イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

夜のクラゲは泳げない:第11話『好きなもの』感想

 たとえ嘘っぱちで固めた鎧でも、それが真っ暗な場所を駆け抜けていくための灯火となるなら。
 JELEEそれぞれの……そして全員のクリエイティビティとヒロイズムが、終局に向けて加速していくヨルクラ第11話である。

 めいちゃん魂の絶唱により暗く狭い場所から己を引っ張り上げる……契機を得た花音が、自分が本当に歌いたい、歌うべき詩を探すのと並走して、まひるは雪音から請け負った大仕事にどう向き合うべきか、真実自分の絵が好きであるにはどうしたら良いのか悩む。
 そんな幼馴染の歩みに寄り添い、支えられる形でキウイちゃんもクソッタレな現実に、追いすがる過去に震えながら立ち向かい、その勇姿がまひるとJELEEの未来を照らしていく。
 JELEEがなぜ専門分野の異なる四人のアーティストの、合同ユニットであるのか。
 作品の根っこを幕引き直前に新たに問いただし、描き切るエピソードで大変良かったです。
 めいちゃんから花音への、まひるとキウイちゃん相互の魂の交流もめちゃくちゃ良いのだが、それと隣り合って/混ざり合ってJELEE最高の存在証明となる作品作りが進んでいるのが、アーティストという生き方を選んだ少女たちのお話の本懐で素晴らしい。

 

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 SDキャラもとっても可愛い、バズの波も受けておバカで前向きなJELEEの現状が後に描かれるとしても、物語の軸足はやはりアバンで示された薄暗く狭い場所にある。
 カメラの眼前に置かれた狭苦しいフレームが人物を閉じ込め、その生きづらさを表現するアングルはこの作品において頻発するが、クレバーな現実主義と燃え上がるヒロイズムでユニットの苦境を救ってきた我らが英雄もまた、そこで息苦しく夜を過ごしている。
 指先一つで姿も名前も変えられて、その自由さが現実の不自由をぶっ飛ばし、隙になれる自分でいられるはずの魔法の場所。
 Vtuberとして電脳仮想領域を己の縄張りとするキウイちゃんの楽園が、生臭い現実や過去と地続きの『もう一つの現実』であることを、既にWebがあることが当たり前の生活をしている僕らは知っている。

 ”龍ケ崎ノクス”というペルソナを身にまとえば、惨めで生きにくい”渡良瀬キウイ”を忘れて、望むまま生きられる。
 自分を好きでいられる。
 部屋の外にひろがる太陽の眩しさから目を背けた、弱っちい逃避とも取れるキウイちゃんの選択に、どういう苦さと重みがあって、何を噛み砕いて麻酔をかけて、それでも耐えられないものに挑んでいるのか。
 何をゴミ箱に投げ捨てたくて、何を宝物として拾い上げたいのか。
 今回はそういう、キウイちゃんの内側に潜り込んでいく最後の機会であり、そうすることで彼女……であり彼でもあるあの子のヒロイズムが誰かを救いうる事実を、えぐり取る回でもある。

 それはめいちゃんがクソオタク仕草でワーワーうるさい(可愛い)、JELEEの元気な日々と切り離されているようでいて、極めて間近に絡み合っている闇だ。
 そこから龍ケ崎ノクスのクリエイティビティが生まれ、JELEEの動画をWebの海に向かって投げ渡している以上、鬱屈も臆病も逃避も、かけがえのない黒い瞬きなのだ。
 コンプレックスとプライドが複雑に癒着して、簡単には切り離せない複雑な人間模様を、何が正しいと上から切り裂くのではなく、内側に潜って生き生きと描きぬく上で、この作品が『夜のクラゲ』をトーテムに選んだのは極めて的確だったなと思う。
 それは柔らかく、己の力で泳ぐことが出来ず、ひ弱でありながら美しくて、自分ひとりでは輝けないと思いこんで、誰かを待っている動物だ。
 JELEE全員が……その歌を真夜中の片隅で聞いたファンたちが、皆そういう動物なのだ。

