イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甲鉄城のカバネリ:第9話『滅びの牙』感想

世界の厳しさを拒絶する分厚い壁は、人類の英知かはたまた脆弱なる揺りかごか。
人格のないゾンビサバイバルから、人間対人間のカルマのぶつけあいへと方向性を変えつつあるカバネリ9話、今週は十二歳女子を思う存分使い倒そう! の巻。
そのドス黒い性根を全開にした美馬様が、強者生存のクソ論理を世界に強要し始めるエピソードでした。

美馬が登場するまでのカバネリは、カバネに支配された世界の厳しさを上手く強調し続け、そこで生きるためには一人で生き延びるために他者を犠牲にする『獣の論理』ではなく、他者と支え合いより良い社会を構成していく『人間の論理』が必要だということを、巧く視聴者に実感させられていたと思います。
カバネ世界のスタンダードそのままに『獣の論理』で動いていた甲鉄城も、アウトサイダーにして主人公である生駒と、彼が信じる『人間の論理』を戦いの中で受け入れ、一丸となって厳しい世界で生き延びようとする。
カバネによる試練が厳しく真剣味があればこそ、それを乗り越える『人間の論理』は説得力を持って受け入れられたし、生駒が体現するそのロジックで行き方を変えていく無名ちゃんたちヒロインの生き方にも、清々しい満足を感じられました。

んで、ゾンビもののお約束を踏まえて人間が敵に回るこの状況、美馬は『獣の論理』を街の中に持ち込み、これまで是とされていた(そしてこれからも是とされるだろう)『人間の論理』に真っ向から立ち向かう存在です。
世界がカバネで満ちている以上、美馬が叩きつけるまでもなく世界は強者生存の厳しさで満ちているのであり、金剛郭を守る城壁も人言が人間らしく生きるための、甲鉄城とは別の形での発露といえます。
それをぶっ壊して死と破壊を撒き散らす美馬の『開放』『革命』は、どれだけ美辞麗句を並べ立てようが彼のエゴイズムを無関係な人々に叩き付け、余計な悲劇を量産するだけの身勝手な行動に見える。

どうやら10年前にてひどい裏切りをくらい、憎悪と怨念を貯めこんできた美馬にとっては、金剛郭の城壁は『城の外の厳しい現実で生きる被差別者』と『城の中であぐらをかいている差別者』を切り分けるボーダーラインであり、打破するべき象徴なんでしょうが、これまで描かれた甲鉄城の戦いは、安全圏などどこにもない厳しいサバイバルでした。
指揮役である菖蒲様も弓を取り血を流し、サムライも平民も肩を並べて戦う状況は無論、差別と悪しき同調圧を乗り越えて獲得されたものではあるんですが、しかしそれは実現可能なものである。
どんなに厳しい世界でも、『獣の論理』に堕ちることなく、『人間の論理』を信じたままより善い人生を実現可能な希望というものが、これまでのおはなしの中には詰まっているわけです。
美馬の行動に一抹でも説得力を出したいのであれば、荒野で極限的な戦いを強いられる被差別者と、城の中でのうのうと暮らしている搾取階級のギャップを描写しておくべきだと思うわけですが、この話はずーっと荒野の厳しい状況で差別を乗り越え、無理解の境目に橋をかけて一つにまとまる共同体を追いかけてきました。
そういうものを見せられてきた以上、美馬の行動には一理たりとも納得できる部分がないし、倒幕という政治活動も私怨から出た未来を考えないアナキズムとしてしか受け取れない。


そんな感じで美馬は『エゴイズムに腰まで浸った、分かりやすい悪役』になってしまったわけですが、そんな美馬の道具として良いように騙され、使い潰された無名ちゃんの姿はただただ哀れでした。
『牙』として『獣の理論』以外を与えられなかった彼女が、しかし実は生駒や甲鉄城の人々に影響され、別の生き方を探しつつあるということは、『みんなが幸せになるんでしょう?』という問いかけからも感じられる。
というか、『牙』として生きる中でも無名ちゃんは『みんなの幸せ』を求めていて、そんなもの求めちゃいない美馬は常に嘘をつき続けた、ということなんでしょうが。

