イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

夜のクラゲは泳げない:第12話『JELEE』感想

 深い海底を流されるまま迷って、誰かの輝きを奪って。
 そう生きることしか出来ないのだと思いこんでいたクラゲたちが、お互いを照らしながら未来の方へと進んでいく物語も、遂に最終回である。
 花音は何のために歌うのか。
 JELEEのアートに何が出来るのか。
 複数の名前を持つことの意味は何か。
 作中幾度も繰り返し問うてきたテーマに、しっかりと答えを出す最終回で大変良かった。

 

 キャラクター単位の自己探求・自己発見・自己実現がしっかり為されたのも良かったが、絵と音楽と映像が組み合わさって一つのMVになっていく、JELEEのアートがどこにたどり着いたのか、渋谷をアクアリムに変えるラストライブに鮮明だったのが、僕はとても良かったなと思う。
 それは絵師と歌手と作曲家と映像制作者の四人が、一つの名前とアイデンティティを共有して一緒に走らなければたどり着けなかった場所であり、目の前に広がっているその到達点を、かつて拳でぶん殴り生き様で殴り返されたメロに示してもらって気づく。のは、花音ちゃんが挫折の果てに選んだ彼女なりのアートの現場だ。
 ビジネスマン、あるいはプロデューサーとしては極めて優秀でも、”母”としては何かが壊れている雪音との繋がり方が壊れ、そこに自我を預けていた花音ちゃんもまた壊れかけてなお、歌うことを選び直した彼女の空っぽを、誰がどう埋めてくれたのか。
 壁面にペンキで塗ったクラゲの絵から、PCを駆使したイラストへ、それに曲が乗っかったMVへ、あるいは無観客のライブに命を吹き込むプロジェクションマッピングへ。

 そして実在のファンが自分たちのアートに、どんな色合いを瞳で輝かせるのか確認できる距離で生まれていく、現実の渋谷を塗り替え、強化していくARアート。
 それぞれの生きづらさを抱え、生きづらい場所でどうにか生きをしていくために生まれたJELEEのアートが、どういう進化を遂げて一つの美を形にしたのか。
 そういう事を、12話かけてちゃんと追いかけられる物語になっていたのは、メインに選んだテーマに相応しい勝負の仕方で、大変良かった。
 名曲”1日は25時間。”を回収しながらエピローグに語られる、人間本来のリズムで生きていたら、杓子定規な24時間世界に殺されてしまうクラゲな少女たちが、それでも生きていくために選んだ自分たちだけの水槽。
 それは閉鎖的な自己愛撫などではなく、広く世に問われ多くの人の共感(と、少なからぬ反発)を生み出し、渋谷を大きなアクアリウムに変えていける、現実的なパワーになった。
 そうやって自分を曲げるのではなく世界の方を、生きやすく変えていく方法はカルチャーやテクノロジーの変化とともにとても多彩に増えてきていて、そこから現在進行系で変化しているアートには、人が生き延びるための確かな力がある。
 そう信じて話を進めてきて、そう強く宣言して話が終わるのは、21世紀のアートがどうなっていくべきなのか、ポップながら真摯に向き合った作品として(も)このアニメを見てきた僕には、とても嬉しいものだった。

 

 4話×3章の明瞭なフレームの中に、高度に圧縮された展開と感情をぎっしり詰め込んで的確に走り抜けてきたお話を、最後に収めるこのエピソード。
 衝撃の第9話以来、JELEEメンバーがなかなか表に出さない深海にまでしっかり潜って、そこで溺れず自力で人生を泳げる力を付けた……あるいは見つけた少女たちを、このアニメはしっかりと描いてきた。
 事前にめいちゃんやキウイちゃん、まひるの迷いと痛みと決意と成長を描いておいたからこそ、ステージに上ってなお答えが見えない花音ちゃんが何を答えと見つけるのか、雪音との関係に重ねてしっかり描き切り、花音ちゃんの変名であると同時に四人全員の名前でもあるJELEEがどこに泳ぎ着いたのか、豊かに描ききるエピローグへもたどり着けた。
 凄く高速で物語が転がっていくのだが、語りきれていない感じがしない、巧妙な話運びが基礎にあるからこそ、Webを通じた表現活動を通じ、仮想であったり実在であったり、メンバーそれぞれ様々な”私”を探していく物語は、とても良いところへと僕らを連れて行ってくれた。
 その最終章として、物語が始まる時自信満々にまひるの手を引いてくれた、とてもハンサムで弱い女の子が求める未来の自分を、しっかり描いてくれて良かったなと思う。

