イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ラブライブ! サンシャイン!!:第5話『ヨハネ、堕天』感想

仲間を集めて青春を倒すアニメ、今週は形成されていく自意識と夢見がちな幼児性が混ざり合って生まれた堕天使のお話し。
前回加入した花丸とルビィの紹介をやりつつ、抑えても飛び出す中二病という個性をどう扱うのか、千歌が堕天使ヨハネの心に踏み込んでいく話でした。
最初はトンチキ生物ヨハネを遠巻きに楽しんでいた千歌が、花丸やダイヤの言葉を受けて『津島善子』というナイーブな女の子を受け止めようとする動きが、優しくて好きですね。


アニメにおける中二病患者にも色々いますが、ヨハネのように『中二病やめたい、でもやめられない』というスタンスは、結構珍しい気がします。
善子は『中二病は恥ずかしい行動で、社会的に受けいられないから治そう』と認識していますが、この認識自体は正しい。
痛い自己紹介にしてもやり過ぎな占いにしても、『堕天使ヨハネ』の暴走は『まとも』なクラスメートにとってはドン引きの対象で、『津島善子』の不登校を心配し優しく声をかけてくれる子たちでも、それを価値として認められるものではありません。
『社会が認めてくれる自分』と『自分が好きな自分』の間にギャップがあって、それをどうにかしないといけないと悩む善子は、結構成熟した自我を持っているといえます。

善子はそこで開き直って『私は中二病なんだ、一人でも良いんだ!』という方向に行けないナイーブさも持っていて、社会に認められたいという当然の欲求を満たすべく、『中二病は治さなけれならない』という認識を持っている。
みんなにドン引きされる『堕天使ヨハネ』をしまい込んでしまえば、リア充として孤独から開放されると思い込んではいるものの、『堕天使ヨハネ』は隠そうとして隠せるものではない。
それは善子が『社会に認められたい』という願いと同時に、それと相反する『特別でいたい、普通でいたくない』という自意識を持っているからです。
幼稚園の頃から演じ続けていた天使は、普通でつまらない自分を特別に変えてくれる魔法で、『堕天使ヨハネ』を治さなきゃと思いつつ好きだからこそ、善子は傷つきつつヨハネをやめられない。

『特別でいたい』というヨハネの願いは、花丸と問答をしているシーンでもよく見えてきます。
『自己紹介に失敗したから、世界中が私をあざ笑ってる! 世界の終わり、ラグナロクよ!』と、肥大した自我を見せつける善子に対し、花丸は『みんな気にしていないよ』という。
特別な主役でありたい善子と、語り部として自分の物語を無視していた花丸の対比として面白い会話ですが、現実は花丸の客観的な認識を追認するものです。
『特別な存在』堕天使ヨハネのことを世界は気にかけているはずなのに、クラスメートは『普通の女の子』津島善子のことを優しく気にかけはすれ、猛烈な感情を働かせはしない。
それは『私は特別じゃないかもしれない』という善子の不安が現実になっているからであり、だからこそ津島善子は、特別になるための武器として『堕天使ヨハネ』を必要としてきたのです。

自分が特別ではないという痛みに耐えるための生存道具としてだけではなく、善子は『堕天使ヨハネ』が単純に好きだからこそ、それを止めることが出来ません。
善子は幼稚園時代からの筋金入りの中二病であり、『止めなきゃ』と思いつつ『堕天使ヨハネ』を続けてきたのは、それが好きで好きでしょうがないからでしょう。
しかし『自分の大好きな自分』は世界からは笑われ、ドン引きされ、あざ笑われる対象でしかないし、自分の考えた特別さを世界に認めさせられるほど、善子は特別な女の子でもありません。

『堕天使ヨハネ』を出してしまえばクラスメートはドン引きするし、尖った個性を抱えて孤独になるのも嫌だし、個性を封じて『普通の女の子』でい続けるのも耐えられなし、中二病自体は好きだから本当は止めたくない。
今回展開されたドタバタしたコメディには、凄く思春期らしいジレンマが多数横たわっていて、ひとしきり笑った後に『うん……まぁ善子もツレぇわな……』と真顔になってしまうシリアスさが、ひっそりと感じられます。
遠くから見ていれば喜劇でしかないのだけれども、善子にとって数々のジレンマは切実なもので、一人では解決しきれないからこそ二ヶ月も引きこもり、花丸にストッパーを頼み、『堕天使ヨハネを封印して、まともになるの。好きなものを捨てて社会に受け入れられる、普通の生き方をするの』という決断もしてしまう。
自意識に振り回されるキャラクターの不様さをコメディとして扱いつつも、同時に道化の真剣さと真正面から向かい合う姿勢があるのは、凄く誠実で大事なことだと僕は思います。


