イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ユーリ!! on ICE:第9話『勇利vsユーリ!おそロシア!!ロシア大会 フリースケーティング』感想

競技という山を登りきった後まで視野に入れる変則系スポーツアニメ、GPファイナル進出者が決まる第9話。
全体的に駆け足気味というか、これまでこのアニメが振り回した『ドラマの密度』という強みが少し薄れ、あくまで本命はGPファイナルという姿勢が見えるタメ回でした。
物語を牽引してきたヴィクトルと離れたからこそ、別の角度から切り込んでいくかと思っていたのですが、どうにも後半歩踏み込みが足らない感じがして、少し残念。
とは言え、アガペの真の意味を捉えつつあるユーリの優しさとか、ヴィクトルのいない世界でトップを担当するJJの自身に満ちた強さとか、引退を視野に入れた勇利の陰りとか、良い描写も沢山。
物語の最後、バルセロナでどんな爆発が起こるのか期待したくなるエピソードとなりました。

というわけで、何しろ人数が多いこのアニメ、競技で色々圧迫される中サラッと流されるキャラも出てきます。
GPロシア参加者で言えば、ネコラとスンギルは競技の描写も薄く、勇利との掛け合いも少なくて、キャラクターの地金が見えきる前に舞台から降りてしまったかな、という印象。
GP決勝でしのぎを削るキャラクター(ユーリ、JJ)の描写を積み上げることを優先して、意識してざっくり切ったのかなという感じもありますが、中国GPではサブキャラクターも少しの出番で濃厚に描けていたので、比べてしまうと残念かな、という感じです。

メインとサブのちょうど中間にいたのがクリスピーノ兄貴で、勇利と同じく『一緒にいすぎることが害悪にもなる』関係を妹と作りつつ、それをあまり共有しないまま、自分の中で納得し表現に乗せてきた滑走となりました。
滑走シーンにガッツリ時間を取られるので、あまり小器用にドラマを回す余裕が無いんでしょうが、それでも愛するものと距離を置く姿は勇利に似ていたので、そこから何かを感じるシーンが有ったほうが、各要素が有機的につながっている印象が強くなったと思います。
ロシアGPで自分の物語をコンパクトに終えるのは良いんだけど、それが今後も続く勇利の物語と巧く重ね合わせられていなくて、奥行きが見えない感じに仕上がっているのは残念かな。
お兄ちゃんの気持ち悪くも切ない所とか、ショックを受けつつテーマのある演技を仕上げてくる所とか、それでも気持ちをまとめきれない勇利にシステムの妙味で負ける所とか、色々好きなんだけどね。

残念といえば、勇利がヴィクトルと離れたことが特に発展の足場にはならず、ヤコフがメンターとして引っ張るわけでもなく、いわゆる『下げの展開』で終わってしまったのも、少し残念です。
このアニメは賑やかなサービスを沢山詰め込みつつ、テーマ性を骨太に入れ込み物語の骨格を強く展開するパワーがあると思っているので、ヴィクトルと『別離』したことがマイナスのみで語られ気味な今回は、踏み込みの不足を正直感じてしまった。
今回は最終決戦に向けてのタメというか、『二人でなければ頂点を目指せない』というルールを確認して、万全で望む最終戦に課題を残す感じであえて展開したというのは判るつもりなんですけどね。


しかしヴィクトルとの(『まるで告白みたいな』)濃厚な関係を、引退の可能性、永訣の未来に絡めつつ陰影豊かに描いてきたのは、情念があってとても良かったです。
勇利がスケート始めたての小学生ではなく、キャリアピークを迎えつつあるトップアスリートだということは、このアニメが始まったときからずっと続くオリジナリティであり、いわゆる『青春スポ根』の文法からこのアニメを遠ざける、大事な足場です。
ロシアという故地の風に一人で吹かれることで、ヴィクトルを独占する意味を身をもって痛感し、GP決勝とともに手を離す決心を密かに固める展開は、スケートの『神』に憧れ全てを捧げてきた男の人生が終わる切なさを巧く封じ込めて、味わいがありました。

愛すればこそその人がどれだけ愛されているか判るし、愛すればこそ永遠ではなく有限の繋がりを己に定める。
一人で心細い状況だからこそ、勇利が己の愛の矛盾に向かい合い、一つの決意を固めることが出来たというのは、たしかにあると思います。
それは孤独ゆえに彫り込めたドラマであり、『別離』を乗り越える派手目のドラマではないけれども、自分を見つめ直し真実に近づいていく、静謐な心の動きです。

その静けさを前景に於けばこそ、『別離』を克服しきれずギリギリの勝利しか手に入れなかった事実を、ヴィクトルと勇利が共有する空港のシーンは、どうにも切ない。
一見愛する二人が再び一つになった感動のシーンなんだけれども、勇利は引退と離別の決意をヴィクトルには告げないし、勇利を抱きしめるヴィクトルもまた、薄々感づいてはいるんだろうけども、目の前の勝利を掴み取るべく、遠い別れには言及しない。
言葉にするもの、二人で共有するものと、秘めて隠すもの、隠されてすれ違うものが同居する、なかなか奥行きのあるシーンでした。

孤独ゆえの内省というのは、先に待つGPファイナルについて勇利がどう感じているのか、勇利にとって『勝利』と『敗北』がどういう意味を持っているかを照らす意味でも、今回しか出来ない展開でした。
気弱な面が強調される勇利は案外獰猛で、トップアスリートに相応しい荒々しさを持っているってのはこれまでも描写されてきたわけですが、それを裏打ちするように、今回彼は誇りを持って『負けてもいいと思った試合は、一度もない』と宣言する。
それは日本NO1スケーターまで上り詰めた男のプライドであり、いつか胸を張って僕らに叫んでほしかった、プロ競技者・勝生勇利の本性なわけです。
ヴィクトルの不在により調子を崩し、GP進出が危うい状況が迫ったからこそ、彼はこれまでの戦いを自分がどう捉えているか真っ直ぐ見つめ直し、魂と肉体を削りながら戦うことの意味を己の中で再形成していく。
この話が男たちの感情のぶつかり合いと、美しく肉感的な官能の衝突だけではなく、己のすべてを競技に捧げた求道者たちの高貴さも描く以上、『勝つ』『負ける』ということに真摯な主人公の姿を確認できたのは、大きな収穫だったと思います。