 母に打ち捨てられたところから”山内花音”としての物語をスタートさせた(させせざるをえなかった)花音ちゃんにとって、その決着が雪音との対峙で付くのは必然だ。
 この作品が”答え”として出したものが、果たして妥当な正解であったのか……正直な話、ちょっと複雑な気持ちはある。
 ビジネスマンとしては誠実さと熱意、的確な分析眼と妥協のない理想を兼ね備えた存在として、まひるを仕事相手に描かれつつ、母としては愛ゆえに自分の全てを、空っぽになるほど差し出してきた娘に報いきれず、壊してしまった失格者。
 彼女もまたどこかが世界の正しさと適合しきれない、夜のクラゲの一種として描かれていることが段々と分かってきたわけだが、彼女が最後の餞として娘に差し出したものには、彼女らしい傲慢が適切に臭っていて、なかなかにキツいなとも感じた。
 自分が背負いきれなかった”早川”の姓、もはや失われた親子のつながりをスタッフロールに乗せて手渡す行動には、確認もなしに娘がそれを求めていると押し出す、極めて雪音らしい押しの強さが濃い。
 実際それをこそ花音ちゃんは求めていたし、例えその名前が活きた名前として自分に戻ってこなくとも、あの時あの場所でもう一度告げられることが決定的に救いなことを解った上で、大人としての、ビジネスマンとしての優位を崩さず歩み寄らず、一方的に正解を与えて去る姿勢には、歯がゆい思いも確かにある。

 その上で、最大限頑張ったうえでアレしか出来ないからこそ、雪音という人間は”早川雪音”なのだろうなという、徹底された描写への納得もある。
 どうやっても人間の柔らかな部分に寄り添えず、だからこそ極めて正しく”仕事”が出来る雪音Pだからこそ、アマチュア集団たるJELEEをもう一段階広くて厳しい場所へと引っ張り出し、描かれなかったものを描く重要な仕事を、ちゃんと果たしてくれたわけでね。
 あそこで過ちを認め”いいお母さん”に化けられても、『そらー嘘だろ……』としか思えなかっただろうし、母という生き方にどうしても適応できず、それを演じ続けることに意味を見つけられなかった家庭不適性な夜のクラゲとして、到達できるベストな決着だったとは思う。
 複雑にこじれた親子関係、無惨にねじ切られてなお残る愛というテーマは、深く踏み込みすぎれば作品の主題を全部乗っ取って、この話を”JELEE”の話では無くしていったと思う。
 どんだけ恨み愛してもおかしくはない、業の深海から適切に距離を取って、花音ちゃんが変われない母を許してあげれる自分へと、軟体生物らしく『変わってあげた』この決着は、自分的には望みうる最上かなぁ、と思う。
 まーどんだけ俺が許せなくても、花音ちゃんが許し救われているのだからそれが正解だろうし、僕は花音ちゃんをとても尊敬しているので、そんな彼女の選択をこそ尊重したい。
 花音ちゃん、 親離れ淋しいだろうけど、おめでとう。

