話数もねぇし、ざっくり巨大感情に決着つけて最終決戦だ!
そんな感じのぶっちゃけ具合、防衛部ハイカラ第11話である。
いやー…まぁ凄いなッ!
戦う理由もその背景も、全てをふんわり棚上げしてダラダラ話数を使い、その癖キャラの深い所まで踏み込めなかった(踏み込まなかった)話が提出できる最終話一個前を、徹底的かつ誠実になぞる展開だった。
なんもやってないので、なんもない。
そんな現状を徹底的に「なんちゃって~~~」し続ける…ワリに、自分が冷笑的であることへの覚悟も見えず、シニカルであることにすら「なんちゃって~~~」してた。
ギャグも展開もとにかく場当たり的に、最終話一個前に必要とされるチームどうしの正面対決、幼馴染の感情決着、黒幕の正体判明からラストバトルへ…つう流れを、どうにかこうにか取り繕い続けるわけだが。
今まで作品内部で積み上げたものがほぼなく、全てがエピソードごとのノリと雰囲気でざっくり進めた結果、そういう場面に必要な重さと可愛げが全然足りてないまま、クライマックスの表層だけをツルンと手応えなくなぞり続けていた。
そのスベリ加減に作者自身が気付いていて、どうにか自虐で笑ってもらえるよう「なんちゃって~~~」し続けていることが、更にツルツルにスベるという地獄の円環が、中々に厳しい。
(”グレンダイザーU”があんだけのダダスベリをした後で、ラスボスにデューク・フリードの名前だけ借りてくるセンスの無さとか、本当に救いようもなくサムいと思う。)
まぁもう、どうにもスベるしかない現状を作者サイドが認識していて、下手に急なシリアス投げつけて存在しないアツさを捏造ってこられるよりは、そうなるしか無いサムさをひたすらにブン回し、ひたすらにスベリ続けてくれたのは、自分的には救いだった。
もともと戦っている意味がないことは既に言及されていたし、その意味をゆるゆるナンセンスな日々の中探っていく歩みも、要素として選んだはずの「大正」を自分たちなり彫り込む工夫も全然ないわけで、そらーなんもかんもシックリこないまま、ツルツルの上滑りを承知で「それっぽさ」に全振りするしかないよなぁ…とは思う。
そこには、ある種の矜持と覚悟はある気がした。
キャラクターレベルでの徹底したペラペラっぷりをを、メタレベルで徹底的に露悪的に暴き立ててほじくり返し、空っぽなりの内実みたいのを血みどろで探る記号論闘争も展開してこなかったので、全てが「それっぽさ(すら成立していない外形のなぞり)」の歪なトレースで展開する以外、やれることはない。
意味深に引っ張られた百目鬼くんから雲仙くんへの因縁も、罪のない幼馴染のすれ違いレベルにしょーもなく収められ、それ以上に重さや広さや深さを宿すことはない。
つーかそういうモノへ踏み込んでいけるだけの物語資源を、自分たちで作品内部に蓄積していくことをサボったのだから、そうなるしかない。
雲仙くんの他人に優しくない、可愛げのないイノセントを最後まで貫いて、ワリと最悪の自分勝手人間のまんま百目鬼くんからの一方通行感情を炸裂させたのも、ここまでの歩みに嘘のないショボい花火だった。
雲仙くんがペラッペラな「熱くて良いヤツ(戦隊レッドの記号)」であることに自覚的だから、こうも主役を好きになりきれない話運びと、それを助長するような真相開陳と、仲間からも冷えた視線を投げつけられる「なんちゃって~~~」なりアクションだったのだとは思うが。
ならもうちょい、ペラペラな”赤さ”の奥にあるものをちゃんとえぐり出して、ゴミなりに雲仙新九郎独自の生き様を、語ってやっても良かったのに…とは思う。
あの子はこの物語の中でも、一番リソースを割り振られてキャラが見えるチャンスのあった人だと思うけど、徹底して体温のない記号論で回し切り、人間味と可愛げの薄い造形のまま突っ走ったのは、そういう話になるしかない自作の運命を主役に背負ってもらい、一緒に沈んでいくハラの現れ…だったのだろうか?
