イマワノキワ

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鬼滅の刃 柱稽古編:第8話『柱・結集』感想ツイートまとめ

 鬼滅の刃 柱稽古編 第8話を見る。

 短いようで長かった(何しろ一時間スペシャル禁断の三発!)柱稽古編もついに終結、怒涛の如きクライマックス劇場版三部作へと駆け抜ける、爆裂の最終話である。
 冒頭、もう一回渾身の鬼舞辻無惨練り歩きをねじ込んでくる時点でもう面白かったが、死にかけの頭首が延々喋る異常状況、家族道連れの大爆散、殺す気満々の鬼殺隊ハメ技コンボ、全てを飲み込む無限城と、最終話に相応しいテンションで駆け抜けていった。
 UFO渾身の作画で描かれる産屋敷ボンバーは、原作よりなおその異常性が色濃く出てて、呆然とすれば良いのか感動すれば良いのか、笑うか泣くか良く解んない、良い映像だったなぁ

 

 というわけで色々あった最終回、後の怒涛を準備するかのように、始まりは大変静かで異様である。
 お館様が何考えて妻子道連れにしたか、説明されても理解できない異常行動なわけだが、だからこそ無惨の判断力が乱されて綺麗に不意打ちがキマった部分もあるので、トータル『真顔で狂ってる奴は本当に怖いな…』という感じ。
 お館様の爆散を種火にして、死物狂いの狂熱が鬼殺隊全員に感染していくことで、殺せない存在を命がけで殺していくクライマックスが成立もしているわけで、まー何もかんもが狂っている場面を、狂ったまんま書いたアニメ化で良かった。
 マージ否定できないレベルで疑似家族カルトだよなぁ、鬼殺隊。

 とはいえ、普通なら社会が痛い目見せて…なんなら殺して止めてくれるエゴを肥大化させた身勝手の権化が、誰も殺せない異能と暴力をほしいままぶん回して、穏やかに生きたかった人たちを復讐の鬼に変えては殺し、殺しては変え、終わらない輪廻を続けている現状。
 正気じゃどうにもならないし、マトモな社会が立ち向かえない怪物を叩き潰せるのが自分たちだけなら、そらー正気も投げ捨てるだろう、とは思う。
 キツいけど死人は出ない、スポーツ的な爽やかさがあった柱稽古編を通じて、柱も含めみんなどっかマトモで、鬼に関わらなきゃ誰も殺さず生きてきたのだろうと、改めて感じたのも大きいか。

 

 完成した単体として、血を分けた鬼にも一切の情を預けず、徹底的に傲岸不遜にムカつく連中を殺しまくる鬼舞辻無惨と、産屋敷の定めを背負い、世代を重ね血の繋がらぬ年下の愛子に未来を託す産屋敷耀哉。
 産屋敷邸を家族ごとぶっ飛ばすことで最終章の幕開けを告げたお館様と、無限城という秘された我が家に鬼殺隊を飲み込むことで、最終決戦に挑む鬼の頭目
 真逆の二人が対峙する対話シーンは、実はお館様だけが一方的に喋って、無惨は終始聞いているだけだ。
 殺人をなんとも思っていない鬼畜が、なんで宿敵の遺言だけは最後まで聞き届け、まんまと罠にハマったのかは、正直あんま理解しきれていないところではある。

 鬼舞辻無惨の対話不可能性、悪しき不変性は、『俺地上最強の生物だし、いざとなったら殺せばいいや』が通じてしまう、彼の強さにあると思う。
 産屋敷の恨み言も、聞くだけ聞いてぶっ殺そうという態度で受けていたら、宣言の通りの狂った牙で喉笛に一撃貰い、自分が死のうが続いていく因業の決算に毒をねじ込まれ頭を飛ばされ、自分ひとりが暴力を握っているわけではないと、具体的に思い知らされる。
 ある意味、何があろうが自分を殺しに来る鬼殺隊だけが鬼舞辻無惨にとっての『社会』であり、死力を尽くした殺し合い以外に、無惨が他者と対等に向き合える瞬間はないのだろう。
 殺戮の修羅としては、正しい世界だ。

 