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 前回めいちゃんから魂の咆哮を引き出す、闇のメンターとしてかなり”コク”出していたメロもまた、そんな歌を待っているクラゲの一人であることが、最終話を前にしてどんどん削り出されても行く。
 花音ちゃんの凸凹人生においては、殴り飛ばされるべき最悪の”敵”としてポジションされる彼女は、思いの外華やかなイルミネーションの中で暗い影を濃く背負い、フラフラ自分がない軟体動物として流れに揺蕩っている。
 その横顔が見れたのは、まひるが雪音のスカウトを受けてサンドに近い場所に踏み込み、切れたはずの縁がもう一度繋がったからかなぁ……などとも思う。
 あとまぁ、何もかもぶち壊しにする最悪の別れ方してなお、やっぱりメロなりに複雑な感情を”橘ののか”に寄せていて、その熱量が回路を蘇らせた感じではある。

 キウイちゃんが現実を遮断した暗い場所に閉じこもるのに対置して、アーティストとしての未来を約束する大仕事に挑むまひるは、きらびやかで眩しい屋外に良く立つ。
 栄光に満ちたそこにラベルを貼るなら”現実”なのだろうけど、ドア一つ隔てて車で流される渋谷の喧騒は、どこか窒息性の遠さを宿して少女たちを包囲もしている。
 華やかであからさまな何かから、逃れるように骨のない自分を探し続けている少女たちの間には、ピンクの鞄が一つ置かれて、言えないが横たわる。
 しかしそんな嘘の皮膜に思いを隠して、”ゲンバカ”という自分のもう一つの名前……もう一つのアイデンティティまひるに問いかける時、メロは確かにその生身の顔を見ている。
 取り澄ました正しさだけで生きていけない自分を、JELEEとして活動する中で見つけ直したまひるにとって、暴露系Youtuberが引き裂く嘘っぱちと吐き出す毒は、どこか己に親しい。
 そんな率直な感慨は、引き裂かれたものを繋ぎ直す助けとなっていくのか。
 仮名、本名、匿名……。
 様々な”名前”を大事なテーマと選んで進んできたこの物語において、”敵”だったはずのメロもまた”ゲンバカ”というオルタナティブを己の一部と選んだ(選ぶしかなかった)存在だと、まひるがその思いを知らず受け止める中で見えてくるのは、なかなかに面白い。

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 まひるがJELEEを離れて請け負った自分だけの仕事と、それに傷つけられ立ち上がり直した花音ちゃんの創作活動が、同時並走で展開していく今回。
 あんなにクソオタク挙動を見せつけていためいちゃんが、自分の曲を最高に歌い上げてくれる最高の女の子相手に、かなりシビアな要求を真顔で叩きつけている所が、僕は好きだ。
 めいちゃんは賢く芯が強い人なので、橘ののかに人生救われ山ノ内花音が大好きな自分を揺るがない本当と認めた上で、JELEEの一員としてJELEEに何を求めるべきか、どうすれば自分たちの歌が峻厳な真実にたどり着けるかを、しっかり見据えている。

 愛した人が自分を捨てた親の側に行く、人生の大嵐が吹き荒れてもう、この歌を作った時の自分たちではなくなってしまった現状に、ありものの歌詞は嘘を付いてしまっている。
 だから、作り直そう。
 熱愛しつつも盲信ではない、極めて独特の距離感でもってめいちゃんは花音に向き合っていて、それがJELEEに帰ってくるまひるが形を与えるに相応しい、最高の曲を厳しく求める姿勢に繋がっている。
 嘘がなく厳しいからこそ、量産型の海に溺れていては見えない場所まで自分を進めていける面白さは、例えば第5話に鮮明に描かれているが、最終話を天国までぶち上げるだろう勝負曲の準備を整える今回も、厳しいからこそ楽しいクリエイティブの裏腹が、エピソードの芯になっている。

 