決勝で勇利が金メダルを掴むことが出来るのか、計画しているとおり満足とともに競技人生を終えるかは、まだまだ判りません。
『引退』『ヴィクトルとの離別』を『勝負の行方』とは別軸のサスペンスとして配置することで、物語の緊張感を巧く持続させる劇作は巧妙だなぁと感じますが、その巧さに唸るよりも、俺の勝生勇利がどのようにスケート人生を滑りきり、スケート靴をリンクに奥にしてもまだ滑るにしても、悔いのない挑戦を達成できるかが、まず気になる。
悔いの残る結果となったロシアGP、乗り越えられなかったものは沢山あります。
語りきれなかったものも、沢山あるでしょう。
意図してか、意図せずか開いた『空白』を是非活用し、GP決勝ではヴィクトルと交わる勝木勇利の人生を完全燃焼させ、素晴らしい物語を紡いでほしいと願っています。


一方、もう一人のユーリは管理いい塩梅で自分の物語を積み上げ、それを主人公に分け与える優しさすら見せてくれました。
日本とロシアの食材が混ざり合う『カツ丼ピロシキ』が象徴するように、気づけばお互いを強くリスペクトしあい、競い合い、支え合うような関係になった二人のユーリ。
競技面でも、これまでのスタミナの無さを意識して乗り越え、後半にジャンプを寄せてくる挑戦的な内容を完遂して、一つ先のユーリ・プリセツスキーを見せてくれました。

ヴィクトル不在のロシアGPで、かつて負けた勇利の上を行く今回、ユーリのFSが"愛について"ではなく、リリアと共に切磋琢磨し仕上げた"ピアノ協奏曲 ロ短調 アレグロ・アパッショナート"なのは、なかなか象徴的です。
かつてはヴィクトルの背中を追いかけ日本まで来たユーリですが、温泉onICEに敗北し、新しい出会い、新しい可能性を磨き上げることで、このフリーを完成させました。
ヴィクトルとの絆である"愛について"も勿論、ユーリを構成する大事な要素なわけですが、ヴィクトル一人に拘泥し、ヴィクトルのコピーになることがユーリの幸福では、けしてない。
リリアとともに『プリマドンナとしての輝き』を磨き上げ、滑走の中に封じ込めたこの曲で勇利に勝ったことは、ユーリがヴィクトルから『別離』して手に入れたものが無意味ではないと、強く示したように感じます。

物語の中心としてヴィクトルの引力を配置し、例えばJJもそれに引き寄せられて滑っている様子を描写するのは、お話に統一性を持たせる大事な描写だと思います。
ヴィクトルが圧倒的な『美』であり続けるからこそ、このお話のキャラクターは統一した方向に走る速度を手に入れられているし、一つの堅牢な価値観軸が打ち立てられもする。
しかしそれだけが世界唯一の価値であると認めてしまえば、多様性は消失し、他者を認めるために必要な敬意は、目に見えなくなってしまう。
男と男が惹かれあう唯一無二の関係を非常に的確に描けていればこそ、この話はそれを絶対視し閉鎖していってしまう危険性と常に隣り合わせなわけですが、今回ユーリが見せた勝利は、成長や可能性に大きく開かれた世界を、閉じて濃厚で強靭な世界と並列して称揚することに、みごと成功しています。
ヴィクトルも素晴らしい存在だが、それ以外のすべての人もまた作品世界の中で生きていて、尊敬に値するのだと確認する意味で、『プリマドンナ』というリリアの個性がユーリに継承され、反骨精神と才能で開花した女性的な滑走は、凄く良いものだと感じました。

他者性への視線、『アガペ』への眼差しは競技が終わった後も続いていて、敗北に茫然自失とするライバルをユーリは襲撃し、おじいさんから預かった『カツ丼ピロシキ』を分け与えます。
それはただ、暖かい飯を持ってきてくれたという具体的事象ではなく、かつて『お前に食わせるピロシキはねぇ!』と尖っていた少年がどれだけの優しさを手に入れたかという証明であり、ユーリもまたヴィクトルと同じように、勇利を愛してくれているのだと示すアイコンなわけです。
ユーリにとっての『アガペ』がおじいさんとの思い出に集約されることは、第3話で明瞭に示されたわけですが、今回彼はそれに気づくだけではなく、それを勇利に分け与え、飢えを満たし、ともに喜びます。
ヴィクトルがユーリに与えた『アガペ』への問いかけはスケートリンクを飛び出し、ロシアの寒い路上で涙する戦友が、明日に向かうための力にまで拡大しているわけです。

勇利がヴィクトルと離れることで、逆に濃厚な二人の『エロス』を確認したように、ヴィクトル以外との関係性の中でユーリが何を育み、どう成長しているかがよく見えるロシアGPだったと思います。
今回ユーリが分け与えた『アガペ』が勇利にどんな影響を与え、ユーリの滑走に何をもたらすかも、無事突破なったGP決勝で描かれることでしょう。
15歳の不器用で優しい青年が、初めて挑む世界レベルの闘争の中で何を手に入れてくれるか、彼が好きなオッサンとしては凄く楽しみなのです。


というわけで、ロシアGP単体で物語の要素を完結させるというよりは、GP決勝に向けて要素を溜め込み、乗り越えるべき障害を強調する展開となりました。
ベネはたわんでこそ高く飛び跳ねるわけで、ココで悔いを残すのは悪くない選択だと思います。
勇利が凹んだ分、ユーリの成長と変化は非常に前向きにまとまっていたし、それでも追いつけないJJの強キャラオーラも、説得力を乗せて描けていたと思います。

一年前の敗北、ヴィクトルとの出会い、己と向かい合う鍛錬、敗北の悔しさ、勝利の喜び。
物語の全てを積み上げて到達したGPは、準備含めて三話で展開される感じです。
これまで一切描写のないカザフスタンの英雄、オタベックくんはどういう人物なのか。
綺羅星のようなライバルたちは、バルセロナにどのような人生を刻んでくるのか。
スケート人生の終わりを見つめる主人公は、滑走の果てにどんな決断をするのか。
いろんな期待がドンドン膨らんできて、凄く楽しみですね。

