イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第47話『生け贄』感想

いつか夢見た栄光が、血まみれの地平線に沈んでいく瞬間の赤く、美しい光。
オルフェンズ第47話です。
火星に帰っては来たものの、金無し家無し夢も無し、何もかもなくなってしまった事実を認め、誇りをスコップにして自分の墓穴を掘るような、うら寂しいお話でした。
ジャスレイの『情けない命乞い』を無視し、死地に追い込まれても鉄華団の旗は降ろさなかったオルガが、仲間を生き延びさせようと必死に頭を下げ、マクギリスと自分を売り飛ばす算段を付ける姿は、とても辛かった。
半裸で死んでいく運命しかなかったネズミたちが夢見た、自分たちの名前が衣装に刻まれ、世界に対して胸を張れる未来。
それがもうないことを、思い知らされる話でした……多分。


というわけで、ホームたる火星に帰ってきたおかげで逆に、状況がマジでどん詰まりだと分かる今回。
教育と尊厳を背負って学校に行ってたはずのクッキー&クラッカは心無い揶揄の対象になり、メディアの首根っこを押さえたアリアンロッドにより英雄は犯罪者扱いに。
『人殺し』も『犯罪者集団』も『テロ組織』も、あながち嘘ではないところがどうにも哀しいところですね。

クソ以下の状況の中でも、誇りと根拠のない夢だけは輝いていたのが鉄華団の物語であり、お話を見るための足場だったと思います。
少なくとも僕は、オルガが人間らしい弱音を吐きつつ、なんとかツッパっている姿は、良いもんだなと思ってみてた。
オルガ自身の手でマクギリスを売り飛ばし、誇りを切り売りし、自分自身の命に安値をつけさせる今回の展開は、そういう足場をまた崩された感じがして、非常にしんどかったです。
このしんどさもまた計算の中で生み出された感情のうねりで、あんま振り回されないほうが良いんでしょうけども、まぁしんどいものはしんどい。

仇討ちを金看板に、手打ちを求めてくる敵をバンバンぶっ殺してきたのはオルガも同じで、今回のラスタルの対応はある意味因果応報とも言えます。
ビスケットを殺したカルタを、名瀬とラフタを殺したジャスレイを、鉄華団がケジメのためにぶっ殺してきたように、(身内から見れば)忠義の士であるガモンを殺した鉄華団に、ラスタルが復讐するという構図でもある。
『家族』の枠組みを維持するために、『家族以外』を『殺してもいいやつ』に認定する想像力の欠如。
それを武器にしてここまで来た鉄華団とオルガが、同じように『家族』を維持しようとするラスタルに殺される。
そういう構図も透けて見えます。

『基地を取り巻くアリアンロッドのMS』
『守るべきヤバい荷物を、売るか売らないか』
『ネズミのまま死ぬか、誇りを掲げて死ぬか』
状況は一期第一話、物語が始まったときにも似ていて、あのときは何が何でもクーデリアを守り、ネズミではなく人間として生きた証を立てようとしたオルガが、誇りを売って生き延びようとした大人と同じ選択をしようとするのも、とても悲しかった。

それは結局、鉄火団殲滅によりギャラルホルンの権威回復を狙うラスタルと、オルガに生き残って欲しいと願った仲間たちによって止められます。
『オルガがいる場所が、俺達の居場所』
『三日月がいる場所が、私達の居場所』
美しい家族の肖像と見るべきか、独り立ちできるだけの自分を確立できず、家族共同体の安楽さに飲み込まれた結末と見るべきか。
どっちにしても、一切の誇りなく生きながら死んでいる生き方よりも、一時の夢に麻酔をかけられながら崖に向かって突っ走る死に方を、少年たちは選ばされるようです。


そういう状況の中でも、ザックが沈むべき船から出ていったのは、バランスの良い描写……なのかなぁ。
彼が悪態つきつつもまっとうで、同調圧力に飲み込まれず勇気を持って船から降り、それでも船に残る仲間たちへの愛情を持っていたと描いてくれたのは、結構良かったと思います。
『死のう死のう』の狂熱に侵されながら、みんなで一斉に崖にオチていく『だけ』なのは、見ててしんどいですからね。

ただ同時に、現代日本の倫理的・経済的基盤を背負い、鉄華団のどん詰まりがどうしても遠い世界の物語である視聴者の代弁者を作品内において、公平さを偽造する計算が、どうしても透ける。
これは一期のステープルトンさんが担当していた部分なのですが、彼女は鉄華団に居残るために『家族』と同質化し、その言葉は状況を変ええない、外野の声のままでした。
ザックもまた同じで、帰るべき場所のある彼の言葉があくまで安全圏からの寝言であり、帰るべきホームを持たない子供たちは、夢を見ながら死んでいく決意を変えることはありません。
ただ、ザックが空気読まずに『やめます』と言わなければ、あそこで踵を返せず『家族』に飲み込まれた人も何人かいたと思うので、彼の決断はやっぱり良かったな、と思います。
嫌われる上に、正論言い過ぎて仲間を救っては元も子もない無力な役を、よく担当してくれました。

