イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

リトルウィッチアカデミア:第13話『サムハインの魔法』感想

落ちこぼれ魔女の学園奮闘記、今週は魔法祭編後編ッ!
つーわけで、前回ダメなところを全開にしていた劣等生のアッコが、イイところで周囲をぶん回し一つの奇跡を成し遂げる回でした。
先週周囲を引っ掻き回した幼さは、今週はロッテとスーシィの初期衝動を思い出させ、入れ替わりでダイアナの苦労を知った前回を引き継いで、今週はダイアナがアッコを真正面から見つめる展開。
前後編をきっちり分けた理由が強くある、クール折り返しに相応しいお話だったと思います。


というわけで、アウトサイダーが新たな奇跡をもたらす今回のお話。
先週は暴走し周囲と自分を傷つけるだけだったアッコの幼さですが、今回は乗り気ではない友人たちを協力させ、悲しみに取り憑かれた亡霊を成仏させる奇跡を引っ張ってきます。
ルームメイトたちは最初、『魔法はドッキドキのワックワクなんだから、泣いてばかりいるバハロワを笑わせようよ! クソみたいな伝統ぶっ壊そうよ!!』と吠えるパンクスに、『ついていけないよ』と拒絶の意思を見せます。
彼女たちは年相応に世界を知っていて、知り合いでもない怪物の涙のために、必死に努力する意味を見いだせない。
ミドルティーンの彼女たちは、『子供』でありながら『大人』でもある、難しい年齢なわけです。

しかしアッコが必死に努力する姿、そこに込められている無垢なる願いに照射されるうちに、『子供』だった/である自分自身を思い出す。
その時写っているナイトフォールや故郷の仮面のように、二人にも魔法を志した個別の風景があって、それはアッコのシャリオへの傾倒とは違うものだけど、根本にある想いは同じものです。
『ついていけないよ』と拒絶したアッコと同じように、自分たちも未だ『子供』であり、親友のガムシャラな生き方は自分にも影を伸ばしていると気づいたからこそ、二人は泣いているアッコに手を差し伸べ、三人は『トリック・オア・トリート計画』をブラッシュアップしていきます。

先週一人で暴走しているアッコをちゃんと描写しておいたからこそ、親友二人のサポートがどれだけ必要なのかも判るし、一回離反させることで『子供』では居続けられない(でもその心に『子供』を守っている)大半の視聴者と同じ立場を、巧く作中に盛り込むことも出来ます。
みんなアッコのようには出来ないからこそ、彼女が世界を変える中心、主人公である意味があるし、お話を見続ける意欲も湧いてきます。
しかしアッコが何でも自力で解決できてしまえば、他のキャラクターも物語世界も必要なく、交流によって生まれるドラマの渦も弱々しいものになってしまいます。

お話の大きな渦を引き起こす主人公に唯一生を与えつつ、その周囲にいるキャラクターの物語を尊重し、個別の輝きを引き出すこと。
それを主人公の輝きと混ぜ合わせ、より強い光を生み出すこと。
今回のお話は主役と脇役、それぞれが組み合わさって生まれるケミストリーがとても強くて、彼女たちみんなが好きな僕としては、大満足の仕上がりでした。
同じ裏方の仕事ながら、掃除役を自分たちらしく、手際よく片付けていたアマンダチームの姿が見れたのも、響き合うものを感じました。

アッコの道化師としての資質を見切って『あたしらサポートに徹するってことで』と主役を立てたスーシィ。
『空気』扱いに悩みつつ、親友をバカにされてその『空気』を震わせ怒ったロッテ。
それぞれがそれぞれらしい立ち回りで見せ場を獲得していて、とても良かったですね。
スーシィはクールでやる気が薄いキャラなので、ロッテみたいに熱く吠えはしないわけですが、第8話で鮮烈に心に切り込んだのがよく聞いていて、『やれやれアッコはショーがねぇーなー』みたいな顔で巻き込まれても、その内側には篤い友情があると感じ取れます。
今週どれだけのスーシィが処刑されたかは想像するしかありませんが、体温低い『らしい』対応をしつつも、そこに真心が隠されてんだなと視聴者が思えるあたり、やっぱ第8話は圧倒的な仕事をしていますね。

アッコのために手助けをしつつ、『バーベラとハンナに煽られて苛ついた』シーンを描写することで、二人がただのお人好しになってないのは、とても好きです。
彼女たちはアッコを『ついていけないよ』と拒絶し、自尊心が傷つけられたから見返したいと思う自分の意志を、ちゃんと持っています。
濃いキャラクター性と自由な意思を持っている人間が、自発的に手助けしてくれるからこそ、主人公にとって都合のいい世界ではなく、主人公の頑張りが世界を変えていく物語の醍醐味を、強く感じられるわけで。
あそこでロッテのメガネを曇らせ、スーシィに首ポキポキさせたのは、ほんといい演出だと思いました。