ブレイブウィッチーズ:第8話『君の瞳にぶどうジュース』感想ツイートまとめ

フリップフラッパーズ:第8話『ピュアブレーカー』感想

3つの心がひとつになれば、一つの正義は百万パワー!
暴れまわる幻想の場外乱闘、今週は水着回でロボアニメだよー。
『鉄と女体』というリビドーあふれるモチーフを、良い作画と様々なパロディで高速撹拌して思いっきり叩きつけてくる、パワー溢れるお話でした。
やりたいだけやっているように見えて、力を行使することで否応なく訪れる『変質』の新しい可能性をココナに認めさせたり、ツンツン少女ヤヤカを主人公サイドに引き寄せたり、凄まじく不穏なヒキでパピカとの間に亀裂を作ったり、ドラマの核はしっかり確保しているのがフリフライズムですね。

というわけで、"フラッシュマン"と"トップをねらえ!"と"新世紀エヴァンゲリオン"と新旧スク水
が、狭い空間でごたまぜになって襲い掛かってくる今回。
『1/2サイズで世界を構築すれば、自動的に身体のあちこちをカメラに押し付けざるを得なくなる』という発想は悪魔のそれだと思いますが、女体とロボットと爆発作画とイカすアクションを一旦横にどけて、どういうお話だったか考え直してみると、いつものように骨の太いジュブナイルが姿を表してきます。
ピュアイリュージョンに干渉することで、現実を『変質』させてしまう事実に思い悩むココナから始まって、おっちゃんと出会い、街を守りたい気持ちに触発され、『変質』を恐れない勇気で巨大な敵に打ち勝つというのが、今回の大筋です。
出会いと冒険から始まり、発見と懊悩、障害を乗り越えての決断と、非常にシンプルでスタンダードな成長物語が展開されていることが分かります。

しかしその道筋は見た目ほど一筋縄ではなく、幾重にもスクリューがかかっています。
注目したいのは、鮮烈なヴィジュアルの都市防衛戦……ではなく、それを挟み込むように配置されているプールの風景です。
冒頭、前回からの悩みを引きずって落ち込んでいるココナは影の中にいて、パピカがいる光とは明確に一線が引かれています。
これまでと同じように、闇の中で悩んでいるココナの手をパピカが取り、プール≒『穴』に飛び込むことで『幻想』での冒険が始まるわけですが、そこから出てきた後、シャワールームでもココナは日陰に、パピカは日向に配置され続けています。
光と影は能天気(に見える)なパピカと、陰鬱(に見える)なココナのキャラ性を映して交わることなく、自己と他者の境界線を引き続けます。

ロボットアニメ特有のアツさでココナの悩みを吹き飛ばし、二人の気持ちが混じり合う展開を後押ししているようにみえる中盤でも、赤と青は紫色に混じり合うことなく、ロボットのカラーリングは二色で塗り分けられています。
一つの火が重なり合って炎になる、そんなオールドスクールな熱血ドラマを演じつつも、パピカとココナの間には当然差異があり、一緒になれたはずの気持ちや『自分らしさ』は混じり合わないままです。
このような認識があればこそ、パピカがココナの名前を『ミミ』と間違える展開があり、『変質』への恐怖を乗り越えたココナに新しい青春の壁がそそり立つラストが、非常に鮮烈に映えるわけです。


今回パピカは一点の曇りもなく、底抜けに明るい光の中に立ち続けます。
ココナが身を置く闇の中に入ってくるのはヤヤカであって、パピカはあくまで無邪気で無垢、暴力的なイノセンスを維持したまま、自分の領域にココナを引っ張っていく。
それはこれまでと同じ前向きな物語であり、肯定されるべき明るさに満ちた行動に見えます。

しかし、ココナが生来抱えてきた闇は、無理解に白く塗りつぶされるべき悪癖なのでしょうか。
先輩が絵を描かなくなったことに思い悩み、だからこそおっちゃんが守りたいものの価値に気づけたのは、ココナが内向的で後ろ向きで、闇色をした感情と親和性が高いからでしょう。
無論、パピカの明るさはココナを何度も救ってきたし、心躍る『冒険』は彼女の光がなければ生まれてこない可能性なのですが、ココナがパピカから強く影響されているのに対し、パピカは物語が始まった時から変わらず、強すぎる光を背負ったままにも見えます。
その無邪気な暴力性が、予期されていた不意打ちとして視聴者の心を突き刺してくるのが、今回ラストの『ミミ』であるとも言えますね。

パピカが背負った光の暴力性が顔を出してきたのは、ヤヤカが本格的に主役サイドに足場を置き換え、ココナを背負うキャラとして頑張れる状況になってきたからでしょう。
『勘違いすんなよ!』を連呼しつつも、どんどん幼馴染の窮地を見過ごせない人の良さを表に出し、ついには心を一つにしなければ真価を発揮できない巨大ロボットに乗り込むところまで、一気に地滑りしていました。
パピカの『パ』、ココナの『コ』、ヤヤカの『ヤ』で『パコヤ』ってアンタ、完落ちやないかい……。
ココナが『変質』に怯える気持ちを受け止め成長させるだけではなく、ヤヤカに本心を真っ直ぐ表現させ、アスピオクレスから距離を置く展開をクリアに見せたあたり、おっちゃんはメンターとして非常に優秀なキャラといえますね。

今回の話はココナにしてもヤヤカにしても、『怯えや照れで隠してしまっている本心を、アツく言葉にして宣言する』展開なわけで、熱血ロボットアニメのパスティーシュとして展開していたのも、元ネタのアツさを借りて心のマグマを噴出させる作劇技法だと言えます。
いやまぁ、スク水の尻存分に描いて、画面に立方体を飛び散らせ、グレートタイタンの合体シーンパロりたかっただけかもしれんけどさ!
ともかく松岡くん演じるおっちゃん博士のアツさに引っ張られるように、少女たちは偽り……とは言わないけども、真実でもない自分自身と向かい合い、乗り越え、ほんとにやりたいことに真っ直ぐ向かい合う。
そういう流れと離れた所で、ただ『二人で心を合わせて、何かをする』という快楽に素直に前進し続けるパピカは、どんな色にも染まらない強い白というか、ヤヤカがチョロすぎというか、なかなか難しい。


