一瞬で直り、面白いものは何でも存在する、極めてイマジナリーな夢の国…友引町。
面白くもない現実味を全力で他所にぶん投げつつ、キャラの心の襞がどんな手触りなのか、極めて繊細に恋とか絆とかを描いてきたこのお話の最後が、お互いをどう思っているかの本当を延々追いかけて、それ一つを認めるのがどんだけ難しいかを書き続けるのは、凄く自作に向き合ったフィナーレだと思う。
”うる星”においてそういう、真顔で語るには気恥ずかしくでもだからこそとても大事なものを追うためには、ワーワー騒がしい奇想天外と、暴力満載の追いかけっこと、はた迷惑な常識外れが、いつでも必要だった。
今まで見えなかった新しい結論を出すように見えて、二人はその実、もともと在ったモノを思い出して自分たちの答えにする。
感動系エピソードをかなり分厚くアンソロジーに入れてた理由が、最終回に炸裂する思い出ボムの乱打から感じ取れる構成でもあったが、言葉にせずとも解っていたはずの『好き』を、言葉にせずとも伝わる場所にたどり着くために、ラムは世界と記憶を人質に取り、あたるはムッツリ黙り込んで傷だらけに走る。
その探求自体が、ずーっと自分たちの関係に名前をつけることを作品世界維持のために保留されてきた二人が、何を答えとするかの示唆なのだ。
ずっと見守ってればバレバレで、なんなら作品全部の前提条件で……しかし思い返せば明瞭に、それをお互い伝え合うことは出来なかった『好き』を、言わせることなく描く。
語ることなく感じさせる。
それは明瞭な言葉で『言わされる』よりも、騒々しい友引町の愉快な日々を一緒に走って、その住人たちが好きだから名残惜しい僕らに、作品の答えを見つけさせてくれる描き方だと思う。
同時にどうやっても子どもっぽい意固地から抜け出せない、永遠の思春期の体現者たちの”らしさ”に、過去最長の尺とずーっとワーワーうるさい元気の良さで報いて、あたるとラムの本当のことをちゃんと描ききる、卒業証書授与式だったのだろう。
あたるが他の子に色目を使って、ラムが電撃撃って、すれ違って騒がしい。
4クールずっと続いた終わらない追いかけっこが、一体何だったのか掘り直すためにもう一度、物語が始まった地点に戻る。
地球の命運のため、女の子なら誰でもいいスケベのために始まった物語が、46話使って何を得て、何を変えたのか。
そういうのを剥き出しにするには結構なパワーが必要で、宇宙キノコによる世界の危機とか、記憶消去のリミットとか、降って湧いて恋人を奪っていく許嫁とか、使えるもん全部使って圧力をかけた。
その圧力を全部跳ね除けるくらいに、主役たちは素直になれない子どもであり、だからこそ最後の最後見つけ直した、自分たちの素直な気持ちに嘘はない。
物語の最初には宇宙鬼娘の虎柄ブラジャーを…その奥にあるおっぱいを目の色変えて追っかけていた少年が、追いつけないまま幾度も転んで、手放そうとしなかったもの。
結局ラムは怒りのあまり自力で蘇らせた、はっきりしないダーリンの嘘を跳ね除ける力の源。
それさえ握っていれば、世界が壊れてもラムを忘れなくても済むのだという、根拠もなんにもない幼い夢を、あたるはずっと抱えている。
こんだけ思っているのだから解ってくれるのだという、手前勝手なコミュニケーション不全も、あるいはどんだけ自分の外側に強要されても首を縦に振れない、自分の心最優先な物わかりの悪さも。
諸星あたるは、確かに持っている。
つまりあたるは、繰り返す日常の中で自分自身それが”らしさ”だと思いこんでいたような、軽薄な色情狂ではあんまりなくて、その真心を目の当たりにしたラムが思い出すエピソードで示されていたような、相当な純情少年なのだ。(その事実を忘れるとハーレムを実現していちばん大事なもんをお取り落とし、そんな可能性をハンマーでもって、あたるは既に殴ってたりするのだが)
