イマワノキワ

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花野井くんと恋の病:第11話『初めての学校探検』感想ツイートまとめ

 花野井くんと恋の病 第11話を見る。

 八尾くんというテコを外から入れてクライマックスを転がしていくと思いきや、あくまで主役カップルの心と体の触れ合いを通して欲望と愛情が適正距離を見つけていくエピソードとなった。
 未成熟だからこそ世の中のグジャグジャした所、まともに受け止めず”正しく”いられてる部分もあるほたるちゃんが、花野井くんの体内で燃え盛る炎を受け入れ確かめる形で、言葉にならない不定形の衝動が自分の中でどのくらい熱いのか確かめ、突き動かされるまでを描く。
 清潔で微笑ましいこの作品が、二人だけのヰタ・セクスアリスにしっかり踏み込む甘さと熱があって、良い終章中盤だった。

 

 卓球勝負に負けて、八尾くんに命じられる形で花野井くんが自己開示できてたら、そらー手っ取り早かったと思う。
 しかし花野井くんはちょっと不意打ち気味の…『悪い子』のやり方で言わない自由をもぎ取り、中間地点を浮遊する。
 性と愛の、正しさと感情の、あなたとわたしの、不確かな中間地点。
 そこに一人置き去りにされる怖さと寂しさを埋めるべく、花野井くんは極端で一方的な献身を相手に押し付け、相手を知ることで自分もしる相互干渉な恋から、距離を置いていた…と思う。
 しかしほたるちゃん相手には、極論で強引に安定化させる生き方が通用しない。
 否応なく封じていた己が溢れ出し、相手と混ざりだす。

 序盤から示されていたように、花野井くんはクールな顔で情熱を持て余している少年で、肌のふれあいを通じて自分の輪郭を確かめたい気持ちも大変強い。
 それが一方的なエゴの消費とは少し違う、ずっと掴めていない己の形を確かめる行為だからこそ、花野井くんはほたるちゃんを強引に奪わず、相手から適切に求められるタイミングを必死に探る。
 これが出来てるあたり、ヤンでるという自己認識に反してまったく誠実な青年だと、ずっと思っているわけだが。
 脳髄と睾丸が直結している第二性徴期ど真ん中、相手の心と体踏みにじってでも体内のマグマを放出したい欲望は嵐のごとく激しかろうに、極めて紳士的であろうとする花野井くん。

 その本質はほたるちゃんが見定めるように、極めて誠実で優しいもので、自己評価が極端に低い彼にはそんな自分が、自分だとなかなか思えない。
 でも自分が『いい子』だと思いたいからこそ、自分を求めてくれる誰かをずっと求めて恋に迷っても来たわけで、彼が身を置く不安定な中間地点は、『いい子/悪い子』という両軸にも存在している。
 両親に愛してもらえないならすなわち己は『悪い子』なわけで、突きつけられた結果が示す自己像に引っ張られるように恋人以外を蔑ろ、ピアスの痛みを己にも刻んだ感じだとは思う。
 『悪い子』になるにしても自分の外側に動因があるあたり、つくづく周りをよく見てしまう子なんだなぁ…。

 

 

 

 

画像は”花野井くんと恋の病”第11話より引用



 隣に並び立つ公平な社会性から一歩進み、触れて突き放し求める私的な体熱を問う今回、アニメのフェティシズムは足よりも手のひらに以降していく。
 どこに体重を預けたものか解らない、お互いの過去を探り距離を測る間合い。
 ほたるちゃんが受けたキズを花野井くんは紳士的にケアし、ケアできる優しい自分の本質を、無自覚に恋人の前にさらしている。
 その誠実さに”正しく”報いるためには、ナイーブな場所に踏み込み、あるいはさらけ出す必要がある事実を、ほたるちゃんはしっかり認識し…だから恐れている。
 自分たちの適正距離を言葉で探る時、その足は地面につかない。

 身長差を利して、高い場所に己を置けるはずの花野井くんも、そんな不安定なほたるちゃんの居場所まで頭を下げ、あるいはすがる。
 さらけ出されようとしている秘密が、切り崩す心の安定…あるいはこれまでの自己像。
 完璧でなければ愛されないと、無理やり鎧を着込んで自分を封じなくても受け止めてもらえる信頼は作れたが、そこで暴かれる脆く弱い自分のままでいられる強さは、まだ花野井くんにはない。
 一方的に恋人を貪ることで、その不安を紛らわせたい欲求が固く金網を掴む手のひらに宿るが、すんでのところで獣欲を抑え込む優しさと正しさが、花野井くんにはずっと残っている。
 それだからこそ、彼は苦しいのかもしれない。

 