 逆に言えば無惨の不遜を否定するには、その暴力を上回る暴力を全霊で研ぎ澄ませて、ヤツが体現する閉じた無限を否定しきらなければいけない。
 『そんなモノ、世界にないだろう』とナメて止まっていたことで、世代を継ぎ1000年賭けて鬼滅の刃を研いできた宿敵に、『私達がお前の否定だ』と、横っ面張り飛ばされる局面が、ようやくやってきたのだ。
 しかし無惨はこの血みどろのコミュニケーションを、ひどくダルい余計ごととしか感じておらず、殺傷に価値を見出さない。
 別にやりたくないけど、自分が世界で唯一の閉じた完成形であり続けるためには、他人の人生をズタズタに引き裂くしか無い。

 ズタズタに引き裂き続けることで、面白くもない世間の道理やら、他者の尊重やら共存やら、虫酸が走る寝言が世界の真理なのだと、認めずにすむ。
 鬼舞辻無惨は数多在る鬼の中で、自分の根源を全く歪めず、覚えたまま鬼であり続けている極めてレアな個体であり、この最悪な一貫性こそが、彼を怪物たらしめているのだと思う。
 何を言われても気にせず、どれだけ否定されても己を顧みず、他人との繋がりは不快な鎖でしかなく、ずっと幼く変わらぬままの自分で、孤独な永遠を生きる。
 その精神性を血とともに移植されるから、鬼は鬼なのかなぁ…などと思ったりする。
 そういう意味では、やっぱ禰豆子は特別な、運命の子だね…。

 産屋敷が遺言する人のあり方を、それを踏みにじって山程敵を作った無惨は、全く理解しない。
 そこには言葉を聞き届けるポーズだけがあり、否定するべき相手がどんな存在なのか、安心のために見届けてみるという冷たい観察がある。
 お館様もそこら辺は既に理解してて、対話に思えるものは必殺の機を作るための煙幕、コミュニケーションが成立することなど頭から期待してはいないわけだが。
 宿敵同士が語り合っているように思えるあの場面、発生しているのは死に至るディスコミュニケーションでしかなく、鬼なる存在と人なる存在の不倶戴天が、最終決戦前にあらためて確認される場面だなぁ、と思う。

 

 では産屋敷は誰に向かって語りかけているのかと言えば、そらー彼の言動を見ている僕らに向かってであり、これから爆裂する炎を皮切りに、クライマックスへ突入する作品がどんなものであるか、最後の最後に伝えているのだろう。
 世代を継ぎ、人を愛し、平和を守る。
 ”殺し”を遠ざけることで成立する綺麗なお題目を、妻子巻き込んだ壮絶な自爆でしか遂げられない、鬼とは違ったどん詰まりにたどり着いてしまった鬼殺隊頭首、最後の遺言。
 自分ひとりの命を投げ捨てることでしか、誰かの未来を拾う事ができない、理不尽で矛盾した世界を突破するための、自分の身を焼いたニトロチャージ
 そういう場面だったかな、と思う。

 飯食い笑い涙する、無惨が生まれた時から失っていた、人間のスタンダード。
 常に”生きる”という方向に進み続けるはずのそれが、他人を必要としない…むしろ不快に思って積極的に殺しに来る獣に阻まれた時、己の命を燃料に、単体の命が付きようがぶち破っていくしか、生きる道がない。
 死と生が極めて捻れた形でくっついてしまった鬼殺隊にとって、”継ぐ”ことによる単体の死の超越は絶対必要な麻酔薬であり、皆がそれを口にしながら死んでいく。
 個として完結した不死の存在を相手取るなら、そういう理屈をワクチンとして用意するのは、理屈では飲めているつもりだけども。
 こうしてアニメで動くと、やっぱ狂ってるわな。

 

 その責任は狂っちゃった鬼殺隊ではなく、狂わせた無惨にこそあるのもまた明白なんだが、それを全力で回避するのに人生注いでいるのも、鬼舞辻無惨という生物ではある。
 覚悟決まりすぎの産屋敷ボンバーを前に、ドン引きしながら妻子の了解を気にするマトモさが、今回露呈もしてたけど。
 あらゆる人を不幸に巻き込み、多くの敵を作る自分の強さとヤバさ…それに伴う特別な責任を、鬼舞辻無惨という凡人は全く理解していない。
 世界そのものの在り方を歪めてしまえるような、絶大に過ぎる力の持ち主にしては、無惨の精神性は極めて無責任で脆く、人間サイズの卑小を極めている。