そんな彼は、セックスへの幻想に狂った自己像を軽薄に暴走させ、幼い素直さを見失ってツンツン尖るしかない、子どもと大人の間にいる。
そういう彼が必死に走って素直さを取り戻し、あるいはそういう秘められた”らしさ”を唯一形にしてくれる、特別な女の子に向き合い直す。
二度目の追いかけっ子は、まぁそういう話だったのだと、アニメで改めて描かれて思った。
そういう傷だらけの自分探し、必死の追いすがりに余人は入り込めないわけで、しかしぼーっと見守らせるのも”うる星”らしくないってんで、いつものメンバーは記憶消去装置とのゲームに興じ、いい感じのアクション作画で場を盛り上げてくれる。
どんだけ外的要因が脅威度を増しても、あたるがラムに追いついてお互いの気持が通じ合う以外の決着がないのだと、示すために、面堂くん達は空を飛ぶ。
話の展開だけ考えるならいらない場面なんだけども、アレがないと何でもありの”うる星”力が全然足りないので、大事で素敵な…もう一つの追いかけっ子だったかなぁと感じた。
諸星あたるの意固地を、世界の命運賭けてでも応援する最終回は、彼の涙を切り取らない。
『愚かな男じゃのう…』と、ままならない自分をチェリーにズバリ指摘された時、惨めさに少年が泣きはらしていたかは、描かれぬ謎である。
そして限界まで自分を追い込む追いかけっこの果て、ずっと隠していたかった真心の証が、思わず手のひらからこぼれてしまった時、シャイボーイの率直な表情が、僕らにも一瞬垣間見える。
それをあたるの”素顔”だと言ってしまうと、人生賭けてそれを晒さぬよう意地を通した青年を踏みつけにしてしまう感じがして、僕にはそう出来ない。
明瞭に告げるよりも、密やかに描くほうが。
思いを押し付けるよりも、傷だらけの意固地の果てに解ってもらうほうが。
より豊かで美しいという価値観は、つまり詩の方法論だ。
ラムは感動の涙を表に出せて、あたるはその素直な愛にプイと顔を背ける…ふりを、永遠に続ける。
そういう、今までずっとやってきて、終幕を迎えた永遠の中でもずっと続けれるロマンティックな詩学を改めて削り出すためには、この最後の追いかけっこが必要だったのだろう。
人間であるあたるが宇宙人のラムに追いつけない、シビアなリアリティが最後に顔を出してきて、それを真心一つが追い抜いて世界が救われるの、やっぱ好きだな。
『いちばん大事なものなんて、言わなくても解ってるじゃないか』というあたるの甘えは、ワーワー騒がしいスラップスティック・コメディの根っこに何があったのか、物語が終わるこのタイミングで叫ばずに示す語り口と、よく似てるなと思う。
ロマンスもギャグもSFもアクションも、”うる星”全部を欲張りにてんこ盛りにしたこの最終章を一緒に走ることで、一体このお話のどこが『好き』なのか、最後にちゃんと抱きしめてくれ。
そういう意固地な祈りが籠もった話を、四話使ってじっくりやったのはやっぱ良かったなぁ、と思う。
色んな子に卒業証書を手渡すような、第4クールのフィナーレとしても一貫性があったし。
そういうあたるとラムの、自分と作品の根っこを照らすための大騒動をもたらすべく、最後のゲストとして選ばれたルパとカルラも、主役カップルに先んじて素直さを手に入れ、収まるべきところへ収まった。
大騒動の口火を切ったエイリアンを置き去りに、作中最強の意固地をぶつかり合わせてお互いの本当を暴いていくラムとあたるの、キャラとしてのデカさが際立つ展開だったなぁ…。