 名プロデューサーでもあるめいちゃんは、己のアートに悩む花音ちゃんに『誰に向かって歌うのか』という問いかけを、真摯に手渡す。
 目が見える/見えないという表現でもって、優しさを安易に与えない厳しさとか、迷いのただ中にいる暗さとか、あるいは底を先に抜けて手を伸ばしてくれるありがたさとか、いろんなモノを描く今回。
 山ノ内花音と出会い直すことで音楽を生業と選べためいちゃんの、真っ直ぐな視線と言葉がJELEEの迷いに、一筋の光明を与えていく。
 音符を追いかけるだけの空疎な表現に、生きる全てと選ぶに足りるだけの熱量を与えて、愛しく鍵盤を見つめられるようにしてくれた特別な体験を、その当事者に優しく手渡す行為が、バラバラに砕かれたはずの花音ちゃんのアートを再生させていく、大事な一歩になる。
 そういう瞬間がちゃんと書かれているのが、僕は好きだ。

 夢を込めて自分の手で書いた、愛しい人との相合い傘のような作曲と歌唱のクレジットは、デジタルに変換されて名前を少し変えて、願いと思いを結晶化させた作品として世に出ていった。
 アイドル・橘ののかの熱狂的ファンであり続け、山ノ内花音の親友であり、JELEEの厳しい共同制作者でもある、高梨・キム・アヌーク・めいであり木村ちゃんでもある少女の到達点。
 その描かれ方は、たった一つ”現実”のアイデンティティを息苦しく選び取り、正しさのレールから外れることなく生きていく事が出来なかった、数多の名前を持つ軟体生物たちを優しく祝いでいる。
 いろんな名前と在り方が、全部本当でも良いのだという楽譜上の祈りは、狭苦しい”現実”を飛び超えて、生き抜く戦いに挑む親友へと届いていく。

 

 

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 どうしても好きになれない己の作品を、好きになれる魔法をくれるチャンスは、極めてシビアな経済的判断を伴う、大人の仕事でもある。
 花音ちゃんと同じく、自分のアートの核がどこにあるのか見えなくなっているまひるは大きすぎる荷物に押しつぶされかけて、雪音はもう待つことが出来ない最終判断として、赤い線で描かれた修正を”なぞる”こと海月ヨルに求める。
 あの時瞬いて己を魅了した、弾けるような個性とメッセージが消えてしまっているヨルの絵よりも、既に結果を出してる誰かのありものに自分の名前を貼り付けて、『私の仕事です』と差し出す賢さを求める。
 それはきらびやかな表舞台で泡のようにありふれて弾けている、創作の残酷だ。
 眩い場所に立ったからといって、クラゲの息が楽になるわけではないことを、華やかな路上に影を濃く、やけっぱちを叫ぶまひるの表情は良く語っている。

 かつて誰かの声に押し流されて、かき消してしまった己の名前。
 運命に引っ張り上げられて、もう一度書き直すことが出来た己の名前。
 光月まひるであり海月ヨルでもある少女は、浮遊するアイデンティティのどれにしがみついて、厳しい世界を泳いでいくべきなのかに迷っている。
 窒息するほど辛かろうが、それでも描くしかない己を既に思い知っている彼女は、そういう状況でもシコシコペンを走らせ、己のクリエイティブに地道に苦しむ。

 どうするべきか、未来が見えないとしても”なぞる”のはないと、勢いよく投げ捨てて未来へ踏み出すきっかけが、ずっと彼女のヒーローだった存在からのコールなのは、不思議な気持ちよさがあった。
 もっと長く抱え込むと思っていた”なぞる”選択肢を、投げ捨ててどうするかは横に置いてとっとと破棄した決断の快楽もあるし、そうさせてくれる特別な相手を蘇らせたのが、他ならぬまひるのトンチキな踊り……彼女なりの身体性を宿したクリエイティブだったことを、思い出したのもある。
 見えない未来に溺れそうな時、嵐に飛び出す勇気をくれる羅針盤は時に、かつての自分自身の魂で出来ている。
 そういう素敵な不思議が、人生には確かにあるのだと書き続けてくれているのは、やっぱり良い。

