イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

バッテリー:第11話『二人の春』感想

かくして時はめぐり、人生という物語は続く。
アニメバッテリー、最終回です。
原作通り試合の途中でアニメも終わり、巧が何を手に入れられたのかは、明確には描かれない終わりでした。
瑞垣や門脇、戸村の変化と成長は明瞭に描けても、中心にいるバッテリーの描写は周辺を描くしかないのは、『巧の背中を見つけられない』と書き残して物語を終えられなかったあさの先生の筆を誠実に継承したからか、はたまた創作者としての不実か。
アニメ最終回の感想を書きます。

今回、サブキャラクター達の物語と感情が比較的明瞭な収まりどころを見つけているのに対し、巧と豪は己の気持ちをほぼ明言せず、形にならない発展途上のまま、物語を終えたように見えます。
展開自体は原作通りとも言えますが、僕が読んだ限りではもう少し明瞭に巧の変化を原作では描いていて、お話が終わりきらないとしても巧が進んでいく道がどこに続いていくかは、結構分かりやすかった気がします。
バッテリーTVアニメ版は、主人公たちに青春の迷妄を背負わせ、そこに微かな答えの兆しを埋め込む形で終わらない物語を終わらせた、という感じですね。

巧がどういう青年であり、この話がどういう話だったかを読者が決める馥郁たる曖昧さは原作通りなので、直接的な表現をアニメ制作者がしないことは正しいと思います。
元々勝負それ自体や野球の技芸それ自体に注目した作品ではないので、試合の勝敗が明瞭ではないのも問題ない。(”ラスト・イニング”において、そこは原作レベルでフォローされてもいるし)
あまりにみずみずしく残虐な、思春期という季節に切り込んでいくために『バッテリー』を描くことを選んだこの作品で大事なのは、その柔らかい場所に切り込みきれたか、否かでしょう。

アニメ版は『この一球』と指し定めるまでたどり着かず、時にボール時にストライクと才能を荒ぶらせ、巧の場所まで堕ちていく覚悟を決めた豪がそれを決死の鉄面皮で拾う現象だけを追いかけていきます。
お互い向かい合い関係を再構築した横手二中コンビや、複雑な感情を抱いていた『カントク』に「これが俺の生徒です」と自分をさらけ出すことが出来るようになった戸村に比べ、着地点はここですよと支持しない(出来ない)描写だと感じました。
元々語らず理解させる作風でしたが、最終話の『バッテリー』の描写は特にそれが強く、製作者が明瞭に出した答えよりも、視聴者が自力で答えを読み取るような描き方になっていました。


元々『私が受け取ったバッテリー』を主観的に語ることしか出来ない話だと思っているし、アニメもそれを踏襲したので、そんな話を続けます。
僕が『バッテリー』という作品から受け取った印象は、幾年か前に原作を読んだ瞬間の衝撃が深く刺さっているので、そこから離れることは出来ません。
だから当時突き刺さったイメージの話をすると、”バッテリー”はXの形をしたお話だと思っています。

優れた人間性を持つ『良い子』として、未熟な巧を受け止めていたはずなのに、己の凡才を叩きつけられそれでも天才の側に居ることを望んで、人格を摩滅させた『キャチャー』として己を狭く来ていしまう、豪の堕天。
ひねくれた『天才』として周囲を否応なく巻き込みつつ、己の影響力と責任に目を向けることのなかった巧が、思春期の一年を傷つきながら歩いていく過程で、世界と『キャッチャー』に向かい合い、『ピッチャー』という野球装置から人間になっていく昇天。
2つの軌道がお互い惹かれ合いねじ曲がりつつ、しかし決定的に噛み合わないまますれ違ってしまう瞬間を閉じ込めたお話として、僕はかつて、この未完小説を受け取りました。

作品から一度受け取った印象というのはなかなか揺るがないもので、それが豊富なイメージと繊細で的確な描写を伴い、心に突き刺さって抜けないモノならばなおさらのことです。
僕は"バッテリー"が相当に好きで、すでにかなり出来上がってしまっている印象を自覚しつつ、アニメはアニメで別の表現として見ようと、勝手に心がけていました。
描かれるものが僕の好きな"バッテリー"と食い違っていても、傲慢ながら『認めてやろう』みたいな思い上がりを、一応隣において見てきたつもりです。