今更『オルガに考えさせずに、俺達も自分を持って、自分で考えるべきなんじゃねぇの?』と発言させている辺り、やっぱりこのアニメの鉄華団への視線には冷静な距離があって、入れ込みすぎていない感じがあります。
そういう冷静さが風通しを良くもしているのだけども、手に入れたはずの尊厳を剥奪され、狂熱か離反かしか道がないところまでキャラクターを追い詰める正当性にも、どうにも風が吹いてしまっている感じを受ける。

どうしようもなく世界は残酷で、他に選択のしようもなく彼らはこう生きていくしかなくて、そのように死んでいくのだ。
『要素が巧く積み重なって、最終的にうまくいく』というポジティブ(で、おそらく基本的)な物語構造に背中を向ける以上、負の方向に物語が落ち込んでいくこと、都合のいい奇跡が起こらないことを飲み込めるくらいの、冷静な観察眼と話運び、悲惨な境遇に落ちていくキャラクターへの痛みを込めた優しさ(もしくは圧倒的にクレバーな冷笑)は必要だと思います。
今回のザックとオルガ、鉄華団の追い込み方からは、(これまでと同じように)そういうものを感じきれなかったです。


クーデリアも三日月と生殖していましたが、バルバドスのへその緒に囚われたままの三日月という胎児が、その子宮の中で女とまぐわい父になる暗喩が、最高に性格悪くてグロテスクでした。
コードが邪魔してクーデリアに寄りきれず、『こっちに来てよ』と告げる絵面は、どうあがいても『家族』で他者を食い殺す以外に生き残る手段がなかった三日月に似合いの求愛すぎて、濃いめのため息が出ました。
オルフェンズとして生まれたもの、オルフェンズに落とされてしまったものは、一生死ぬまで孤児。
三日月が唯一たどり着けた恋を、不自然だとかグロテスクだとか指弾するような感想を抱くこと自体が、キャラクターと物語に寄り添えていない証拠なのかなぁ。

僕はアトラの生殖感にどうにも納得行かない部分があって、生まれてくる命をそれ自体無条件で祝福するのではなく、『三日月との子供』『帰ってくるべき約束』という付加価値を付けてしか肯定できないことが、なんとも嫌な感じです。
そういう祝福や願いなんてなくても子供は生まれてくるし、生まれてきた結果が今の火星基地のどん詰まり感なんだよ、と言われてしまえば、返す言葉はないけれど。
自分自身が『何かの役に立つこと』を期待され、それに反すれば殴打されるオルフェンズとして生まれてしまった以上、親になることもまた、一種の『清廉なる打算』を背負わざるをえない。
そういう生まれつきのレールの強さをこのアニメが重視しているのは、守り育む『まとも』な生き方を知らなかった三日月が草木を枯らし、上流階級として生まれたクーデリアが花開かせたことからも感じられます。

生まれのレールから出ようとして、オルガも三日月もアトラもあがいていたはずなのに、結局そこから出られない。
ザックが『まとも』なことを言うのも、『家族』に途中から横入りし『家族』になりきれなかった、『まとも』である贅沢を許された社会の上層だから。
生まれや社会階層、教育や収入の格差という『生まれつき』の一線はとても堅牢で、超えることが出来ない。
『楔』として『役に立つ』子供を無邪気に求め続けるアトラからは、そういうやるせなさを感じます。

三日月に抱かれ、アトラと姉妹になることを決めたクーデリアは、その一線を越えたのではないか。
そういう見方もできるんでしょうけど、三日月が代表する側に待っているのはコードで紐づけされたバルバドスであり、戦争であり、『死』です。
クーデリアが代表する側に鉄華団を引き込む試みは、ビスケットによって、ステープルトンさんによって、あるいはザックによって、アリバイを積み重ねるように幾度も試みられるけども、死や離別や愛情によって破綻して、結局は『家族』が他者を吸い込んでいきます。

クーデリアは『鉄華団のような、フミタンのような哀しいオルフェンズを出さない』という理想のために、アドモス商会を打ち立てました。
ここで鉄華団と行動を共にすれば『死』によって理想は半ばで潰え、見捨てれば理想とクーデリアの心に大きな傷がつく。
なかなかキツいジレンマを、クーデリアは三日月への恋慕をテコにして、一つの結論を選び取りました。
その選択は彼女自身のものであり、尊重されるべきだと思います。

しかし同時に、想像力の荒野たるこの作品の中で唯一、縁もゆかりもない他者へのアプローチを地道に続け、断絶を乗り越えられる可能性を背負っていた彼女がこの後たどる道は、彼女個人の理想よりも大きなものを作品がどう扱うか、その証明にもなります。
クーデリアの生死(それは肉体だけではなく、精神や社会的地位もひっくるめたものです)によって、『恋と家族愛のために、個人を超えた巨大な理想や善を、犠牲にしても良いのだ』というメッセージが飛び出しかねない。
『三日月のいるところが、私の居場所』という結論が、地獄の中で『家族』への強い絆を輝かせる助けになるか、自己と理想を放棄し尊厳に砂をかける遺言になるか。
僕個人としては、このあとの展開の中でとても大事かなと思っています。