 魔王めいたスケールで世の中と自分を繋げれているなら…それはそれで極めて厄介ではあるんだけども、まぁまぁ分かりやすい悪役だったろう鬼舞辻無惨。
 彼が極めて行き当たりばったりに、眼の前の不快感を叩き潰すことのみ求めて災厄を撒き散らす、気分屋な災害であることが悲劇の源泉であり、付け入る隙でもある。
 その圧倒的な異形は横において、無惨みたいな人はダース単位で世間にいっぱいいて、肥大化したエゴを守るために何でもする。
 力のスケールが世界レベルになっても、それに精神が追いついて大きくなるロマン主義はどこにもなく、クズがクズのまま人間サイズの災厄になって、色んな人の人生ぶっ壊した挙げ句、その責任から逃げ続ける物語。
 そして社会だったり法律だったり、それを踏みにじれる特権を持っても迫りくる必然の死だったり、己の分を否応なく解らされるなにかに、殴られて終わっていく。

 

 未成熟な社会性と、肥大した自己防衛本能だけを備えた、世界全てを殺戮し得る赤ん坊。
 そういう無惨の性根が見えてくると、彼を無敵の存在にしている不死不滅が、成長の可能性を摘み取る宿痾とも思えてくる。
 それが悲しいことだと思えない動物だから、色んな人の大事なものを大事に出来ず、むしろ積極的にぶち壊して敵を作り、命がけの大決戦になだれ込んでも行くのだが。
 ノリで鬼化させた浅草の人が、まさか炭治郎に救われ異様な才能を開花させて、ここで致命打を入れてくるとは欠片も思ってなかったんだろうけど、そこも含めて因果の話よね…。

 押し付けられた悲劇を恨みに思い、復仇の悲願を抱えて突っ込んでくる連中を、無惨は軒並み『知ったことか』で叩き潰す。
 鬼殺隊の人たちが刃を取る前…あるいは自分が鬼に変じさせた修羅達が生前、確かに感じていた他者との温かい繋がりを、彼は絶対に実感できない。
 それがあるから成立している、群れとしての人の営みに参加することも出来ないし、それを否定できてしまう実力も持っている。
 そのくせ、そういう超越種としての自分が社会とどう対峙するべきか、洞察を深めるよりごくごく普通の完成に甘んじて、自業自得の殺意を叩きつけられたら困惑し、悪罵したりする。
 極めて普通なのに、欠片もマトモじゃない。

 

 そういう破綻をいろんな手段で是正しうるから、社会は社会として成り立ってもいるのだが。
 無惨が強すぎたのと、鬼殺しが世界の影で行われる秘密の闘争になった結果、普通のやり方じゃヤツをもう否定できず、『んじゃあ狂うしか無いじゃんッ!』と1000年間煮詰まった結論を、全力で叩きつけたのが今回の爆裂なんだと思う。
 無惨を殺しうるのが白日に晒す行為だけなのは、世間の間で行われる鬼殺しが終わり、お天道さまに顔向けできるマトモさを隊士が獲得するための、ある種の社会的禊も含めてなのだろう。
 みーんな施設暴力集団所属の、マトモじゃない日陰者だもんな、鬼殺隊。

 どんだけ投入される戦力が多かろうが、関わる人達の思いが強かろうが、犠牲の数が増えようが。
 鬼殺隊の戦いはスケールのデカい私闘でしかなく、それを迎え撃つ無惨にも、彼なりの大義というものはない。
 身内を殺され人生を砕かれた結果、社会とマトモにつながる接点を無くしてしまった連中が、もうそれしか残っていない血みどろでもって、自分たちの社会性を獲得していく戦い。
 そこにおいて、個人の生き死にはそこまでもう問題じゃないことを、産屋敷輝哉の炸裂が良く示す。
 そう思える心根じゃなきゃ、人間のルールを身勝手に超越し、誰かに押し付けて殺す獣となんか、戦えやしないのだろう。

 

 それでも皆に半かけら魂に残っている、マトモで大事な人間性を曇りなく照らせるから、竈門炭治郎はこの物語の主役なのだと思う。
 世代を継ぎ、幸せを守り、当たり前に生きて死んでいく人間の在り方を、色んな人に触れ合い思いを受け取って生きていく、真っ直ぐな少年。
 彼の不屈は無惨の不変と違って、凹みもすれば負けもする傷だらけで、だからこそ昨日よりも強く、正しくなれる可変せを持っている。
 殺し殺されの地獄の中、人間であり続けることは更なる地獄かもしれないが、炭治郎は死と隣接した生に自然にほほえみ、彼と触れ合った人はその光で、自分もまたそういう”人間”だと思い出す。