そういう人間からすると、この終わり方はパーフェクトに僕の中のイメージをなぞったわけではないが、その可能性を確かに共有している不思議な終わり方です。
原作では巧周辺の成長イベントがもっと直接的かつ優しくて、その変化も明瞭だったわけですが、アニメ版はあくまで豪との静かで狭い関係性に的を絞って描かれ、最終回までマウンドという『狭い』世界を疑わずに進んでいきます。
しかし巧に何も変化がないのかと言えば、何かを感じているようでもあり、『ピッチャー』と『バッター』しかいないマウンドをいつか(それこそ次の一球にでも)狭く感じて飛び出すポテンシャルは秘められている。

豪にしても静かに固めた非人間への決意を明言することはなく、『良い子』時代に培った物分りの良さをフル動員して、硬い表情の奥に気持ちを押し隠して巧の球を受けています。
次第に張りを失っていく声と表情には、そういう内面の変化が確かに現れているのだけれども、実際に何を考えているかは明言しないし、象徴的なイベントを起こしてはっきり見せることもない。
それは「俺と友だちになりたいのか」と巧に問われた答えを、『相棒』という非常にさりげない呼称で返すような、穏やかで目立たない描き方です。
アニメ版は思春期の複雑さを描くために取った、曖昧とも豊かとも取れる表現方針を『バッテリー』に最後まで適応し、己すら己を把握できない思春期の霞それ自体を、主役を通じて描こうとしていたように感じました。

それはぶっちゃけ不親切な表現方法だし、スッキリと『バッテリー』の物語を受け取ることは出来ない描き方です。
『読者の想像力にお任せします、無限の可能性を込めました』というのは、物語の重力を支えきれなかった製作者のおためごかしだとも思えます。
だから、僕が勝手に読み取ったものを胸を張って唯一の真実とはいえないし、そういうお話でもないと思います。(何しろ終わってないんだから)

その上で、お話の真ん中にあった『バッテリー』の未来はおろか、現在すらも春の霞のなかで朦朧と描いた今回は、結構面白かった。
僕が受け取った僕の中にある"バッテリー"とも、文庫本の形で浮遊している"バッテリー"という客観とも違う、独自の解釈として僕は好きです。
そらー原作の曖昧さを受け止めた上で、アニメ独自の読みを胸を張って提出し豪と巧の物語にアニメなりの決着を付けて欲しい気持ちははっきり強くあるけれども、同時によりにもよって主役二人に青春と未完の原作の曖昧さを背負わせる描き方は、好きだしアリだと思いました。


青春の曖昧さをまるごと背負った主役コンビに比べ、横手二中の天才・凡才コンビは結構いいポジションに来ていました。
瑞垣が作中最高の面倒くさい男なのはみんな知っていますが、振るわれた暴力をきっちりノシつけて返すことで、青春すごろく一丁上がりみたいな顔した門脇の思い上がりをぶん殴ってやる思いやりとか、過去最高にめんどくさかった。
『勝手に俺の中身を見きった顔すんな』という苛立ちも本物なんだけども、愛していればこそ憎み、憎んでいても離れられない門脇秀悟が人間として間違った場所に行くのを、座してみていられない情の深さも篭った拳だったと思う。
黙って座っちゃう豪ともまた違う、凡才なりの天才との向き合い方は、最後まで面倒で最高だった。

今回三年コンビのお話がしっかり収まっているように感じるのは、瑞垣の片思いが実は片思いではなかったことが、はっきり判るし伝わるからでしょう。
凡人が天才を眩しく見上げていたように、天才に思える男も親友の背中をずっと見てきた。
巧と豪の間では、思いやりつつ交わらないお互いの視線がしっかり絡み合ったからこそ、門脇は巧だけを見る狭い世界から一歩踏み出して、瑞垣や他のメンバーと一緒にやる『野球』に、試合開始ギリギリで辿り着く。
それは主人公がたどり着けなかった(けれども、たどり着けるかもしれないし、たどり着けないまま迷うかもしれない場所として曖昧に描かれている)、瑞垣と真っ正面から殴り合ったから行けた場所です。

いい年してコンプレックスこじらせた戸村が己を綺麗にしたように、拗れに拗れた三年生二人も明瞭な成長をしっかり演出し、表現していました。
それを考えると、やはり『バッテリー』二人の変化と内面が非常に隠微でわかりにくく、ストイックとも不明瞭とも取れる筆致で書かれているのは、意図的なんだと思います。
原作者が見失った『巧の背中』がどんなものだったのか、あえて答えを明記せず、判断材料だけ詰め込んで終わる。
それはやっぱ根本的な所で不誠実な語り方だとは思いますが、同時に『結末は視聴者の中にある』という高慢に手をかける資格を少しだけ削り取ったような、そんな『バッテリー』の描き方だったと思います。