鉄火団主軸で回っていたエピソードですが、イオク様が前線に出ることが決まったり、ラスタルがみんなぶっ殺す宣言したり、マッキーがニヤニヤしてたり、周辺も忙しかったです。
『力に溺れたバカの末路を看取って、今後の反省材料にしたいです!』と言い切るイオク様は、相変わらず『家族』以外への想像力が底をついていて面白かったけども、彼が前線に出てきてどう使われるかは気になる。
凄く意図的にヘイトを溜め、勝ち船に乗ったおかげで『オルフェンズではない』恵まれた子供代表みたいな位置に、いつの間にかなっていたイオク様。
彼に、どういう物語的な仕事をさせるのか。
そういう見取り図はないアニメなのかもしれないけども、良くも悪くも凄くオルフェンズっぽいキャラなんで、使い方は気になります。

ラスタルはネズミの退路を積極的に絶って追い込んでましたが、最後に噛みつかれるためのフラグなのか、『大人』として世の中の道理を説教したかったのか。
悪辣な策士なら『おお分かった分かった、手打ちにしよう』と誘い込んでおいて、逃げ場がない状態でぶっ殺すくらいのことはしてくれてもいいかなと思いましたが、まぁそうしない事情があるんでしょう。
正義の偽造コストが異常に安い世界だってのは、今回鉄華団を犯罪者集団に仕立てた流れから分かる気がするけど……イオク様に、経験値と晴れ舞台用意してあげたいのかな。
丸男のデビュー戦として湘北を使おうとした堂本監督みたいだな。(唐突なスラムダンク比喩)

マッキーは相変わらず『死ぬまで全力疾走。それが鉄火団イズムだろ!?』と的確な煽りをぶっこみつつ、基地に居場所がないのか火星をウロウロしたり、あわや売られかけたりしていました。
最後の不敵な笑みはなんか策を仕込んだ結果だと信じたいけども、バエルとアグニカへの無邪気な信奉加減を見るだに、理由なく笑ってても納得はする。
クソ親父に虐待の事実を全世界公開され、ただでさえクチャクチャに踏まれた尊厳を泥まみれにされたのには、同情もするよ。
『行動理念にも実際の行動にも同意は出来ないけど、同情はできる』っていうマッキーのキャラは、なんかトンチキなオリジナリティがある気がする。
クソ外道のサイコ野郎なんだけど、不思議な憐れみがあるというか……まちがいなく大器ではなくなってしまったが。


そんな感じで、墓穴への道を自分たちで舗装するような、寂しい故郷の夕暮れでした。
『ID改ざんで心機一転一発逆転! 先立つものも隠し講座からゲットだぜ!!』という細い希望を見せておいて、すぐさま叩き潰す流れとか、ダレがなくて良かったです。
ホント、感情を揺さぶる手腕は巧みなアニメです。
ID変えるのも窮地の弱々しい希望で、蒔苗が手伝ってくれる保証、変えたところで逃げ延びれる確信もないんですが、ここまで追い込まれるとすがりたくもなるね……カンダタの糸だね。
揺さぶった感情の振幅をどこに収めて、どう使って、何を作るかに関しては信頼感が薄いですが。

さておき、少年たちは物語が始まった時と同じ状況に追い込まれ、死地を抜けるしかなさそうです。
あのときは夢の始まりだった火星の荒野は、夢の残骸と赤い血をたっぷり吸って、最後の輝きを見せるのでしょう。
あんまり見たくはないですが、それが終わりというのなら。
来週も楽しみですね。

鬼平 -ONIHEI-:第10話『泥鰌の和助始末』感想ツイートまとめ

リトルウィッチアカデミア:第10話『蜂騒ぎ』感想

きらめく青春が跳ね回る、バンブルビー達のポップな冒険、ハンサムボーイ再登場の第10話です。
"シンデレラ"めいた舞踏会を舞台に、媚薬が引き起こす"夏の夜の夢"のようなロマンティック・コメディあり、夢と魔法にまつわる青春の出会いあり、楽しく爽やかなお話でした……タイトルから考えると、"から騒ぎ"も元ネタかな?
ピアニストという夢と、偉大な父の継承者という建前の間で苦悩しつつ、それを表に出すことも許されていないアンドリューの影。
祖国を離れたアウトサイダーであるがゆえに、ただただ夢に対して真っ直ぐなアッコの光。
小林寛の陰影と構図のセンスが最大限に威力を発揮する、幾重にも重なる魔法のお話でしたね。

今回は第6話で活劇をともにし、アッコが夢への再スタートを切り直す場所に居合わせたアンドリュー、二度目の主役回です。
第6話が(どちらかと言えば)顔見世に近く、主題はアッコとシャリオ/アーシュラ先生の関係(再)構築にあったのに対し、今回は彼のホームフィールド(であると同時に、最大の阻害理由でもある)自宅を舞台に展開し、ハンサムボーイがどういう少年なのかをじっくり見せてくれています。
シリアスにナイーブに、心の影に分け入っていく部分はしっとりと展開させ、笑いを生み出すドタバタはとにかく元気に振り回すという、緩急が楽しい回でもありました。

第8話でも語られた主題なのですが、アッコの『夢は最高、自由に走り回ろう!』という開放主義は、このアニメにおいては別に万能の解決策でもなんでもありません。
それは日本という祖国を遠く離れ、魔女界からも、地縁と地誌に支えられた貴族社会からも遠くにいるアツコ・カガリ個人の資質であり、その輝きも有用性も唯一性も存分に認めた上で、必ずしも他者に適応出来ません。
スーシィが心のなかで自分を殺し続け、今の自分を維持している選択が『間違い』ではないように、アッコが自分を殺さず、とにかく自由に夢を追いかけ続けていることもまた、『間違い』ではない。
しかし条件が異なれば結果も違うわけで、それぞれ違う個性と意思と環境を手に入れたキャラクターは、それぞれ固有の答えを持っています。