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第12話より引用

 過酷な衝突と一時の別れを経て、あるべき自分を見つけた仲間たちの眩しい顔立ちに対し、最終話に至っても花音ちゃんの顔は影に覆われ、良く見えない。
 それは花音ちゃん自身のイメージを反射した結像であり、この最終話が一体誰のためにあるのか、明瞭に示す冴えた演出でもある。
 量産型の諦めに自分を沈めようとしていた第1話、自分の手を引いて眩しい方へと連れて行ってくれた相手への恩を、返すためにはここしかない。
 数字を盾に野望を押し通す、ガキなりの真心と熱量を雪音は眩しい窓辺で、一切己を疑うことなくしっかり問いただす。
 その厳しさに試され、あるべき自分を見つけたまひるの曇のない表情に比べて、花音ちゃんは窓辺に背を向けて暗く、あるいは電車の窓に弱々しく自己を反射させて、ずっと自分の顔を見つけられないままだ。

 その根本に、ずっと自分の名前でありそれを支えに母を愛してきた”早川雪音”の喪失があるからこそ、雪音ともう一度”仕事”をする場所へまひるが道を拓き……ビジネスを通じて生まれた睦まじい師弟関係を目の当たりにして、花音ちゃんは更に深い影へと沈んでいく。
 苦手で好きじゃない歌も完璧にこなし、雪音が求めるアイドル像を演じきったメロとの再会は、逆三角形の金属フレームが冷たく間を阻み、わだかまりなく心を通じ合わせる距離まで近づけない。
 目の前に広がる無明の闇に、顔を伏せた花音ちゃんの手を取って前を向かせるのは、JELEEとして共に進んできた仲間であり、お母さんが価値を認めてくれなかった自分を、それでも好きだと言ってくれた友達だ。
 これを絶対の答えに出来ないからこそ、花音ちゃんは弱くてもろくて面倒くさいのだが、でもそういうクニャクニャ骨のない複雑さが、花音ちゃんらしくて愛しくもある。
 両手を強く握られても、目の前にもう広がってる眩しい光を自分に向けきれない花音ちゃんに、この最終話を捧げる。
 そういう気概が、冴えた演出の刃に強く宿る。

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第12話より引用

 自力で荒海を泳ぎ切る力を持たず、流されるだけの無力なクラゲをトーテムとしてきた物語が、最後のステージに主役が進み出るための装置として『動く歩道』を描くのは、とても面白い。
 運命の決戦場に引きずり出されるまで、花音ちゃんは自分の足で進まず、足元ばかりを見て目の前に何があるのか、自分の目で見れない。
 その臆病と無明をただの間違いだと、上から切り捨てるには僕は彼女のことを好きになりすぎているし、そうならざるを得なかった悲しい歩みも、もう知っている。

 それでも必死に無傷を強がり、仲間とぶつかり支えられて、ようやくたどり着いた場所で、やっぱり花音ちゃんは自分の顔を見れない。
 ここでねぇ……メロが決定的な一発を入れるのは、そらーここ最近二話でグッとコクが深まったキャラで、『そうなってくれたらいいなぁ……』とは思っていたけども、実際そうなって見ると衝撃だったよやっぱ!
 アイドルの厳しさ何も知らねーまま、憧れの雪音Pに必要とされ綺麗なまま華やかで、その清廉のまんま自分をぶん殴りグループぶっ壊した花音ちゃんのこと、メロは相変わらず嫌いだと思う。
 だけどなんか、割り切れないモノが確かにあったからこそ、”見ろバカ”というもう一つの名前を隠したままあの車内でまひるに色々問うて、今の”ののみ”の側に誰がいて、そこから自分がどう見えるかを、追いすがって確かめたのだろう。
 そうして触れ合って動いた心が、階段の上ですれ違った冷たさをぶっ壊して、花音ちゃんの前に今、何が光っているかを教えさせる。
 それは出会いからして”仲良し”ではなかった二人が、拗れに拗れ殴りに殴った挙句の果て、自分たちの関係を泳ぎきった一つの答えだ。

 