 手負いの獣のように息を荒げる恋人を、ほたるちゃんは理屈を超えて湧き上がる感情のまま抱きとめ、花野井くんの痛みを吸い上げていく。
 かつては解らなかった、”正しさ”を越えて人間の中に…あるいはその間に、荒れ狂う感情の嵐。
 自分の大事な人が目の前、それに翻弄されている姿を黙って見ていられない自分、そこに己の身体を投げ出せる自分を、ほたるちゃんは言葉によらず認識して、願うままに抱きしめる。
 ここには性的欲求と博愛が入り混じった、極めて純真な衝動の主体となりうるほたるちゃんがいる。
 外側から注入された”正しさ”ではなく、己の中から湧き上がる想いに突き動かされて、未来を選び責任を追う、大人な自分

 その意味を頭で考えるよりも早く、ほたるちゃんは開示された花野井くんの傷と欲望を抱きしめることを選び、その抱擁が花野井くんに自制を取り戻させる。
 セックスは愛の必然として選ばれる”べき”であり、そうなる”はず”であり、そうでなければ”ならない”という強烈な鎖が、花野井くんの中の獣をキツく縛っていて、それでギリギリ適正な社会生活営めている様子が、夕日の中に濃い。
 愛に飢えすぎている彼は、顔面を囮に女の体熱で自分を温める道だって、当然選べた。
 そういう最悪なドンファンに彼がならず、ほたるちゃんに相応しい恋人でいられる足場は、『いい子』への渇望に薄く支えられてる感じがある。

 

 自分がどんな存在で、何を求めているのか。
 恋人として深い関係で繋がるのなら、提示しないほうがアンフェアな暗い泥を突き出すまでの、二人だけのプロトコル制定。
 『お互いのことを、もっと良く知ろう』という極めて健全な結論に至るまでのやり取りには、極めてフィジカルな熱量と剥き出しの欲望、それを抑え込む鎖の強さが反射していて、とても良かった。
 そういう不定形のドロドロは微笑ましい二人の中に確かにあって、そういう人間の証明にどう目鼻をつけていくのか、二人の間でなにが”正しい”ということにしていくのか、思春期と取っ組み合いしてる様子がちゃんと見えることが、キャラとドラマに血肉を足していく。

 ここでは相互自己開示のスタートを選んだだけで終わったわけだが、気楽に見える倉田くんが部活という小社会の中でもがいている様子を遠くに見て、雨中の教室で第2ラウンドが始まっていく。
 最終的に熱烈な接吻に至る、極めて距離が近い二人きりの問いかけの始まりが、花野井くんの外側に確かにあって、ほたるちゃんの交友関係をハブにして繋がる場所の観察なのは、凄く面白かった。
 結局自分の外部に何があるのか、『どうでもいい』とうそぶきつつ必ず目を向けてしまう視力が花野井くんにはあって、自分じゃない誰かが”正しさ”と向き合っている様を、本当はちゃんと見たいとのだ思う。
 でも見ない。
 見ないように、己を律してる

 他人に気を使える『いい子』であることは、花野井くんにとって大きなタブーでありながら、猛烈に自分を縛り形作るルールでもある。
 この矛盾を乗り越えて、本当になりたい花野井くんに近づいていくためには、愛されてる実感にアイデンティティを支え、燃え盛る欲望を受け止め肯定してもらい、『いい子』でいたい自分、両親に愛されたくて愛されなかった自分と、向き合うだけの足腰を造らなければいけない。
 今回のキスは、そのための強烈な基盤になっていくだろう。
 …新たな自己像の足場づくりって意味では、生きる実感の薄さに悩んでたほたるちゃんにとっても極めて大事で、そこもフェアなお話なんだな。

画像は”花野井くんと恋の病”第11話より引用

 気楽に見える倉田くんの部活サバイバルを契機にして、二人はお互いの内面を開示し、過去を語る。
 『どうでもいい』はずの友達に支えられ、『悪い子』になって生き延びた思春期の傷に、ほたるちゃんの指が触れる。
 一方的に求められるだけだったはずの身体接触は、ほたるちゃん自身がしたいことになっていって、お互いの距離が雨の中に縮まっていく。
 しとどに濡れる雨だれが何を象徴しているのか…密かなエロティシズムの詩情が、直球だからこその良いスピード感でロマンスを沸かせていく。
 日生ほたる…色を知る年かッ!