思春期こじらせた善子は単独だとマンションに引きこもって出てこないので、問題解決のためには他人の力が必要になります。
『幼稚園時代の幼馴染』という細い糸を辿って花丸と関係を作り、千歌と引きあわせて『ゴスロリアイドル』として仲間に引き込み、ダイヤさんにお叱りを受けて『津島善子』と自分たちの共通点を考えなおし、Aqoursという社会的存在に正式に向かい入れる。
今回の話しは善子がAqoursという居場所を手に入れることで、己の中の矛盾に居場所を見つける物語であり、Aqoursメンバー(特に千歌)が善子と正しく向かい合うまでの物語でもあります。

孤独が嫌いな善子は、中二病という『好み』と『個性』を押さえつけ、『津島善子』というパーソナリティだけで『普通の高校生』として過ごそうとします。
しかし学校での占いを見れば判るように、善子は大好きな『堕天使ヨハネ』を切り捨てられないし、このままでは社会も『堕天使ヨハネ≒特別な津島善子』を受け止めきれない。
ここで必要なのは、善子をひとりぼっちにしたら選んでしまう『引きこもり』もしくは『堕天使ヨハネの抹殺』という結論ではなく、『津島善子』でも『堕天使ヨハネ』でもある『特別で普通な一人の女の子』をそのまま発露させ、社会に受け入れさせる媒介です。
この話はスクールアイドルの話なので、こんがらがった矛盾を切り裂く正解は常に『スクールアイドル』となり、善子はAqoursの一員として『特別で普通な一人の女の子』を目指すことになる。

ゴスロリPVで一気にランクが上がったことからも判るように、群雄割拠のスクールアイドル界において『堕天使ヨハネ』は武器になります。
Aqoursという集団の中において『堕天使ヨハネ』を演じ続けることは、クラスの中ではドン引きされていた行為を社会的な営為に変え、弱みを強さに、孤立を承認に変える手段になりうる。
そこでは幾度も善子が選ぼうとした、ヨハネを抹殺して『まとも』に生き続ける選択肢を取る必要はなく、『中二病が大好きな気持ち』を表現する行為が人の感動を呼ぶ(かもしれない)ステージングに繋がっています。
Aqoursという社会集団に所属することで、善子は自分の個性と歪さをそのまま社会に表現し、受け入れさせる手段を手に入れるわけです。


『特別で普通な女の子』として自分を表現したいという欲求は、何も善子の専売特許ではなく、Aqours全員(が代表する全人類)が共通して持つ願いです。
姉を気遣いながらAqoursに加入したルビィのように、語り部の立場から己の物語の主人公へと踏み出した花丸のように、己が無価値であると思い知らされた過去を乗り越えた梨子のように、μ'sの輝きだけを頼りに進み続ける千歌のように。
中二病を演じることで『特別』になろうとした善子の姿を他人と思えないからこそ、千歌と梨子はバス停でいかにAqoursが『特別で普通な女の子』が、それぞれの『特別』をさらけ出す場所なのかを確認するし、善子が去った後花丸が語る『堕天使ヨハネ』の誕生に全員が耳を傾ける。

善子が学校に来なかった理由、『堕天使ヨハネ』を捨てきれない理由に自分を見たからこそ、彼女たちはヨハネと同じゴスロリをまとって、もう一度善子を勧誘します。
あの服は一回目は『アイドルランキングを上げるための、派手なキャラ付け』でしかないんだけど、二回目はAqoursがある意味善子に腹を見せる降伏姿勢であり、『わたし達もあなたと一緒だよ』というサインなのでしょう。
二回描かれる『同じ服を着る』という『堕天使ヨハネ』への歩み寄りの意味が、一回目と二回目で全く異なっているのは、個人的には人間の浅はかさと優しさを1エピソードの中でしっかり感じられて、とても好きな部分です。

