イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

劇場アニメ『ルックバック』感想

 藤本タツキが原作を努め、押山清高が監督・脚本・キャラクターデザインを担当した映画『ルックバック』を見てきたので、感想を書きます。
 58分の短編に1700円、極めて強気の勝負に出た作品ですが、そうするだけの凄みはしっかりとある、大変面白い映画でした。
 スーパーアニメーターである押山清高が直接作画の大半を担い、映画的な原作を映画として動かす行為に本気で挑んだ血しぶきが、インクに混じって命を得たようなアニメでした。
 原作からの逸脱はあまりない”原作通りのアニメ化”に見えて、アニメだからこそ、押山清高という才能が制作の根源に深く関わったからこその手触りが、強い物語に新たな生命を吹き込んだ、とても素晴らしい作品でした。
 是非劇場で、その力強さに遭遇して欲しいと思えるアニメなので、大変オススメです!!

 

 

 

 というわけで、『ルックバック』の激情アニメを見てきた。
 僕は藤本タツキも好きだし、それ以上に押山清高というアニメーターがとても好きなので、二つの才能が出会いぶつかってこの映画が生まれたことが、とても嬉しい。
 同時にこの作品が広報される時、アニメにまつわる殆どの仕事を一人で担当した”スペース☆ダンディ”第18話(アニメ感想日記 14/08/04 - イマワノキワ )や、初のTVシリーズ監督作である”フリップフラッパーズ”(

フリップフラッパーズ カテゴリーの記事一覧 - イマワノキワ )など、僕が好きになった彼の仕事があまり表に出てこない歯がゆさに勝手に苛立ち、『世界が押山清高を見つける好機に、この注目度が高い作品がなってくれたら良いな……』と思いながら、公開を待っていた。
 蓋を開けてみれば前評判で上がったハードルを天までぶっ飛ばし、素晴らしい作品がとんでもない評判を呼ぶ結果を連れてきて、大変満足である。
 ほんとすげー人なんです!(ご承知の同士はとうにご存知のとおり!)

 

 こういうキモい書き出しになったのは、『ルックバック』というお話を極めて抽象的かつ私的な、私小説的要素の強い作品と僕が受け取っているからだ。
 藤木と京本、主役二人の名に、作者の名字を分割している時点でかなり藤本タツキの個人的な懊悩や希望を焼き付けたお話だと感じるし、東北震災や京都アニメーション事件など、作者の外側にある大きなフレームを活かしつつも、あくまでそれを感じた”私”の思いを、漫画家である藤本タツキが生業に込めた……込めざるを得なかった話として、初読時受け取った。
 それを押山清高が受け止めて造ったアニメーションは、もちろん複数人の才能がぶつかり混ざりあって生まれる商業アニメーションとしての冴えを宿しつつも、彼が持つ圧倒的なアニメーターとしての眼と手の天才が全面に出た、同じく私的な趣のあるお話と思えた。
 だから僕も押山清高大好き人間として、出来る限り個人的な感慨としてこの感想を書こうと思う。

 生きた人間というには、生活感の薄い京本の造形。
 人生を切り取るにしては、当たり前の波風が少ない展開。
 時間を大胆にかっ飛ばす、モンタージュ演出の多用。
 原作において選び取られ、アニメにおいて効果的に変奏されアニメ独自の面白さを宿した表現は、どれも極めて抽象的な概念に、身を切るような切実さを宿して143ページ/58分を描ききるために選択された表現の武器に思える。
 その焦点はやはり何よりも”描くこと”にあり、書き続けるしかない業を背負った二人が出会い、造り、別れ、また出会い直す物語に、創作者たちが自分たちの業を、自分たちの選んだ表現で覆い焼きする、客観的であり普遍的でありながら、主観的で個人的な熱が色濃い。
 それを躍動する作画の中に、脳髄をぶん殴るような鮮烈な美術に、タイミングと動きの芸術に、たっぷりと感じられる58分で、見ていてとても幸せだった。

 