 メロは結構、花音ちゃん並みの変なやつであるヨル先生のことが、好きなんだと思う。
 正しいと信じてぶちまけて、色んなモノを壊してしまった自分のもう一つの名前を、全肯定はしないけど寄り添ってくれた体験は特別なもので、『そういう女が今目の前、お前の名前を呼んでるぞ!』と告げた裏には、花音ちゃんへの複雑な思い以外の、新しいスパイスが入っている。
 どん底に彷徨いながら、未だ歌う自分の輪郭を縁取ってくれた海月ヨルの絵は、JELEEの絵になって夢を今、現実にしている。
 光月まひるという、特別に大事な友達の顔で自分のために泣いてくれて、JELEEの絵師として自分が好きになれる絵を必死に追い求めてきた成果が、渋谷をアクアリウムにしている。
 どれだけの重みと痛みに顔を伏せても、空っぽでなにもないはずの自分にも、確かに目の前にある、生きた証。
 花音ちゃんがいなければ始まらず、一人では形になら叶ったJELEEのアートに眼を開くことで、花音ちゃんは周囲を包囲しているのが顔のない匿名の怪物ではなく、自分の歌を待ちわびているファンなのだと、改めて見つめることが出来る。

 学校でのいじめ、ネット越しの中傷、あふれかえる噂話に顔のない悪意。
 ずっと匿名の鎧の卑劣さ、何かを笑って安心を得る醜さを描いてきたお話が、それに飲み込まれかけた主人公が確かに仲間と作り上げてきた、アートの美しさで光を取り戻す終幕は、大変に素晴らしい。
 そうなるだけの力が、まひるがイラストを書きキウイちゃんがそれを動かし、めいちゃんが作った曲を花音ちゃんが歌うことで生まれるJELEEのアートには、確かにあるのだ。
 人間の心をあまりに簡単に傷つけへし折る、醜悪な怪物だけが世界に満ちているのではなく、そういう暗い仮面を引っ剥がして、顔のある一人ひとりへとファンを変えていける可能性が、花音ちゃんの歌には確かにあるのだ。
 メロの言葉に顔を上げ、まひるの涙に目を拓き、渋谷に生まれたアクアリウムを……JELEEの美術を改めて目の当たりにすることで、花音ちゃんは自分のいる場所が暗いだけの深海ではなく、自分は自力で泳げず輝けないクラゲではないことを、もう一度思い出していく。

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第12話より引用

 かくしてあるべき自分を取り戻した花音ちゃんは、みんなで造ったアバターを自由に渋谷アクアリウムに遊ばせながら、歌声と動きで命を吹き込んでいく。
 歩く歩道ばかりを見て、眩しく輝いている世界を見つめる余裕もないままただ流されていた時間が終わり、花音ちゃんは自分の足でステージを歩いて、ファンが待ち望んでいたパフォーマンスを行う。
 それはネット上の匿名ユニットであり続けたのならば生まれない、リアルタイムでライブな拡張された現実であり、巻き込まれた年増アイドルの穴埋めステージで生身を晒したからこそ、たどり着けたJELEE最新鋭の表現だ。
 ここを決着とするべく、第8話のステージは無観客のヴァーチャル重点だったのかなぁなどと、後から見つめ直して思ったりもする。

 黒髪の橘ののかが、アイドルのように生身でステージに立ってファンに向き合う今の自分を、花音ちゃんが肯定できたから生まれたものなのか。
 それとも過酷な試練を遠い高みから見届けきって、失われた夢の輝きを幻視した雪音の視点なのか、なかなか判別はつかない。(多分、その両方なのだろう)
 どちらにしても現実と仮想、過去と現在が交錯する渋谷アクアリウムは、答えが見えないままそこに立つと決めた花音ちゃんに、彼女が必死に戦ってきたからこそたどり着けた答えを差し出す。

 