フリフラはエロスと衒学趣味のごった煮を乱雑に出しているように見えて、ココナの成長物語としては非常に計算高く展開しています。
自己を肯定しきれない、誰もが経験する青春の憂鬱から始まり、パピカとの出会いに戸惑いつつ心を弾ませ、冒険の果てに強いつながりを手に入れて『幻想』を肯定しする。
他者が押し付けた『アモルファスの回収』という目標よりも、先輩の記憶に潜るという自発的な目的を優先し、その結果生まれた『変質』に戸惑う。
成長が生み出したパワーの行使と、それによって変化する世界を肯定し一歩踏み出したかと思えば、同じ気持ちでいたはずの親友との間にあるギャップ、他者と自分を切り分ける境界線を叩きつけられる。
出会いと衝撃、変化と戸惑い、肯定と冒険が途切れることなく物語で渦を巻き、ココナの世界は小さく、しかし着実に広がりながら、様々なものを飲み込んでいるわけです。

今回のお話は、『3つの心が一つになれば』世界の問題全てが解決できるような、古き良きロボアニメのイデアをキャラクターが踏襲することで、バラバラの心と体が一体化する快楽を肯定する……と見せかけて、実は赤と青、光と影は混じり合わないフリップフラッパーズの法則を再確認するお話でした。
分かり合えたと思ったからこそ、すれ違いの衝撃は大きく、ココナは分かっていたはずのパピカについて、何も知らない自分に気づきます。
これは視聴者も同じことで、『ミミ』の言葉に頭を殴られた瞬間、ココナの過去も人格も実は巧妙に隠して進んできた展開に気付かされるよう、話が組み立てられています。
シンクロ率を上げるとロボットが合体する展開の中で、心と心が重なったのは実はパピカとココナではなく、主人公と視聴者だったわけです。

無論、今回重なり合ったものが全て無駄だったわけでも、これまで描写されたキレイなもの、暖かい感情が消えてなくなるわけではありません。
己の無知を知ったことで初めて、見落としていた真実に踏み込もうという気持ちも湧いてくるわけだし、どれだけ気持ちを寄せたとしても、完全に混じり合うことが出来ない世界のルールを知ることで、より適切な関係を構築できるかもしれない。
白と黒、赤と青に切り分けられた世界は残酷ではありますが、同時に『私』と『あなた』の境界線がハッキリしていればこそ、素敵な『あなた』の表情をはっきりと見極められる、自立し冷静な世界でもあるわけです。

そしてもう一つ言えるのは、『幻想』と『現実』の境界が曖昧なこの世界のルールは、物語の進行とともに変化している、ということです。
今は混じり合わない光と影も、その境界線を認識し、戦略的に(もしくは無意識的に)侵犯していくことで、より甘やかに溶け合っていくかもしれない。
ココナの中で最初は拒絶していたパピカが大きな存在となり、自分の延長線上にいると無防備に感じられたように、パピカの完全な白さの中にココナの陰りと思慮深さが宿るかもしれない。
常に矛盾した物語を紡いでいるこのアニメにおいて、一つの結論は自動的に相反する始点に繋がっているものであり、変化と成長の物語はそうそう簡単に足を止めはしないわけです。

パピカと自分が違う人間なんだという、ひどく当たり前で、だからこそ残忍で、とんでもなく大切な事実に行き当たったココナが、ここからどういう物語を歩くのか。
今回ようやくツン期を脱し、幼馴染大好き人間(あと冷たくされても仲間大好き人間)としての顔を前面に出してきたヤヤカが、欠けたココナの半身を補ってくれると思います。
今回おーちゃんの熱血に当てられ『変質』の恐怖を乗り越えたように、迷い路の果てにココナはまた新しい何かを見つけ、取り入れ、少しだけ己を前に進めていくと、僕は思います。
そんな彼女の明日が、僕はひどく楽しみで仕方がないのです。


・追記
とまぁ結論らしきものにたどり着いた所で、あくまで遊戯的で本筋に関係ないのでやんなかった話をします。
今回のピュアイリュージョン、誰の『幻影』だったのかという考察です。
フリフラは『推測はできても明言はしない』というルールで進んでいるので、この疑問にも明瞭な答えは出ないわけですが、まぁ気になるものは気になるわけで、ざっくり考えてみましょう。

今回のピュアイリュージョンはドスケベロボ・ぶーちゃんがパピココのケツに押しつぶされるシーンから繋がり、終わったあとは戦闘の負荷を示すかのようにブーちゃんがボロカスになっています。
パコヤノヴァで削り取られた都市の前景が『脳みそ』だったことも、過去のエピソードでぶーちゃんの『中身』がグロい人脳だったことと合わせて考えると、ブーちゃんが今回のPIに関わっているのは間違いない気がします。(修理シーンで巧妙に煙を発生させ、『中身』を見せないところが巧い)
ブーちゃんスケベだから、スク水の女体(一名男体)と棒状のアイテムが画面を乱舞するリビドー満点な画作りも、結構納得行くし。

同時に、あの世界の主はおっちゃんであり、『私が一つ一つ作り上げた』という言動、乱雑なように見えて機能的な都市の姿は、ブーちゃんをリペアするヒダカに重なるものがあります。
サユリと押し合いへし合いしつつ、PIの解消と同時にその対立も解決したようにみえる展開は、何らかの意図が合ってされていると考えたい所。
おっちゃんがヒダカその人なのか、ブーちゃんの中の『自分を作り上げ、守ってくれる人』としてのヒダカのイメージ(前回の『沢山のパピカ』と同質の存在)なのか、はたまたPIの不思議な法則により混じり合った不可思議存在なのかは判別つかないけども、まぁヒダカの要素も入ってんじゃないかな、と。

