NieR:Automata Ver1.1a 第22話を見る。
全てに決着をつけるラストステージ”塔”に登る前に、9Sの眼帯を外し真実を見せ、旧世界の原罪を背負わされた双子の物語が終わるエピソードである。
パスカル村でたっぷり人情と因縁を吸い込み、最終決戦に向かうだけの燃料を補給したA2に対して、復讐に囚われ古率を深めていた9S一本に話を絞ることで、釣り合いを取るエピソードと言える。
このアニメで”釣り合い”を取るってのは、つまり溺れるほどに血と涙を注ぎ込み重すぎる荷物を背負わされるってことなので、そらー過去の自分も罪無き双子も死ぬわな、って感じ。
…露悪ぶっても、やっぱ辛ぇわ。
俺、アイツラのこと好きだったからさ…。
壮大なるニーアサーガの分厚い過去を背負った、過去作からの出張キャラが世界の真実を語る回でもあるのだが、あくまで今回死んだのは”NieR:Automata Ver1.1a”のポポルとデボルだった。
周回前程の出口なき修羅界で、人形たちは幾度も死んで蘇ってを繰り返すが、しかしその一回一回が確かに尊厳を宿した一つの物語であり、繰り返すとしてもその価値は消えない。
消えないはずなんだが、繰り返しすぎてその値打ちは摩耗しきり、本来の意味を失ってなお終わりはしない物語が、延々続いても来た。
そういう電子化された転生を支える、バンカーももはやない。
人形たちは、最後の一周を皆必死に走っていく。
敵も味方も、どんだけ大事なものを抱えて死んでもいくらでも”生産”され、命が本来持つべき唯一性、一回性を持ちえない、代返可能な世界。
既に滅びていた人間の代用品として、戦いと罪をプログラムされて無為に生産され続けるアンドロイドと、その敵役たる機械生命体には、しかし確かに個別の物語と、本来尊ばれるべき尊厳があった。
一回きりだからこそ価値を持つものが、否定しようのない現実として幾度も繰り返されて、しかし確かに個別の輝きを有していて、なおかつそれが極めて残酷に、あっけなく終わっていってしまう矛盾…に思える無矛盾。
感情はその残酷を否定したいのに、現実はあるがまま悲惨で理不尽である軋み。
滅んだ大事でなお続く戦争を描き、そこで生きたり死んだりする群像を照らすこの物語は、たくさんのキャラクターとドラマを通じて、この相反同居を描いてきた。
殺したくないのに殺すことを強要され、心があるのに感情を否定され、守るべきものはとうに滅んでいるのにそれにすべてを捧げ、眼帯に真実を塞いで狂った人形劇を続ける。
何もかもが矛盾し、意味が無化されるなかでしかし、どれだけの血が流れても心の奥底、嘘ではないと思えてしまうもの。
草を刈り取るように機械の命が終わり、彼らが抱いていた思いが何も実を結ぶことなく散っていっても、確かに意味があったと胸を焦がす、託されるモノ達の物語。
「結局皆死ぬんなら、なんの意味もねーじゃねーか!」という、破滅と死が生み出すニヒリズムに、唯一抗いうる何かを削り出していくために、物語は加速しそれに振り落とされて、色んなキャラが死んできた。
それが一回こっきりの…僕らと同じ形をした物語なのだと裏打ちするべく、輪廻を保証するバンカーは二期早々にぶっ壊されたし、”残機”がない物語の切実はお話により一層の悲惨と、終わるとしても終わらないモノの輪郭を強く教えてきた。
リリィもパスカルも、双子も2Bも死に絶えてなお、終わることを許されない主役たちに…その歩みを通じて僕たちに、託されるもの。
その物語を共に生きたという、儚く確かな実感。
今回ハッキング空間の中で、9Sが見ようとしなかった真実を告げる過去の9Sは、主役に欠けていた物語を補足し、完成させていく。
幾度も愛する人に殺される、根本的に狂った欠陥品がそれでもなお、己の中に抱える炎。
哀れな9Sの物語を駆動させる唯一のエンジンが、この悲惨な物語を駆け抜ける足場が、一体どこにあるかを、幕引きが近いこのタイミングで僕らに思い出させる。
2Bが死んでなお残る思い出…彼女と共有した物語と、それが生み出す愛と尊厳こそが、ブラックボックスの中にみっしり詰まっていて、世界の全てを駆動させている。
それは、一人きりじゃ見えないものだ。
ここで触れることの出来る他者だけでなく、繰り返す輪廻の中置き去りにされた残骸が、9S自身へと語りかける構造を出してきたのが、アンドロイドの話として面白いなと思う。
彼らは量産可能で、再生可能で、死ぬからこそ尊い”人間らしい”生から遠い存在として世に産み落とされたが、本当に大事なものはそこにはない。