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 幼馴染からの連絡は、好きになれる自分の形がどんなモノかを(未だ)まひるにおしえずとも、”なぞる”自分は違うだろという思いを顕にし、故郷大宮への道を拓く。
 そうしてまひると繋がったことは、一方通行の救済をキウイちゃんから与えるわけではなく、”龍ケ崎ノクス”になることで消し飛ばしたかった過去を共有する幼馴染と、より好きな自分でいるための旅に一緒に進み出す、誘い水にもなっていく。
 今回キウイちゃんは大げさでおどけた仕草がすごく多くて、それを見るたびに凄く辛くて泣いてしまった。
 見栄を切って茶化し、コミカルに自分の感情や状況と距離を取ることで、キウイちゃんはどうあっても世界からはみ出してしまう自分を客観視し、守っているのだと思う。
 生々しい本音を早々簡単に見せず、おどけた仕草で矛先をそらしてしまうキウイちゃんの生き方は、その脆さと繊細さに直結していて、道化の哀しみとプライドがそこには宿る。
 そればっかりで生きていけないから、自分を突き刺す過去の繋がりをゴミ箱に、指先一つで投げ捨てることもする。
 それは安易な逃げであると同時に、そうしなきゃ息が詰まって死ぬしかないやる、懸命な自己救命でもあるのだろう。

 痛い本音を貫かれそうになる度、おどけた仕草で身を交わすキウイちゃんだが、クリエイティブの同志であり大事な親友でもあるまひるを前にすると、時折ひどく脆くて柔らかな素顔が見える。
 フードとマスクで生身の己を見られないように、痛みしかない故郷をおっかなびっくり進んでいくキウイちゃんだが、まひるが己を愛しきれない苦しみを表に出した時、マスクを取って生身の口で、愛をささやく。
 そこで『お前の絵、お前のこと、全部好きだよ……』と真っ直ぐ言えないのがキウイちゃんの弱さであり、いじましさであり、可愛さでもある。(ここら辺めっちゃあけすけなめいちゃんと、真逆なはずなのにJELEEでいれてる描写が積み上がってるの、マジ良いなと思う)

 思い出の中に隠れていた宝物を取り戻すように、トランクルームを探り当て過去を目の当たりにする時、キウイちゃんのフードは取れている。
 何でも上手く出来てしまって、だから後から来た本気の連中に追い抜かれ、置いてけぼりにされてしまう自分が刻まれた、早熟な季節の残骸。
 それと向き合うときも、キウイちゃんはおどけて可愛い顔を作った後に、極めてシリアスで傷つきやすい生身の表情を見せる。
 この急所を剥き出しで生きていくには、アホが多すぎる世界はあまりにキウイちゃんに向いていなく、だから少女はマスクで武装し、アバターで己を鎧う。
 仮想世界に己の理想を打ち立て、暗い場所に逃げて逃げて逃げて……でもその逃避の中に熱く燃え盛る”好き”が確かにあるから、龍ケ崎ノクスはVtuberの最高峰まで上り詰めた。
 好きに向き合う本気と、痛みから逃げる後ろ向きは、ピンク髪の生身とヒロイックなアバターの両方に乱反射して、複雑怪奇なキウイちゃんの内面を照らしていく。

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 大げさな決めポーズを堂々取って、『バカでー』と見知らぬ人に嘲笑われながらも、堂々胸を張って”好き”を叫ぶ。
 そういうキウイイズムが何も間違っていないと、ずっと彼女を自分だけのヒーローにして活きてきたまひるの歩みは語る。
 キウイちゃんがかつて譲れぬ自分らしさだと、それを守っていれば自分を好きでい続けられると、大事に抱えていた幼い夢は、彼女がその身体に引っ張られる形で成熟していく中、深く深く傷ついていった。
 痛いの正しくないの、ギャーギャー喚き立てるクズどもの叫びは無視できない鋭さでもって、柔らかな自我を苛む。
 まひるが”海月ヨル”である自分を捨てて量産型に溺れることで、なんとか上手く付き合ってきた窒息性の空気を、跳ね除けるための最後のあがきが、今のキウイちゃんのヒーロー仕草だ。

 それは何かを”なぞった”嘘っぱちではないと、まひるはトランクルームで幼馴染が見せた震えの前で、あるいは生身のキウイちゃんを嘲るクズどもの前で、強く叫ぶ。
 ただ言葉で教えるだけでなく、実際の身体的所作を伴って『キウイちゃんらしい』行いをトレースすることで、まひるは同じように嘲笑われ傷つけられる場所へと、手を取って進み出す決意を示す。
 自身花音が暴発させた言葉に深く傷つきつつ、それでも歩みを止めずに信じた道を進み、ここで幼馴染に助けられて”好き”の原点を探り当てたまひるが、もう一つの”好き”が暗い影にぶっ壊されそうになった時、体を張って愛を叫ぶこと。
 それはとても眩しい、誰かから盗んだものじゃないまひるだけの光だ。

