ワンダンス 第12話を見る。
「…難しいな」というのが、今の率直な感想である。
これは珈琲先生の原作に惚れ込んでいる既読者としての感想でもあるし、三ヶ月このアニメを楽しませてもらった視聴者としての感想でもあるんだが。
前提からいうと、僕はこのお話をダンスに魅入られた若人の群像劇として見ていて、それぞれ別のジャンル、個性、欠落、生き様…それら全部を複合した舞踏の多様性を味わうのが、一番好きなところだ。
自分にとってカボくんはセントラルキャラクターであるが、作品の全部を担う圧倒的なキャラとしては見ていなくて、かといって群像の中の一人ってわけでもない。
そういう彼の勝負が終わったところで、物語は幕を閉じた。
ここからの決勝に刻まれる伊織とカベくんのせめぎ合い、それによって生まれるミックスアップが大好きな視聴者としては、ぜひともそこまでやり遂げ、主役以外にも尊厳と意地がある、公平で苛烈なフィールドとしてのダンスバトルを確立して終わって欲しかったわけだが、同時にここで終わらせるのが、カボくんを主役に据えたクールアニメのパッケージとしては収まりがいいのもまぁ判る。
実際物語は喉から音がでてくれないからこそ、内側に沢山のものを溜め込んだカボくんの屈折して透明な内面を丁寧に描き、それ故音のない言葉としてのダンスに特別さを与える構造だ。
彼の勝負が終わって、幕を引くのはまぁ納得である。
その上でこんな文句で最終話の感想を書き出しているのは、ひねくれまくってコンプレックスまみれのカベくんが、決勝に勝ち残り全霊を絞り出す闘いにこそ、カボくんを依代に刻み込まれたこの作品なりのダンス像が強く滲んでいると、僕が感じているからだ。
主役不在の、あまりにも熱く燃え上がるあの死闘をえぐり出してくれないと、どうにも壮大な交響曲が第三楽章で終わってしまったような感じがあって、ケツの落ち着けどころがない。
でもそれは、”先”を知ってしまっている特別な視聴者の恨み言であって、一本のアニメとして表現の舞台に上がった作品に、あんま乗っけるべきじゃない思いなのかもしれない。
最後なので腹蔵なく感想を言っておくと、サイクロングラフィックスが受け取った3Dダンス表現には、かなりの厳しさがあったと思う。
無論優れた表現も随所に見られ、特に伊織のスムースで連続性のある舞踏表現は、選んだ筆先と書くべき画題が良く噛み合っていた。
その上でダンス一個…描かれた人間の身体一つで、アニメという表現に必要な圧力を成立させるのはかなり難しかったらしく、後半からはエフェクトを強めに乗せたり、静止画を挟んだりしながら表現を模索していた感じがある。
どうすれば良かったのか、具体的な提言をしっかりした形で出せないが、仮想を実体に押し上げるほどの奇跡が、欲張りな言い方をすれば欲しかった。
ここでも原作を持ち出してしまうのだが、動きのない紙の上でマンガ表現の極北を駆使し、珈琲先生は動かない絵を読むものの想像力の中で動かし、カボくん達が噛み締めている音楽を聞こえぬまま鳴らしていた。
その偉業が、「聴覚に障害があるお父さんに、音楽を見せたい」というワンダちゃん作中の願いを先回りして叶えて、あまりに純粋な祈りが叶わぬ無茶じゃないと、創造主が既に答えている構造が僕は好きだ。
そういう領域にまで自分たちの表現を引っ張り上げられていたかというと、最後まで見届けて正直疑問符があり…それは物語開始前からの懸念ではあったので、なかなかより難しい。
カボくんのキャラクターとバックボーンを丁寧に掘り下げる、繊細な光の表現の助けなどもあって、世間で言われてるほど俺はこのアニメのダンスが悪いものだとは思わない。
彼の必死さ、もどかしさ、それを解き放ってくれるダンスの快楽はちゃんと伝わったし、作中コミュニケーションの壁を越えていける特別な言語としての説得力も、随所…とはいわないが、適切に幾度か配置できていたと思う。
だからこそ、エフェクトやイメージで解りやすくせず、わざわざダンスアクターを個別に立て、各キャラのミュージカリティとスキルを乗っけた踊りを描こうとした野心に、生身一つで挑みきって欲しかった、勝手な願望は確かにある。
それが叶わなかったからといって、このアニメが無価値にも無意味にもなるわけではないし、終わって見るとアニメ・ワンダンスはかなり好きだ。
その上で例えば、カベくんの世界を狭くしている彼自身の痛みが、伊織との激戦に溶ける様子や、そこにカボくんなりのコミュニケーションへの再挑戦が届く瞬間を、アニメで見届けたかった。
これは原作に相当食らってる僕個人の勝手な感慨であり、同時にそういう偏見を離れてはやっぱり、アニメの感想なんて言えやしない。
