イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

羣青

中村珍小学館。DVを受けていた女が、自分に惚れているレズビアンの女を唆し、夫を殺すところからはじまる漫画。こうして書きだすと、サスペンスや事件性が話の真ん中にあるような印象を受けるが、そうではない。この漫画の真中にあるのは、「己の在り処」を巡る、長くて苦しい旅路だ。DVやレズビアニズムといったセンセーショナルなパーツもまた、そこが主軸ではない。同時に、ただ扇情のために埋め込まれているわけではない。それは、孤立のための舞台装置なのだ。
殺した女はハーフのレズビアンで、ヘテロに恋をし、恋をし続け、ついにその女のために殺人まで犯す。金に恵まれ、親に恵まれ、パートナーもおり、帰る場所を持っている。殺させた女はヘテロの元陸上選手で、父に犯され、夫に暴力を受け続け、己がレズビアンではなく、なれないことも知りつつ、女を殺傷に唆す。スパイクを新しくする金もなく、見つけた夫は超暴力者で、帰る家も家族もない。
最初、この物語は逃亡の物語としてはじまる。夫を殺してしまった場面は、カットバックはするものの、物語の中で明確な時間を有しては語られない。それは既に終わってしまったことであり、取り返しのつかないことである。レズビアンの女は、女が自分を利用していることも、物語の開始時点で既に知っている。通常のサスペンスならば、この2つをめぐって十分話しは展開するだろう。だが、この漫画においてはそれはあくまで前景である。
同時に、それは殺された夫の持っていた傷、歪み、己の在り処の不在はけして語られない、ということでもある。女たちのそれは、過剰なまでの接触と離散の中で幾重にも積み重ねられていくが、その初動点となった殺人の被害者(同時に、それを決意させたDVの加害者)である夫については、この漫画は殆ど語らない。彼が金持ちで、ヘテロで、市に隣接すらする暴力の主だったことが、夫の全てだ。
それでもなお、彼の死がこの物語の初動点たりえているのは、漫画としての分厚い表現力を有した絵で、女の体に刻まれている痣のちからが大きい。服を脱げば全身くまなく覆う、女の傷。逆に言えば、服を着ているのならけして見えない痣。その生々しさは、不在のはずの夫が、彼女たちの物語をキックスタートする暴君として立ち上がるのに、十分な説得力を持っている。それは、漫画だからこそ出来る表現の力だ。
女たちは傷つけあいながら逃げる。お互いの身勝手なエゴと、殺人の重みと、社会の圧力を身にまといながら、様々な人とすれ違っていく。彼女たち(女たちが出会うものもまた、女であるのはこの漫画の特徴といえるだろう)もまた、己の中に熱と痛みを持って生きており、一部の者は死んでいく。そんなふうに生きたり死んだりする女を見ながら、殺した女と殺させた女は己を鑑み、相手を鑑み、世界を鑑みる。思いと苦しみは進めば進むほど縺れ、不幸は連鎖し、女二人を待っているのは死か牢獄かのどん詰まりのままだ。
そんな風に、ロードムービーよろしく女たちの人生と感情のうねりを書いていくのかと思っていると、彼女らの逃亡は途端に止む。レズビアンの女が頼った家族と、旅館に宿泊することになるのだ。流れていた逃走の経路がせき止められ、己の在り処が掘り下げられていく。女たちはより傷つき、癒し、かと思ったらまた傷つけあう。痂を剥がしてはナイフを差し込むような、殺した女と殺させた女の関係が続く。
ようやく顔を見せた男である、レズビアンの弟も傷ついていく。彼はとても正しく、とても真っ直ぐで、殺人もレズビアニズムもDVも理解の埒外にある、ひどく暴力的な意味合いで普通の人である。彼の言葉は女たちの問題の上を滑って、何も捉えられない。結果彼は苛立ち、女二人に暴力を振るう。その後、彼が己の暴力に対するエクスキューズを連ねるシーンは、この漫画全体に漂う男の無力というか、不信感みたいなものが、良く表に出たシーンだと思う。
弟の隣には妻がいる。多数の子供を産み、今も孕んでいる女である。彼女はこの作品中最もバランスが取れ、誠実で、徳の高い人物である。実際の行動で言えば、彼女は殺さないし、殺させないし、嘘をつかないし、正義を偽って他人を傷つけない。己が人生をかけるべき領分を見極め、守るべき部分を見定め、行うべき行動を迷わず実行し、一見攻撃的ながらも、壊れる寸前にまで追い詰められた女二人の本当の部分、「己の在り処」を探査する上で一番重要な言葉を紡いでいく。ぶっちゃけた話、この話での「正解」は、この人が全て出す。それくらい、強靭な人格を付与されたキャラクターである。彼女の弟もまた、彼女の持っている健全性を写しこまれてか、この漫画の中で唯一、ひどく強靭な「正解」を呟ける男性である。
旅館という場所で移動が停止し、レズビアンの女の「家族」という、人を殺してもなお逃げられない特別な関係性が提示され、弟の妻というブレない存在が現れる。わだかまりは徐々に解け、と思えばまた生まれ、それでも女たちの心は道を見つけていく。確実に、旅館にて移動が停止した瞬間から、この話はひとつの結論にむけて動き始める。
結論に向かうこと。DVもレズビアニズムも、その運動を行うための距離を取るために必要だったのであり、同時に、一つの結論へと向かっていく過程で費やされた描写の量も質も、圧倒的に膨大であり真摯であることから、ともすれば扇情的にしかならないパーツに対しても、この漫画は四ツに取り組んでしまっている。本筋ではないが、十分に消化され、物語の中にその設定がある意味がある。
この話が、どこにも向かわない破滅的な堂々巡りの話であっても、一つの真実のようなものにたどり着くだけの熱量があると僕は思う。倫理的な是非というか、ネクロフィリックで悲観的な、「どうせどこにもいけない」という思いから書かれたとしても、この漫画に費やされた紙とインクと汗と情熱の総量は、なにか本当のことにたどり着いてしまうだけのパワーを有しているだろう。
しかしながら、この漫画がそういう場所を一段回超えているとすれば、それは「在処はある」という確信が物語のうねりの中に強く埋め込まれていることだろうし、その確信こそが、扱いの難しいパーツを思い切りよく放り込んでなお、それに振り回されない強さの根源だ。そこにたどり着くためには、殺人という強烈なキックスタートから始まり、巡礼の中でこれ以上ないほどに傷つき、人間が生活をおくる上で剥き出しにしなくてもいいもの、してはいけないかもしれないものを曝け出し、上手く分かり合えたとぬか喜びしてはまた傷つけ合う、そんな遍歴が必要だったのだろう。それが、この漫画1440ページに描かれていることである。必読。