 自分を素直に言い表せない藤木は、外面を取り繕った嘘で自分を守りつつも、”描く”という行為に極めて真摯であり、そこに深く深く没入していく。
 同級生の寂しさ混じりの当てこすりに惑わされ/正気を取り戻して小6で筆を置き、マンガから離れようとした彼女はそれが縁で隣り合った京本の家に上がり込み、山と積まれたスケッチブックを目の当たりにする。
 それは彼女自身、『ヨユーだし』を装いつつシコシコシコシコ、身体を歪めて延々同じ姿勢で描いて描いて描きまくる、そうするしかない生き様を背負うがゆえに、解ってしまう凄みだ。
 こんだけ描いてるやつの顔を、扉の向こう側に見たいと思ってしまったから彼女は4コマ漫画でドアをノックし、それに引っ張られて京本は外の世界へと踏み出す。

 そこにはあまりに眩しいマンガ以外の幸せが沢山あって、しかし二人の創作者は眼にしたもの全てをマンガにしたしめて、二人で書いて書いて書き続ける。
 この幸せな黄金期のモンタージュはとても美しく、二人の魂が深く深く結びつく様子を生き生きと動かしていた。
 ファンとの関わり合いすらたった一人との関係に集約していく、極めて横幅が狭い(からこそ、全てを突破しうる強さを有する)物語において、主役二人にどんだけ好感を持てるかというには極めて大事で、そういう強さを藤木と京本の友情と感情がしっかり宿していたのは、凄く良かったと思う。

 10万縁ぽっちで「家、買えちゃうよ……」となる、チャーミングな幼さに人物の魅力をぎゅっと詰め込み、ずっとこの幸せが続けばいいのにと素直に思える可愛げで、幸せな共同作業が積み上がっていく、ゆりかごの中の幸福。
 しかし二人がお互いの最高の読者でいられるのは、別々の意思と夢を持った尊厳ある個人だからこそで、藤木のマンガはアニメーションとして良く動き、京本の四コマは(後に未来の夢として出会う背景美術のように)静かに動かない。
 ドラマを備えた物語性ある絵の集合体と、動かない中に強いメッセージを宿す絵画。
 優劣がない、というかアニメーションの中で共存すらする二人の表現は高校卒業を契機に別れて、京本は地元に残って絵の勉強を続け、藤木は東京に出て人気作家になっていく。

 

 藤木はなぜ、嫌味に強烈に『行かないで』を交えた態度でもって京本を縛り、自身の奴隷(その究極系が、京本が襲撃により成り果てた死体なのだろう)に変えてしまわなかったのか。
 自分のもとを離れ、違う道へ進むことを許したのか。
 それは彼女が京本を認める根本が、”描く”ということにあったからだと思う。
 京本の対人能力のなさや夢を罵ることは出来ても、『もっと、絵が上手くなりたい』という剥き出しの衝動で確かに繋がり、お互いを特別にし得た願いだけは、足蹴にすることは出来ない。
 そういう生き方しかできない自分を思い出させてもらった恩義を、色々態度に問題はある藤木はけして裏切ることは出来ず、自分の足で立って藤木と並び立つ創作者になりたいと願う京本の巣立ちを、痛みに悶えながら見送ることになる。
 ここには明瞭に他者と自分の境界線、それを成り立たせる敬意があって、そういうモノに気づかせてくれる自分の影だったからこそ、藤木は京本の手を引いて、輝くものを一緒に見たのだと思う。

 『おれの絵パクっただろ!』と叫びながら、赤の他人に襲いかかった襲撃犯が持ち得なかった(あるいは壊れてしまった。その背景が描かれず、ある種道具的な書き方なのも、この作品を観念的で個人的な物語と受け取る理由だ)自分と他人の境目を、藤木は京本と己の間に見つけていて、それを裏切ることが出来ずに彼女を扉の外に連れ出した。
 手を引かれ背中に憧れるばかりのアシスタントではいたくないという、藤木と出逢ったからこそ花開いた京本の祈りと願いを、かならずそこにあるからこそ尊い断絶を、藤木は尊んで手放す道を、結局選べたのだ。

 