 そうして目の前に突き出された愛が、何かとフードに自分を守りがちなヒーローを守り、前へと進めていく。
 便所にこもり、携帯電話越しのメッセージで逃避を促され、フードに視線を封じて暗い場所に帰っていこうとしたその背後で、幼馴染はヒーローの名前を叫んだ。
 そういう存在が自分の隣りにいてくれることが、どんだけグチャグチャになっても自分を好きでいたい、幼くて大人びて賢くて愚かなヒーローが、自分だけの戦場に踏み出す足場になるのだ。
 黒髪のウィッグで武装し挑んだ学校では、震えてどうしても進み出せなかった一歩に、キウイちゃんは豁然と踏み出していく。
 その決断と変化は、ゲーミングPCと編集ソフトを両手に携え、”龍ケ崎ノクス”としてここじゃない場所で戦ってきた、必死のあがきに支えられている。
 ここまでの無様な歩みが、何も無駄でも嘘でも、誰かに嗤われるようなモノじゃなかったと、自分より先に吠えてくれる人がいることで、キウイちゃんはヒーローになっていく。
 あるいは、取り戻していく。

 

 

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 キウイちゃんがフードを外し己の素顔で、震えながら自分を嘲笑い殺すものに向かう時、そこにはキウイちゃん自身の過去と未来、そして自分をヒーローに戻してくれたまひるとの眩い反射がある。
 早熟故に高みへ早くひた走って、後から来たのに追い抜かれて、結局自分には身を切る現実で戦い抜けるほどの”好き”がないのだと、己を蔑んでいたキウイちゃんの立ち姿は、かつてまひるの憧れだった幼い時代……”女”でいなくても良かった英雄の全盛期を、煤けた大宮の現在に蘇らせていく。
 自分を苛む生きづらさと、それに目も向けず当たり前の高みで上から嘲りを投げつけてくる連中への怒りを、マスクを外した生身でようやく吠えながら、しかしキウイちゃんは震え続けている。
 まひるから受け取った愛と、クズどもが投げつけてくる透明な悪意への怒りに突き動かされていても、一度傷つき崩れてしまった自己像は完全には再生されず、キウイちゃんは脆く弱いままだ。
 しかしそんな渡瀬キウイの現状は、それでもなお必死こいて戦い、自分の手で好きになれる自分を形作り、その苦しみを分かろうとすらしない世界の中で生き延びてきた、龍ケ崎ノクスの現在と複雑に繋がっている。

 仮の名前だから、肉のない電子の存在だから、龍ケ崎ノクスが”現実”に存在しないわけではない。
 それはキウイちゃんが手ずから作り出した彼女だけのアートであり、無理解と違和感の荒波に押しつぶされ消えてしまいそうな自分をなんとか、この世に繋ぎ止めるために選んだ武器だ。
 そしてそれは、惨めで好きになれない生身の渡瀬キウイと……そんな幼馴染の横に並んで、大宮くんだりまで宝探しに来た女の子と、深く深く繋がっている。
 もう一つの私が確かにそこにいてくれることで、厳しすぎる戦場を生き延びられる事実が確かにあって、まひるの叫びに顕になったキウイちゃんのヒロイズムは、そういう真実を改めて、まひるに突きつける。
 そういう在り方を目の当たりにして、まひるは自分を好きになるために、好きな絵を好きなだけ描く決断へと踏み出していけるのだ。

 