アッコの幼さに初期衝動を思い出し、より善い方向に踏み出せているのはルームメイトだけではありません。
『魔女界の伝統』という言葉に隠され、秘められたストーリーに踏み込まれなかったバハロアもまた、アッコが彼女を気にかけ、(文字通り)内側に踏み込むことで、より善い形に変化していました。
怪物の外見を恐れず、『泣いている』という感情の表明をまず気にかけて、必死にあがいて『友達』になっていく姿は、第7話で魚達を救った時を思い出させます。

アッコはバカなので、バハロアが具体的にどんな事情を抱え込み、なぜ悲しみに取り憑かれたかを調べることはしません。
そういう部分は、これまで通りアーシュラ先生が補う形になっています。
しかしアッコが『亡霊に生け贄を食わせる』という形式に拘らず、『泣いている』という真実に目を向けなければ、アーシュラ先生が真実を調べてくれることはありませんでした。
ルームメイトの手助けと同じように、劣等生のアッコは他者の助けなしでは何かを成し遂げることは出来ないのだけれども、同時にアウトサイダーたるアッコが動き出さなければ、話は動き出さない。
こういう基本形がこのアニメでは、とても大事にされている感じです。

バカさと同じように、他人の事情を鑑みずズカズカと踏み込んで、自分がいいと信じるものをまっすぐ叩きつけてしまう気質も、これまで描写されたとおりです。
バハロワが悲しみの種を切除されることに抵抗したのは、悲しい思い出でも忘れたくなかったからでしょう。
自分の心を守るように背中をかがめるバハロワの体内では、涙は思い出と、哀しみは喜びと癒着し、切り離せないものです。
そういう矛盾した感情の融合は、幼いアッコが忖度するには難しすぎる感情であり、ただただ真っ直ぐ『友達はそんなこと望んでないよ! 一緒に笑おう!!』と、自分のスタイルを押し付けてくる。

その暴走はアッコの個性であり、成功することもあれば失敗することもあります。
今回で言えば、確かに『泣いているなんて良くない!』というアッコの直感は真実を捉えていて、悲しみの種を引き抜き、感情の癒着を切開することで、バハロアは怪物の姿から解放され、幼く美しかった人間性を快復します。
『亡霊ってそういうものだから』『何度もやってきたことだから』で無抵抗に食われていては、泣いている少女を笑わせ、亡霊を人間に戻す奇跡は発生し得なかった。
それはアッコが無垢でバカで無遠慮な『子供』であり、極東からやってきた魔法界のアウトサイダーだからこそ引き寄せた、一つの奇跡なのです。

外見なんて気にせず、初めて出会う相手に『友だちになろう!』と言えてしまう、アッコの素直な強さ。
それに惹きつけられたからこそ、ルームメイトたちはアッコの親友やってるし、スーシィにとってあの出会いは『永遠のベストフィルム』だし、バハロワもまた、同い年の少女としてアッコの友達になれたんだと思います。
ここらへんは第9話で校長のお父さんの事情に踏み込み、見事に成仏させた姿と重なり合う部分で、校長が『魔法界の伝統』をぶっ壊しにかかっているアッコを止めにかからなかったのは、その時の恩義に感じ入ったからかもしれません。
モチーフとシチュエーションを幾重にも重ねつつ、主役の強いところを確認できるのは非常に楽しいことですし、それが生み出した結果が次の物語の原因となり、螺旋状に物語が上昇していく構造には、根本的なパワーがありますね。


そんなアッコの鏡として配置されているダイアナは、試合に勝って勝負に負けた苦味を噛み締め、ようやくアッコの顔を正面から見ました。
ルームメイトではないダイアナは、アッコとは教室や講堂といった『公』の空間でしか接触せず、『私』の領域に踏み込まず、踏み込ませずで対処してきました。
人格者である彼女はハンナやバーベラのようにアッコをバカにはしませんが、スーシィやロッテのように彼女の個性に踏み込み、良さも悪さも飲み込んで付き合うような距離感でもない。
なので、客観的な状況から『都合が悪くなると逃げるわけね』と判断するわけです。
まぁ先週入れ替わって、さんざん劣等生のグズマヌケっぷりを見た直後なら、そう判断するのも打倒ではあるよね。