無名ちゃんが門を開けた結果、カバネが街に雪崩れ込み沢山の人が死に、甲鉄城も制圧されてしまったというのは事実でしょう。
しかし良いように利用されてしまった無名ちゃんよりも、12歳の無知な少女の周囲を、自分に都合の良い嘘でうめつくし、家族を失った喪失感すら己への愛着として利用した美馬こそが、状況の責任を引き受けるべきというのは、火を見るよりも明らかです。
『ここまで決定的な犠牲が出るまで、自分の生き方に疑問を抱けないほど、無名ちゃんは生駒から『人間の論理』を学んではいなかったんだっけ?』とは、思わなくもないですけどね。


今回は全体的に展開のための展開が目立ち、美馬の暴虐の前に甲鉄城の面々が立ちすくむシーンが多かったです。
これまでハードな世界に対しても諦めず、自分たちなりに出来ることをやりつくし、その全力の生き様、手抜きのなさが魅力だと感じていた視聴者としては、正直キャラクターが急にバカになってしまったように感じなくもないです。
これまで作品の緊張感を維持してきた良い意味での必死さが、まるで穴の空いた風船から逃げる空気のように抜けてしまって、物語がふわふわと漂い始めたような寄る辺なさを、どうにも覚えてしまった。
無人格でとにかく生存淘汰圧をかけ続けてくるカバネ相手のサバイバルよりも、会話可能で行き方をどうにも変えられるはずの人間相手の戦いのほうが、爽快感が減じられるというのはなかなか、不思議なものですね。

これは美馬の生き方があまりにも分かりやすく、一部の救いようもなく『間違っている』ことに一因がある気がします。
『獣の理論』を背負う美馬は『人間の論理』を背負う生駒の裏返しであり、美馬を乗り越えることで生駒の生き方は強く肯定される構図だというのは、かなり納得がいきます。
無人格で純粋に人間性を試して来るカバネとの戦いは、第7話で無名という弱者を救い上げたことで一つの勝利に終わり、今度は同じ人間でありながら『獣の理論』を選び取った美馬との戦いが待っている……という構成なのだと思います。
しかし美馬が体現しているのは世界の厳しさでも、壁の中の矛盾を指摘する鋭さでもなく、私怨を叩き付けて不要な虐殺を呼び込み、嘘で己を覆い隠す醜さなわけです。

無論美馬の言行不一致は、ただ真っ直ぐに生きてその熱を他者に伝播させ社会を変革してきた生駒と、対比して描かれているものだというのはわかります。
しかしだからこそ、美馬が『打倒しなければいけない敵対者』でありつつ、同時に『認めなければいけない人間』でもあるという深みは、現状あまりにも感じられない。
今の美馬の描写は全ての意味でこれまでの生駒と甲鉄城の逆しまを走り過ぎていて、『クソみたいな理論でクソみたいな行動して、クソみたいに味方を犠牲にしてクソみたいに無名ちゃんに嘘をついて、クソみたいに君臨するクソ権力者』という、戯画化されすぎた存在になってしまっているように思います。
そんな奴、ひっくり返してぶっ殺す以外、道ないじゃないですか。

そういう絶対悪に踏みにじられ、ストレスを溜め込んだあとぶっ飛ばしてカタルシスを開放するという物語も、またあるでしょう。
しかしこれまでの物語の中で、世界が厳しいものである以上『獣の理論』にも一部の理はあるし、生駒の中にさえその影は伸びているのだと説得的に描けていればこそ、僕はこの話に一種の陰影を感じたし、それを頑張って乗り越えるヒューマニズムにも共感した。
美馬の単純化された姿と、ややダンドリ感が強いその勝利は、そういう影と光を自分から薄めてしまう結果になってはしないかと、少し感じます。


作中でもメタ的にも、電撃的に展開した美馬の行動に、甲鉄城はなすすべもなく立ちすくみ踏みにじられました。
この抑圧は当然跳ね返されるためのプレッシャーなわけですが、クソみたいな状況に『それでも』を吠える生駒の姿を、これまでのサバイバルのように必死に、油断のない全力のものとして描けるのか。
その吠え声を受けて無明の闇を抜け、己の生き様を見直す無名の姿を、無心で応援できるか。
それは全て、来週以降の話運びにかかってくるでしょう。

『ゾンビよりもなによりも、人間の悪意と狂気が一番恐ろしい』なんていう、手垢のついたキャッチフレーズは僕は見たくはありません。
見たいと願い、これまで見れてきたように感じてきたのは、ハードコアな選択を迫る世界の中で、それでも人間的に生きようとする存在の輝きであり、それを深める世界の厳しい試練そのものです。
カバネリという作品がどこに向かうのか、舵取りの正念場が、今まさに迫っています。