魂も感情もない人形が、なぜ狂気に囚われた同胞を解釈してやるのか。
押し付けられた狂気にこれ以上尊厳を汚されないように、己の手で終わりを与えてやるのか。
誰を愛し誰を殺すか、揺らぎながら選ぶことが出来る意思こそが、誰かに創られた人形を物語の主役に変えていく。
だから、守らなくてはいけない。
たとえ、その命を断つとしても。
生きることではなく死ぬことでしか、尊厳の証明が出来ない所が兵器の話だなとも思うが、しかしなんもかんも終わりになっていく気配濃厚な終盤戦、”弔い”の重要性が強くなってきたのが、その虚しさを少し和らげる。
すべてを飲み込み否定する物質的な死に、永遠不滅な(はずの、そうであるべき)魂の尊厳を保証する唯一の行為は、敬意を込めた葬送を通じて、終わってなお終わらない死者の…かつて生者であったものの物語を、己の中に刻み込むことにある。
かつて名もなき墓守にそう告げられて、復讐鬼は手向けの花を跳ね除けた。
そんなことをしても、2Bは死んでしまったのだと、死が生み出す圧倒的な虚無感に食われた。
生きていることへの根本的な罪悪感も、盲目なまま延々殺し合いを続ける修羅の生き様も、誰かがプログラムした物質でしかない、悲しい人形たち。
それを書き換えられる権限を持った者たちはとうに死に絶え、初期設定の狂いと歪みに引っ張られてどんどん戦況はロクでもなくなっていき、しかしそんな定めからはみ出す愛と絆が…消えても消えない物語が、確かに死にゆく者たちにはあった。
そんな、死を超越しうる物語へのロマンティシズムこそが、悪趣味で後ろ向きに観えるこの作品の根っこなのかなと、幕引きを前にして思う。
とにかく悲惨だったけど、人形みんな必死に戦って、生きて、死んだのだ。
この身を捩るような必死さこそが、身体組成も生まれ方も”人間”ではありえない機械たちを、どうしようもなく人間なのだと思わせてしまう。
終わりなく繰り返す牢獄の中で、生きるに足りるだけの意味を必死に探し求め、それ故誰かを殺し誰かに殺されていく、哀れな囚人たち。
その在り方は、否応なく理不尽と不自由を背負わされた、画面の向こう側に座る僕らに良く似ている。
歪で異質な人間モドキだからこそ、僕らの在り方を照らす鏡として有効に機能するってのは、極めてクラシックで正統なドラマツルギーだ。
9S達の物語は、もはや他人事ではない僕らの物語に組み込まれていて、そろそろ終わる。
多分血みどろだ。
だからこそ見届けなければいけないという、共感と使命感と執着と興味本位が入り混じった、不思議な熱に浮かされて、僕はこの辛いアニメを見続けている。
そうなれるのは、良いアニメの証拠だなと思っている。
ヨルハの眼帯は、守るべき人間が既に死に絶えてる虚しい事実と、それに縛られて殺し合いを続ける宿命から目を塞ぐ。
人形として製造された自分たちが誰かを愛し、共に生きる望みを果たせず死ぬ苦しさを閉じ込め、定められたプログラムに閉じ込める。
それは解き放たれることを前程とした封印で、同時に気付いてしまえば終わるしかない。
第1クールでは倒すべき敵への攻撃として、秘された過去を一方的に暴き立てていたハッキングだが、今回”塔”への入口を開けるべく挑んだ9Sの前に立ったのは、既に死んだ過去の自分自身だ。
アダムの精神に潜り込んだときも、一方的に覗き込んでいるはずの相手から侵食を請ていた9Sは、おそらく最後になるだろうこのダイブにおいて、自分自身と出会う。
それは他者への拒絶という防壁で弾けない、真実に至る容赦のない逆ハックだ。
復讐に呪われた9Sが目を塞ぎ立っている影から、その脳内に残る亡霊は自分自身を引っ張り出し、物語を終わらせるに相応しい鮮明さを、主役に取り戻していく。
自分がどう死に、どう生きたか。
どれだけ他人に押し付けられた宿命の中で悲劇を繰り返して、それでもなお消えない何かを求め続けていたのか。
一番大事なものは、結局何なのか。
A2がレジスタンスキャンプとパスカル村で、向き合い手に入れ…炎と狂気の中で奪われたものを、9SはハッキングというS型の権能に立ち返ることで見つめ…しかしまだ、彼の眼帯は取れない。
塔を登りきり、A2と対峙することでしか9Sの答えは見えず、刻まれないんだろうなぁ…という感覚があるし、それはお互いの血で刻まれるのだろうという嫌な確信が、ずっと消えない。
まーOP見れば、ある程度決着の予想くらいつくよ!