だから最初に「難しいな」と切り出して、その難しさ引っくるめて噛み砕き飲み干せるだけの好感が、確かにこのアニメにはあったと思っている。




他人に噛みつかざるを得ない牙を覆い隠し、勝ちの算段を上げるべく見ないふりを演じる。
一凛の「よい子達」にはあんま感じない、等身大なカベくんの器の小ささが昇華されきるのは、この戦いの後のお話だ。
しかし吹っ切れたカボくんのダンスは暗闇の中に熱を帯びた残像を生み出し、カベくんの「俺はお前見てないから」というポーズを切り崩す。
そこでマスクの黒い防壁を降ろして、狭い場所に暗く閉じこもった青年を対等なフィールドに引っ張り出すだけの、身体表現が発する力強い波。
それはカボくんがダンスに夢中になる理由…無言だからこそ豊かな身体の言葉だ。
どこで踊り始めるのがいいのか…どのセットなら勝てるのか。
ウロウロ歩きながら探るカボくんの姿勢は、即興性と個性を重視する宮尾門下とは真逆で、しかしここで勝たなきゃ自分がいないと追い詰められている、いい子にも正しくも為れない、思春期の素顔だと思う。
音楽に対し純粋になれ。
勝ち負けよりも大事なものがある。
そらー耳障りはいいし正しいんでしょうが、そればっかりで人間の営為ってのは回ってなくて、でも生き様が根本的に透明…ダンスと湾田光莉に出会って、内に秘めていた純粋さが燃え上がったカボくんでは、そんな多様性は描けない。
だからこそ、カベくんがブレイクダンスというジャンルを背負い、作品の真ん中に出てきた。




カボくんの内側にある鬱屈も見ず、必死に踊る動き一つ一つに弾けている敬意と熱も素直に浴びれず、狭い了見に己を閉じ込めている”悪い子”。
そういうやつだって…あるいはだからこそ、勝負には勝ちたい。
それだけが自分を自分にしてくれるという、アイデンティティ確立の必死さは主役と同じで、でもカベくんにワンダちゃんはいないし、目の前に立ち上がる輝きを素直に受け取る資質も無い。
…いや、無いわけじゃないのだ。
あるけどネジ曲がっていて、目の前に押し寄せるもの全部が敵か壁に思えてしまう。
そういう攻撃性と裏腹な劣等感が歪なレンズになって、カベくんの前に立つカボくんは異様にデカい。
それは世界全部が敵だと思い、それに欠けた前歯で噛みつかなきゃ…あるいは黒いマスクで自分を守らなきゃ、どうにも真っすぐ立ってられない屈折野郎の視界だ。
カボくん自身は自分を歪める過剰な意識を、懸命に踊る熱量の中に燃やして、ただひたすらに体の声を聞き、今まで自分に誰かが語りかけてくれた言葉を思い出す。
そうやって、今ここで踊っている必然性を自分の体で感じ取り、表現できる喜びは、肩の力が抜けた素直で素敵な笑顔を、(実はカベくんと鏡合わせ同じな)コンプレックスまみれの青年に浮かばさせる。
カベくんはマスクの鎧を引っ剥がされた後、現場で自分の身一つ音楽と世界に向き合うのが怖くて用意してきた、セットの武器で懸命に戦う。
それだけじゃ目の前に押し寄せる圧力…あるいは自分の中から湧き上がってくる弱さに立ち向かえないから、マスクだけじゃ足りず差し歯も引っこ抜き、ボロボロで剥き出しな自分を晒し抗う。
それはマスクでずっと隠していたかった恥部のはずなのに、そんなあるがままを引っ張り出さなければ戦えない圧力を、カボくんは己の踊りで生み出せている。
まぁ伝えたいメッセージは”攻撃”じゃないんだが、受信側のアンテナがネジ曲がってっと、なかなか言葉も通じない。
カボくんが吃音という重荷を、信頼できる相手に時に晒し、あるいはダンスという表現にもつれる思いを乗っけて踊ることで、翻弄されつつも向き合い方を見つけつつある、自意識と世界の摩擦熱。
余裕ズラで相手ナメてた/そうしなきゃ戦えなかった弱虫クンも、裸一貫自分の傷を晒さなきゃ、眼の前の舞踏に釣り合う踊りをやりきれないところへ追い込まれていく。
それは主観的には必敗のピンチで、ハタから見ていると得難い邂逅に見える。
誰かを勝手に恨み、マスクで攻撃性を覆って、割れた携帯で毒を垂れ流す。
そんな「カベくんらしさ」の奥にある、剥き出しの痛みとそれ故の熱が、ジワリと漏れる。




それが全部曝け出され、だからこそ新たな場所へ押し上げられていくのも、ここで上手く伝わらなかった敬意と熱を真実解ってもらえるのも、この”先”なんでやっぱもどかしいけども。
なかなか上手く言葉を伝えられないカボくんの翻訳者として、ここまでも大きな仕事を果たしてくれていたダンスの妖精が、その真意を極めてピュアに伝え…でもシックリ腹には落とせず、偽物の牙をはめ直して便所ですれ違う。
カボくん自身、ワケの分からねぇ大きな波が押し寄せてくる異様な体験を、上手く整理できず感情溢れさせた直後だったので、それもしゃーないけどな!
