イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

わんだふるぷりきゅあ!:第16話『鏡石のふしぎ』感想

 鏡合わせのあなたとわたし、通じる言葉はどんな響き?
 言葉を持ち得ぬはずの禽獣とのコミュニケーションを、新たな次元で掘り下げていく交流のプリキュア、わんぷり第16話である。

 異世界からするーっと迷い込んだ嵐を呼ぶ幼稚園児と楽しく遊んだりしつつ、メインはかなり早いタイミングでの親バレプリキュア活動承認! であった。
 何でもかんでも喋っちゃう、素直で幼いこむぎを抱えて秘密を守り通すこと自体結構無理があったため、今回怒涛のように何もかもがバレていって、ファンタジーサイドの大人代表・メエメエを間に立てて良い所に落ち着いたのは、今後の展開がスムーズになる良い話運びだったと思う。
 保護者に子どもたちの非日常がバレるのが歴代でも相当早いが、バトルを真ん中に据えていないことでプリキュア活動が純粋なアニマル助けの色を強めている、わんぷりだからこその”速さ”かなと思ったりもする。
 まーライオンガルガルとか強敵相手だと、結構バチバチに傷を負ったりもするけども……ここら辺で更に掘り下げるお話が、今後来るかもしれない。

 

 こむぎが喋って思いを伝えて、みんなハッピー幸せタウン。
 基本的にはそれがこのお話の”答え”であるけども、今回はそういうコミュニケーションが取りこぼしているものと、自分たちが何かを見落としている事実に犬飼家の姉妹が気付いていない現状を、ちょっとシビアに見据える回でもあった。
 必至に窮境を伝えるムクドリの声は、ドタバタした日常に忙しいこむぎ達には届ききらず、結局『まゆだけが大事なんだからねッ!』とツンデルするニャミーがフォローする形で、威圧で解決することになる。

 以前は大事なたった一人を守るため爪を振るうのをためらってなかったニャミーが、暴力の匂いをまとわせたとはいえガルガルと”対話”して目的を達成するのは、ワンダフルとの出会いが思いの外、ツンツンネコチャンに響いている感じがあって良い。
 同時にまゆの”姉”として周囲を見渡し、脅威を見つけ出して事前に対処する大人びたニャミーの態度に甘えて、本来自分たちがケアするべき声を聞ききれなかった、結構未熟な場面でもあった。
 ここら辺は未解決の可能性とお互い様な強さを混ぜ合わせつつ、極めてじっくりしたペースで話を勧めているわんぷりらしい描写であり、次回以降ニャミーとの対話が深く進む中で、しっかり掘り下げてくれると良いなと思う。

 

 今回のガルガルがインコなのも印象的で、人語を解しているように思える”オウム返し”はその実、(少なくとも音声言語としては)何のコミュニケーションにもなっていない。
 人間が口から発する音を真似しているだけで、なんの意味も意思も交換していない会話モドキではなく、ワンダフルたちはいつもどおり言葉を超えた触れ合い……超人的身体能力を生かして相手に近づき、抱きとめて気持ちを伝えるコミュニケーションによって、ガルガルの呪いを解いていく。
 人間は言語的な動物なので、音や文字をこそコミュニケーションの基盤(あるいは目的)と時に思い込んでしまうが、通じ合うべきは常に不定形の気持ちの方で、言葉も文字もそのための(怪物的に効率的で、悪魔的に優秀な)メディアでしかない。
 ならばそれ以外にも思いを伝えるチャンネルは複数あるはずだし、複数あるべきなので、ワンダフルたちは言葉に頼りすぎないフィジカルな交流を経て、インコガルガルが本来持っていた『好き』とか『楽しい』を思い出させ、自分たちも同じ気持ちであることを身体の触れ合いで伝えていく。
 それは喋るイヌや怪物化したインコといった、ファンタジックな非日常の住人だけでなく、ごくごく普通に言葉を持ち得ない数多の動物たち(モニタの向こうで体温持ってる、あらゆる生物含む)がそこにいるのだと、実感するうえで極めて大事だ。

