イマワノキワ

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花野井くんと恋の病:第7話『初めての告白 』感想ツイートまとめ

 花野井くんと恋の病 第7話を見る。

 ほたるちゃん一世一代の告白を受け、花野井くんはヤンでる自分をさらけ出し手渡す。
 愛の渇きの果てに、過剰な期待を運命の相手候補に寄せるようになった少年の傷を見届けて、なお燃え上がる慕情が選んだ答えとは…!? という、さらば恋人試験期間なエピソードである。
 悪い予感通り、露骨にネグられてた花野井くんの過去に悲しみを感じるものの、それで凝り固まっちゃってた自己像を、これまで花野井くんの独占だった焦がれる立場、追いすがる立場に立ったほたるちゃんがしっかり相対化し、思いの外優しく客観的な花野井くん像を手渡して、一緒に進んでいくまでのお話だった。

 

 他所の国の子どもにかかりきりで、自分の息子をほったらかし、なんかヤバそうなジジイにヤバ思想を吹き込まれるままにしている花野井親に、結構マジ気味の怒りが燃えつつも、おばあちゃんが気にかけてくれていたこと、肉親の手が届かないところへほたるちゃんがしっかり踏み込んでくれたことで、まぁギリギリセーフ…って感じ。
 乾いた砂漠に雨が降るように、ほたるちゃんの恋人宣言は花野井くんマジ待ってましたの切望だったと思うけど、ここで過剰な愛を与え/求めてしまう自分を素直に見せて、ワンクッション時間を置いて考えてもらうの、やっぱ自分のエゴに手綱を付けれている少年だと思った。

 あの生育環境と人格形成だと、もっと攻撃的で視野の狭いエゴに呪われててもおかしくないのに、花野井くんは自分の欲深さを自覚して、好きになった人/運命の人/自分を救ってくれるかもしれない人を傷つけないよう、己を律する事を既に知っていた。
 自分が求めるものが、すなわち相手にも良いものなのだと無条件に思い込む、一人称の価値観フィルターをしっかり外して、他者でしかない恋人候補に、一番ヤバい自分を見つめて考えてもらう自由を、ちゃんと与えている。
 それは愛を求めても与えられなかった、かつての自分の痛みを客観視して、唯一絶対の価値観にはせず他人を尊重できている、ということだ。

時に認知が歪み抜け出せないエゴの沼に沈み込んでしまう危険な淵で、花野井くんは…まぁなかなかの歪みっぷりではあるけども、ほたるちゃんを絶対傷つけないよう自分の中の獣に鎖をつける理性を、しっかり保って生きてきた。
 その事が今回、ほたるちゃんを今まで隠されてきた花野井くんの影に向き合い、追うもの/追われるものの立場を入れ替えて相手の気持を知る、大事な回り道へと送り出していく。
 身を焦がすような愛しさ。
 時に正しさを置き去りに、駆け出してしまうような情熱。
 そういう花野井くん的な要素が、恋を通じてほたるちゃんに感染していく。
 この影響力は恋人たちに相補的なもので、お互いがお互いの色に染まる。

 

 

画像は”花野井くんと恋の病”第7話より引用

 青い紫陽花の花言葉は『冷淡』と『辛抱強い愛』。
 親に置き去りにされても、健気に雨が降るのを待っている水の花のような、少年時代の花野井くんは、なんかヤバい感じのジジイにロマンス至上主義をねじ込まれることで、振らない愛を待つのをやめた。
 しかし追いかけ与えるだけでは、捕まえてもらって抱きしめてもらうのを待ってる子どもが満たされることはなく、やせ細った自己承認欲求が自分を大事にしない方向に暴走して、食事など気にかけず、与えるだけの恋に溺れる日々を過ごしていた。
 そんな彼が”身の養い”を気にかけれるようになるのは、ほたるちゃんがいるから。 

 自分には縁遠いと思えるものでも、自分が好きな人/自分を好きになってくれる人を媒介にその内側に目を凝らし、自分に引き寄せることは出来る。
 ”好き”を通じて自分を変えていける前向きな可能性が、ほたるちゃんと花野井くんの間ではどんどん萌芽していって、『ほたるちゃんが好きそうだから』で朝食を自分でつくり、パンの美味しさをメモる花野井くんが新たに生まれていく。
 それは芽生える時を待っていた、”本来の”花野井くんが愛の慈雨を得て蘇る現象でもあって、親が孤独な場所に放置してきた少年が、ようやくずっと欲しかったものを太眉健全少女に手渡してもらえた瞬間なのだ。
 マージで良かった。親抜きで勝手に生きよう。