 それをくれたのが誰なのか、解っているから花音ちゃんは弾む心を抑えきれず歩く歩道に飛び乗り、流れよりも早く自分を押し出していく。
 他のキャラの生き様を豊かに描きつつも、やっぱりこのお話は花音ちゃんとまひるの物語であったから、最後二人がワチャワチャすれ違って(可愛い)、心からの笑顔でもう一度抱きしめあって終わっていくのは、凄く良いなと思う。
 それが当たり前の答えだという甘えた思い込みを、まひるが雪音の仕事を受けることで一回ぶっ壊したからこそ、それが荒波に晒されたとて消えない絶対の真実なのだと、改めて確認することも出来た。
 こういうベーシックかつ大事な、試練と克服のダイナミズムに最終章、真っ向から挑んで勝ちきったのは、やっぱ偉かったなぁ……。

 ステージ直前……舞台に上がってなお答えの見えない暗がりが濃かったからこそ、遂に真の姿を手に入れた”深海遊泳”を歌い切り、戻るべき場所へと走っていく花音ちゃんの笑顔は眩しい。
 彼女が帰ってくるのを信じて送り出し、お金パワーも最大限有効活用して最高の夢を現実にしてくれた、キウイちゃんとめいちゃんの立ち姿も、誰より頼もしい。
 仮想の逃げ場所に匿名で隠れこんだと、面白くもねぇヴァーチャル/リアル二元論で世界を解釈するなら受け取られてもしまう、JELEEの活動。
 そこに仮想で変名で連名だからこそ、現実に生きづらさを抱えなんとか泳いでいる少女たちの連帯と治癒を生み出し、もう一度現実で勝負する歩みを描いたのは、とても良かった。
 違和感まみれの現実体を一旦投げ捨てて、見つけ直したあるべき自分が自在に泳げるように、息苦しい現実の方を書き換えていける、特別な力。
 それを自分の手で作り出せるアーティストへと、少女たちが自分を育てる物語の決着点が、物語が始まったときのように眩しい光の中、二人が抱き合う瞬間なのは、本当に素晴らしい。
 暗闇が光に満ちるほどの衝撃を原点に、あそこでは夢でしかなかった輝きが今、確かに目の前にある。
 そういう成長と変化を、どれだけ揺り動いても変わらないものを、手に入れるための物語だったのだ。

 

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第12話より引用

 迷えるクラゲたちが出会い混ざり合い、自分たちだけの歌を生み出して未来へとたどり着く物語が、積み上がって生まれる必然の感動。
 JELEEの総決算となる感動のライブを描き切り、なお半分を残すタイミングで画面を横切るスタッフロールは、構図も演出もまさに完璧で、何かが確かに終わった実感と、そこから始まる新たな希望を、見事に可視化する。
 花音ちゃんとまひるが出会って動き出した物語が、エンドロールを迎える様子を今まさに、二人が現実に見ているという錯綜する酩酊感も含めて、物語が見事に決着するために必要な、大変スマートでクレバーな演出だった。

 流れていく終わりを座ってみているだけで、山内花音という少女が満足するのであれば、この物語は始まっていない。
 どれだけ打ちのめされバラバラに打ち砕かれても、何かを歌いたい、素敵なものを造って届けたいというアイデアが湧き上がるからこそ、彼女は一人でもJELEEとなった。
 でもたった一人じゃ望む夢は叶わず、運命が押し流した場所で海月ヨルと出会い、光月まひると友達になったから、JELEEは世界を書き換えて自分を輝かせ、その光を誰かに分け与えられる存在になった。
 たしかに私であり、私達でもある愛しいJELEE。
 その未来を切り開いていくのは、もう自力で立てるようになった両足なのであり、動く歩道に押し流されるだけの花音ちゃん空っぽは、もう満たされたのだ。

 

 そうやって未来を見つめる、強がったかっこよさは第1話、下ばかり向いていたまひるを確かに魅了した。
 花音ちゃんがハンサムだったから動き出した物語が、幕を閉じるにあたりもう一度、そのまばゆさを……それに何度でも惚れ込む少女の顔を描いて終わるのは、大変いい。
 後々関係が深まるにつれて、ハンサムなだけじゃない脆さや弱さや危うさもバンバン表に出てきたけども、そういう影があるからって花音ちゃんの輝きが嘘になるわけじゃないし、影に向き合う勇気があるなら、それは光をより強める舞台装置に変わっていく。
 そういう変化に拓けた存在として、軟体生物であるJELEEを描いてきたのも、この作品の良さだろう。