 この非音声/非言語コミュニケーションは常に、言葉による語りかけと併用されて、ガルガルとプリキュアを繋げている。
 言葉”だけに”頼らないコミュニケーションをプリキュアが行うということは、非言語を絶対視して行動のみに意思疎通を託すということではなく、人間……あるいは言葉を得た動物としてワンダフルとフレンディは、言葉なきものに常に、優しく語りかけ続ける。
 声のトーンや雰囲気といった、言語の外にあるムードそれ自体が強烈なメッセージとして成立し、前向きなコミュニケーションを成り立たせる……というのも、動物へ通じぬ言葉を発する、大きな理由の一つだろう。
 同時に言葉を介する者同士(動物に語りかける自分の言葉を、聞く客体としての自分含む)が、どんな気持ちでいるのかを言語化することで鮮明にし、コミュニケーションが目指すべきところを、あるいはコミュニケーションそれ自体の現状を相互に確認しあう、導きとしての言葉もそこにはある。
 言葉で考え何かを表す動物になってしまった人間は、自分の気持ちを非言語的動物ほどダイレクトに感じ取れはしないかもしれないけど、しかし言葉という補助具を使い表すことで、不鮮明で不定形な気持ちをよりしっかり、相手に伝えることも出来るのだ。

 こむぎが言葉を得たことは、少しの難しさと沢山の幸せを常に内包している。
 言葉を使えるのなら無条件に相手が理解り、通じ合えるのだとしたら世界に争いなんてどこにもないわけだが、バベルの逸話以来人間は、言葉あればこそ闘い、理解りあえない自分たちと向き合っても来た。
 しかし未来ある子供らの夢を形にし、その行く先が幸福であると照らすこのアニメは、言葉が持ってる難しさや複雑さを極めて平易に物語に折り込みつつ、そんな人間的メディアが持っている可能性を信じ、プリキュアたちによく語りかけさせる。
 そうやって、難しいものを飲み干しやすい形に整えて手渡し、もしかしたら願い通り受け取ってもらえる往復が成立している事自体が、アニメと視聴者の間でコミュニケーションが成立している、幸せな一例なのではないかなと思ったりもする。

 

 クレしんコラボはいい塩梅にサラッとした感じだったが、ここでもコミュニケーションの複雑な豊かさが、いい感じの面白さと混ざりあって描かれていた。
 こむぎと違い、シロは自分の気持ちを言葉にできない(こむぎに通訳してもらう)立場にある。
 シロの真意をしんのすけは全然汲んでいないわけだが、幼稚園児とその飼い犬の間にある愛情は本物であり、ズレていることすらも大声で笑いながら、楽しい時間を過ごしている。
 『幸せである』という生物究極の目標において、『言葉がある』というのは大事で有益な条件ではあるけども、それがなければ何もかもが成り立たない、必要条件ではけしてないのだ。
 言葉になればこそ通じ合えるものも、すれ違うものもあるし、言葉なしでも繋がったり、あるいはすれ違ってなお幸せであったり、いろんなあり方が人と人、人と動物、動物と動物の間には、確かに存在する。
 (あるいは人と動物を隔てる壁自体を、取っ払って向き合える未来をこそ、このお話は見据えていて……だからこそ『喋れる/喋れない』『人間である/人間ではない』という区分を甘く見ず、結構細やかに作中に描いているのかもしれない)

 シロが運動苦手なおとなしめのイヌで、こむぎを筆頭に活動的で元気な連中と同じではない……けど、楽しく過ごせたのも、俺は凄く好きだ。
 こむぎが間に立つことでそういうシロらしさがしんのすけに伝わったのも、それを知る前からしんのすけはシロを大事に出来てて、お互いの凸凹が完全に噛み合わないまま、幸せな家族として過ごせていたのも、とても良い。
 走るのが好きでも苦手でも、あるいはそんな個性を知り伝え合うことで、コミュニケーションが成立して、もっと楽しい時間が生まれていく。
 そういう甘っちょろい交流と笑顔の夢が、堂々力強く描かれていたのが、俺は凄く嬉しかったのだ。

 

 犬飼夫妻にとっては衝撃の異世界バレとなったが、前回頼もしさを強調してきたメエメエが間に立つ形で、プリキュア活動全面OKとなった。
 職業的にも人格的にも動物愛護の精神が分厚い人たちなんで、そらー愛娘が異世界生物の幸福を手助けしてると知ったら、誇らしく思えども拒絶はしないだろう。
 ……という所に落ち着いたのも、衝動に素直に突っ走る子どもたちには出来ない落ち着いたコミュニケーションをメエメエが代理して、異世界人と理解り合うべくコミュニケーション頑張ってくれた結果であり。
 ここにおいても、言葉を尽くして理解り合おうとする努力が主役とはまた別の形で、何かを生み出している。