というわけで、TVアニメ版のバッテリーが終わりました。
具象ではなく心象、過ぎゆく季節の中で移ろう少年たちの心を捉えて、語りきれなかった作品のアニメ化として、踏み込みきらない筆で輪郭を切り取っていく描き方は、僕にはしっくり来る描き方でした。
あの季節の子供だけにある繊細で身勝手で残酷な、だからこそ真剣な心の震えは、ちゃんと切り取られていたと思う。

そこに重点した結果、ストーリーとしての軸に欠け、判りやすい足場がなかったとも言えるけれども、クソ面倒くさいガキどもが傷つけ合ったり何かに気付く表現の繊細さが、僕には足場になってました。
『雰囲気アニメ』ってあまりいい文脈では使われないのだけれども、少年自身を明瞭に描くのではなく、その周辺の空気とモヤを切り取り、視聴者の解釈を必要と(もしくは可能に)したこのアニメには、的確な評価な気がします。
色々と考えたり感じたり、思い出したり思い直したり出来る、いいアニメだったと思います。

まぁこれが『信者』の欲目だってのは自覚してるけども、しょうがねぇじゃん俺"バッテリー"好きだし、好きだってこのアニメ見て心の底から思い出されちゃったんだから。
そういう気持ちが呼び起こされる、良いアニメ化でした。
お疲れ様でした、面白かったです、ありがとう。

あまんちゅ!:第12話『蒼い世界のコト』感想

伊豆半島を舞台に黒髪の外来少女が世界と出会っていくアニメ、ついに海洋実習&最終回!!
この瞬間をクライマックスとするべく積み上げられた物語にふさわしく、確かな盛り上がりと充実感のある、立派な最終回でした。
てこが顔を上げ出会った世界の広さ、豊かさと、そこに飛び込むために必要だったたった一人の女の子の大切さ、両方をちゃんと描き、これまでてこが積み上げた努力を振り返る。
これまでやってきたことの延長線上に期待感をしっかり積んだクライマックスを配置して、期待を頭一つしっかり上回る、いつも通りなんだけどしっかり終わってる『いい最終回』。
まさに万感、まさに大団円という感じの青春ど真ん中で綺麗な終わり方でした……最高だった……。

ゆる~い日常モノにしっかり芯を入れるべく、アニメあまんちゅ!は色々と工夫をしてきました。
その中の一つにお話しの構成を入れ替え、てこがオープンウォーターの資格を取り、初めてスキューバ・ダイビングに飛び込む目標に向かって一歩ずつ進む、変則的なスポ根物語として、シリーズを作り上げる、というものがあります。
青春の自意識に悩む少女の小さな、しかし確かな努力と気付きを積み上げ、一歩ずつ成長していく歩みに寄り添いながら、お話の達成感を積み上げた頂点として、『海に潜る』瞬間が機能するよう、このお話は積み上げられています。

てこの成長は『海に潜る』ための様々な学習・練習と同時に、意識の変化や小さな勇気といった概念にも及んでいて、今回のお話はその両方を次々確認していくエピソードになります。
散々苦労した耳抜きやラッコ泳ぎ、水への恐怖の克服、広い視野の確保。
水底に辿り着いてきれいな景色を見るだけではなく、これまで必死に頑張って身につけた小さな努力が、しっかり身になって意味を成す。
くっそ面倒くさい黒髪高校生として、色んな人に助けられながら積み上げた物語、僕達が見守ってきたお話一つ一つは、けして無駄ではなかったわけです。

最終話に必要なそういうまとめ上げを、第4話丸丸使って印象づけた『マスククリアー』で感じさせる演出は、僕はすごく好きでした。
かつてはどうしても出来なくて涙混じりに諦めようとしていたことが、仲間と一緒に沢山練習して、よりスムーズにより早く出来るようになる。
プールの中で擬似的に繰り返してきた訓練が、実地で役に立つ技術として有効に機能する。
何気ない仕草の中にそういう実感がみっしりと詰まっているのは、やっぱこのアニメが一少女の成長物語として、けして派手ではないが着実な歩みを巧妙に積み重ねてきた証明だと思うからです。