9Sという物語の最終ランナーになった少年に、苛烈な真実を突きつける亡霊が、笑って死んでいくのはなかなか辛い。
彼が答えを出してくれなきゃ、愛する人に幾度も殺され、なお2Bを愛し続けた数多の9Sも報われないわけだが、果たして復讐に呪われた戦士は何か、揺るがない答えを最後に見つけられるのか。
ここでも重たすぎるものを託され、出ない答えを追い求めるあがきが強く軋んでいて、二期ずーっとそういう話だな…って感じが濃い。
でもまぁそれってクライマックスでいきなり暴かれたわけではなく、最初っからそういう話だったのに眼帯で塞がれてた…つう構造なんだろうけど。
常に反逆者であり続ける9Sの欠陥(あるいは製造目的)も、デボルとポポルのプログラムされた原罪も、自分たちで選んだものではない。
「この世に産み落としてくれ」と頼んで生まれて来たわけでもなく、理不尽な定めに傷つけられ、愛ゆえに別れの辛さに引き裂かれ、それでもなお何かを引き継いで生きてしまう、人間の定め。
二人だからこそ終わらない業苦に耐えれたと、末期に告白する双子を、最後の最後二つに引き裂き、狂気を介錯させて終わるの、ホントに凄いなと思う。
ここで一緒に終わらせてあげない残酷が、あの世界には当たり前に満ちていて、それでもなお人形たちは誰かを愛して、必死に走った。
その証を誰かに託して、プレゼントで背骨がへし折れそうな9SとA2が、多分塔の頂点で出会う。
その結末がどうなるにしろ、最後の走者はそれを見届けた僕らとなり、物語はモニタの向こう側の現実へ…僕ら自身の物語へと接合されていく。
狂気と死によって何もかもが嘲笑われ、終わっていく悲惨な構造が、それでも狂おしく生きる者たちへの讃歌として成立しうるのは、それをこちら側に届けようと必死こいてお話を紡いでくれた作り手と、それを自分たちなり受け止めて”現実へと”継いで”いこうとする観客、両方がいてこそだと思う。
ここで投げ出したり、辛さに耐えかねて「世の中そんなもんだよね」と、人形の残骸に唾吐いたら、今まで編まれた物語全部が無意味になってしまうから、最後まで見届ける。
この意固地な視聴体験そのものが、作中で描かれる9Sたちの継承と重なり、もしかしたらその一部として組み込まれている構造は、やっぱすげぇなと思う。
なんもかんも虚しく終わっていく物語を、それでも無意味なものにしない鍵は、作中彼らの物語を駆け抜けていく人形だけでなく、それを見届け現実に戻っていく僕らにも、預けられているのだ。
それって、かなりどデカい観客への信頼だと思う。
そういう事してくれるアニメ、俺はやっぱり好きなんだ。
色んな人の命を積み上げ、たどり着く塔の果て。
どんな決着が待っているにしても、それはあるべき一つの終わりだ。
それを見届けた時、何かが始まる期待と予感を、僕はずっと持っている。
次回も楽しみだ。