今回千歌は第2話と全く同じ動きを取っていて、梨子を『作曲が出来る人』としか見ない利己的で愚かな目線を『堕天使ヨハネ』に向けた後、ダイヤと花丸の言葉をきっかけにして『津島善子』個人の痛みと願いに目を向けて、自分から手を伸ばす決断に至っています。
後にAqoursとなる女の子全ての第一印象を、『可愛い』という外面でしか捉えていないところから見ても、千歌は皮相的なものの見方しか出来ない、つくづく『凡人』な子だと思います。
しかし愚かさから出発し、他人の痛みを己のものと感じなおしてもう一度手を伸ばす尊い運動もけして忘れはしないこと、わざわざ手を伸ばそうと思い直す優しさと初期衝動を秘めていることが、凡愚たる彼女を主人公たらしめる最大の理由なのだと思います。

そうして差し伸べられた手を戸惑いながら取ることで、善子は『公的なるもの』へのアプローチだけではなく『私的なるもの』へのアプローチも手に入れているのは、なかなかに面白いところです。
『本当の自分』を見せても遠巻きにドン引きされるだけだった過去と比べ、Aqoursの五人は善子と同じ衣装を着て、善子が並べ立てる面倒で厄介な事柄も受け入れてくれる姿勢を見せる。
『嫌だったら、嫌だって言』える対等な関係がそこには成り立っていて、それは多分同士とか友達とかいえる、とても個人的で大事な間柄だと思います。
ただ『正しい』だけの関係性では『堕天使ヨハネ』は居場所を見つけられないわけで、それを受けれられる情と特別さを千歌たちが善子に差し出し、善子もそれを受け取ったのは、僕には凄く意味の有ることだと思えました。

孤独で抑圧と解放のバランスを見つけられなかった善子は、Aqoursに関わりその中に入ることで、社会に『特別な自分』を問う出口を見つけ、『特別な自分でありたい』という願いを同じくする友を見つけることが出来ました。
社会と個人、抑圧と解放、『なりたい自分』と『あるべき自分』、他者とわたし。
様々な対立と矛盾に悩み、こじらせ、閉じこもったり無理に抑えこんだりしようとしたら、偶然で運命な出会いが他者へと導いて、ぶつかったり笑い合ったりしながら、適切な居場所を見つけていく、ありふれた青春の物語。
今回津島善子が悩み、色んな所を暴走しながら手に入れたのはそんな物語であり、そしてそれはこれまでAqoursに加入した女の子たち全てが体験し、おそらくこれから三年生たちが演じる物語なのだと思います。

『堕天使ヨハネ』を受け入れた善子と友人たちが、どういう成果を手に入れるかという物語は、今後Aqoursがスクールアイドル界で結果を出す中で、しっかり見ることが出来るでしょう。
そういう意味では今回善子がたどり着いたのは、『津島善子』という人格をより良い形で表現していく道のりのスタートラインでしかなく、それがどのような完成を見るかは、他の女の子と同じようにこの先に待つ物語次第だともいえますね。
ドン引きされていた『堕天使ヨハネ』がAqoursのステージに立つことで、社会がそれをどう受け入れどう評価し、『公的なるもの』の評価を『津島善子』がどう受け止めて変化していくのか。
メインエピソードが終わった後もしっかり追跡してくれると、彼女のファンである僕としては嬉しいですね。


善子と堕天使ヨハネをめぐる自意識の追いかけっこはこのように、Aqoursに加入することですべての答えを手に入れるわけですが、Aqoursメンバーのいろんな姿も同時に捉えられていました。
善子をAqoursに引き寄せるアンカーの仕事をしていた花丸のコメディエンヌとしての顔が目立っていましたが、案外図太い神経で『ルビィちゃんかわいい』の賞賛を受け止めてる黒澤とか、なんだかんだ的確な助言をくれる生徒会長とか、見ていて楽しかったです。
マルの『文学少女で機械オンチ』という属性は、ずれた感性でコメディやらせてもいいし、言語化能力の高さを活かしてトス上げにまわしてもいいし、美味しい属性だなぁ。

個人的には千歌と梨子の関係性の変化が見て取れたのも、今回のエピソードの嬉しいところでした。
名前も顔も見知らぬところから始まった二人が、悪口混じりの冗談を言い合い、笑いあった後ふと真剣な顔を見せたりするような、暖かくて特別な間柄になっていく様子が、サンシャインでは巧く切り取られていると思います。
バス停でキャイキャイしてる時の気楽な感じとか、いつもおバカな千歌が口にした本音を茶化さず受け止めている梨子の表情とか、マジありがてぇとしか言いようがねぇマジ。
そこにあるかけがえ無さだけではなく、例えば千歌の自己評価の低さとか、バスで沼津方面に帰って行ってしまう曜ちゃんの孤立とか、光の中の影にも抜け目なくカメラを向けているのも、横幅広い描写で好きです。