作品の背骨と成る主役が、他人の心の機微に極めて疎いハイカラ阿呆だったことで、もしかしたら何らか物語を深め、そのキャラにしか描けないなにかが芽を出すチャンスも、徹底して潰されいた印象もある。
これを狙ってやっていたのか、結果そうなっていたかの判断は、僕にはまぁ出来ないわけだけど。
彼が疑似戦隊のリーダーらしく、熱血担当の赤らしく、他人の心の襞にあてて踏み込みめくって開いて、その奥にあるものを探る人間であったのなら、この物語の話運びもまた変わっていただろう。
あるいはそういう彫りが深い方向に話を引っ張って行かせないために、あえてそういう造形を主役に背負わせた…つう話なのかもしれないが、その操作は物語の中核に否応なく座り、自身のキャラクターを作品全体に感染させていく主人公として、まぁまぁ最悪な仕事を雲仙くんがやりきった感触に繋がっていた。
「アイツがもうちょい、ペラペラな阿呆なりにお話に爪突き立ててくれてりゃな…」という恨みは、自分の中にまぁまぁある。
最終話直前に欲しくなる定番のアツさに、膝カックン連発するスカシっぷりをみるだに、ある程度以上このシニカルな「なんちゃって~~~」感は狙って出していたのだろう。
冷笑と定番外しだけで構成された「アツい最終決戦」に腹抱えて笑うことも、本気で怒り切ることも出来ない生煮えな感じは、幾度も言ってるけどここまで描いたものに嘘はついていなくて、個人的にはまぁまぁ嫌いではない。
ノリと雰囲気だけで状況が転がり、二大チームが正面衝突し、オートマチックにラスボスが顔出して彼らの”家”が潰された時の、「ああ、そうですか…そうですね…」感も、作品一つの帰結として冷静に受け止めれた。
受け止めれちゃ、ダメなのにねぇ…。
なんらかの都合故か意識してのスカシか、学園モノとしての定型をあええて外し、黒玉寮にカメラ据えて大きく動かさなかったスタンスも、今回メタ的にコスられているけども。
んじゃあ黒玉寮の裸体サービスに満ちた日々がなんか、人間的な体温のあるしみじみした愛着をあの”家”に生んだかというと、全然そんなことはなかろう。
”家”…ってことになってる虚ろな器が、話の都合で唐突に生えてきたクライマックスにペシャッと潰されて、日常の象徴…ってことになってる場所が消えた怒りを力に変えて、最終決戦がどうやら始まるらしい。
そういう視聴者の上滑り感を、把握した上での「あえて」なクライマックスなんだとは思う。
ここに不似合いな熱を足しすぎず、程よくトホホで終われるように百目鬼くんと雲仙くんの因縁も、明かされてみれば極めてしょーもない痴話喧嘩に矮小化されたわけだが。
そこは一応、物語全体を駆動させる巨大なエンジンのようにこれまで一応装っていたわけだから、ちゃんとした熱を宿し、「なんちゃって~~~」で済まさないで欲しかった。
まぁ全てがスカシでしか構成されていないこの話、意味深な雰囲気だけ宿して蓋を開ければしょうもないことになるのはなんとなく予感できていたし、そこでホンモノの重さとアツさを持ってくると、解決するのに時間と手間を持っていかれるからスカす…つうのも、分からんではないけども。
今回の最終決戦のダダスベリ感は、キャラレベルの表層的記号論がはなしの展開それ自体にも伸びて、ペラッペラな個人がペラッペラな全体を必然的に形成した、自分たちに嘘のない展開だとは思う。
ここに三ヶ月このアニメを見続けた視聴者として、どういう感慨を抱けば良いのかは良く解ってないが、煮えたぎるような憎悪も期待外れの失望も抱かずにすんでいるのは、ダメージ少なくてありがたくはある。
それはどっかのタイミングで、「このアニメ、自分たちがブン回しているペラペラな記号論にすら、本気で踏み込むつもりも腕前もねぇ!」と、作品を諦めた結果の”安全”ではあるのだが。
量見てると、こういうのだけは上手くなるわいな。
そうやって「アハハまーしゃーねーな」と諦められて、表層だけのシニカルなツルッツルを見ている側も抱くのは、ある意味作品と相照らし合う鏡像関係…とも言えるけど。
「そういう冷たい距離感を観客との間に作りたくて、わざわざ1クールのアニメ作ったんですか?」とは聞きたくなる。
こういうモノが出力された事情を知る由もないいち視聴者としては、でてきたものが全てなので、まぁそう受け取るしかないわけだけど。
