イマワノキワ

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デリコズ・ナースリー:第3話『しのびよる影』感想ツイートまとめ

 デリコズ・ナーサリー 第3話を見る。

 物語を鮮烈に始動させた第1話、貴族たちが囚われた檻の歪さを活写した第2話に続き、やや狭間の落ち着きがあるデリコ第3話である。
 主に主役であり探偵役であるデリコくんの内面を掘るエピソードであったが、ペンデュラムのイカれた所業が暴かれ、彼らの犠牲となった繭期の青年たちを通じて、子どもら最年長で大人びてる…ように見えるテオドールくんの危うさが、不気味な人形劇の中描かれた。
 荒唐無稽で血なまぐさい惨劇と、大きな人形。
 2つの意味を持つ”Grand-Guignol”を、妻にして母なる存在を殺し物語を開始する悲劇に名付けておいて、あの描写は凄いね…。

 

 何もかんも一人で抱え込んでしまい、適切に他人に頼ることを知らないダリくんの業も、料理と疲労を巡る描写の中に透けた。
 なまじっか卓越した頭脳と才能を持つからこそ、他人を敬して”人間らしい”距離感で繋がることに難しさがある天才が、唯一体温ある距離感で繋がれただろう愛妻は、他人を奴隷に変える吸血種の異能によって、儚く砕かれた。
 そこにまつわる恨みつらみすら、冷静に切り分けて対応できている(少なくとも表向き)怪物的理性は、柔らかな愛情で弱い存在をくるむ育児には、極めて相性が悪い。
 犠牲者でしかない繭期の子ども達を、冷静に処理していく躊躇いのなさと、妻に語りかける時唯一声に宿る温もりの断絶。
 他人をコマにして、あるいは自分自身の不調すら気付かぬ遠さを宿して、孤独な人形劇をやってるのはテオドールくんだけじゃない、って話よね。

 ダリくんが愛しているのは我が子そのものではなく、愛し奪われた妻への操であり、それを捧げる己自身ではないのかという疑念は、己の落下に赤ん坊を突き合わせるバルコニーの描写からも、強めに透ける。
 テメーがぶっ倒れるのは勝手だけどよぉ…ガキ背負ってんだから根性入れてくれよマジよー!

 冴えた頭からひねり出した”完璧”は、カオスな現実と衝突して摩擦を生む。
 その時点でダリくんは”完璧”などではないのだが、あたかも完璧であるように振る舞い続けているし、弱さを見せず事件を踏破する探偵役としては、その無謬は重要だ。
 古典的(故に差別的でもある)貴族社会を擬する吸血種の物語、ミステリの構造もオールドスクール探偵物語の空気をまとい、探偵は理性の神であることを求められ続ける。

 

 ゲルハルト卿が貴族の規範を己に帰し、息子を巻き込んで生身の人間らしさを軋ませているのに対し、ダリくんは理性の機械、謎解きの装置たる探偵の規範を、1つ目の鎖としているように思えた。
 それを解きほぐし得た愛がライバルによって奪われ、愛という名の2つ目の鎖に、がんじがらめになって子育てという職務に勤しむ。
 彼の言動を追っていくと、子育てに関して『である』という主観の自然記述ではなく、『であるべき・であるはず・であるらしい』という、客観の規範記述で語っているのが確認できる。
 つまり、彼にとって子育ては己の内から湧き上がってきた明白な使命ではなく、誰かに託された遠い責務だということだ。

 それを託したのが誰か、夢枕に立つ愛の亡霊が静かに語るが、彼はこの押し付けられた外部性に率直ではない。
 あたかも探偵生粋の奇行であるかのように、捜査本部と託児所を重ねるムチャクチャを押し通し、エキセントリックな仕草で”わがまま”をやり切る。

 卓越した頭脳故に実感が薄い、人の間で触れ合い混ざり合って生きていく手触り。
 それがプロのプライドを料理長から奪い、借りてきた激務に耐えかねず倒れ、鴨の血のスープでケアされた後ようやく、無理な荷物を誰かに託せる足取りからも透けて見える。
 人の上に立つ、人を使う。
 ゲルハルト卿が重視する貴族の責務が、ダリくんはつくづく下手なのだ。

 

 妻が最後に託した”育児”という責務が、周りを巻き込んでの非常識な大騒ぎを巻き起こすほど…リスクとリターンが釣り合ってない奇人の暴走だと思ってもらうことで、そこに心からの願いが宿っていて、嘘なんかじゃないのだと演じ証明する。
 その軋みに自覚的だから、夢枕に立つ亡霊の形を借りてダリくん自身の深層意識が、己をケアした感じもあった。