カボくんと対峙しているときは剥き出しになってた、カベくんの目と口……素直な感受性と、剥き出しの傷と弱さ。
それはインターバルに冷えて、トゲだらけの青年はもう一度「壁谷楽らしさ」に戻ってしまう。
僕らはワンダちゃんが一切の歪みなく、素直に感動し率直に言葉を綴る人だってのを知ってるから、そのあんまり真っ直ぐな言葉が”そのまま”だって判るけど。
弱くて歪なフィルターが気づけば張り付き、あるがままの世界と他人と自分をなかなか見れなくなってきてる、フツーの”悪い子”にそんな、ガキのまんまな生き方を飲み干すのは難しい。
でもそれが確かに目の前にあると、マスク無しの膚で感じたから、カベくん自身動揺してんだけどな…。
一対一、眼の前の相手と周りを満たす音楽に向き合うバトルの現場に身を置いて、カボくんは色んなモノを見つけた。
その中に他者への敬意があり、自分自身体を動かしスキルを探るからこそ判る、凄さへの憧れがある。
それが踊りで届ききらなかった以上、元々不得手な喉からの音で何かを伝えるのは、あまりに難しい。
でもこのすれ違い(伊織との教室バトルの再演)を、越えていけるだけの爆発力が共に同じ音楽で踊り、眼の前で相手の動きを感じる場所にはある。
フロアが生み出す魔法が、一体何を結実させたかアニメで見届けられないのは、なんとも残念ではある。
すぐ目の前に、カボくんが頑張ってきた証があると知ってるのは、既読者特有の呪いだわな。




しかしあえて伊織に勝敗を託した最後のバトルが描かれないことで、未だ発展途上の後輩としてのカボくんの顔は、より鮮明になったかなとも感じる。
それは吃音を抱えぐるぐる頭の中複雑に考えすぎ、過剰に他人の視線を背負えばこそ、それを振りちぎった時異様なパッションを迸らせる青年の、偽りのない素顔だ。
好きな女の子の前では無けないし、「負けちゃった」の言葉も出てこない。
その後ろ向きを良しとしてしまう、未熟なダサさも引っくるめ、ここがカボくんの到達点で現在地だ。
そしてここまで来たからこそ、さらなる一歩を踏み出すことも出来る。
カボくんがキメきれず未熟な未完成のまま、観客の一部に混ざればこそ、宇千くんとの闘いで一段階高い場所を垣間見た伊織の背中が、異様にデカく見える。
つうか実際デカいわけだが、そんな彼も余計な荷物を過剰に背負い込んだり、だからこそ普段より自由になれたり、複雑な内面を抱えて、だからこそ踊る。
カベくんとのフェイスオフの先、どんだけ伊織が高いところまで自分を持っていけたのか。
書く尺が最初から1クールだと足りなかったのは、重ね重ねなんとも残念である。
でもまー、カボくん主人公の奮戦記としてまとめるなら、ここで終わらせる以外の構成無いか実際…。
カボくんが「負けちゃった」と言おうとして言えず、ワンダちゃんが「凄いダンスだったね!」と迷わず称賛するのは、無論背負ったハンディの差、それが生み出すキャラクターの差だ。
同時にワンダちゃんだって負けて涙ぐんでたわけで、敗北の苦みは当事者には濃く、見守るものには暖かい…という話なのかもしれない。
そしてあらゆる局面で率直で純粋であるという、一番単純に見えて難しい強さを備えているワンダちゃんは、震える生身の人間のまま、ずっとカボくんの先を行き続ける。
そういう敬意と、それだけじゃない熱のある感情を込めて見上げる星と出会えたことは、やっぱり奇跡だったのだろう。
この最終回、カボくんは自分にとって湾田光莉が、厳島伊織が、ダンスという現象が、どんな意味を持っていたかをしっかり思い返す。
それをちゃんとやってくれたのは、途上で終わるここまでの物語がどのようなものであったか、やっぱカボくんの肩に乗っかって物語に入っていった僕らに、しっかり教えてくれる。
自分が何者であるか、考えなくていいほどに無心に深く、己と世界を繋ぎ合わせ、音楽に載せ共に踊る相手を理解できる、身体のリンガ・フランカ。
それに身を任せた時、カボくんは自分を縛るつっかえつっかえの声…それを生み出した過去の傷ではなく、今ここに在って音楽に包まれている自分だけを見つめられる。