 だからずっと求めてきた相手から、ずっと手渡して欲しかった名前をエンドロールに刻まれて、声なく泣きじゃくる花音ちゃんの幼い顔も、あの子の本当の顔なのだ。
 早川雪音は母として娘の手を取り、優しくその名前をささやき続ける生き方が、どうしても出来ない人間だ。
 そういう存在が、望むままに踊るアイドルとして破綻してなお娘が歌を手放さず、JELEEとして歌い上げた”仕事”を通じてもう一度、娘に一瞬向き直せた。
 このスタッフロールは、そういう冷たくて奇妙に熱い、もう一人のクラゲのアートなんだと思う。

 正直早川雪音という人への感情は極めて複雑で、一筋縄ではいかないからこそ彼女を通じ、このアニメをもっと好きになれた部分がある。
 だからこのプレゼントをどう受け止めるべきか、自分の中で答えは形を得ないわけだが、一つ本当のこととして言えるのは、花音ちゃんはずっとこれを待っていたからこそ歯を食いしばりながらなんとか走って、何にも答えが解んなくなってもここに立つことにして、ようやっと差し出されて心から泣いた、ということだ。
 そんな花音ちゃんの現実と真実を足がかりにして、肯定よりの判断保留でもって、ヤバくてスゴい名プロデューサーの決断を飲み干そうと思う。
 花音ちゃんが『ええ』言うとるなら、それでワシはええんじゃ……。

 

 

 

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第12話より引用

 ”母”の責務と求められる情に、どうしても向き合いきれない雪音の業に対し、花音は傷つけられ打ち捨てられてなお”娘”であり続け、震えながら背筋を伸ばして立ち向かったステージの後に、ドーム満員で親孝行の夢を見る。
 泣ける……その健気、あまりにも泣けるよ花音ちゃん……。
 話数の最初には不確かな自分の輪郭を、鏡写しに確かめるように描かれていた車窓が、一つの物語を終え自分を見つけた後には、それを見つめなくても良くなっている。
 鏡ばかりを見つめていないからこそ、潤む瞳でこのライブの先にある未来を見つめている花音ちゃんの顔は、凄く生き生きと彼女の”今”を語っている。
 上手く親子ではいられなかった二人が、なんとか親子である道にしがみつくためには、プロのアーティストとプロデューサーとして”仕事”をするしかなく、それはかつて母との間にあった、一方的に魂を捧げ尽くして空っぽになっていく、自分のない営みとは大きく異なっている。
 そういう譲れぬ自分らしさを、歌という表現に乗せて見つめ形にできるようになったのは、やはり花音ちゃんがJELEEという新しい名前、新しい形を、仲間と触れ合いながら掴めたからだと思う。

 そういう魂の輪郭を探る歩みは、この物語でJELEEとなった全てのヒトに同じで、たっぷり尺を残したエピローグは余韻豊かに、彼女たちがたどり着いた場所を描いてくれる。
 堂々三十二歳の誕生日を告げれるようになった静江姐さんも、たった一人暗い場所でウーロン茶飲む以外の生き方を見つけたメロも、己の業を冷たく抱えたまま夜を駆けていく雪音も、みんな夜のクラゲだったのだと思う。
 それはひどく柔らかな魂を、隣り合った誰かに支えられて支え、影響を受けてお互いを変えていける、傷つきやすい不定形だ。
 世界が暗い闇に飲み込まれてなお、光の方へと自分たちを押し出していける衝動の行方は、一体どこにあるのか。
 まだまだ続いていく未来の中で、それぞれの光が影に照らされながら明滅している。

 