 家族に愛しさ愛され、子どもとして何が正しいのか常に間近に教えてもらえる環境にあったほたるちゃんは、ネグレクトされ愛を渇望する花野井くんの餓えが、なかなか分からない。
 分からないから怖いし、分からないなりに花野井くんが必死こいて自分を抑え込み、ほたるちゃんを大事にしてくれていることは解る。
 その渇望がどこから出てくるのか、過去語りからだんだん解ってきたことで、ほたるちゃんは自発的な願望として花野井くんの身体に触れ、獣の渇望を観察する。
 ここで相手の同意を取り、自分がどこまでやりたいのか一個一個確認する生真面目さは、とてもほたるちゃんらしくてチャーミングだ。

 

 ほたるちゃんはロゴスを己の中心に据え、言語によって世界を切り分けられる理性の人だと思う。
 生きる上で何が大事で、恋人がどういう人なのか。
 迸るパトスを魂の核に据えて、感情中心の生き方をしてる花野井くんに足りない部分を乗じ手渡しながら、花野井くんに反射する自己像をちゃんと見ている。
 その鏡像が、花野井くんがずっと求め我慢してきた不定形の感情を欲していると認識したから、ほたるちゃんは花野井くんを触り、抱きしめ、口づける。
 それは言葉にならないメッセージを明瞭に、濃厚に発し、言葉を飛び越えた切望を二人だけの答えとして、選び取らされる。
 これを選んでしまえば、もう二人は子どもではない。

 かつて花野井くんが、二人の適正距離だと選んだおでこへのキスを、ほたるちゃんは(極めて花野井くんらしい)情熱に押し出されて自分の決断として掴み取り、差し出した。
 それが恋人同士のエロティックな口づけへと加速していく時、言葉による同意はない。
 しかしそれを飛び越えた…いわば超ロゴス的体験としてのキスは、だからこそ何よりも的確に今の二人を活写し、揺るがない答えとして刻まれていく。
 そういう事をしたい熱量はしっかり釣り合って、ぴったりはまり込んで、隙間なく混ざり合い満たされていく。
 そういう、自己矛盾を溶かす止揚体験としてのセックス…あるいは、その前景としてのキス。

 それが自分たちの答えなのだと、力強く世界に突き出すのは色んな責任を引き受ける、極めてオトナな行為でもある。
 それを選び取ったということが、誰かに愛されるために『いい子』でいなきゃいけないとか、それに反発して『悪い子』になろうとか、そういう二元論に小さく縛られていた時代を、二人から遠ざけていく。

 

 二人は誰にも邪魔されない聖域で、自分たちだけの答えを選んだわけだが、ここに花野井くん達を押し上げていくためには八尾くんやら倉田くんやら、飄々としているようでいてけっこう生きづらい少年たちの、社会生活や心の在り方を見て、学び取る必要があった。
 遠いはずのわたしとあなたは、ここに来て極めて近い。

 誰にも見せない二人だけの行為だからこそ可能な、私的営為としての性交。
 それが暗く閉じたエゴの交流ではなく、極めて風通しの良い社会との接触の上に成り立っているのが、凄くこの話らしいな、と思う。
 孤独で私的な個人であり、社会に正しく求められる公人でもあるアンバランスを、存在の根本として成立している人間の有り様。
 理性と感情、女と男に切断されつつ、強く混じり合う恋人たちの恋路は、そういう二極にも口づけで橋をかけて、あるべき自分を探していく。
 私的領域で愛されている実感を、肌を触れ合わせて強く感じ取ったからこそ、社会に求められる”正しさ”を背負えるだけの足腰も、また整っていく。

 ずっと求めて届かなかった、周りをよく見て大事に出来る『いい子』の花野井くんへ、進んでいける足場も整っていく。
 極めて情熱的に若き恋人たちの歩みを描きつつ、作品全体が主役たる青少年を、彼らが置かれている心と世界の風景を、どう見つめているか削り出す回だったと思う。

 

 …二つに分断された諸要素の融合、生きる実感の再獲得、形骸にならず血の通った倫理、愛の意味。
 プラトンが”饗宴”で書いた主題が、少女漫画の形で元気に語り直されてる所が、自分がこのお話好きな大きな理由なのかなー、とか少し思った。
 二人だけの正しいセックスに向かって物語が踏み込んだ結果、作品が追うエロスの顔がより鮮明になった。

 周りがなんと言おうがお互いを求める、セックスの主体となりうる自分たちを雨の教室で確認したことで、ほたるちゃんと花野井くんの自己像がどう変わっていくのか。
 その変化が、二人をつなぐ関係に、あるいはその外側に広がり繋がっている世界に、どう影響していくのか。
 今回のエピソードの波紋を確認する余地が、まだまだあることが嬉しい、最終話二個前でした。

 清く正しいおつきあい…と世間にされているもので満足できない、子ども達の性を熱量込めて真摯に描く姿勢は、俺凄く良いと思う。
 それは確かに、そこにあるのだ。
 誰がなんと言おうと嘘じゃない、唇の熱を確かめてしまった二人がどこへ進むか。
 次回も楽しみ