その没入と内省が、自分の外側にある音楽を己の中に入れ、目の前にいる誰かに伝わる身体表現に挑む時、自分だけの無音ではなくなる瞬間が、確かにある。
ワンダちゃんと出会って以来、そういう奇跡を己の身体で、ダンスという技術表現体系に必死になるほど、迷いながら確かに感じられた。
内側で溢れそうになっている言葉を必死に探り、吐き出せず愛想笑いでテキトーに渡ってきた青年が、そういう自分だけの言葉…踊ることで孤独ではなくなる言語に出会えたのは、やはり素晴らしい。
そしてダンスに挑むほどそれは難しく、踊る自分を常に試される。
でもそんなストイックなシビアさが、考えすぎなカボくんには合ってるのだろう。
世間が抱えてる偏見よりも、暗くて内省的なダンスという表現を、コミュニケーションに難しさと痛みを抱えた青年を真ん中に据えて、深くえぐり出していく。
俺はそのナイーブな筆先を、このアニメは結構適切に描けていたと思っている。
特に鏡面の演出に特別な冴えがあり、鏡や窓ガラス、眼球に何かが反射する美しい表現が、踊ることで世界を広げ、より深く自分や他者を知ることが出来るかけがえなさを、美麗に削り出せていたと思う。
光の表現に強みがあったことで、青春という季節の眩さ、ワンダちゃん飛び切りの透明感を、可視化出来たのも良かったな。
色々屈折して個別な人間の中身を、ごたまぜに内包し撹拌する大きな器としてダンスを描く時、様々な音楽が鳴り多彩な踊りがそこにあるのは、とても大事だろう。
色々行き届かないところもあったが、ダンスアクターを個別に立て、舞踏表現をキャラクターの発露として、個性を込めて描こうとした試みには、清々しい野心が確かにあったと思う。
めっちゃくちゃな量の劇中曲を惜しげもなく投入し、「音を拾う」という行為の意味を視聴者が自分で確かめれる土台を丁寧に整えてくれていたのも、たいへん良かった。
やっぱ伊織のダンスが全体的に白眉で、重さよりも軽みを軸にまとめるのが収まり良かった…のかな?
恩ちゃんという卓越した指導者の元、内省的でクレバーな連中が集まって爽やかな汗を流した前半と、そこからはみ出す悪童たちも顔を見せてのバトルな後編。
第7話を折り返しに、かなり作品のテイストが変わるお話でもあった。
自分はカボくんの複雑にのたうつ(わりに、その苦悩がなかなか解ってもらえない)内面に魅力を感じているので、それが無心の身体と結びつけばこそ舞踏に夢中になっていく、地区大会までのスペキュレティブな空気が好きだ。
バトル編も色んなヤツが色んな踊りを背負ってる多様性が、元気に暴れててとてもいいわけだが。
一回一回勝負がつくバトルの解りやすさをブーストするかのように、モブの驚愕や可視化されたエフェクトによって、舞踏表現に色がついていたのは…まぁ難しいなと思う。
踊ってた何が凄いのか、誰かが言葉にしなきゃ解んないもんだし、そういう補助線が的確にあって初めて、見知らぬ芸術を自分に引き寄せられもするわけだが。
しかしやっぱり、そういう修飾が取りこぼしてしまうものは結構あるな、と。
後半のバトルを見ながらちょっと思った。
これを身体一個の表現力でやり切るには、「動く絵」という表現は少し実在の重さに欠けすぎているのかもしれないし、そこを魅せるメソッドを見つけるのは、本当に難しい探求なのだろう。
とまぁ最後に色々吐き出しましたが、アニメ”ワンダンス”、たっぷりと楽しませてもらいました。
動かぬはずの動き、鳴らぬはずの音が紙面から立ち上がってくる原作を、アニメーションという具象で形にしていくのは、なかなか難しい試みだったと思います。
そういう激しさの土台にある、静かで美しい思索の色合いを富山の風景に照らしながら深く掘り下げていく、静かで熱い描線が僕は好きでした。
そこから新たに飛び跳ねていく高みを、改めてアニメーションで見れる日を、マジで楽しみに待っています。
お疲れ様でした、ありがとう。
楽しかったです!