 

 ほたるちゃんがついに差し出した本物の愛に、パクっと飛びつかず考える時間を与えたことで、二人はお互いの立場を交換し、お互いの”らしさ”を身を持って体験していく。
 恋が解らなかったほたるちゃんは、身を焦がすような切なさを会えない時間の中で感じ取り、考えた末に花野井くん的な熱烈なラブコールを手渡す。
 正しさを知らなかった(と、自分では思い込んでいた)花野井くんは、大好きな彼女からあえて距離を取る、ヤンデレ彼氏には苦行でしかない時間を過ごす中で、自分のこと、自分の好きな人のことをよく考えた。
 身勝手で危うい自分が、好きになった人に選ばれるとはどういうことなのか。

 ここには率直な自己開示が反射していて、前回ほたるちゃんが秘していた過去の傷を暴いたお礼に、花野井くんはヤンでる自分を改めて曝け出し、おばあちゃん経由でそうなった経緯を教える。
 相手の立場に立って見るためには相手を知る必要があり、そのためには見栄や防衛本能を越えて、自分の根っこに深く突き刺さっているものを、自分を歪めてしまっているものの根っこを、相手に差し出さなければいけない。
 心を素裸に曝け出し踏み込んでもらうのは、かなり勇気のいることだが、二人共それを果たしたからこそお互いの”らしさ”を受け取り、釣り合わなかった情熱が同じ温度で繋がる場所へ、二人で踏み出すことが出来たのだ。

 その象徴として、同じLoveメッセージをアプリで送り合うアツアツっぷりを刻み込んで終わるのは、なかなかいいなと思う。
 愛されるためには与えなければいけないと、渇いた末の思い込みの檻から抜け出せぬまま、釣り合いの取れない恋愛を続けていた花野井くんは、ようやっと自分のヤバさも渇望も、自分では気付いていない優しさも正しさも、ちゃんと見つめて向き合って、熱を込めて追いかけてくれる対等な相手と出会い、恋人になったのだ。
 おめでとう花野井くん…激ヤバ束縛系と思いきや、めっちゃ被虐待児童が傷を癒やす手段を探しているだけだったキミが、ようやく色んな人に優しくなれそうな場所にたどり着けて、オジサンは嬉しい。

 

 

画像は”花野井くんと恋の病”第7話より引用

 恋愛における最重要ポイントとして、適切に釣り合ったフェアネスを重視しているのは、このお話の魅力的な特長だと思う。
 視線が噛み合わない、見ている世界が釣り合わないアンバランスを示すために身長差を強調し、それが補正された後のフェアな距離感を描いて変化を可視化する演出は、画作りを全て人工でやれるアニメだと、特に活用される表現だと思う。
 クリスマスデートにおいては、釣り合っていなかったお互いの足元は恋のときめきにドレスアップされて対等に並び立ち、しかしちびっこ彼女と高身長彼氏の視野差は、未だ補正されていない。
 同じ世界を、まだ見れていない。

 この視野差を会えない時間の中己を見つめ、お互いの立場に身を置いてよく考えることで誠実に埋めようと、ワンクッション置けてる時点で、花野井くんは病んでなんかいねーんだよッ!
 かくして花野井くんの事情を知り、自分の中にある花野井くん的情熱の強さも思い知ったほたるちゃんは、鉄棒によいしゃとよじ登ることで、同じ視線に這い上がった自分を示す。

 

 ここを補正するための舞台装置としては、坂道とか階段が一般的なんだけども、花野井くんの傷が満たされぬ子ども時代にあることを思うと、”遊具”を使って彼の寂しさと痛み、それが生み出す熱と誠実を確認する演出は、凄く良いと思った。
 花野井くんはほたるちゃんとの恋が、止まっていた時を動かし直す凄く頑是ない色を帯びていることに、しっかり気付いている。
 鉄棒よいしょで彼と同じ視線に登り、そこからほたるちゃんに見える『花野井くんが思っているより、他人に優しく出来ていて正しい花野井くん』を手渡してもらって、花野井くんは獣欲に身を任せた荒々しいキスではなく、とてもチャーミングなおでこへの口づけを選ぶ。
 それが自分たちの現在地であり、適正距離であることをしっかり見れているのだ。