気になるのは、あの惑星を怪物たちが侵略しきっていた時、一体何が起こるのかということ。
ヒダカの乱雑な研究室がサユリによって整理整頓されてしまうのか、ブーちゃんの自己認識が詰まった脳みそがスペアパーツに取り替えられ、記憶と意識と自我が入れ替わった新しいブーちゃんになるのか。
今回のPIとフリップフラップの愉快な面々がどう繋がっているか明言されない以上、それは視聴者の『幻想』に委ねられる部分なんでしょうけどね。
しかしま、言葉を持たないブーちゃんも『この私』に強い執着を抱いていて、自己を防衛したかったと考えるのが、ブーちゃん好きな僕の好みではあります。

あと『これだから旧型は』というヒダカの台詞は、裏読みすると『旧型』ではないマシーンの存在を示していて、んじゃあ最初からフリップフラップに所属してピュアイリュージョンへのダイブを任務にしていたのは誰だ、と連想がつながっていく。
今回パピカの異質性をラストで一気に引き立ててきて、今後そこに踏み込むと予告してきたわけで、その生い立ちや設定にも切り込んでいくのかなぁと思う。
設定がどう転がるにしても、二人の少女が出会ったことは素敵な奇跡だし、その事実に目を背けるようなヒネたアニメでもないと思っているので、どっしり見守りたいところだ。

 

プリパラ:第124話『ジュリィとジャニス』感想

年齢も人理も飛び越えて、目指せ銀河の一番星!
ノンシュガーの物語にも一段落付いたプリパラ、見事な手腕でクライマックスへの足場を固める第124話。
ジャニス登場となった第118話を踏まえ、神アイドルとしてのジュリィの強さ、隠しているもの、ラァラとの関係、それと対比する形でジャニスの影、ちりとの関係などを小気味よく描写していく、見事な繋ぎ回でした。
終盤戦を引っ張るキャラクターへの印象が綺麗にひっくり返る回であり、シリーズ構成直々に担当するだけの重要さを匂わせる、大事な回だったと思います。

というわけで、プリパラらしく色んなことが並列して描写された今回。
話の真ん中にいるのはジュリィとジャニスなんですが、姉妹の関係だけで終わらせず、赤ん坊でもある彼女たちの『母』たるらぁらとちり、そして有象無象の匿名アイドルたちをしっかり繋げて、二人の女神を立体的に描くお話となりました。
第118話の段階では彼女たちの『表』しか見えてこなかったため、ジュリィは身勝手な欲望により責務を放棄したマザコン女神に、ジャニスは果たすべき役割を真面目に捉えるしっかりものに、それぞれ感じられる。
しかし今回最後まで見通すことで、ジュリィのマイナス評価はプラスに、ジャニスのプラス評価に隠れていた暗部がしっかり見えて、女神たちが複雑な事情を抱えていたことが見えてきます。
これは彼女たちが引っ張るだろうラスト1クールの深さに直結するわけで、今後の展開に必要な奥行きを作るべく、手際の良さと刺さる描写、両方が最大限に動員されていました。

まずジュリィから見ていきますと、単体のアイドルとして『神』を名乗るに相応しい『強さ』が、凄く具体的に示されました。
人間トップランカーであるソラミドレッシングを上回るパフォーマンスもそうなんですが、プリパラシステムの権現である出自を活かし、あらゆるアイドルに身近に接する親しみやすさと、それでも消えないカリスマ性を両立している描写が、強者としてのジュリィに太い説得力を与えていました。
田中角栄もびっくりの人心掌握術を見せられては、みんながジュリィのことを好きになるのには納得できるし、高貴で近寄りがたい『神』が身近によってくればこそ、親愛の爆弾はよく刺さるのでしょう。

ジュリィの親密さはお為ごかしや演技ではなく、強きも弱きも、メジャーもマイナーも全部ひっくるめた『みんなアイドル』を愛している、真実の愛から生まれてくるものです。
彼女は根本的に『みんなトモダチ、みんなアイドル』というプリパラの理念の体現者であり、語りかけるような曲調とパフォーマンスが特徴の"Girl's Fantasy "もそれを裏打ちしています。
ジャニスの管理主義と対立する立場にいるジュリィの行動理念が、言葉だけではなく普段の振る舞い、アイドルとしてのパフォーマンスにしっかり現れているのは、キャラクターの行動に一貫性をもたせ、物語に説得力を与えるわけで、非常に骨太な描写だと感じました。

そういうジュリィがなぜ『神』の座から降り、己のエゴで人間の領域に降りてきたのか。
らぁらが母親として、主人公として必要な繊細さでしっかり質問した言葉を、ジュリィは『忘れちゃった』とごまかします。
らぁらだけではなく、ジャニスにも問われる『なぜ、女神・ジュリィは赤ん坊・ジュルルになったのか』という疑問点は、すなわち三期の物語が始まった始点でもあり、ここを明らかにすることが物語の始まりを開陳することにも繋がる。
逆にいえば、『なぜ、女神・ジュリィは赤ん坊・ジュルル』という疑問に答えた時物語は終わるわけで、これがクリティカルに大事な問なのだと強調するべく、母と妹、二人の家族にしっかり問わせ、はぐらかせたのでしょう。

今回ジュリィが見せた姿は『神』に必要な平等も、博愛も、実力もしっかり兼ね備えた、アイドルの一つの理想形だったと思います。
画面越しに見ても『あ、良いな』と素直に思える行動に、ジュリィの本性をしっかり語らせているからこそ、彼女が語らない行動の理由、はぐらかしや嘘の奥に何か大事なものが隠されているというメッセージも、視聴者にしっかり届く。
そこに疑問点を持ち、今後開示される物語への期待度をしっかり高めればこそ、クライマックスはクライマックスとして機能するわけです。
なので、今回『神』としての行動と、疑問をはぐらかす言葉の間にしっかり違和感をはさみこみ、ジュリィというキャラクターに陰影を付けたのは、素晴らしい展開だったと思います。


今回の話しが優れているのは、ジュリィの陰影に巻き込む形で、妹であるジャニス、母であるらぁらの陰日向をより強くしていることです。
アバンでは独立独歩の気概を見せたジュルルに喜びつつ、自分を超える『神』としての立派なステージを体験し、『もしかしたら、私はジュルルをずっと所持していたいのかもしれない』というエゴに行き当たらせる。
これまでしっかり積み上げてきた『母』らぁらと『子』ジュルルの関係が、ジュリィの出現によって加速し、人間相手なら時間をかけて受け入れるべき『子離れ』の悩みにまで、一気に小学六年生を引っ張り上げる豪腕が、ラスト1カットで吠えていました。