騒動引き起こす原因はルパなんだから、フィナーレもルパと対峙して終わればいいのに、気づけばあたるとラムの意地の張り合いが軸になって、役目を終えた主役のシャドウはゴールイン。
そういう話運びからして、やっぱ徹底してあたるとラムの話なのだ。
ずっとそこにあった真心を思い出し、ラムがあたるを『追いつかせた』時点で、二人の答えは決まっている。
しかしそれに見て見ぬふりをして、ガールハントに電撃ビリビリな『いつもの”うる星”』へと立ち戻ることで、二人は変わらず大人と子どもの間を駆け抜け続け、友引町はいつもの顔を取り戻す。
それは永遠に続くようでいて、確かに何かが決定的に選び取られ、終わってしまった後の祭りだ。
全ての終局がそうであるように、確かな納得と寂しさがあのエピローグにはあって、賑やかで楽しく嬉しい、”うる星”からのサヨナラだった。
真面目で面白くない、物の解った大人になんかなってやるもんか。
そういうチャーミングなあっかんべーでこちらにウィンクしつつ、ラムが一生かけていわせたい答えも、あたるが今際の際に言う『好き』も、けして揺るがない絶対の真実として、エンドマークに刻まれた。
永遠の子どものまま、素直さを取り戻して大人への一歩を踏み出すという、極めて矛盾した…だからこそ”うる星”らしい決着でした。
というわけで全46話、4クールの長きに渡って描かれた令和のうる星やつら、無事完結です。
めちゃくちゃ良かったです、ありがとう。
声優全取っかえの英断に始まり、今描くと色々問題があり古臭くもあろう古典をどう、今描かれるべき作品に仕上げていくのか。
作り手が様々に工夫し、レトロでありながら最先端なヴィジュアルを作り上げ、妖怪から宇宙人まで何でもありな作品世界の魅力が伝わるよう、描くべき話数を選んでしっかり、46話を編み上げてくれました。
たった4クールで莫大な原作を描き切る試みそのものが無謀なわけで、その難儀を知りつつどうすれば、長い時間を飛び超えて生き生きした力強さを蘇らせ、後継が豊かに花開かせた着想の面白さを形にできるのか。
そういう難題に向き合う苦しみはもちろんありつつ、必死にやってくれているのだと感じられるアニメで、非常に良かったです。
かつて描かれた線をトレースしても、『原作通り』になんてならない。
原作、旧アニメ…そこから影響受けて豊かに花開いた諸作品が、既に山程の成果を刻んでしまっている中で、新たに”うる星”がアニメになる意味。
そういうものと必死に取っ組み合いつつ、ワーワー騒がしくて楽しく、時に極めて純粋で繊細に心の震えを描ききる、SFジュブナイルスラップスティックラブコメディの金字塔の良さを、しっかり形にし直してくれました。
それは原作ともかつて描かれたアニメとも、相当違う仕上がりなんだけども、だからこそ今改めて描かれる意味をしっかり持ち、ここから先の世界に”うる星”が残っていくだけの力強さを宿した。
自分たちだけの新しい線と、愛を込めて見つめた傑作の輪郭が、確かに重なる奇跡。
そういうモノが確かにあるリメイクで、めちゃくちゃ良かったです。
ぶっちゃけ僕も”うる星”をしっかり咀嚼した視聴者ではなかったわけで、こうして今このタイミングで改めて出会い直すことで、自分の中で”うる星”ってどういうお話なのかを、眩く結晶化してもらえる視聴でもありました。
ずっと楽しかったし、みんな好きになれたなぁ…この感じが一番心のなかに響いてるのって、すっげー”うる星”っぽいと思うんだよ、俺は。
中断を挟みつつ4クール。
今の風潮で押し切るには難しさもあったと思いますが、見事に走りきってくれました。
凄く面白くて、いいアニメでした。
ありがとう、お疲れ様!