 JELEEメンバー最後のスケッチが、全員が苦手だったことをちょっと乗り越えて、大好きな誰かのマネっ子をして強くなっている様子なのが、僕は好きだ。
 まひるは他人の目の前で自分が好きになれる絵を描ききり、キウイちゃんは自分が作り上げた外装に教師という新しい強さをこめて送辞を読み、めいちゃんは推しの可憐さを自分に引き寄せて、良く似た誰かにサインを手渡す。
 変わっていないようでいて一年と少し、一緒に進んで一緒に迷ってたどり着いた場所は、四人で一つのJELEEになったからこその変化に満ちている。
 そういう形でしか代われず、そういう形でなら変わっていける厄介さと希望を同時に描く上で、MV制作というマルチメディアな芸術表現と、それが配信業を飛び出してリアルに混ざり合っていく様子……専門分野が異なるアーティストが互いに影響を及ぼし合いながら、同じ何かを形作っていくJELEEというスタイルは、有効かつ必要だったのだろう。

 花音ちゃんはクールに、母なりの歩み寄りに微笑みながら背を向けて、自分が進むべき未来へと一人で走っていく。
 その力強くて、自分でやるしかなかった巣立ちの健気に何度でも、僕はやりきれない切なさを抱く。
 どうにか”正しい”親子の形に、凄く深く傷ついた花音ちゃんが戻ってくれないかと思っていたが、そうなってくれない難しさを作中に取り込み描きることを、このお話は選んだ。
 まひるを商業アーティストとして覚醒させた、名プロデューサーの手腕はJELEの中に閉じこもっていては獲れない刺激で、そこに飛び込んだからこそ生まれた変化が花音ちゃんに波及して、持ち前のハンサムさを真実自分らしさと、堂々掲げられる彼女になった感じもある。
 この背筋が伸びた颯爽に、まひるは魅せられて光の方へ進み出し、いつしか花音ちゃんを追い抜いた。
 そしてそんな親友の背中に追いつこうと、震えながら進みだしたステージをやりきって見つけた夢は、顔を上げて未来の方を見る花音ちゃんのかっこよさが、広く広く世界へ届けてくれるだろう。
 そういう姿を、終幕の手向けと見せてもらえるのは、素晴らしいファンサービスだ。

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第12話より引用

 物語のすべてが始まった、美しいアイコンである渋谷のクラゲ。
 これをJELEE全員の芸術として改めて作り直す、彼女たちのアートで話が終わるのは、とても良かった。
 制作風景もひっくるめて一つのライブ・エンタテインメントとして成立させる、配信業兼務の面白さ、新しさがあったし、数多の名前を巡る物語が四人で一つの”JELEE”を堂々肯定しつつ、過去に刻まれた名前に取り消し線をヒキつつも塗りつぶさない描写は、極めて的確にこのお話のテーマを削り出していた。
 制服をペンキで汚してもいいし、ネオン輝く表舞台ではなく暗いトンネルの向こう、眩しく輝く自分たちの居場所へ、泳ぎだしても良い。
 お互い得意なものも、周りを取り巻く環境も、未来の夢もあるべき自分も違っていて、だからこそ誰よりも好きだと、ずっと一緒にいるのだと思える友達と、手を繋ぎながら走り出して良い。
 そういうメッセージを、ポップで現代的な物語を小気味よく疾走させながら、しっかり描いてくれるアニメだった。

 24時間刻みの当たり前に、どうしても馴染めない自分らしさ。
 それを量産型に折りたたんだり、諦めて捨て去ったり、暗い場所に閉じこもったり、何もわからないまま迷ったり、一人だったらしていただろう女の子たち。
 彼女たちは自分たちのアートをより広い場所へ、より多くの人へ、より多彩な表現へと押し出しながら、自分たちが自分たちらしく息をしていられる大きな水槽へと、現実を塗り直していく。
 色んな角度から、世の中を満たす顔の見えない悪意の実在を確かに捉えつつも、アートと友情の可能性を信じ続け、ぶん殴られてもへこたれない、弱くて強い女の子たちの戦いを描いてきた物語には、いつだって影がつきまとう。
 それすらも夜のクラゲを構成する、とても大事な愛しい闇なのだと思える所まで、JELEEも彼女たちの物語もたどり着いた。
 だから眩しい場所へと自分たちを新たに押し出していく、閉幕の一歩がとても爽やかに、希望に満ちて美しく感じる。
 とても良いアニメが、とても良く終わってくれて、今僕はとても気分がいい。
 ありがとうございました、面白かったです。