アンドリューはルーナノヴァに留学している『お客さん』ではなく、父の政治基盤を引き継ぐことを期待され、この魔法の国をシビアな政治の舞台として捉えることを期待されています。
何にもとらわれず、噴水の縁の上で自由に踊ることが出来るアッコとは、置かれた状況も、育ってきた環境も、何を大事にするかという価値観も異なります。
そういう彼にとって、スーツをしっかり着込み、大人に期待される自分自身を内面化して生きていくことは、必ずしも討ち果たすべき抑圧、というわけではない。
『父を尊敬している』という言葉は、全てが偽りというわけではないと思います。
アッコとアンドリューは性別も精神も別の存在であり、しかし(だからこそ)お互いの生き方に影響を及ぼせる、独立しつつ連動した人間なわけです。

アンドリューは今回、"熊蜂の飛行"を弾きこなし、"1984"を愛読していました。
『お父さんの言いつけどおり、10年ピアノには触っていません』と言っていましたが、"熊蜂の飛行"は非常に難度が高い曲で、毎日ピアノに触れ、憧れを持って練習を続けていなければ、とっさに暗譜出来るものではありません。
父親からの期待に応えたい願いや義務感と、ピアノの代表される『夢』を追いかけ、魔女を庇護したいと自分の良心とは、"1984"に於ける『二重思考』のように並立し、対立し、アンドリューを悩ましているわけです。

父という『ビッグブラザー』に常に行動を監視され、『貴族かくあるべし』という規範を体内に入れている彼にとって、着崩したネクタイとスーツこそが魔法のドレスであり、"熊蜂の飛行"という夢の時間が途切れてしまえば消え去る、一時の幻です。
アッコが普段の制服に戻ったように、彼もまたツンツンと自分を保ち、『世間になんら恥じることのない優等生』という鎧を着直す。
しかしあの美しい噴水の中で、自覚のないままアッコが見せてくれた美しい風景はその鎧を貫き、アンドリューの心にいる熊蜂を騒がせました。
魔法の効力が消えてもけしてなくならない、憧れという名前の『あなただけの魔法』を、アッコは使ったわけです。

主人公アッコが体現する、無邪気で自由な夢へのあこがれの力を大事にしつつ、その限界もしっかり見据える。
人間にはそれぞれの条件があり、思考があり、個別だからこそ、普遍的な『憧れ』の光はとても眩しく、心のなかの真実を照らし出す。
出来ないこと、判らないこともたくさんありつつ、そういう人間の限界を受け入れながら、むしろ差異がもたらす可能性に目を向け、際立たせていく。
このアニメが持っている、矛盾や対立に関する広い視野、優しい表現力がアンドリューとアッコの二度目の出会いには強く込められていて、今回の話は(も)僕、凄く好きですね。


世間に対して開かれた舞踏会場、華やかで騒がしく楽しいホールから薄暗い裏庭に舞台が移り、影の中で父と子の私的、かつ重たい会話が行われる。
この切り替えが非常に印象的な今回ですが、そこからもう一つの光、アッコが背負う噴水に視線が流れていくのは、非常に印象的です。
第6話において、シャリオの過去とアッコの真実を『ポラリスの泉』が示した瞬間、アンドリューはその介添人になっていました。
今回彼は、噴水という『水鏡』の側で少女の言葉を聞き、それを自分の心に反響させて、自分の進むべき道を探します。
あの時アッコが果たした『憧れとの再開』を、今回アンドリューもまた達成し、アッコと同じように新しい生き方に一歩ずつ踏み出していくのではないか。
そういう予測が思わず芽生えてくるくらい、水鏡と光の再演は印象的でした。

ホールで演じられる蜂の魔法は無条件かつ一時的なもので、それが生み出す恋は表面的な喜劇です。
しかしそこから連続しつつ、全く別の場所である裏庭-噴水で演じられた出会いは、物理的な『魔法』の助けを借りていないのに(あるいは、からこそ)、二人の心を永続的に変化させてしまいます。
ハンサムな少年との夜闇の語らいをアッコは忘れないだろうし、アンドリューもまた、あの時美しい憧れに出会ったことを大切に思い出すでしょう。
それはこの物語がシャリオとアッコのステージの出会いから始まったのと同じで、アッコは知らぬうちに、憧れをただ追いかけるだけではなく、自分自身が憧れとなって誰かの小小ろに魔法をかける、真実の魔女になりかけているわけです。
ズルして手に入れたドレスは消えてしまうけど、心に刻まれた変化は永遠である。
そういうロマンチックな精神主義、僕は大好きです。