もう一つ作品をまとめ上げる見事な演出だと感じたのは、ダイビング部の見知った仲間や、特別なばでぃ・ぴかりだけではなく、名前も顔も知らない他人が結構大きな仕事をしていることです。
このお話は下を向いて生きていた大木双葉が、小日向光に手を引かれて顔を上げ、世界の広さと美しさに気づいていく物語です。
そこには日常を共有し感動をともに深めていく身近で重要なキャラクターだけではなく、広い世界に必ず存在するあまり関わりのない他人を尊重する、ということも含まれています。

フィンをロストし、ともすればお話を綺麗に閉じることができなくなってしまった時、それを回収してくれたのは名前も顔も知らないお兄さんでした。
ぴかりでも火鳥先生でも二宮姉弟でもなく、匿名でエキストラな彼がてこの大事なものを拾い上げ、彼女が内面ではなく足下に広がる青い世界に目を向けるきっかけになるのは、すごくこのお話らしいと思った。
てこが顔を上げて世界と出会うというのは、ぴかりだけが居る特別な世界ではアンク、そういう人と出会ってすれ違っていくような世界、Cカードを授与された時に見ず知らずの人々が祝福してくれるような世界に目を開いていくことなわけです。

複雑な自意識とひとときの別れに閉じこもっていたてこが、ダイビングと伊豆に出会い何を得たのか。
その答えとして、美麗な海の描写、様々に表情変える美しい多様性の『絵』に説得力を込めていたのは、アニメーションとして非常に良かったです。
色んな魚や複雑な色合い、移り変わる光の表情は、てこがセリフで説明するより半歩早く視聴者に、彼女が出会ったものをしっかり教えてくれる。
そういう『絵』の強さを必要なタイミングで、疎かにせずしっかり描写できていたのは、このアニメの沢山ある強さの一つだったと思います。

これまで見せてきた様々な美点を確認していく今回、『教育』の強さがもう一度切り取られていたのは、僕にとって凄く嬉しいことでした。
高校生を主役に、学校を舞台にするこのお話は、火鳥先生という優秀な教育者をメインに据え、導き育むことの意味合いや、その尊さについて描いてきました。
てこが待ちに待った瞬間を迎えた興奮だけで終わらせるのではなく、その中でこれまでの努力を実らせ、新しい達成感に繋げるために必要なガイドを、火鳥先生が最後まで忘れないこと。
適切に課題を出し、生徒の実感を補足し、迷っていれば成長のためのヒントを出す姿が最終回でも徹底されていたのは、このアニメが子供の成長だけではなく、それを促してくれる大人のありがたさも疎かにしなかった、良い証明だったと思います。

今回の話は主人公格であるてこの視点を徹底して維持し、没入感と満足感の高い、ブレのないエピソードとして仕上がっています。
しかし火鳥先生や二宮姉妹、様々なエキストラの姿を忘れず入れ込むことで、彼女が出会った世界の広さ、これまでのお話が捉えてきたレンジの広大さを巧く盛り込んで、広さと深さを両立させる最終話になっていました。
こういう二枚抜きが成功しているのを見ると、第6話でてこの一人称的作劇を一旦やめ、サブキャラクター主役の物語を積み上げて他者の内面に切り込んでいったのは、非常に巧妙だったんだなと思いますね。

あそこでくっそ面倒い主役から一旦離れて、色んな価値観と主観のフィルターで物語を洗ったことで、色んな人がいろんなことを考えて、様々に化学反応していく世界の豊かさが確保できた気がする。
それは今回のように、ディープに個人の内面に切り込んでいく物語でこそしっかり効いてきて、独りよがりではなく開放性と可塑性を兼ね備えた、風通しの良い世界をしっかり証明してくれるわけです。
よく構成された対比物はお互いを引き立てるわけで、一少女の青春の悩みをしっかり掘り下げたければ、彼女を取り囲む世界や人物もまた、ちゃんと描かいたほうが有効ってことなんでしょうね。

