地揺らす邪竜との最終決戦直前、憎悪に呪われた亡霊を祓う!
ずっと主役を張れなかった田右衛門、待ってましたな個別回の色合いが濃い、サクナアニメ第11話である。
理不尽な暴力に満ち溢れた世界を憎み、己の弱さを認められなかった結果人型の鬼になってしまった石丸の末期を通して、そうならなかったサクナ村の奇瑞を改めて描くエピソードだった。
抱えたものがあまりに重たすぎて、味方陣営にはとても加えられないし完璧な救済も与えられないが、救いばかりがあるわけじゃない厳しい世界の”当たり前”を背負って、作品が見据えているものを鮮明にしてくれる、とても良いキャラだった。
石丸がいてくれるお陰で、サクナ村の連中が繰り返す日々の中なんとか跳ね返した、世に満ちる当たり前の絶望、憎悪と復讐と暴力の連鎖の重さたが良く解ったし、それに飲まれなかった主役たちの靭やかな強さも際立つ。
決定的に間違えきってしまったけど、優しさと強さと正しさを貫くのがとても難しい世界においては、一番普通な男だった存在に、哀れみと許しを持って接し、出口のない輪廻を断ち切る。
前回兎鬼相手にサクナがたどった道を、逆向きに歩くような…あるいはその根っこで同じものがあるような、噛みごたえのある展開が良かった。
神道メインで進んできた話が、仏教的解脱を混ぜてより中世日本の精神に近づいた感じもある。
石工でありながら武家の悪しき側面を己に引き寄せ、荒ぶり苛む”侍”であろうとした石丸の姿は、本人より田右衛門の方が良く見れている。
彼は闘争を職責とする武家に生まれながら、どうしても他人を傷つけることが出来ない男であり、生まれと在り方のネジレに苛まれているという意味では、真逆な心を持つ石丸と、深く通じ合うものがあった。
一歩間違えば、自分もこの男と同じになっていた。
そう思える度量があればこそ、田右衛門は何度跳ね除けられ傷つけられても、甘っちょろい言葉を石丸に投げかける。
彼への救済は、田右衛門自身を救うことに繋がる。
エゴイスティックな博愛が、確かにそこにある。
石丸は己が滅ぼした亡者によって、サクナたちとの決戦を前にして殺されてしまう。
憎悪に突き動かされるまま仇を殺した亡霊は、しかしそれで救われるわけではなく、殺した相手と一緒になって制御を失い、何もかも食いつぶす黒い嵐へと変わっていく。
燃え盛る憎悪は個別の顔を塗りつぶし、ただただ現世を呪い犠牲を増やす怨霊となってしまって、既に死んでいる亡者にその在り方は変えられない。
叶わなかった望みがあればこそ、世を恨みケガレを撒き散らす怨霊たちが、本当は何を望んでいたのか思い出させ、苦悩と暴力ではなく、あるがままの平穏へと戻してやれるのは、理不尽な世界を生き続ける生者の特権であり、責務でもある。
自分を脅かし、大事なものを奪っていく理不尽と同化することで、怖さや弱さを覆い隠した石丸の生き方。
彼にとって理不尽な簒奪者でしかなかった武士に”為る”こと、自分がされた簒奪と暴力を他人に繰り返すことで、彼は自分の無力感を棚上げしてきた。
しかしその隠蔽では欠けた心は満たされず、勝ちたかった敵と同化していく下向きの螺旋から、逃げることは出来ない。
それでも力を奮い己が強者であると…奪われない側であると確認するために、石丸は他人を傷つけ奪う生き方を変えられない。
かいまるを苛み、己と同じ恨みと憎しみの檻に閉じ込めようとしたのも、自分の生き方が間違っていないのだと確かめたかった手触りがあった。
それは切実で、愚かで、悲しい手触りだ。
まちがいなく、人間の肌触りだ。
しかしサクナとの日々によって、己を傷つけようとする相手の声すら聞き届け、塞がった耳に言葉を届けようとする半神に成長していたかいまるに、石丸は勝てず逃げ出す。
理解されず排除され、理解を拒んで排除する頑なさは、内側で渦を巻く形のない思いに踏み込まれないための、一種の防壁だったのだろう。