 後に訃報を聞き遺品を眺めて『扉なんて開けなければ良かった』と、己の生業を呪う藤木であるが、自分と他人との間にある扉は京本にとっても極めて重要なものであり、それを開けて……時に致死の危険が理不尽に襲いかかる外へと踏み出したことを、凄くダイレクトに幸せなのだと言葉にもしている。
 大好きな藤木と離れてでも……彼女の背中が覆い隠してくれた、己の至らなさに震えながら向かいあってでも、進みたかった美術の世界で、京本は自分を表現する作品として扉の絵を選んでいた。
 それにどんな意味があったのか、キュレーションを求めても死者は言葉を持たないわけだが、藤木は2つの世界に分かれて扉越し応答し合うマンガのやり取りの中で、自分が生み出す作品の力と出会い直す。
 それは静止し死んだ、動かないはずの絵が動いて命を宿し、生きて現世に残りなお書き続ける……自分が生み出した作品を活かし続ける道へと進んでいく藤木を躍動させていく、極めてAnimationな展開である。

 京本が死んでしまった”現実的”な世界において、出会わずマンガと距離を取り、それゆえ極めてマンガ的な偶然と暴力で京本を救えた”夢想的な”世界から届いた紙片だけが、扉を越えて藤木を再起させるわけではない。
 扉を開けたからこそ出会えた、自分のすべてを込めた作品のすべてを、ともすれば自分よりも解ってくれる特別な誰かが、道を違えてもなお自分の最高のファンであり、そんな彼女が待ち望む”続きの12巻”を、死と絶望を越えて扉の向こう側へと描けるのは、自分自身なのだという確信。
 京本と別れても創作者で居続けることを捨てられなかった、藤木自身の業と願いが扉を越えて京本にちゃんと届いていて、それは死や理不尽を越えて確かに何かを生み出し続ける、動き続ける絵なのだというメッセージは、読んだ京本と描いた藤木の、居場所を同じくしない合作なのだ。
 扉の外に出たから遭遇してしまった不幸を、乗り越えていけるもう一つの世界が、マンガ的夢想に彩られた夢なのか、確かにありえるかもしれない希望なのかは、僕には判別ができない。
 そのどちらであったとしても、生きることにも死ぬことにも救いがあり、多分絶望もあって、運命の引力に惹かれて出会い直した藤木と京本もまた、どっかでぶつかり喧嘩するだろう。
 悲しく理不尽に思えるものが生み出す静止と、その先に突き進んである生きた躍動は、お互いを食い合いながらお互いを活かし、お互いの背中を追い抜き追い越しながら、人間を前へと進めていく。
 若き日に出会っていれば扉の向こう側に手を引いて導き、出会わなければ鍛えたから手で死地から救い、どっちにしろ出会い直してマンガも描く、二人のカルマ。
 その行く末として、あの時扉の向こうに手を差し伸べずとも美大に通い……つまりは自力でも扉を開けて外に出ていく京本の定めが、書かず届けず閉じこもるという藤木の暗い選択を、やっぱり跳ね除けてもいく。

 

 どういう転がり方をしようが京本の創造性はいつか扉の向こう側を求めてしまうし、空手キックが間に合う場合でも、遠く離れて永訣を迎えた時でも、悲しみばかりが扉の向う側にあるわけではない。
 動かないはずの絵が動き、動いていない絵に命を感じるアニメーションの不可思議を、世界で最もよく表現できる一人だろう押山清高の筆が、命を吹き込んだこの作品において、生死の境目を超えうる希望としての創作、扉の向こうへと人を導く希望は、原作のエッセンスを見事に宿しつつ、独特の表現へと研ぎ澄まされてもいる。
 このマンガとアニメの呼応と変化は、死者と生者、静止画とマンガ、生き残る世界と死して続く世界へと分かたれつつ確かに繋がっている、作品自体の構造によく響いている感じがある。
 各種映画の引用や、現実の事件への参照という話題性の高いメタレイヤーを最大限活かし、多くの人に届く物語になっているこのお話が、自分の目で原作を読み解き、自分の指で描き直し動かし、新たに届け直すというアニメ制作者のクリエイティビティによって、極めて純度の高い共鳴を、現実と創作の間に生み出したのは、凄く興味深い現象だと感じた。