 ここでキウイちゃんの吐露に、今までクローゼットだった性別違和が刻まれているのは、個人的に大変重要な描写だった。
 幼い時代を取り戻したいだけにも思えた彼女のヒーロー趣味が、『これは男の子向け』と勝手な選別を押し付けてくる世界への対抗心であり、勝手に大きくなる体が、それを前提に他人を切り分ける社会が、押し付けてくる”らしさ”からの脱出であったと、新たにわかった。
 キウイちゃんの生きにくさが、性別を含む己の身体とかなり強く結びついていることが明らかになってみると、闊達自在に己の身体にメスを入れ、100万円のおっぱいを堂々誇った小春さんに共鳴していたのも、新たな意味を持って立ち上がってきた。
 世間や生物の在り方が『当たり前』と押し付けるものを、どうしても受け入れられない猛烈な違和を前にした時、諦めてその鋳型にはまり込んで魂を殺していく以外の、自分の在り方を切り裂いて繋ぎ直し、自分の形にしていく自由が人間にはある。
 お風呂で小春さんの裸身を見た時、キウイちゃんは”龍ケ崎ノクス”であることを選んだ自分の戦い方が、間違ってはいなかったと思えたのではないか。

 男の子だからヒーローが好きなのか、ヒーローを好きなのが男の子なのか。
 どうやっても男性名詞になってしまうHeroを巡る議論はなかなかに難しいが、龍ケ崎ノクスというアバターを設計することで、キウイちゃんはヒーローが好きなままでも、女の子にならないままでも、この世にあって良い自分を確かに作り上げた。
 その名前と在り方が、現実世界に求められる『当たり前』から逃げた渡瀬キウイと結び付けられてしまう不自由が、どこまで行ってもキウイちゃんを追いかけ追い詰めてくるが、しかしどんだけ傷ついても屈することなく、ヒーローは戦い続ける。
 自分と同じ苦しさを抱えた誰かのために教師の夢を追い、そこにたどり着くためにバイクの免許を取り、不健康なエナドリにつまずきかけても転ぶことなく、大事な友だちに大事な叫びを届けられた。
 クズどもが自分を安全圏においてあざ笑う、渡瀬キウイの弱さや醜さこそが、龍ケ崎ノクスであり渡瀬キウイでもある存在の眩いヒロイズムを確かに支えていて、幾度も奇跡を掴み取っていた事実を、僕らは既に見ている。

 好きでいられる自分であるために、名前も形もキャラ設定も、その全部を捏造する。
 ”現実”がカッコ悪い逃げだと嗤ってくるこの行いは、キウイちゃんが吠えたように何も間違っていない。
 間違いにしないための戦いを、JELEEになる前からキウイちゃんはずっと続けてきて、まひるのトンチキ踊りで勇気をもらい、改めてJELEEになることでもっと激しく、優しく生き延びてきた。
 キウイちゃんがシニカルな現実主義者で、引きこもり気質なわりにコレぞというポイントでは現実に身を乗り出し、体を張って仲間のピンチを助けてくれるヒーローだったことで、誰が救われてきたかを、僕らは見ているのだ。
 だからキウイちゃんの生きづらさも苦しさも、そこから必死で逃げる無様も、なお立ち上がって戦う眩さも、全部本当のことだ。

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 真っ直ぐすぎて青臭い、キウイちゃんの善さが全部出た叫びを故郷に叩きつけ、帰る電車の色合いは、少しの照れくささがまじりつつ美しい。
 この色合いは第5話で、まひるが吐き出した本音を置き去りにせず花音が追いついてきた場面と同じ色で、そういう領域までキウイちゃんとまひるの心が近づき、結びあった証明なのかなとも思う。
 そういう奮戦を仲間が世界の片隅で果たしていると知らず、しかし信じて自分たちのクリエイティブに思い悩んだ花音ちゃんは、ようやくめいちゃんとフラットに視線を交わらせて、今自分が歌うべき詩にたどり着く。
 まひる-キウイ、めい-花音と、ある程度以上答えが見えているタフな連中に引っ張られう形で……あるいはお互い様ヨロヨロよろめきつつ答えを探して、JELEEが最後に掲げるべきアートが二分割で準備されていく構図が、今回大変良かった。
 シコシコ地道に創作に向き合ったり、ガチの本音を剥き出しに出来る相手と膝つき合わせたり。
 色々苦労はあるけども、私らしさを支えそれ自身でもある”好き”に形を与えていく歩みはこんなにも熱くて、大変で、眩しい。
 何もかもぶっ壊れて離れたようにみえて、でも愛し信じたから何も壊れてはいなくて、離れていても繋がっていることを、仲間からのメッセージが教えてもくれる道。
 そこを歩ききった花音ちゃんの真っ直ぐな瞳は、そう出来なかった屈折の日々をちゃんと描けばこそ、決断とヒロイズムを宿して素敵だ。