しかしダイアナは、『規格外品』として失格になってしまったアッコのステージを見て、強い敗北感を覚える。
その源泉は、自分がやろうとしてできないこと、『笑顔を与える魔法』への憧れを、天性のコメディエンヌであるアッコが達成してしまったことにあると思います。
ポラリスの泉がアッコに見せた、心の底からのエンターテインメントとしての魔法、ステージアクターとしてのシャリオ。
アッコはそのフォロワーとして様々な動物に化けるわけですが、花火が飛んだり木が生えたりのエンターテインメント性は、ダイアナも舞台表現に取り入れているものです。

他の学生が『魔法界の伝統』をなぞるだけの、アリバイのような出し物を続ける中、ダイアナは開会式でも魔女たちのアクロバットを見せ、自分のステージにも幻想的な演出を取り込んでいます。
これは第1話のシャリオのステージにダイアナもいて、アッコと同じ衝動(『ドッキドキのワックワク』な魔法へ憧れ)を共有しているからこそ、生まれるものだと思います。
魔法界の名門、インサイダーとしての自分を維持しつつ(それが悪いことではないのは、第5話で古代ドラゴン語が果たした役割を鑑みれば一目瞭然です)、より現代に適応し、みんなを喜ばせる魔法を使いたい。
ダイアナの秘めたる願いは誰にも気づかれないまま、美しい一角獣を召喚させ、観客をお行儀良く喜ばせます。

しかしアッコの体当たりの演目は、アッコが劣等生で無様だからこそ、そして無垢で亡霊の悲しみを癒やすものだからこそ、ダイアナよりも大いに受ける。
サーカスでいうクラウンのような『失敗している人間を下に見る』笑いと、伝統をぶち壊し奇跡を起こすスペクタクルが同居したアッコのステージは、『魔法界の伝統』の枠に収まらない『規格外品』だからこそ、観客の素直な反応を引き出します。
それが真実エンタテインメイントであると気づき、感じ行っているのが唯一ダイアナだけであり、『魔法界の伝統』の文脈で与えられた栄誉を素直に受け止められないのも、同じ夢を共有しているからこそ、アッコの凄さがわかったからではないか。
僕はそんな気がしています。
『優等生』だからこそ、笑いと喜びの局面ではアッコに勝てないっていう構図、残忍だなぁ。

アッコはバカで必死でかわいい劣等生だから、色んな人が彼女を助けてくれます。
アッコを助け、アッコに助けられる善因善果の物語が、このお話のメインエンジンなのは間違いない。
しかしダイアナは伝統を背負う優等生であり、他人の助けを借りるのではなく、他人を助ける立場に常にいるということは、先週描写されたばかりです。
では、ダイアナにはアッコのような『真実の魔法』も、顔をクシャクシャにして泣きたくなるような感情のうねりもないのかと言えば、絶対にそんなことはないでしょう。
優等生だからこそ見過ごされがちな、ダイアナの弱さと脆さに誰かが気づき、誰かが支えてあげたほうがいいかなぁと、誇り高い彼女が大好きなオッサンとしては思いますが……今回ダイアナがアッコの顔を見たように、アッコもまた、『いけ好かない優等生』の素顔を見つめてあげる瞬間が、来るといいんですがね。


そんな感じで、様々な人の心が交錯する舞台で奇跡が起こる話でした。
相変わらず遊び心に満ちた引用の多いアニメで、アッコが変身する動物が軒並みレジェンド動物アニメ(ネズミ="ガンバの冒険"、ゾウ="ダンボ"、ニワトリ="グーグーガンモ"、カバ="カバトット")を視野に入れてたりとか、面白かったですね。
アッコが『修復』と『変身』をまず習得したのは、『絵が動く。変化する』というアニメーションの楽しみを、一番分かりやすく描ける魔法だったからなんだろうなぁ。
そういう遊びを入れつつ、アッコが成し遂げたステージがあくまでシャリオの不格好なポーザーでしかないこと、それでも友達の心を救う奇跡は起きたことに感じ入る骨格の太さがあって、いい折り返しとなりました。

何にも知らない、何にもできない東洋の小娘は、色々な出会いと挫折、決意と修練を経て、ここまでやってきました。
相変わらず箒で空は飛べないけれども、象に化ければ空を飛べるようになったし、支えてくれる仲間もいます。
第2クールは『七つの封印』を巡る話も大きく動き出しそうだし、ルーナノヴァの立場、魔法界の趨勢も描かれることでしょう。
そういう大きなうねりに期待を高めつつ、やはり少女とかつて少女だったものたちの胸の高鳴り、『本当の魔法』が繊細に、大胆に描かれる筆さばきを、非常に楽しみにしています。
やっぱ良いアニメだなぁ、このアニメ。