輝かしい場所から離れたからこそ見つけた真実はアンドリューの行動を変えて、禁じられていたピアノ演奏を『余興』として世間に認めさせ、アウトサイダーである魔女の問題解決を助ける。
"熊蜂の飛行"をBGMにドタバタ走り回るアクションシーンは同時に、世間の風当たり強い魔女たちがどう世界と折り合いを付け、そこでアンドリューがどういう役割をはたすのかという、一種の予言のようにも見えました。
"1984"の原作のように、規範を押し付けてくる『ビッグブラザー≒父』と同質化し望みを捨ててしまうのか、はたまた今回刻まれた出会いに従い、もう一度魔法を使うのか。
ハンサムな王子様役としてだけではなく、政治家見習いとしてのアンドリューの今後も非常に楽しみになる運び方だったと思います。


学校を離れた今回は、キャラクターたちの意外な顔も見え、非常に面白かったです。
『シンデレラセット』で三人とも『お姫様』になるわけではなく、スーシィが『魔女』というロールを選ぶところとか、凄く『らしい』なと思いました。
『男の子と仲良くしたいスーシィ』を殺して自分を保っているスーシィにとって、あこがれの舞踏会で王子様に見染められる夢はあまり面白くなく、婚姻関係から離脱した魔女として場を引っ掻き回し、『アッコで遊ぶ』ことを選んだのでしょう。
恋ばっかりが人間の幸せではないわけですし、スーシィのトリックスター的な生き方が話をかき回してくれてもいますし、いろいろあって面白いな、と思いました。
しかし今回描かれたロマンスもまた素敵なものだったので、スーシィもいつか、何らかの形で恋に近づく話をやっても全然良いな、とも感じましたね。

ロッテは蜂の騒動で一時的にお姫様として祭り上げられ、魔法が解けてしょんぼり……と思っていたら、もうひとりのハンサムボーイ、フランクくんと心を繋いでいました。
第6話ではアンドリュー以上に出番がなかった彼ですが、親友が陥っている『二重思考』に理解を示し、ロッテの素朴な魅力を一発で見抜き、節度のある距離感で手を差し伸べてくれる、気持ちのいい少年だとわかりました。
暴走するアッコをよく支え、親友を心から励まし、憧れに向かってまっしぐらに走る強さもある。
ロッテの良さはこれまでの物語の中で、僕ら視聴者にはよく分かっている(と思います)。
だからこそ、魔法が解けて袖にされた時は『このチャラ坊野郎共がよぉ~! 目ン玉の代わりに高価なガラス玉でも入れてんじゃねぇの~?』と吹き上がるし、ロッテが悲しそうな表情をすると『泣かないでロッテ……』と悲しい気持ちになるし、フランクくんがベストなタイミングと着眼点で手を差し伸べてくれると『おお、ハンサムボーイ、見る目があるじゃないの。このチョコレートはポケットに入れて、持っていってくれたまえ!!!』って気持ちになる。(ロッテモンペ勢)

僕らが好きなロッテが悲しい時、手を差し伸べてくれて、僕らが見てきたロッテの良いところを、ちゃんと見てくれている。
短い掛け合いの中でフランクの評価がグンと上がったのは、視聴者の心の動きにシンクロする物語の運び方と、これまで積み上げてきた好感度を活かす作りの巧みさ、両方があってのことでしょう。
このアニメはかなり計画的に、自分たちが何を描いているか意識しながらお話を組み立てている印象が強くあります。
フランクとロッテの掛け合い、そこで与えられた印象はそういう積み重ねの上手さ、冷静な組み立てを強く感じさせるものでした。

男の子とのロマンスだけではなく、悪童三人組が冒険に飛び出していくワクワクとか、なんだかんだ仲良しなキャイキャイ加減とか、ルームメイト三人のお話としても凄く良かったと思います。
最後の甘いものたくさんで、ほっぺがぷにぷにで、みんなが笑って茶化し合ってという瞬間の、イノセンスな多幸感!
出だしがベンチに座ってアイスを食べる『三人』から始まって、ホールと裏庭を舞台にした冒険が展開して、ホームたるルーナノヴァに戻ってきて『三人』で語り合うところで終わるのが、構造的に綺麗ですよね。
いつでも三人から始まって、三人で終わる構図に収めることで、あの繋がりがとても特別なものなのだということが、巧く強調されていると思います。

あと、アッコのドレスデザインがあまりにもデコルテ大胆すぎる所は、彼女の幼さ、『性』へのむとんちゃくさが強調されていて、とても面白かったです。
ダイアナの取り巻きひっくるめて、他の女の子たちは慎ましやかに鎖骨を出して、礼儀正しく肉体を誇示し、文化コードの内部規範にふさわしく男性を挑発しているのに対し、アッコは舞踏会のコードを侵犯するかのように肌を晒し、いつずり落ちるかヒヤヒヤもんでした。
その癖、いつもの様に大股開きで飛んだり跳ねたり、自分が『女の子である≒男の子ではない存在である』ことに意識がないんだなぁ、と。
そういう子がアンドリューと出会い、話し、心に魔法をかけられた結果どう変わっていくのかも、僕は楽しみだったりします。
婚姻を前提としたお姫様類型から脱出して『魔女』になっていたスーシィが、己の肉体を完全に布で覆い隠していたのも面白かったな。


普段と違う顔を見せていたのはダイアナも同じで、アッコに惚れたり自分に惚れたり、普段は見せないコメディエンヌとしての顔を見せていました。
『嫌味なライバル』という立場に立ちつつも、ダイアナが人格的にも能力的にも優れた『いい人』なのは、このアニメが外さない基本路線です。
今回ダイアナが見せた面白い表情も、魔法がすべてを変貌させたというよりは、もう一つの可能性を示してくれたという印象ですね。