背丈でも身体の成熟度でも、らぁらを遥かに超えるジュリィ≒ジュルルが、いつまでも『ママ』と呼び、母に庇護される関係を維持するかのように膝を曲げ低い位置を取る。
そこからはアモラルな魅力と同時に、成熟するべきなのに成熟しない、ゆりかごの暖かさに甘えているようにみえる一種の嫌悪感が、自動的に呼び覚まされます。
しかしこのようにして、ネタの奥にらぁらとジュルルが持つ『母』と『子』の歪さを埋め込むことで、らぁらの最後の疑問は突然湧き出たものではなく、なんとなく視聴者が感じ取っていたものを言語化する、見事なロゴスとして機能する。
ここらへんの違和感を強化するべく、同じ『家族』であるのんちゃん相手には、膝を曲げず『大人』として抱き合っているシーンを事前に挟んでいる所とか、周到だなぁと思います。

『人間』を超える『神』でありながら、『母』に抱きしめられる『子』としての関係に安住しているジュリィ。
そこに感じる違和感はそのまま、ジュリィが隠しているもの、今回強調された疑問に視聴者が足場を置く、さりげない導きになっています。
『人間』の領域であるはずのアイドルに『神』が介入する疑問。
しっかり『大人』としての強さを持っているのにらぁらには『子供』として甘え続ける違和感。
これらは全て、『なぜ、女神・ジュリィは赤ん坊・ジュルルになったのか』という物語の始点へと回帰し、それが解放されるクライマックスに視聴者の目線を集中させる仕事を果たします。
こういう高度に構造的な展開を、台詞でグダグダと説明するのではなく、キャラクターの個性と感情がぶつかりあうドラマの中で自然と作れてしまう巧妙さこそが、実は『プリパラらしさ』の最大のものではないかな、と僕は思っています。

色々隠し事のあるらぁら&ジュルル親子ですが、女神が背負ったものと同じくらい、ジュルルかららぁらへの愛情が分厚く重たいものだというのも、今回強調されていました。
プリパラ世界のコントローラーであり、『神』の権限を保証するタクトを預ける相手が『母』だったという事実だけで、ジュリィがどれだけ『ママ』と過ごした日々を信じているかは、よく見えます。
あのシーンはジュリィのらぁら愛だけではなく、妹の陰謀に気づき予防措置をとるクレバーさも上手く表現していて、ひっそりと巧いシーンだなぁと思いました。

ジュリィが世界の命運全てを託すほどの信頼がどこから来たのかといえば、それは4月からずーっと積み上げてきた子育て奮闘記であり、山あり谷ありの人生を共有してきた経験です。
女神の姿になったジュリィが、ジュルルとして受けた愛情を無碍にせず、最大限の信頼で応えるような人物だとわかったことで、彼女へのポジティブな評価は更に上がります。
今回のお話はこれまでのジュリィのイメージをひっくり返し、疑問点を加速させてクライマックスに繋げる機能を持っているので、こういうひっくり返し方も非常に巧いし、暖かいですよね。
ジュリィがらぁらに世界を預ける姿だけではなく、『みんな』に適切な言葉を投げるジュリィをらぁらが『自慢の娘です~』と戯けて自慢する所とか、ここまで小学六年生の子育てを見守った側としては『ああ、そうだよな……』としみじみ頷く描写だった。


このように温かいつながりと、その先にあるもう一歩の成長を見せてきたらぁら&ジュリィに対し、ジャニスとちりも各々の繋がりを見せてきました。
ノンシュガーへの的確な指導を見るだに、ジャニスも優秀な『神』ではあるんですが、その根本には人間不信と、超越者の高慢がある。
あくまで平等な立場で、『神』に見込まれた特別な自分を信じたがっているちりにとって、『人間は信じるに足らない存在なので、神が上から導かなければいけない。その関係は平等にならない』というジャニスのスタンスは、ひどくショッキングなものでした。

しかし『裏切られた』という思いは、『信じていた』という気持ちがあって初めて生まれるものです。
家庭での抑圧を受け、プリパラでも孤立していたちりにとって、ジャニスが与えてくれる承認や自己肯定感というのは、らぁらとジュリィの間にあるものと同じように、大切で暖かいものだったはずです。
たとえジャニスが『神』の権限を略奪するための道具としてちりを見ていても、二人の間にあった繋がりは消えるものではない。
しかし、それが一方的な思いかもしれないという疑念はちりを揺るがせ、ジャニスの陰謀にヒビを入れる予感を、視聴者に与えます。
らぁらとジュリィという『母子』のつながりと同じように、ちりとジャニスの間にある関係もまた今回その奥にある不変の可能性を覗かせつつ揺らぎ、クライマックスにおいて重要な要素となるのだと、今回のお話は示唆してくるわけです。

身勝手なジュリィの行動の裏に信念と秘密があることが示されたように、今回ジャニスが主張する『神』の交代劇には人間への偏見と嫌悪が存在し、その先には高慢な支配体制が待っていることが示されました。
プリパラが『みんなトモダチ、みんなアイドル』を是として来た以上、ジャニスの管理主義はセレパラと同じように肯定し得ない、『間違った』理想でしょう。
しかし『規律が大事、『神』の責務が大事』というジャニスの主張には一分の理があり、これをひっくり返すテコになるのが、ジュリィが今回隠した秘密なのでしょう。
身勝手に見えた姉が実は『ジャニス自身に気づいてほしい』と思えるほど広大な視野を持っていて、公明正大に思えた妹が『人間は信頼できない、管理しなければいけない』という高慢なエゴイズムを隠していたという構図。
これが見えたことで、今後展開されるだろうクライマックスで、劇的な変化が起こりうる予感を強めてくれますね。