 

 

 というわけで竹下良平七年ぶりのTVシリーズ監督作、”夜のクラゲは泳げない”、無事完結いたしました。
 大変に良かったです。

 色々良いところがありすぎるのですが、まず4×3の三部構成に青春の蹉跌と燃え盛る友情、生きにくい少女たちの業とそれ故輝くアートをたっぷり詰め込み、毎回高密度で高速度な物語を展開してくれた、構成の面白さを褒めたい。
 こんだけ要素を詰め込むと色々語りたりない部分がでてくると思うのですが、的確かつ印象的な画面構成が、必要なだけの詩情で情報をきっちり圧縮してくれて、生っぽい陰りとまばゆい光が複雑に同居する、夜のクラゲたちの肖像画を描いてくれました。
 動画工房らしいポップで可愛らしい描写を基調に据えつつ、要所要所(一番印象的なのは第5話の電車内)に生々しいリアリティを作画に持ち込み、甘いだけでは終わらない複雑な味わいを、ヴィジュアル面からも形にしてくれていました。
 いじめや炎上など、さわれば重たくなりすぎるテーマに果敢に挑みつつ、膝を屈することなく立ち向かい、自分たちなりの不屈をしっかりと描いてくれていたのは、とてもプライドのある作劇姿勢で、素晴らしかったと思います。

 若きアーティストたちを主役に選び、彼女たちが背負うたくさんの名前に全て意味を持たせるよう、その価値を深く掘り下げるよう展開していった物語は、あるべき唯一絶対の”正解”が揺らいでいる時代に、しっかり歩調を合わせていたと思います。
 仮名、匿名、連名、そして本名。
 様々な自分があっていいし、それを表す名前を優しくない誰かが踏みつけにする時、生まれる痛みを無いものにしてはいけない。
 僕はマルチルーツであるめいちゃんが、彼女の名前を『変なもの』と嘲られる描写が凄く辛かったし、だからこそこういう痛みは世界のあらゆる場所に確かにあるんだろうなと第2話で思えたことが、作品に前のめりになる決定打になった。
 血と名前に刻まれたルーツを嘲笑われ否定されるのはとても辛いことで、それを誇れるものとして取り戻す行いも、自力で好きになれるルーツを必死に作り上げた龍ケ崎ノクスの戦いも、JELEEであり光月まひるであり海月ヨルでもある自分を誇れるようになったまひるの歩みも、全部とても素晴らしいものだったと思う。
 ずっと求めて手に入らなかった、白川花音の”本名”も。

 

 生きづらさを大上段に振りかぶって、昼の側で生きられる”正しい”人たちを殴りつけるような乱雑さを上手く遠ざけ、ポップで楽しく可愛いスタンダードな青春絵巻を、全力でやりきってくれたこと。
 そういう心地よい軽やかさを保ちつつ、現在進行系で変化を続けるテクノロジーや社会情勢、そこから生まれる新たなアートがどんな価値を宿していて、何を生み出せるのかしっかり描いてくれたこと。
 けして一様ではありえない生きるうえでの難しさを、出来うる限りの誠実さと解像度を絞り出して軒並み作品に取り込み、キャラクターが人生を生きるうえでの難題として、それ抜きでは自分ではいられない”らしさ”として、素手で取っ組み合ってくれたこと。
 好きになれるポイントがすごく沢山あって、とても良いアニメでした。

 面白かったです、お疲れ様。
 JELEEの旅はまだまだ続いていくのだと、とても清々しくお別れを言える物語を描ききってくれて、大きな満足と感謝を今感じています。
 本当に素晴らしい作品を、ありがとうございました!