ダイアナはアンドリューと対になるよう描かれていて、ふたりとも地縁と人縁、家が持つ歴史と期待に縛られた『インサイダー』です。
自由な『アウトサイダー』であるアッコと対比的な立場ですが、アンドリューは魔法を必要としない『現実』に身を置くのに対し、ダイアナはルーナノヴァ最優秀生徒として『魔法』の内部にいるところが、面白い差異です。
魔法にしても政治にしても、名家の歴史はそれぞれ『かくあるべし』という規範を押し付けてきて、それは二人にとって重荷であると同時に、叶えたい望みでもある。
優等生故の重たさと、背筋を伸ばして生き続ける高貴さが同居している所は、男女を超えて二人がよく似ているポイントでしょう。

ダイアナとアンドリューが異なるのは、ピアノというアンドリューの『自分の夢』が政治家という『周囲の期待(であると同時に、自分の夢でもあるもの)』と衝突するのに対し、ダイアナの『善き魔女』という『夢』は『期待』と重なり合っている、ということです。
しかしそれは無条件に叶うものではなく、滅びゆく魔女文化をどうにか『現実』に適応させ、新しい価値を世の中に問わなければ、彼女の『夢』は実現しない。
衝突する『魔法』と『現実』をそれぞれ、貴族的でありながら公平で、優しく正しい二人の『優等生』が背負っているのは、なかなか面白いところですね。

ドタバタ楽しい日々を追いかけつつ、『現実』と『魔法』の対立を遠景としてこのアニメがにらみ続けていることは、例えば第5話とかからもわかります。
いつか物語が大きなうねりに飛び込み、ルーナノヴァと魔法文化の存続が『現実』と衝突したときに、愛すべき二人の『優等生』が大きな力を発揮し、より良い解決に向けて大きな役割を担う。
コメディとロマンスで観客を楽しませつつ、土地と歴史に縛られた二人をしっかり切り取ってきた今回からは、そういう予感も強く受けました。
僕はアンドリューがとても好きなので、お話の美味しいところを是非担ってほしいと願っていますけども、これだけ『現実』を背負い、アッコが体現する『夢』の光で道を見つけた描写が濃くあると、この願いも推しの贔屓目とは言い切れないかなぁと、自惚れたりもします。


というわけで、ハンサムボーイの光と影を、アッコの無邪気な輝きが照らし出すお話でした。
アンドリューの清廉な気遣いをアッコもちゃんと受け取っていて、魔法が与えた偽りの告白では白目のギャグ調なのに、本心からの賞賛にはおずおずと頬を赤らめるところとか、非常に繊細でした。
笑いで流すところと、かっちり人情に楔を打ち込むべきところを、ちゃんと区別している印象ですね。

今回噴水の前でかかった魔法、水鏡と光が教えてくれたもう一つの真実が、少女と少年をどこに運んでいくのか。
アンドリューが担当する『現実』と、魔女たちの『魔法』はどういううねりを生み出すのか。
もう一人のハンサムボーイ、フランクくんとロッテの慎ましやかな出会いは、どういう展開を見せるのか。
ますます面白さが増していくリトルウィッチアカデミア、来週も目が離せません。

追記

アイドル事変:第10話『ダンシング・ヒロイン』感想ツイートまとめ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第10話感想

冬来たりなば春遠からじ、家族を望んだ男のもとに新しい命が訪れ、亡霊に取り憑かれていた男の元から花が散っていく、現し世はゆめゆめこそ真、親子の誠師弟の契は、眠るような死の床にぎりぎり間に会いましたとさ、な、落語心中十話でございます。
八雲の代わりに寄席は燃えちまって、何にもなくなったかと思いきや、春が来た。
与太郎と小春が『家族』である証がもう一つ増えて、長年のわだかまりを弾き飛ばす暖かい風が吹いて、穏やかに笑いながら、桜が散って菊さんが死んでいく。
紅顔の美少年も老いぼれ、ヨボヨボの爺さんになってしまう老いと死の無常。
死に損なって死にたいほどきつい余生を頑張ったからこそ、ようやくたどり着いた親子の肖像。
このお話は、生きるために落語にしがみつくしかなかった一人の男が、未練を引剥してようやく死ねるようになるまでの物語だったのかなとしみじみ感じ入る、いいお話でした。


というわけで、幽冥の境があやふやだった寄席の出火は、この世のものではない不思議な火として誰も傷つけないまま終わりました。
寄席全部から出火しておいて、左右隣の建物には一切ダメージ無しってところが、八雲の未練を焼き尽くすための浄火だったのかな、という気がします。
散々『落語と心中する』と脅してきた八雲が『死にたくない』という答えにたどり着いたように、八雲が老いても死んでも、寄席が燃えても落語は死なない。
席亭さんの広い度量と、人こそが落語なんだという強い信念が、とんでもなくありがたい雪の情景でした。