 京本が目を輝かせ、藤木の背中にべったり張り付く以外の未来への道標として選んだ『背景美術』の本。
 それがアニメーションにおいて極めて重要なセクションであり、押山清高がクレジットされていないさめしまきよし達の圧倒的な創作として、分厚く58分を暴れ倒していることも、僕にとってとても面白い共鳴だ。
 どんだけアニメーターとしての技術、監督としての制作力が作品に支配的であっても、一人でアニメは作れない。
 山形の美しい自然を通して、主人公たちが進んだ青春の眩しさを鮮烈に描くこの作品の背景は、様々な手段で動いている。
 常識破りの濃度と頻度で襲いかかる背景動画の表現力が一番ダイレクトだけども、フォトリアルであったりイラスト調であったり、また絵画のような手触りであったり、画風をシーンごと様々に移し替えて、一つの表現に固定されないうねりを静止画に宿す表現には、たしかに生命の息吹があった。
 時間的な移ろいとしても、花が咲き雪が降り早苗が芽吹く田園の季節を確かに映像に刻みつけ、あるいは藤木が自分の部屋からプロとしての仕事場へ、場所を移してなお同じ姿勢で書き続ける中、移ろう時間を背景に宿してもいた。
 空間としてグルグル動き、時間の中を豊かに駆け抜け、止まっているのになお動く一つの命として、背景というアニメ的な表現を突き詰め、生かしたこと。
 それを描くクリエーターたちがコアスタッフである押山清高のアシスタントではなく、その背中を追い越しうるもう一人の創作者として、力強い自負を動かぬ絵に込めて、動きまくる作画と豊かに共鳴し、激情アニメという一つの命を生み出し得ていること。
 それは動かぬ絵にこそ自分の創作が、命があるのだと扉の外側へ進んでいった京本が、一体何を生み出し得たのか……何より豊かに語り得る、極めてアニメ的な表現だったと思う。

 

 タイトルにあるとおり、この作品において”背中”は極めて重要で多彩な意味合いを持つ。
 京本が己の生業と選び取った”背景”も一つの背(Back)であろうし、同じ熱量で創作に向き合える天才と出会えた奇跡の証を刻むのも、どてらの背中である。
 変わりゆく世界の中で動かぬ背中を切り取り、創作者がシコシコ苦痛と向き合いながら積み上げていく表現を支えるものも、固定アングルで藤木の背中を切り取り続ける映像として示されている。
 それは藤木が常にそれを見るものより先にいればこそ見えるものであり、扉の外側に出て不確実な危機に襲われて歩みを止めても、また進み出し追い抜いて彼女の表現を待つものへと、背中を見せれる存在だと教えてくる。

 その背中は京本の死を以て折れ曲がり止まりかけて、かつて自分が見せた背中が死せる京本の中に確かに生きていて、そこに堂々『藤木”歩”』と刻まれているのを確認することで、もう一度進み出す。
 最終的に永遠に届くことが無くなった”12巻”を世に問う方向へと、藤木は名前通り”歩み”出すわけだが、それはかつて京本に見せた(見つけてくれた)自分の背中と出会い直すことで、死に足を止めず終わらぬ歩みへ進み出す力を、改めて自分自身から……自分の中にまだ生きている京本から、手渡されたからだ。
 人間は自分の目で自分の背中を見ることは出来ないが、その背に刻まれた生き様に魂を震わされて、扉の外へと引っ張り出された存在の視界を借りることで、一瞬それを確認することが出来る。
 そこにおいて分断されていたはずのあなたと私は、過去と未来は、生と死は、いつでも出会い直せるはずなのだ。

 

 動かないはずの京本の作品が、あり得たかもしれないもう一つの未来から絶望に打ちひしがれる藤木に届く時、その絵は静止したままストーリーを宿して動く。
 それはあの時扉を叩かずとも届いていたものが、確かに彼女の一部となり、死を超えて手渡した当人に届き直す追いかけっこだ。
 再び執筆に向き合う藤木を描く時、彼女の背中は動かず、背景は時の移ろいを反射して様々な色を見せる。
 訃報を聞き届けたときは真っ白な不吉が満ちていた都会は、山形の自然……そこに抱かれていた幸せな幼年期とはまた違った美しさに満ちて、生き生きと動き続けている。