ジャニスとジュリィの対比という意味では、パクトから出れるジュルルと、パクトに閉じこもったままのジャニスの姿が、なかなかに鮮明でした。
身体を持って『外』に出るジュルルが歩く時、六人の母(もしくは父。もしくは既成の家族概念を超えた名前のない関係)が彼女を見守り、触ることも語り合うことも出来る開けた関係が構築されています。
彼女が『ジュルル/ジュリィ』という『赤ん坊/女神』二つの立場、身体、名前を持っているのに対し、『ジャニス』はパクトの中でも外でも、赤ん坊の身体でも成熟した肉体でも『ジャニス』です。
良くも悪くも、『ジャニス』とちりは常に意味のわかる言語だけで接触し、無言語的な身体接触を持たないまま、それでも深く繋がってきたわけです。

『意味の分からない言葉』に頼ることが出来ないまま、食ったり出したり戻したりという肉体と取っ組み合いで進んできたジュリィとらぁらの関係は、迷惑かけたりかけられたり、嫌いになったり好きになったり、動的で変化に満ちた関係性でした。
相手の言っていることがわからない以上、身体一つでぶつかり、時に間違えながら一歩ずつ積み上げてきた二人の関係は、夾雑物が多いゆえに、多様で複雑な間柄です。
これに対し、常にジャニスが導く側だったちりとの関係は、明瞭な言語で繋がり身体性を排除しています。
それはロジカルでスマートな関係のはずですが、『人間は信頼できない』というジャニスのエゴ、嘘一つで揺らいでしまうほど、危うく一方通行の間柄でもあります。

それを『冷たい』と切り捨ててしまえるほど、プリパラが描いてきた物語は単純でも冷酷でもないわけですが、『アイドルになりたい理由、忘れちゃった』というジュリィの嘘をらぁらは飲み込み、ちりは隠れて聞いたジャニスの嘘に深く傷つき、動揺はするわけです。
身体性と言語性、パトスとロゴス、姉と妹、相互侵犯と独立不可侵。
二つの『母子』の関係性は様々な対比を孕みつつ、無条件に安定したものでも、必ず瓦解するものでもない、揺らぎの中にあるものとして今回描かれました。
これがどのような方向に動いていくかが、今後物語が終局に近づくにつれ非常に重要になっていくというメッセージが、姉妹・親子・師弟といった様々な関係を立体的に並べた今回には、強く込められていたと思います。


この先の展開と絡めつつ話してきましたが、これまで積み上げてきたものとの対比を考えると、ジュリィが嘘をついたのは凄く意味深だなぁと思いました。
赤ん坊・ジュルルが言語を持たない存在で、そんな生き物とどうコミュにけーションしていくかに、三期のプリパラは散々悩み、本気で取り組み、大事なものを見つけてきました。
言葉を超えた身体のぶつかり合い(そこにはゲップとか、おしっことか、キレイではないものも当然含まれる)が連れてくるものを重視していたからこそ、言葉が通じない『他者』としてのジュルルの描写には、いつも揺るがない芯が入っていた。

二足歩行を始め『赤ん坊』であることを止めはじめたジュルルを背景に、ジュリィはジュルルであった頃には使えなかった『言葉』を使って母への愛情を語り、『他者』への深い配慮を見せ、真意を隠して嘘をつく。
『言語』という、これまでジュルルが扱えなかったツールが様々な仕事をする姿は、新鮮でもあり意味深でもあり、お話が新しい領域に入ってきたのだなと、深く実感させられるものでした。
ちりを含めた人間を見下すエゴイズムを隠すために、ジャニスが『言語』を使っているのに対し、ジュリィがついた『嘘』はとても大切で、大きなものを守るための『言語』だという印象を受けます。
それがジュルルの『成長』なのか、はたまたジュリィとしての『本性』なのか、その両方なのか、その区分を超越したものなのか。
それはこの先の物語を見なければ分かりませんが、なんとなく悪いものではないと確信できるよう、今回の物語は組み立てられていたと思います。

ジュリィが今回使った言語が、母たちという『身内』、自己の延長線上にいる心地よい他者だけではなく、縁もゆかりもない『他者』を幸福にするように使用されていたのは、とても面白いと思います。
無力な赤ん坊として、自分を愛し守ってくれるものだけに神コーデという恩寵を示していたジュルルは、細かい事情までよく知っている『身内』の範囲を今回大きく広げ、皆の思いや願いをしっかり受け止める『神』『大人』としての気遣いを見せていました。
それはプリパラの象徴として『みんな』を忘れていないという至誠を示すことであり、『母』の腕の中で『他者』と繋がらずに生きてきた幼年期に、ひっそりと別れを告げる挨拶でもあるのでしょう。
らぁらの疑問と不安は、『言語』を適切に使いこなし『他者』と繋がる『大人』としてのジュルル、己を超える存在としての『娘』を的確に見て取ったからこそ、生まれた揺らぎのはずです。
ならば、その先に主人公としての、少女としての真中らぁらの成長があり、より強く高く『プリパラらしさ』を獅子吼する展開が待っていると期待するのは、間違っていないかな、と僕は思います。

次回予告で見せられた、これまで出番のなかった様々なキャラクターが乱舞するケイオスは、『みんな』に呼びかけたジュリィの『言語』を受けるものです。
神GPも次で最後、名前のある存在にフォーカスして展開してきた物語が、ここに来て『みんな』をすくい取る公共性を獲得できるのか。
そういうシリーズ全体の仕事だけではなく、久々のメンバーが大暴れし、キチったネタがどれだけ乱舞するのか。
いろんな期待が高まるプリパラ終盤戦、非常に面白くなってきました。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第34話『ヴィダール立つ』感想

征くも戻るも地獄道、未来に向かって不穏さが降り積もる鉄華団絢爛絵巻、色んな人達の34話。
前回マッキーとオルガが『火星の王』という物語のゴールに調印したのを受けて、鉄華団やらアリアンロッドやらアドモス商会やら、色んな人達のリアクションを描く回でした。
あまりに大きすぎる未来を、世界全部が諸手を挙げて賛成……というアニメでもないわけで、調和の裏に不穏さあり、権益の奥に私情が絡み、一筋縄ではいかない感じ。
皮膚の下で虫がうねっているような不気味な予感が巧く出ていた話なんですが、ラストの幼妻LOVEなマクギリスが全て持っていった感じもある……ほんとキモチワルイな君は!!