 もはや思春期を終え子どもも得た”大人”を、大事にしてくれる存在は自分だけ。
 真実そうしてくれるはずだった伴侶は死んじゃったし、彼女への愛を証明するためにも、事件解決という対外的(貴族的)責務も、育児という内部的(に見えて外部的な)願いも、両方叶えねば甲斐がない。
 同僚たちを縛る「貴族、かくあるべし」という鎖とは、また違った二重の鎖に、ダリ・デリコが縛り付けられている様子を、少し覗き込める回だったと思う。

 己を敬する料理長が差し出してくれた鴨の血のスープを飲み干して、ダリも”ナーサリー”されたわけだが、理性の怪物たる彼の根本が果たして、この一件で変わったのか。
 まだまだ物語の進展を見なければいけないし、それはつまりペンデュラムのカスどもが、新たな犠牲者を生み出し悲劇が積み重なる、ということでもある。
 謎解きが先に進む時、必ず出る死人を必要経費と割り切って「進展を待つ」と言えてしまう冷たさ。
 ダリくん、なんだかんだ”貴族”だよね…。

 

 子どもらの前で笑いながら連続殺人の話出来てしまう、クソボケ親父どもの有り様を見ていると、彼らが真実バランスが取れた”大人”ではないことは良く分かる。
 この”ナーサリー”は家族の、そして社会の守護者たるべき貴族自身のガキっぷりを、鍛え上げ成長させる揺りかごに…果たしてなっていくのか。
 どうも果たされぬ業の深さを描く筆が、なかなか重たく揺るがない感覚があるので、ボケはボケのまんま大惨事に突っ込んでいく気がしてならない。
 公式ページのコンテンツ年表見るだに、ろくでもねー未来しか待ってねーからなーこの前日譚。
 …入口を絞っても結局、莫大な周辺情報の欠片は口に入るな。

 人間として未熟なガキのまんまだろうが、家柄と歴史と格式が成り立たせる搾取の構造にさえフィットしていれば、立派な貴族、立派な大人として認められる。
 私人としての成熟と、公人としての責務が乖離している貴族階級の歪さが、四種四様のヤバさとしてオヤジたちに伸びてる感じもある。
 ある種アダルトチルドレン共の話というか、真実大人であるということは何を意味するかを、子どもに適切に接することが出来ないボケ保父どもの有り様を鏡に、問うてる感じはある。
 やはりこの”ナーサリー”で育まれるべきなのは、白紙の未来を背負った赤子たちではなく、責務や苦悩を自分たちに書き込んだ大人の側…なんかなぁ?

 ここら辺は子ども主役の物語がまだ駆動しておらず、捜査メインで話が転がっているから感じるコトかもしれない。
 ダリくんの奇行に引っ張られる形で、ずっと遠かったパパたちが近くによってきてくれて、子どもらはキャッキャ笑って楽しそうだ。
 その明るさが否応なく、抱えた個人的な(つまり非・貴族的な)影を濃く照らして、解決しなければいけない問題が目の前にあることを伝える。
 しかし捜査官達は育児という厄介事に苛まれつつ、眼の前の仕事にこそ夢中で、人間一人が抱え込んだ荷物を覗き込む余裕がない。
 「ないんなら死にものぐるいで作れよ! 目の前にいるの一個の魂やぞ!!」つう話ではあるんだが…。

 

 挿入された上層部の描写を見るだに、”コラプス”なる破局を防ぐためにはいかなる犠牲も厭わない、冷たい全体主義が貴族社会の手綱を握っているように思う。
 一個人が抱え込んだ感情や痛みを、顧みず社会全体の維持に勤しみ、吸血種を存続させていく。
 この事件解決最優先主義は、確かにそこにある疲弊や後悔や痛みを表に出さず他人に預けず、理性の機械として育児と事件…両方の”解決”を通じて、妻への操を証明しようともがいているダリくんの、歪なあり方と重なる。
 吸血貴族社会が抱える冷たい効率主義は、一見貴族っぽくないダリくんにこそ、多分一番濃いのだな。

 となると災難なのは、そういう男を唯一の肉親としてしまった息子たちなわけだが。
 社会全体を揺るがす大きな事件を、クセの強い同僚たちを、お前たちの育児に巻き込んだんだから、お父さんの思いは本気だ。
 そう操を立てたいダリくんの振る舞いには、やっぱり心の底から湧き上がる自然さが欠けていて、全部妻への捧げ物なんだろうなぁ…というおぞましさがつきまとう。