 キウイちゃんからのコールで”なぞる”道を投げ捨て、一緒に大宮クエストに挑んだ結果見つけた、まひるの”好き”。
 それを不遜に堂々と幸音に突き出す前に、まひるが彼女のヒーローを『世界一かっこいい女の子……と男の子』と紹介しているのが、僕はとても好きだ。
 一般的な性認識の範疇には入らない、だからこそレールから外れて自分だけの戦いに挑まざるを得ないキウイちゃんの在り方を、まひるがどう受け止め隣に立ったのか、良く示す言い回しだと思う。
 それはリベラルな世間が『大事にしましょうね』と押し付けてくるから、適切な呼び名を選びたくなるモノではなく、クローゼットの奥に仕舞い込んでいたものを炸裂させて己の在り方を叫ぶ戦いを、間近に受け取ったからこその尊重だ。
 そういう力みのない、でも力強い決意を日々の行いの中に示していくことを、まひるはもう躊躇わないし、量産型にはどうしてもなれない自分たちをあざ笑うこともない。
 それは極めて現代的で鮮烈な、少女が成し遂げる一つの成長の描き方だと思う。

 

 そうやって心の奥底に響くものに背中を押されて、まひるは自分が選んだ、好きになれる自分の絵を雪音に差し出す。
 描かれたサンドのアバターがどっかJELEEちゃんに似てるのは、もちろんまひるのアートがそういう形をしているからだが、同時にあの移動する密室の中、間近にメロの影を……同じく夜のクラゲの一人である気配を、まひるが感じ取った結果なのかなとも思った。
 ボツ食らった時は表面的な技法とか、世の中に正しいとされている上手さしか言い訳できなかったまひるが、コレ突き出す時は何も言わずズドンと、自分の”好き”しか言ってないのが俺は好きだ。
 その図太いたくましさは間違いなく、大宮の暗いゲーセンに眩く降り立った最強ヒーローを、その目で見届けたからまひるのものになったのだ。

 署名には2つの名前……生身の光月まひると仮想の海月ヨル。
 渡瀬キウイと龍ケ崎ノクスが、お互いの影と光を相照らす距離感とはまた違った併存を、まひるは己の在り方として選んだ。
 仮名、本名、偽名、連名……。
 様々な”名前”と、それに付随する嘘と本当を積み重ねてきたこの物語は、それに向き合うたった一つの正解を示さない。
 あるいは軟体動物のようにクニャクニャ、形を変えつつも魂の籠もった敬愛と自尊さえあれば、どんな名前も正解になりうると描いてきた。
 だからこの2つの名前は、全く嘘なく本当なのだろう。
 一度消して取り戻したものであり、”なぞった”ものではないのだ。

 

 

画像は”夜のクラゲは泳げない”第11話より引用

 そして既定のレールをぶち破る力強いまひるの描線は、雪音から依頼された”仕事”を果たすだけでは止まりゃしない。
 まさかまさかの不躾極まる踏み込み、やられてみると最終話への猛烈なヒキとなり、あるいは色々迷ったJELEEの集大成を描く最高のキャンバスとなり、盤上この一手、見事の一言である。
 JELEEであり橘ののかであり山ノ内花音であり、早川花音でもある女の子を、彼女を殴りつけた母と彼女が殴りつけたかつての仲間と強制的に向き合わせる、ムチャクチャな年末のご提案。
 これをどう受け取るかで”敵”の度量も、その間近に体をぶつけて何が生まれてくるかも、鮮明に見えるだろう。
 一度ばらばらになったからこそもっと強くなった、今のJELEEを奏でる上でもベストな舞台だしね。

 それを動かなきゃ物語には嘘になるし、英雄のまばゆい光に目を開かされた今のまひるにとって、踏み込まないほうが嘘っぱちな、大胆な飛翔。
 最終回が夜の向こう側までぶっ飛ぶ準備は、最高に整っている。
 心底、次回も楽しみです。