そういう意味では、『携帯電話』というフェティッシュの扱いもシリーズ通して優秀だったなぁ……。
今回は過去の友人に現在の充実を伝えるコミュニケーションの装置として機能していた『携帯電話』は、時に過去にとらわれるてこの自意識を象徴し、あるいは捨てられない思い出を閉じ込める檻として機能し、もしくは死にかけの子猫を助ける知恵の泉でもあった。
一つのアイテムに複数の機能を持たせて、主人公を取り巻く世界、世界の中にいる少女の変化を判りやすく圧縮する演出として、このアニメの『携帯電話』は凄く巧く使われてました。
ロハスな雰囲気の話だからってテクノロジーの象徴を否定せず、色んな側面を描く視点そのものが、作品のテーマ、主人公が獲得するべき視座に直結してるのも、凄く良かったですね。


そんな風に色んな物を描きつつ、主人公にとっていちばん大切なバディ・ぴかりに強く注力し、彼女たちが出会い、支え合い、積み上げたものをぎっしり確認してくれたのも、お話の終わりとして素晴らしかった。
世界の広さや様々な人々の支えも大事ですが、やはり大木双葉はとにかく小日向光と出会ったことで顔を上げ、世界を変え自分を新たにする事が出来たのだから、ちゃんと尺を作ってぴかりに報いるようお話を作るのは、誠実だし大事だし必要だとも感じます。
ようやく辿り着いたオープンウォーターで、これまで憧れ繰り返し練習してきた『バディ』という関係が実践され、求めていたものにたどり着いた実感があるのも、凄く良かった。

このお話はくっそ面倒くさい黒髪ロングスレンダー自意識ネトネト女が、金髪ちびっこ人格強者元気っ子グラマー娘に手を引っ張られ、新しい世界に手を引かれていく構図が基本です。
てこは常にぴかりの後ろにいて、ぴかりの天性の明るさと元気はてこの後ろ暗い性格に優越している。
しかしその構図は二人の人間関係そのものではなく、てこがぴかりに引かれるように、ぴかりもまたてこに惹きつけられ、運命の出会いを果たした少女どうし、対等な引力でお互いを必要としているわけです。
金色の波打ち際でお互いの気持を言葉にして、好きという気持ちを確認するラストシーンは、一見一方通行な思いが実は素敵な両思いで、だからこそ二人は『バディ』なのだと確認できて、非常に良かった。

もともと人生の価値とか新しい発見とかの恥ずかしい事柄から逃げないアニメなんですが、お話のツメとなる今回、てこが手に入れた一番大事な気持ちを真っ正面から取り上げ、じっくり時間を使って『バディ』がどんな道を歩いて、今どこにいて、これからどこに行けるのかを描ききったのも、最終回として素晴らしかった。
やっぱこの二人の気持ちがこのお話最強の軸で、てこがぴかりと出会って手に入れたモノの総覧であるお話を確認し達成感を出すためには、二人で過去を振り返るシーンを入れるのがベストだもんなぁ。
それで終わらず、これからこの『バディ』は無限の未来に進んでいけるのだと、今回たどり着いたような『いい最終回』になんでも出会えるのだと確信できる、未来に向かって拓けたシーンだったのが、お話全体を象徴していて凄く良かった。


幅の広さと軸の太さ、緊密な関係の強さと広大な世界。
お話が描いてきたものをしっかり分析し信頼し、24分のエピソードにしっかり盛り込んでまとめ上げた、素晴らしい最終回だったと思います。
この爽やかな寂寥感で終わることが出来るのも、最後に確認したものをすべて実際に描き、血肉の宿った物語として語りきったからこそ。
靭やかで爽やかな、青春のお話だったと思います。

あまんちゅ!アニメ、いいアニメでした。
原作のテイストを的確にアニメに落とし込みつつ、12話の物語として必要な軸、そこから広がる成長の余地をしっかり構成しきったこと。
『絵』と『音楽』というアニメの強さを妥協せず、作品世界の空気の揺れを伝え、シンプルで強靭なテーマを実感させるための道具として使いこなしたこと。
一少女が自意識と向かい合うディープな青春物語と、そこから拓けていく世界の豊かさを両立させていたこと。
女体描写がパワフルなエロティシズムに満ちていたこと。
大好きなポイントがたっくさんあって、技巧的でありながら心から好きになれるアニメでした。

てこが海とぴかりに出会い、ぴかりと一緒に海に潜るまでの話としてまとまっていたのも、見事な再構築でした。
この構成があればこそ、てこが毎回何を積み上げて、何を発見して、同成長したか非常に確認しやすかったってのは、確実にある。
いいアニメだったなぁ……本当にいいアニメだった。
お疲れ様でした、ありがとうございました。