 あるいはこのぎこちなさこそが、彼にとっての自然なのか。
 どっちにしても、お母さんの遺産としてではなく目の前にある一個の魂として、当然子どもらはお父さんに自分を見てほしいはずで…しかしそれは難しい。
 ダリ・デリコは探偵で、理性の残酷な神なのだ。

 

 ここら辺の探偵小説論は、現在放送中の”小市民シリーズ”とも重なるものがあって、両方楽しんでいる自分としては思わぬシンクロニシティ歓喜! という感じだが。
 探偵であり夫であっても、貴族であり父であることを己のアイデンティティと出来ないダリくんは、しかし息子とゲルハルト卿には後者であることを望まれ、それに報いるようになんとか、不器用な折衷案を差し出してくる。
 それがこの託児所の大暴れだと考えると、笑ったり怒ったりするより先にどうにも寂しく哀しくて、いい塩梅に吸血鬼の話だなと思う。
 鏡に映らぬ彼らだからこそ、人間の陰りを照らす鏡たり得る。
 だから、ヴァンパイアはいつでも蠱惑的なのだ。

 永遠に失われしまった存在の代用品としてでも、不器用な芝居であったとしても、世間を大騒ぎさせながら駆動したダリくんの”愛”が本物だと、思い込めるのなら問題はない。
 しかし探偵がいつでも真実を見抜くように、おためごかしの嘘っぱちを子ども達は無視できないわけで、ここら辺の軋みが子どもらにどう響くか、なかなか怖くはある。
 大人になりきれない貴族たちが、どういう生育環境にあったから”こう”なってしまっているのか。
 子どもらへの応対と隔意の才媛は、永遠に続く構造化された虐待のループを見ているようで、「どうにかならんかね…」と思わず呟いてしまう。
 いやまぁ、絶対また繰り返すんだろうけど…。

 

 この作品の吸血種は、永遠を失った永生者の残骸…血を吸う人間として設定されている、ようだ。
 ぶっ倒れた後の滋養として”鴨の血のスープ”が出てくるところに、飲血を強要されている出来損ないの味わいが濃く出てて良かったが、永生者ならば出口なく蓄積されていく澱が、吸血種には世代と親子の絆を通じて、再演され継承されていく。
 今作品全体を覆ってる、明るくコミカルなファミリーコメディの味わいを、既に貫通しているループな腐臭。
 世代を超え語り手を変え、延々繰り返す社会構造の歪とその犠牲、逃れられない人間の…あるいは血吸の怪物のどうしようもない業。
 やっぱそこら辺が、シリーズの眼目って感じはする。

 これを公的/社会的/全体的な側面から切開するのがペンデュラムが引き起こす事件、それに対するヴラドの調査であり、私的/家族的/個人的な物語として描いていくのがナーサリーの日常…というのが、アニメにわか現在の見立てである。
 ここら辺の質感は、子どもら個人、家族個別の悩みや問題、その解決や解決の失敗に踏み込んでいく中でより鮮明になっていくだろうから、続きが楽しみでもあり、恐くもあり。
 「色々デコボコあったけど、ぶつかり合って問題解決! 良かったね!!」てのが基本調子になるとは、この腐敗臭濃い正調貴族譚を見てると、どうしても思えないなぁ…。
 一見良くなった風味の、致命的失敗の記録になりそー。

 

 お誂え向きに、思春期にさしかかると色々ヤバゲな障害を種族的に引き起こされる、”繭期”の設定もあるしな。
 何も知らず幸福でいられる、ナーサリーな季節が終わると自動的に、吸血種は怪物である自分を引きずり出されて、大人でも子どもでもない不安定で脆い存在へと変貌していく。

 羽化して生き残り、立派な”大人”になれる道が確定されてんならそれでもいいけど、それならわざわざ隔離施設用意はせんだろう。
 実際クソカスに制度ハックされて、子どもらが使い捨ての人間兵器として悪用されてんだから、ナーサリーを出ても問題山積地獄絵図って感じはある。
 まぁ現実も似たようなもんか! もうちょいマシか!!?