刃を握る前に相手の話を聞こうとする、侍にも野盗にも全く向いていなかった田右衛門に、特別過剰な怒りを抱いていたのも、自分の苦しみを聞いてほしいと願った、弱く脆い心の奥底にその生き方が、触れてしまうことへの苛立ち故かなと思う。
かいまるが”聞き話す神”になったの、田右衛門の影響デカいと思うんだよなぁ…。
田右衛門はいざ命がけの戦となってなお、刃を握れない己に涙し倒れ伏すが、彼とともに島の暮らしを生き延び、同じ釜の飯を食ってきたサクナの声が、その絶望を祓う。
石丸の本性を当人より田右衛門が知っていたように、サクナのほうが剣を握れぬ田右衛門の強さを解っていて、それを真っ直ぐ届ける人徳も、天界の反逆児は既に得ている。
人を殺し、奪う以外の生き方が確かにあることを島の暮らしは彼らに良く教えたし、二重怨霊となった石丸との決着は、田右衛門が怨霊の声を聞き、既に死んで終わっている事実を届けることで、剣に頼らない決着を得た。
石丸が否定しようとした”弱い強さ”は、確かにそこにあるのだ。
同時に人間・石丸と対峙して剣術で制圧しきれる、”強い強さ”もしっかり持っていて、弱虫が言い訳に非戦を選んでいるのではなく、どう足掻いても逃れられない業として不殺に縛られているのだという書き方になっていたのは、大変良かったね。
石丸が悲劇に飲み込まれ、惨劇を繰り返す戦国の怨霊になってしまった背景には、武力と権力を握り込む武家階級が、戦に明け暮れ徳のない統治を行う、乱世の悲惨がある。
暗い支配からは暗い犠牲者が生まれる…という話ではあるのだが、ここまで描かれてきたサクナの村長としての成長、為政者に相応しい人格の揺籃が、そればっかりが世界の全部じゃないと、良いカウンターを入れているのも良かった。
手を土に汚して民の苦労を知り、己が握る剣の怖さ、それが奪うものの重さを解った上で、正しく強くあろうとする生き方を、サクナは追放先でしっかり学び取り、今回もそれを噛みしめる。
マージでご立派な主役だよ…。
己の至らなさを反省しつつ、さらなる精進を決意する時、やっぱカミとして友として対等なココロワが特別なポジションに並んでるのが、めちゃくちゃ面白い。
あのサクナの述懐と決意を受け取るのは、いかに半神となりつつあってもヒトでは難しくて、二話使ってココロワとガッチリ感情四つ相撲取ったことが、クライマックスに聞いてる感じがあった。
やっぱああいう、自分が来た道と行く末をしっかり見据えて何を果たすべきか、考えて言葉にするシーンって大事だし、それは聞き届ける相手がいてくれてこそ描ける場面になる。
サクナのことを当人より良く知る鏡役は、ココロワの特権なんだろうなぁ…。
暴力では結局勝てなかった二重怨霊の一撃から、サクナを守ってくれたのは豊穣神の羽衣であり、武神としての強さだけが彼女の武器ではない。
戦場は己の場所ではないとサクナに諭されつつ、剣ではなく言葉を携えて、最後まで自分らしく戦いの場に赴き”勝った”田右衛門の姿も、武の本質を改めてサクナに教える、よき手鏡になっただろう。
あの田右衛門の説法、石丸が呪われていた「侍なんぞ、奪うだけの獣だッ! だから俺も獣になって生き延びるんだッ!」というテーゼを、徹底して剣を持たないからこそ解体しうる一撃で、侍に為れない侍の到達点として、めちゃくちゃ良かった。
つーか百姓じゃなくて坊主だよ、田右衛門の天職…。
俺は石丸が改心しきれず、微かな救いを抱えつつも愚かな獣として死んでいくことと、その哀しさと虚しさに田右衛門が涙を流したおが、凄く良いなと思った。
物言わぬ兎が告げた”許す”は、耳をふさぎ頑なに弱い心を守った石丸には聞き届けられないから、田右衛門が変わりに受け取り、末期の引導と手渡してやる。
サクナ村の連中はみな、理不尽な乱世に苦しめられつつそれと同化せず、肩寄せあって弱いまんま強くなり、世界に殺されない前向きな生き方へ、進み出すことが出来た。
でも世の中の全部が、そんな奇跡に出会えるわけではない。