それはまぁ…随分とまぁ作品を見る人も、作る自分たちも、紡がれた物語を満たしているモノと同じく何もかもナメてる感じですね、と思った。
ここらへんのナメで全てを押し流し、諦観と韜晦でなんもかんも裏返して新たな衝撃を与えるには、このお話ナメがたりない。
ケツの穴の奥の裏ッ側まで徹底的にナメきり、あらゆるモノを笑い飛ばす道化の嘲笑は、フツーに熱くていい話をやるより遥かにコストがかかる難しい道だから、そこすら表層をナメただけのペラッペラな記号で終えた…つう話なのかもしれない。
あるいはその半端っぷりこそが、真実何もかもをナメるシニカルな熱のなさの発露…と見るのは、流石に贔屓が過ぎるのでやらない。
なんかが致命的に上手くいかなかった結果、まぁこうなった最終決戦だと感じている。
例えば小石川くんのニワトリキャラを、意味深なカヲルくんごっこの合間にちょっと混ぜて、話数をまたいだラスボス感を工夫して出すとかも、この話はやってくれなかった。
何もかもがエピソード単位の場当たりであり、ポッと出てきてパッと消える花火(というにはショボい屁)を続けてきた作品らしい、ざっくりで「まぁそうなるよね…」なラスボス登場であった。
次回開示されるだろう、壮大な陰謀もまーまーペラペラ聞き流す準備は出来ているが、どんだけの「なんちゃって~~~」が炸裂するかは、結構楽しみでもある。
ここまでそういう風味でやってきたんだから、最後までやりきってくれホント。
今回炸裂したスベリは、今までこのお話が積み上げ選んできた必然である。
状況に選ばされた強制だったとしても、んなもん話を見る側には関係なく、「んじゃあ『色々大変だよね~~判るよ~~』って、理解ある共感ってのを生暖かく手渡して、ズタボロな物語を一緒に憐憫する立場に共犯してればよかったんですか?」と、真顔で聞きたくなってしまう。
シニカルにナメるんなら徹底してナメる、アツい王道を真っ直ぐ歩むなら歩む、その両方取りをセンスとコストぶっ込んでやりきるならやりきる。
不鮮明な出来なさを「なんちゃって~~~」で誤魔化す醜悪を、それしか選べない作品の必然として叩きつけるのは、まぁ良くないと思うよ俺は。
とはいえ色んな理由でこうなるしかなかったから、このお話はこうなってるのだと思うし、その裏側にあるだろう生身の人間の必死さまでぶん殴るのは、ちと違うかなと思う。
そこまで踏み込むほど、正直俺このお話に体重預けていないしな…。
自分で「ちょっとそれはなぁ…」と思うやり口から距離を取れているのは幸運だと思いつつも、作品を好きになるのを諦めることで適正距離を取ってしまったのは、あんま良くないなと感じている。
アニメ見てりゃそういう距離感に自分と作品が落ち着いて、なるようになってしまうことも多々あることは、経験として解っていても、だ。
残り一話を残したこのタイミングで、こういう温度と間合いで作品に向き合ってる現状が、僕はこのお話に真実Cynicalであって欲しかったのだろと、改めて突きつける。
世の価値に背を向け、樽の中で思索にふけったディオゲネスをその始祖とする犬儒派を名にし負うそのスタンスは、アツい王道の表層を皮肉ってナメる冷笑だけを、意味してはいないと思う。
王道を成り立たせ、ひっくり返すべき権威や定型がどこにあるのか考えて、強烈に効く皮肉を叩き込んで、挑発的に真実を暴き立てる姿勢が、そこにはあって欲しかった。
しかしまぁ、無かったのだからしょうがない。
「冷笑も露悪も、本気で何かを揺るがす一つの表現として自分の両足で立つには、コストも覚悟も技量もたっぷりと…ともすればフツーにしっかりやるより必要なんだなぁ…」と、今更ながら当たり前のことを思い知らされながら、最終話を待つ。
「ここまで付き合っちゃったんだから、最後まで見届けさせてはもらう」という感覚が、アニメ鑑賞につきもののコンコルド効果なのか、自分なりこの作品から得たい何かがまだ残っているからなのか。
客観するには正直難しい状況で、そういう気持ちもまぁ、こうして記すだけの意味はあると、考えてるからこうして感想も書く。
…その行為に執着して、「書く自分」を諦めたくないからこうなるのか。
褒められたもんじゃない視聴態度、執筆姿勢だが、ここまで来てしまったからには開き直らせてもらおう。
もうそういう態度でしか、俺はこのお話に対峙できないんだと思う。