 そうやって色んなモノを宿す背中を振り返ることなく見つめ、追い抜いて追い越してまた背中を示し、誰かが追い越してくれる日を待つ、永遠の輪廻。
 京本の死で創作者としての自分を、あるいはその生命を断つことすらありえた藤木は、どこかにあるだろう幸せな可能性の引力に出会い、自分自身がかつて投げかけた生き様を見つめることで、もう立ち止まることを己に許さなかった。
 もう一つの世界で見ず知らずの誰かのために、命がけの空手キックを凶漢の背中に叩きつけたように、藤木という人間は扉を蹴り開けて背中を見せる存在であり、生きていても死んでいても、京本は彼女の背中を追いかけて追い抜いていく。
 追い抜いた先で手を伸ばして、待っていてくれる。
 不思議な輪廻をくぐり抜けて自分に届いた京本の”活きた”四コマと、かつて出会いの奇跡で生まれたサイン入りドテラに刻まれた自分の名前と、別れてなお書き続けたからこそ京本に届いていた自分の11巻は、生まれざるを得なかった創作たちは、そういう奇跡を藤木に届ける。

 この後の人生、どんな成功を得ようともどんな傑作をモノにしようとも、藤木は京本の背中をもう一度、見ることは出来ない。
 死人は二度と、自分を追い越してくれない。
 そういう静止した絶望を跳ね除けるように、藤木が創作の武器で理不尽に満ちた世界を切り裂いていく歩みの果て、何度でも死んだ彼女の背中を見つめ直し、追い抜いて手を繋ぎ直すことが出来るのだろうと、思える映画だったのはとても良かった。
 死と生、絶望と幸福、現実と空想を絶対的に隔てる扉がけして開かないものではなく、立ちはだかる壁のように思える大きな背中こそが、それに追いつこうと歩みを進める道標になることを、信じて藤木は書き続けるだろう。

 

 その姿勢はやはり僕には、藤本タツキが創作者として抱えた個人的な懊悩を、生と死、出会いと別れにまつわる物語の中に力強く塗り込め、押山清高(を筆頭とするアニメ制作者達)が受け取って自分だけの表現として、渾身の58分に編み上げたこの激情アニメの制作過程と、重なって見えるものだ。
 その内側がどんなものか、僕には見えない。
 この映画において制作者たちの懊悩と苦心が、基本背中に阻まれたシークレットとして積み上げられ続けて、手元がなかなか見えないように、実際の所何があって何を託して、扉の向こう側に作品を投げかけたかは、分からないものだ。
 でもその内側を、勝手に覗き込みそれが自分の物語なのだと、思い込みたくなる強さというものが、優れた作品には確かにある。

 今手元の見えない背中越し、自分の中にとどめておけない何かを全力で叩きつけてくる創作者たちもまた、偉大な巨人の背中を見つめ、そこから受け取ったものを指先にこめて、新たな何かを、自分だけの絵を紡ぎ出している。
 その個人的な営為が、広く強く何かを揺るがして扉を開けうる、大きな背中になりうる一つの証明として、とても力のある映画だと僕は思った。
 いち視聴者の勝手なこの思い込みを、新しく扉を開けていく一つのエールとして受け取って、僕も進みたいと思える劇場アニメに成ってくれたことを、僕はとても嬉しく思う。
 これまで幾度か、そういう大きな背中を堂々僕に叩きつけてきて、僕をどっかへと引っ張り上げてくれた押山清高が、こういう映画を作ってくれたことを、すごく幸せに思う。

 

 過去から未来へと、絶望から決意へと、死から生へと。
 藤木を新たに扉の向こうへ押し出していく創作に出逢った後、彼女の脳裏に浮かぶ映像は動かない。
 静止画のラッシュはアニメートされた動画ではなく、止まった一枚絵でしかないのだけども、確かにそこに生きていて、これからもなお活き続ける”動く絵”として、大きな意味を見ているものから引っ張り出す。
 それは動かぬ絵を動かさぬまま動かす、アニメーションの不思議な魔法の極限であり、”原作通り”と言われてしまうだろう誠実なこのアニメが、しかしアニメだからこその、原作ではないからこその、極めて強い命を宿し得たことの、一番の照明なのだと僕は感じた。
 残酷な生死の命運を扱いつつも、それはあくまで素材の一つであり主眼は創作とコミュニケーションへの希望にこそあるのだと、改めて感じ直した。
 嘘っぱちの絵空事に心血込めればこそ、描けるものが58分に凝集されていて、凄く良かったです。

 とても良い映画であり、アニメであり、アニメ化だったと思います。
 素晴らしかったです、ありがとう。