何もかもを救いきれない人間の小さな腕が、取りこぼしてしまうものへの哀惜を滲ませつつ、それでも傷ついた獣が牙の奥で漏らす苦しみに、耳を傾け言葉を届けることを諦めない。
亡霊がせめてヒトの形を取り戻し消えていく、少しは救いがある結末を泥だらけの手で引き寄せていく。
そういう小さく靭やかな強さと希望は、救われぬ存在があるからこそ描けるものだ。
例えば村の暮らしの中で偏狭な性格と、世界と自分への失望を乗り越え、友に暮らす人達への愛を自分の中に据えられたきんたも、半歩間違えば石丸と同じ怨霊になっていただろう。
石丸と彼を隔てる壁は、サクナ≒プレイヤーキャラクターの手が届く範囲にあったか否かという、極めて当事者性の高い差異にあるのが、ゲーム原作の物語らしくて良いなと思う。
どんだけ立派なサクナでも、触れ合えないものは変えられない。
しかしだからこそ、少しでも手が届く範囲を伸ばしていこうと足掻く泥臭い熱が、サクナの根源だ。
ずっと自分はそう思って生きてきたと、最終決戦を前に改めて決意を新たにするサクナに、未熟故の成長が濃く滲んだ。
おひい様がブーブー文句は言いつつも、責務を投げ出さず村人から逃げ出さず、仕事やりまくりケアしまくりの頑張りを見せてくれたからこそ、飯も食えるようになったし、石丸を飲み込んだ暗い引力を跳ね除けて、村の連中は生きてこれた。
その網の目からこぼれ落ちた石丸は、ココロワのように頼れる仲間にはならない。
その無情が、理不尽な定めに抗おうとするサクナのヒロイズムを裏打ちするし、そんなサクナがどれだけ武神として強くなっても叶わない恨みの塊を、晴らしたのが田右衛門の”聞く強さ”だったのも良かった。
彼が示した強さがあるから、剣を握るサクナの強さは簒奪の連鎖を生まない。
許せぬものを許し、下向きの重力に抗い、ちったぁお日様に近い方へ魂を押し上げていく、これまでずっとやってきた生きる戦いを続けていられる。
そういう強さが、無駄飯ぐらいの優しすぎる男にしっかりあったと、救われぬ亡霊に引導を手渡す事で示す回でした。
サクナが兎鬼を相手に至った”許す強さ”を、もっと救いようがない石丸の声をも聞き届ける田右衛門(とかいまる)が、武器を持たないからこそより強く、物語に刻んでくれた。
これを携えて、サクナは島を脅かす大怨霊へと挑むことになる。
相手は自分を孤独な存在に追いやった、親の仇でもある。
憎しみも恨みも確かにあるが、それに飲まれれば可哀想な亡霊たちと同じ、敵に飲み込まれた存在に堕ちるだろう。
サクナが島に追放され、ヒトの領域に落ちてきたことで、村人はカミに近い存在へと押し上げられ、あるいはサクナ自身カミに相応しい人品を鍛え上げ、力と正しさを得た。
落ちたり上がったり色々ある、魂が移動する自由さこそが、恨みと理不尽に縛り付けられ、どこへもいけない場所へと自分と他人を追い込んでしまう、怨霊の生き方から人間を解き放っていく。
それは仏教的な解脱と神道的な祓いが集合されたた、極めて中世日本的な在り方であり、戦い方だと思う。
オオミズチという荒ぶる霊威、人格や顔のない巨大な力と戦う前に、石丸という極めて人間的な存在と向き合ったことで、ヒトとしてのドラマが分厚く補強された感じあるね。
さまよえる死者を怨霊に貶しめ、島を地上の地獄に変える巨大な災害。
荒ぶる悪しき無貌のカミを前に、善きカミの継承者たるサクナは、どんな己を示すのか。
いい具合に総決算の準備が整ってきて、たいへん良い感じです。
父母恋しで突き進んできたサクナが、実はそれだけじゃなく村の全員、島自体が好きなんだと、自分が立ってる場所を見返す描写があったの良かったな…。
もはや子どもではない、凛々しき若武者一人。
悪しき穢れを祓い恩讐を断ち切る最後の戦いに、遂に挑む。
ずーっと立派だったサクナヒメが、自分のことを真実立派だと思えるエンディングに向けて、壮絶な激闘を期待したいと思います。
そういうハードコアな試練がないと、自己評価低すぎるおひいさま、自分のこと認められないからな絶対…。
次回も楽しみ!