あとダイヤお姉ちゃんのスクールアイドルに関しては絶対に間違えない信頼感な。
あそこで善子を『票を引っ張れる面白キャラ』として扱い続けていたら、『津島善子』の自己実現はありえなかったわけで、きっちり一喝入れて千歌に再考を促したのは本当に有りがたかった。
他人にはそういう言葉を言えても、三年組と自分自身がどうすれば『特別で普通な女の子』に戻れるのか、自分では答えが見つからないジレンマも、実は善子と同じなのだな。
今回善子が己の居所を見つけたように、早くお互い歩み寄って素直な自分をステージに叩きつけて欲しいもんだ……三年の拗らせオーラ尋常じゃねぇから、あんがい素直で大人な善子より時間かかるとは思うけどね。


というわけで、旧作第一期第五話を視野に入れつつも、『アイドルに一家言ある先輩が追いかけてくる』お話から『逃げていく後輩をアイドルが追いかけていく』お話へと、主客を入れ替えた構成となりました。
話数も折り返しが見えてくるということで、μ'sの偉大なる影を追いかけていた物語も、Aqours独自のテイストを強く見せてきたように感じます。
……まぁ単純に、俺がAqoursの子たち好きになってきてるってのも当然あるけどね、この感じには。

神話をなぞるサンシャイン形式を踏まえれば、次回は『センターは誰だ?』を踏まえた物語になるはず。
PV撮影とセンター論争のドタバタの中に、ラブライブなりのアイドル論と『高坂穂乃果が主役である理由』をたっぷり練り込んだ傑作を、どうなぞりどう変えてくるのか。
旧作はあそこでお話の全体像が掴めた感じもあるので、仲間を増やす流れから一旦外れるだろう次回をどう使ってくるのか、非常に楽しみです。

 

 

・番外編
今回の話、制作会社も原作も全く違えど、同じ脚本・シリーズ構成の"中二病でも恋がしたい!"シリーズの発展形として、僕には思えた。
"中二病"においても思春期の奇矯な振る舞いや、社会に受け入れられないが止めることも出来ない『特別なわたし』へのもがきは、愛情と客観性を持った目線から捉えられていた。
父親を略奪された哀しみを生存するために中二病を選んだ六花は、部室という閉じた社会で承認されることと、失われた父の代わりに絶対的な保護者になることを己に任じた勇太の英雄的行為により、中二病のままあり続けることを許される。
それは手ひどく優しい結論ではあるが、同時にあまりにも閉じて先行きのない、永遠の幼年期を是認する結論でもあった。

そこに切り取られた六花の痛みと、それを一度は重たすぎると拒絶し、しかし愛ゆえにすべてを背負ってやろうと決意した勇太の尊さが僕はとびきり好きなのだけれども、あの作品が下した後ろ向きの決断を全面的に肯定できるほど、僕は感傷的でも感情的でもない。
そういう認識を抱いて、"中二病"を複雑な表情で睨み続けていた僕にとって、六花と勇太の娘のように『中二病』を憎みつつ愛している善子が、Aqoursという社会集団に受け入れられ/Aqoursという社会集団を受け入れ、アイドルという形で己を表現するステージに立つ未来を掴んだのは、より発展的な結論に思えた。

Aqoursの『堕天使ヨハネ』は、動画サイトやステージを通して常に見られ、試される私的でありながら社会的でもある存在だ。
EDの言葉を借りれば"悩みながら 笑われながら"ステージに立ち続けることで、『津島善子』は"泣いちゃうかも"しれないけど"めげない 負けない"自分を、『堕天使ヨハネ』をもっと肯定できるようになると思う。
それはAqoursが"何か探して 外へ行く"集団だから可能な、中二病を肯定だけして足を止めてしまうよりもより前向きで、より力強い結末(であり端緒)なのだと思う。
"中二病"が掴みきれなかった"夢を語る歌""新しい場所へ進む詩"を善子が体現できるかどうか。
あの物語の厄介なファンである僕は、そこにもまた注目していたりする。