 殺戮の日々に疲れ果て、自分を手放してしまえば人は、極めて簡単に鬼になる。
 鬼になってしまえばもう止まることは出来ず、他人を傷つけ喰らいながら突き進むばかりで、首を落とさなきゃ止まらない。
 そういうルールで物語が動く時、不倶戴天の敵が秘めている悲しみへ目を向け、それでもなお殺して止める存在として、鬼殺隊はあった。
 生来共感がなく、つまりは悲しみもない無惨には、そういう研ぎ澄まさせた慈悲は通じない。
 通じなかろうが、アイツ殺さなきゃ話は終わらず、隊士たちの奪われた人生は始まり直さないわけで、兎にも角にもやるしかないのだ。
 それを告げる狼煙として、産屋敷邸の爆裂は極めて鮮烈だった。

 火で焼こうが棘で貫こうが、毒を飲ませようが頭を潰そうが、鬼舞辻無惨は死なない。
 今までのルールを全部破る、ラスボス規格外のインチキっぷりを示して、最終決戦の現場は無限城。
 鈍重なパワー形に見えて、鬼殺隊最強だから速さも当然最高峰な悲鳴嶼さんのバトルも見れて、大満足の終章突入である。
 やっぱアニメの無限城は、イカレきった鬼の精神性を具現化した最高の魔城であり、出てくる度にワクワクする。
 劇場版はずっとこの異常空間が舞台になるってんで、全くもって期待しかない。
 なげーのクドいの、色々文句もいうけども、やっぱUFOの剛腕で原作の持つ狂気とイマジネーションが形になるの、最高なんだよな…。

 

 

 というわけで鬼滅の刃柱稽古編、全8話無事終了です。
 フタを開ける前は『何やんだよ1クールもよー!』ってなってましたが、実際食ってみると力んだUFO味が過去最高にパワフルに感じられて、『文句言いつつ長く付き合ってるだけあって、なんだかんだこの味が好きなんだな…』と思い返せるアニメでした。
 いやまあ話運びだけ見りゃぶっちゃけ水増しなんだが、最終決戦を先取りしてキャラ描写を深めたり、一時代を造った異様な力みだけで押し切る迫力勝負が複数回あったり、鬼滅のアニメを原液で啜ってる感覚は、過去一濃かったと思う。
 映画版でも、間違いなくこのテイストでやりきってくれるでしょう。

 苛烈な死闘が連発する最終章前に、強さの説得力を積む修行編ではあるのだが、思いの外死人が出ないスポーツ的爽やかさがしっかり出た結果、本当は普通に優しく生きたかったのに、クソ鬼どもに人生捻じ曲げられて修羅になるしかなかった人たちの寂しさが、妙に色濃いアニメでもあった。
 お館様が遺言で総括もしてたけど、無惨が好き勝手絶頂ぶっこかなきゃ鬼狩りの鬼にならなかった連中が、他人と触れ合えず変われない鬼に堕ちきってないのだと告げる、日常のきらめきはこのタイミングでしか書けない。
 それが数多砕かれる未来を、原作読んで知っちゃってる身としては、眩しくも切なく、愛しい群像であった。

 

 この修行編で描かれた輝きは、後の戦いで砕かれるから無意味で無価値になる…と、無惨なら言うだろう。
 自分の命のみを世界唯一の勝ちとし、他の全てを実際殺し尽くせてしまう彼以外の、色んな人が普通に感じている、生き死にのニヒリズムを越えたところにある価値。
 そういうモノを高く掲げないと、マジで身も蓋もない刹那的物質主義でしか生きてない宿敵に対抗できないから、鬼殺隊は命を惜しまぬ擬似家族カルトの顔を持ってるっていう、歪さも改めて確認できる章ではあったが。
 しかしそういう歪さと併存して、人間の真実を抉る力強さが確かにあればこそ、”鬼滅の刃”は名作なのだと思う。

 時代を震撼させ世界規模に広がった、新世代の国民的アニメ。
 それを決着させるための終章は、そらー劇場版三部作くらいにブチ上げなきゃぁ収まらない。
 原作開始から八年、アニメ放送から五年。
 気づけば遠くへ来た、相当歪でヘンテコな鬼殺しの物語がどう劇場に描かれ、己自身を走りきっていくのか。
 なんだかんだめちゃくちゃ頑張って楽しませてくれた、この柱稽古編の手応えが、しっかり終わってくれるという信頼と期待を、熱く燃やしてもくれます。

 

 劇場版三部作、とても楽しみです。
 そして柱稽古編、お疲れ様でした。
 ありがとう!!