心臓発作起こしたときもそうでしたが、与太郎は死にかけている八雲には付き添いません。
『落語をどうにかして活かすんだ!』という強い信念が、彼を現場に貼り付けにしているわけですが、それは同時に憧れた師匠が決定的に死んでしまうかもしれない場所に、居合わせたくないからかもしれません。
刑務所で足止め食らっている間に実の親が死んじまった与太郎にとって、八雲は憧れの師匠であると同時に、老後まで孝行するもう一人の親父。
生きること、生きつづけることを徹底的に肯定できる『陽』のキャラクターであるが故に、八雲の死だけは身近で受けれない業を背負っている気も、ちょっとしてきました。
これが本当かどうかは、今回の引きからどう転がしていくか次第なんで、ちょっと読めませんけども。

樋口との地下鉄での会話も、喫茶"佐平次"前での小夏との会話も、与太郎がたどり着いた(というか、最初からそうであった)八雲への健気で健全な情熱を、正面から肯定する内容でした。
師匠は超えるもんじゃない、愛し見守り、背中をついていくものだ。
与太郎らしく真っ直ぐでまっとうな結論であり、師匠を才能の豪腕で殴り殺して歪めてしまった八雲や二代目助六には、どうやってもたどり着けない正論です。
ともすれば捻れた黒い答えが『リアル』ってことにしちゃうのが、物語としては色々楽なんですが、これまで与太郎の真っ直ぐさ、『陽』のキャラクター性が成し遂げたものを見てきて、そのために必死の努力とあがきを見てきた視聴者からすると、凄く素直に与太郎のまともさを受け止めることが出来ます。

与太郎はこういう気持ちのいいやつで、捻くれていない男で、だからこそたどり着けた場所、幸せにできた人がたくさんいた。
子供のようにバカで真っ直ぐで、歪みなく無限の愛情を持って落語に飛び込んだ男だからこそ、見つけた答えがあった。
かつては吊り輪越しに、強めの歪みをかけて関係を切り取られていた樋口と与太郎は今回、お互い違う場所から落語を見つめ、でも愛している同士として真っ直ぐ描かれています。
その姿が、八雲と三代目助六に通じるリスペクトに満ちていたと見るのは、二人が好きな僕の欲目ではない気がします。

樋口の内側には、みよ吉への未練や八雲への恨みと愛情、色んな感情が渦を巻いていて、今も渦を巻いているのだと思います。
そういうものを全部ひっくるめて、火事場で泣いてる人に色々聞いちまう無神経もひっくるめて、落語と八代目八雲を生き残らせようと決死に動き回った。
与太郎のようにど真ん中をスコーンとヌケていくような生き方ではけしてなく、むしろ八雲のねじれに捻れた生き様に似ているけども、でも、樋口が落語に向けた気持ちの強さはなんというか、報われるべき真っ直ぐさがあった。
渾身の新作落語を袖にされているのにとても仲良しで、妙に爽やかな中年男二人の姿は、彼らが迎えた一つのゴールとして、凄く良いもんだなと思いました。


寄席が燃えても子供が出来て、ラジオもテレビもあって、足を止めている暇なんて欠片すらないバリッバリの現役・三代目助六
これに対し、八雲は長いカルマの道のりをようやく走りきり、盛りを終えて散る桜のように、人生に幕を下ろしていきます。
スルスルと包帯を外し、生き残ってしまった申し訳無さ、落語に捧げた人生への後悔を穏やかに受け止める姿は、憑き物が落ちたようです。
というか、実際に信さんとみよ吉の霊を外して、『八代目八雲』という落語の生き神ではなく、あの時死ねなかった男でもなく、嬉しいことも悲しいことも、立派なことも情けないことも全部歩いてきた、裸一貫の老人として死ねるようになったんでしょう。
寂しいことですが、胸を張って誇るべきことだとも思います。

死を目前にして、小夏と八雲はあの時の縁側で繋がったような柔らかい関係を、なんとか取り戻すことが出来ます。
死ね殺せと言い合うことしかできなかった親子は、『お前がいたから死ねなかった、お前がいたから生き延びれた』と娘に伝え、『私を見捨てないでくれて、ありがとう』と父に伝えられる姿に、ようやく戻ることが出来ました。
あの時寝物語に聞かせていた"野ざらし"を、死にゆく八雲を微笑ませる子守唄として使うリフレインの上手さは、まさに圧倒的です。

菊さんは優しくてナイーブな人で、小夏が地獄で生きるのがかわいそうに過ぎて、惚れた男と女と一緒に心中できなかった男です。
死ねなかった自分への情けなさ、生き残ってしまった申し訳無さ、助六亡き後の落語と八雲を背負う重責、小夏を活かすための嘘の重たさ。
いろんなものを背負いすぎて、その気持を言葉にしてしまえば『八代目八雲』ではいられなくて、辺境なクソジジイであり続けようとした。
その強がりと不器用さが話芸を極限まで磨き上げさせ、八雲にしかたどり着けない峻峰に押し上げた部分もあるんでしょうが、彼は同時にずっと、無邪気な子供を飼ってきた。
『品のない』与太郎の落語、子供のように頑是ない噺を素直に笑って聞けるのは、胸に閉じ込めていた子供をようやく開放し、『生きたい』という願いに素直になれるようになったからでしょう。
死の直前の短い時間ですが、八雲がそういう場所にたどり着けたのも、僕には嬉しかったです。
思いっきり死にかけのジジイだったところから、助六の"野ざらし"聞いて艶が出てきて、小夏の弟子入り志願を受ける所は完全に『いつもの粋で色っぽい八代目八雲』に戻っているところに、八雲と落語の間にある業、幾度でも帰ってくる春の色合い、世界に色を付ける落語の魔法を、感じずにはいられなかった。