 いつから思春期にさしかかるのか、それはこっちの世界でも全く子ども個人によるものだけど、「貴族、かくあるべし」を押し付けられてるテオドールくんは、既に繭期に入ってるのかなーって感じ。
 彼にだけ見える人形劇は、押し殺している深層心理を代弁して、抑えきれないストレスのはけ口となっている…ように見える。
 思春期の不安定な精神が、現実を引き裂く異能を生み出す…つう意味では、極めて正統派の超能力ジュブナイルなんだな。
 一見幸せな幼い託児所だけども、大人になることの難しさ、大人を強要される歪さは、既にその内側に入り込み影を伸ばしている。

 

 

画像は”デリコズ・ナースリー”第3話より引用

 子供らが笑い合う幸福は上からの鳥瞰で切り取り、どこか嘘っぽい遠さを出す。
 その内側で大人にも子どもにも…あるいは大人になりきれない子どもと、大人であることを強いられている子どもに忍び寄る影は、不気味で主観的な近さで切り取られている。
 ここら辺の表現の対比がシャープで、相変わらず見ていて楽しいアニメである。

 寝床に愛の亡霊を起きつつ、救済の光から遠ざけられているダリくんも、不可視の人形に取り囲まれ鉄面皮を取り繕っているテオドールくんも、自分にしか見えない何かに向き合い、取り憑かれ、あるいは救われている。
 ダリくんは夢の中での再開が、亡霊として妻が蘇った再生などではなく、自分の深層意識が生み出した夢であることを、その冷静な頭脳で理解している。

 それでも確かに託されたものがあり、唯一感情を揺るがす愛がそこにあったから、彼は一人ですべてを背負い込み、己が誰かを愛せた”人間”だったのだと、事件と育児を制圧することで証明しようとする。
 そのためには自分の限界を認め、潰れてしまいそうな重荷を誰かに適切に預けて、向き合うべき問題の値段付けをしなければいけないのだと…自分は自分が見せたいほどには無敵でも、天才でもないのだと、認める必要がある。
 それが出来る程度には、ダリ・デリコの精神はバランスがいい。

 

 これに対しテオドールくんは自分が子どもたちの輪にも入れず、父たちに混ざって捜査をすることも出来ない、極めてアンバランスで孤独な場所に座っている。
 表に出してはいけない(何しろ自分はもう子どもではなく、父と同じ誇らしき貴族なのだからッ!)不安や願いは、不気味な人形として果たされぬ誘惑を囁き、共有されない幻影は彼を揺さぶり、更に孤独にしていく。

 愛を殺される体験をしてるダリくんは亡霊が自分にしか見えないことを自覚し、それだけが自分を突き動かすことを知っているが、大人ぶりつつも何も知らないテオドールくんには、己の中から湧き上がる怪物とどう向き合えばいいのか、能力も助けもない。

 それでも大人も子どもも、愛に呪われ己に揺さぶられ、なんとか人間の形を保つ同志なのだと分かり和えれば、ちったぁ楽になれるんだろうけど…。
 取り澄ました天上からの視線は、そういう本当の親しみがナーサリーに無いことを、極めて理性的に(ダリ・デリコ的に!)切り取っても来る。
 子どもらが野放図にワイワイ騒ぎ、その幼い狂騒に混じれないテオドールくんが孤立する奥で、パパたちがお互いだけに向き合いながら”お仕事”してるのが、メチャクチャ示唆的だ。
 「任務と育児の両立!」といいつつ、大人にとって子どもは降って湧いた厄介事、面倒な他人事でしか、現状ない。

 

 そうではない。
 俺は心底子どもを愛しているし、そのために世間を騒がしてメチャクチャもするし、一人で抱え込んでぶっ倒れるし、そうすれば託してくれた妻への面目も立ち、俺が愛を知る”人間”だと証明もできる。
 それを為せば真実を証明できる、育児なる愛の行いを、見事ぶっ潰れるまでやり遂げて、人間存在の真相へとこの名探偵、見事たどり着いてみせよう。

 

 ダリ・デリコが彼の託児所を動かした”動機”を、勝手ながら推測してしまう回でした。
 根本的に本末が転倒してる不格好に、感覚的に気付けないほど理性が肥大化している歪さを、同僚の誰も理解も指摘もしてくれないの、ダリくん悲惨だし自業自得ねぇ…。
 まぁダリくんが神様じゃない以上、絶対に叶わない無謀であり、生身の限界を思い知らされ、周りのボケ共もちったぁ思い知るエピソードでもあったわけですが。

 事件を解決する理性の装置、貴族社会を成立させる歯車、感情を表に出さない立派なオトナ。
 押し付けられたイメージに生身が挟み込まれ、血を流しながら軋んでいるのは大人も子どもおんなじで、なのに根本的な所が上手く繋がりきらず、”自然”な愛の交歓なんぞずっと遠い、託児所の現状。

 事件が新たに血飛沫を上げるまでの、朗らかな一休みに見えて、また新しい歪みが掘り下げられたと感じました。
 まー見た目通り、最初に思った感じとは全然違うんですが、だからこそ面白く味わい深い、ヒトモドキ共の家族喜劇を堪能しております。

 

 私たちは皆、愛を擬する大きな人形。
 かくしてグランギニョルは続く。
 次回も楽しみ!