 『こむぎが喋る』という異常事態は、彼女を家族とする親にとっても幸せであり、いわばいろはちゃんが独占する形になっていた秘密と幸福が、今回必然的に分配される形でもあった。
 秘密を守ることに過剰に固執している感じがあるメエメエも、犬飼親子とのコミュニケーションを通じて自分を変えている感じもあり、さてこっからどうなっていくのか……前代未聞の早期親バレプリキュアの、今後が大変楽しみである。
 犬飼姉妹の関係性が出来上がってるところから物語がスタートしたり、親が”プリキュア”応援する形が早々に整ってたり、やっぱわんぷりはかなり特殊な挑戦を、あえてでやってるプリキュアな感じする。
 なのでそれがどう結実するか、僕は結構楽しみに待っているのだ。

 

 そんな奇跡をもたらす鏡石の秘密は、相変わらず良く分かんねぇブラックボックスのまんまである。
 しかしそれが”鏡”であることは、このアニメが見据えているコミュニケーションへの期待と希望を、見事に結晶化させたフェティッシュだと、僕は思う。
 今回いろんな形で、言語/非言語コミュニケーションの可能性と難しさを描いてきた物語は、そうして繋がり解り合う(そういう行為に難しさをはらむ)他者をこそ、自分の形を確認する手鏡として尊重している。
 身勝手なエゴイズムに呪われていては、孤独に見えなくなっていってしまうモノを誰かが手渡してくれるからこそ、他人がそこにいる事実をしっかり見て、通じ合えない誰かとそれでも通じ合おうとする行為に、大きな意味が生まれてくる。
 誰かをわかろうとすること、わかってもらおうとすることは、わかっているはずで全然わかっていない自分の形を、鏡に照らして理解していく行為でもあるのだ。
 今後話が進んでいく中で、そういう他者を尊重できない敵が立ちはだかるんじゃねーかなと、予測……あるいは期待もしている。

 ここら辺、クリティカルな変化がなかなか訪れないながらも、じわじわ犬飼姉妹との出会いが行動様式を変化させているニャミーを(それこそ大きな鏡として)、今後照らされる部分かな……と思ったりする。
 ニャミーの優しさはつねに、泥まみれの自分を運命的に見出して抱きしめてくれた猫屋敷まゆに向いている、狭くて強い愛だ。
 しかし今回、むくどりの訴えをしっかり聞き届け、爪を立てずに自分なりに問題を解決した姿勢は、その狭さと強さが少しずつ形を変えていること……触れ合いとコミュニケーションにはそういう力があることを、良く語っていたように感じる。

 ニャミーの持つ狭さも強さも、間違いと否定されるべき要素ではけしてなく、むしろ狭くて強いからこそ嘘じゃないデカい気持ちを、視野が広くてみんなに優しい犬飼姉妹には描けない真実として、作品に焼き付ける大事な画材だと思う。
 そんな大事なニャミーらしさを保ったまま、お互いを分かり合い共に戦う未来へ続く道は、ジリジリと長くてゆっくり進む。
 『人間、そういうもんだよ』と、効きが遅い薬であるコミュニケーションに絶望することなく伝えるための語り口を、わんぷりは結構独特に確保できているのかなと、思える回であった。

 

 人によって”プリキュア”に求めるものは大きく異なると思うけど、僕は自分たちが作り上げてきたものに誇りと自信を持ちつつ、だからこそ新たに活きた物語を届けるべく挑戦を止めず、色々ヘンなことやり続けている姿勢が、凄く好きだ。
 なのでわんぷりがメチャクチャ大胆に……人によっては破壊的に思えるくらい、バトルを廃しゆったり自作を進めている事を、楽しみつつ尊敬している。
 猫屋敷チームの本格参戦をこんだけ引っ張り、言葉や思いが染み込むための時間を長く取ることで描かれる、コミュニケーションの難しさと尊さ。
 それは作品全部を賭けて”プリキュア”が挑むべき価値が、十分以上にあると、僕は感じています。
 次回の”わんだふるぷりきゅあ!”も、とても楽しみです。