ぶっ殺したいほど憎んだことも、死んじまいたいほど苦しんだことも、けして嘘ではないと思います。
小夏と八雲の間にあった憎悪は、春風に吹かれて消えてなくなってしまうわけではない。
でもそれだけが二人の間にあったわけではなくて、むしろ憎悪は愛情の背中を、恋しい気持ちは憎しみの影を、それぞれ踏んでいたのではないか。
心のなかにわだかまるあらゆる感情、あらゆる業を長い道のりの中で受け止め、肯定し、言葉にして語り直せる物語の強さを、八雲と小夏の親子はようやく自分のものに出来たのではないか。
ラジオ越しの遠い"野ざらし"は、そういう気持ちを僕に抱かせます。

どっしりと滑稽な枕を流しながら、一言一言を拾うように市井の人々の暮らしが切り取られる。
天ぷら、釣り堀、夕暮れ。
流れ行く景色の中には、八雲や小夏が抱え込んだ分厚い愛憎が山ほどあって、それぞれがぶつかりあいながら一つの人生のお話が今まさに、浮世の中で生まれつつある。
『そういうものを肯定しながら語るのが落語というメディアであり、このお話だったんじゃないの?』という静謐なメッセージをあのどっしりとした映像さばきから、僕は勝手に受け取りました。
八雲と助六の長い長い物語から一瞬離れ、広くて遠くて名前がない人々に目線をやったあのシーンは、落語というもの、物語というものの根本的な力を再確認するような、非常に長くて広い目配せだと思うのです。
凄く、いいシーンでした。

与太郎が自分の身に降り掛かった不幸をまるごと飲み込んで、笑えないのを笑えるように生きていくためには、落語と八代目八雲が必要だった。
そんな与太郎もすっかり真打ちの貫禄を手に入れ、八雲の代わりに落語を背負って、ラジオという開けた場所に自分の噺を乗せ、誰かの人生の支えになっているかもしれない。
桜が咲いて散って、また新しく咲くように季節は流れ、世界は移り変わっていく。
それは寂しくもあり、喜ばしくもある、人生という物語なのでしょう。

信乃助が無邪気にがなる"野ざらし"は、女の骨を釣り上げてそれを笑い飛ばす、死と艶の混じり合った物語です。
今はその意味がわからない信乃助も、流れていく時間の中で(八雲と同じように)色を知り、死を知り、悲しいことも楽しいことも、沢山有るのでしょう。
世界を知り尽くした老人の前に無知なる少年を配置し、新しい命を宿した女と死にゆく男を据えた幸せな情景を、落語が遠くから愛情深く見守り、語っていく。

バラバラにならざるをえない人間の業にも、情けの橋がかかって皆孤独ではないし、それでも死ぬ時は皆一人で死んでいく。
その寂しさを噛み締めながら、親子の気持ちを、生きたいという願いを、子と孫へのしがらみではなく愛情を確認して死んでいくところまで八雲が行けたのは、やはり言祝ぐべき終わりなのだと思います。
生きるということはとても色々なことがあって大変で、それと同じくらい、死ぬのも大変であるし、死んだあとも人間は死なず、幸も不幸もいろんなものを残す。
桜とラジオが彩る美しい情景は、物語が始まった時既に死んでいる二代目助六を背負って、与太郎がやった大立ち回りの結果だと考えると、まぁ、そういうお話だったのではないかと一つの結論を出したくなります。

文字でかけば単純で当たり前で、うわっ滑りしちまうような結論ではあります。
でも、20話以上に渡って物語を積み重ね、幾重にも噺を折り重ね、業と愛憎をたっぷり練り込んでここにたどり着いたこのアニメを見ると、それは言葉を超えた実感として、僕の中で手触りを持ってきます。
ちょうど二期になって、綺麗すぎる与太郎が必死に自分の人生を生きて、悩んで苦しんでそれでも前を向くことが『らしさ』なんだと納得できたように。
すねてひねくれて、落語が好きで嫌いで、浮世を憎みつつしがみついた八雲の生き方が、『死にたくない』という答えにたどり着いたように。
憎しみで世界を塗りつぶし、差し伸べられた情をはねのけることでしか生き残れなかった小夏が、夫と父と息子の手を握ることが出来るようになったように。
誠実に人生の諸相と向かい合い、一つ一つアニメにしていくことでしか得られない手応えが、今回の話しにはみっしりと詰まっていました。

幾度も会いたいと願い、近づいては袖にされた信さんと、今週八雲はようやく再開しました。
それは死出の旅路であると同時に、かつて手に入れた黄金時代の再来であり、あの時掴めなかった手を掴んでのデートでもあるのでしょう。
『色』をくれた男との再開は、やっぱりどこか恋の色がする。

寂しくもあり、喜ばしくもあり、花に嵐の喩えじゃないですが、今は八雲とのさよならがどういうものになるか、とても楽しみです。
お疲れ様、ありがとう、菊さん。
ちょっと早いですが、やっぱり僕はあんたが好きだったよと伝えて、別れの挨拶とさせていただきましょう。
おそらく残り二話の落語心中、非常に楽しみです。