 大人びた成熟にまとわりつく、加害的にもなりうる性欲よりも、小動物の毛づくろいにも似た幼く、気遣いと癒やしを伝え合う小さな触れ合いが、今の僕らに相応しい
 そういう判断が出来るから、『恋人になったし、そういうもの!』で口尖らせてプルプルするほたるちゃんが見えてない、今の自分達に相応しいものを手渡すのだ。
 このキスは花野井くんが自分で思っているより、既に優しいし正しいと教えてくれたほたるちゃんへの、気付きの返礼でもあろう。
 こうしてお互い、人間がより善くなっていくために大事なプレゼントを沢山手渡し合いながら、幼い二人は支え合って前に進み、誰かを愛し大事に出来る立派な人に育っていくのだろう。

 つーか花野井くんが特別な誰かに価値の傾斜が強くかかった、病んだ愛し方を選んでるのって、正しさと愛されることを両立する能力が自分にはないから『愛されること』を優先して選ぶしかない、無力感が根っこにあると思う。
 しかし親に愛されなかった痛みで封じられている客観的な自己評価を、ほたるちゃんに手渡し直してもらうことで、正しさと愛を両立させる高望みを実現可能な、結構人間力がある花野井颯生を信じられるようになるだろう。
 それは『正しいことは、正しいから正しい』という思考停止のトートロジーを社会から押し付けられるのではなく、本当はそうでありたかったけど親にすら愛されない自分には到底無理だと、諦めることで自分を守っていた願いが、もう一度芽吹き出す自発的な働きなのだと思う。
 そういうモノに導かれ、ほたるちゃん持ち前の正しさを分けてもらって育てる形で、花野井くんが愛しさも優しさも両立できる、強くて正しい人になっていけるのだとするなら……こらーとても良いことだよ。
 こんだけヤバい環境に身を置きつつ、自身を客観視し制御する能力を失わなかった花野井くんなので、ほたるちゃんからの愛を己にたっぷり施して、スクスク伸びていくのも余裕だと思う。

 …めっちゃ売れてるので、もっとチャラい話かと思ってたらガッツリ教育心理学なお話で、その硬さが逆に自分の好みと響き合った感じあるな。
 恋と発育の正道踏破ッ!

 

 親との関係は代返が難しいもので、叶うのならへき地医療からテメーの息子のメンタルケアへ、クソ親が足場を切り替えて欲しいもんだが、それが叶わぬのなら欠けたものを埋める愛しさを、運命が引き合わせてくれた他人と育んでいくのは、一つの道だと思う。
 そしてこの幸福な出会いは、花野井くんが自己評価より全然優しく正しい人で、好きになった人を自分の痛みで塗りつぶしてしまうような、危うい獣じゃないからこそ掴めた。
 いやまぁ、ここで花野井くんが激ヤバ環境にズタズタにされて暴れる野獣だったら、作品全体に漂うピュアな爽やかさ濁りまくりなので、話の雰囲気に相応しい性格付けされてるって話でもあるのだが。

 ともあれ正反対な君と僕が、あえて触れ合えない遠い距離に身を置くことでお互いをよく見つめ、”らしさ”を交換し合える特別な間柄へと、本気で踏み込むエピソードでした。
 傍から見てりゃ運命だとバレバレな恋だったが、やはり当事者が心の底から真実に気付くには適切な回り道というのがあり、それをしっかり歩ききって行くべき場所へたどり着いてくれた満足感…”強い”ぜこのアニメ。

 花野井くんに近づくことで、解らなかった恋の熱を己の中に見いだせたほたるちゃんが、どう変化していくか。
 ここからの第二章も、大変楽しみです。

 

 …花野井くんの再生を”食”との向き合い方に託してる描き方、”ダンジョン飯”と同期なのオモロイな。
 あとドンファンジジイにヤバい人生哲学を刷り込まれる場面、『少年』呼びのおねーさんとの出会いでも良さそうな場面と思っちゃうが、素敵彼氏との疑似恋愛を提供する側面もあるエンタメとしては、恋のライバルになりかねない存在はタブーであり、そこから一番遠い造形で仕上げる必要があるんだろうなぁ……などとも思った。