というわけで、特定勢力・キャラクターに寄るのはではなく、横幅広めに群像を切り取っていく今回。
二期開始からこっち全体像を切り取るまとめ回が薄かった感じがしていたんですが、今回でいい具合に絵が見えてきた印象です。
前回『火星の王』という『あがり』を(幻影でも)見せておいて、今回そこにたどり着くまでの状況を整理してみせるのは、結構理にかなった構成だなと思います。

鉄華団は火星での栄光と地上での挫折を経て、マクギリスとの盟約を選択し、タカキが離脱。
上部組織であるテイワズはガキの暴走を危険視しつつも、利益優先で黙認状態。
名瀬の兄貴は弟分の自立を歓迎しつつ、将来起こりえる離反に対しタービンズとの義理優先の姿勢を見せる、と。
家族だ義理だ人情だと謳ってはいても、権益と面子次第でいつでも切り捨てるヤクザ経済の非常さを、再確認する流れでしたね。

今回は明確な障害役として二期から顔を出していた、ドノミコルスさんの描写が結構太くて、彼の行動理念も見えてきました。
建前としてはテイワズ本流代表、大人の理屈担当という感じだけど、アミタ姐さんへの慕情を消しきれず、横からかっさらった形の名瀬さんに恨み満点って塩梅か。
他人の恋路に横口挟むのはマナー違反だけれども、『女戦場に出して男の器量がなんぼのもんじゃい』という意見には、一応一理ある感じ。
タービンズも鉄火団同様、独特で閉鎖的な『家族』のロジックで動いてる組織なわけで、そこにツッコミ入れたドノミコルスさんは『判りやすい障害物』からちょっと踏み出し、陰影が付いたと思います。
……まぁ姐さんと名瀬さんは作中でも最強にきつく結ばれているので、横恋慕は不幸しか呼ばないと思うけどね……。

ヤクザ頂点会議が開催されたことで、薄々予感していた『テイワズVS鉄華団』という流れにも、物語的な筋道が付いてきました。
まー宇宙ヤクザ軸にしておいて、『義理と人情を秤にかけて、兄貴分と殺し合う展開』が来ないわけがないので、「笑って流してやれるのも、今回が最後だ」という名瀬さんの台詞も、来るべきものが来たってことか。
名瀬さんとしては、『家族』と見込んだ男が自分の手を離れてデカい野望に飛び込んだことが、嬉しくもあり危うくもあり、自分の生き方を曲げることも出来ず……ってところか。

名瀬とは別の形で『鉄華団』と関わっているクーデリアですが、『鉄華団』の家族主義とは距離を置きつつ、汚れている自分の手を深く認識しつつ、理想のために邁進していた。
キャラデザインや立ち位置から予測される『理想主義者のキレイなお嬢』という立ち位置を、一期序盤で早めに捨て去り、フミタンを殺すことで決定的な決別を果たした結果、クーデリアは独自性とバランスの良さを持った、面白い革命家になったと思う。
現実と理想をバランス良く見つめ、一歩ずつ前進するクーデリアを対置することで、鉄華団の危うさと速度が強調できる意味合いもあるんだろうなぁ……だからこそ、クーデリアが己の生き様として選んだのは『アドモス商会』であって『鉄華団』ではないわけだ。
真の『家族』として一緒に死ぬ相手をフミタンに定めつつも、鉄華団と親しい繋がりを維持しようと頑張っているお嬢、俺やっぱ好きだよ。

クーデリアやタカキもそうなんだけど、鉄華団の『家族』に入りきれないキャラをちゃんと描写することで、キチガイ理念で動いている主人公たちを過度に特権化せず、冷静に描写出来ているのは、オルフェンズのいいところだと思います。
慣熟訓練が終わる描写を入れることで、ラフタが明弘と名瀬の間で引き裂かれる準備もしっかり整ったしなぁ……。
これまでのエピソードが『一期を経て、別の段階に移行した鉄華団の現在』を描いていたの対し、前回と今回は『それを踏まえて、これから鉄華団が飛び込んでいく未来』を予感している感じですね。


タービンズテイワズといった形式上の『家族』ではなく、喜んで破滅に飛び込んでくれる真の『家族』鉄華団は、タカキもいなくなったしアットホームな感じ。
地上での戦闘を経てハッシュが三日月に懐き、新しい『家族』の可能性を見せていたけども、『部下が上司より先に死ぬ苦しさ』は何度も描写されているので、殺人マシーンがどう受け止めるか気になるところだ。
シノもチャドもオルガもタカキも、『自分が体を張ってさえいれば良かった時代』から『部下に死ねと命じなければ行けない時代』に飛び込んでいって、あるものはそれを受け止め、あるものは耐えきれず去っていったわけで、一種の通過儀礼なんだろうな、指揮官の苦渋。
まぁ超ドスゲェ才能に目覚めたハッシュが、地獄みたいな戦場でランボーさながらの大活躍で超生き残る可能性だってあるし、必ずしも死ぬわけじゃないよね!!

三日月が一度『家族』と認めたものには、自分の命を迷わず張れる(そして、それ以外の命の値段が紙のように安い)キャラだというのは、これまでの描写からも感じ取れる所。
忠犬ハッシュ公と言わんばかりの懐き方をしている部下を『家族』と認めるかどうかは今後次第だけども、名瀬さんが『俺はお前らの『家族』じゃねぇ』と突きつけた回で、新しい『家族』の芽生えを写すのは面白い画角だなと思う。
三日月の価値観は人間社会のそれというか、イヌ科の動物の群れに近いんだろうなぁ……動物的な生存しか許されていない社会に、ある意味最も適応した生命体。
マクギリスのいう『人間が人間として行きられる社会』の対局にいるわけだ。

発掘された三匹目の悪魔・ガンダムフラウロスが、鉄華団と『火星の王』にどういう未来を持ってくるかは、さっぱり見えない。
しかし色んな人が「まぁろくなことにはならないよね!!」と重ね重ね宣言しているので、視聴者もある程度の覚悟は決まってきている。
日常描写と絡めつつ、こういう予感をしっかり積み上げることではじめて、衝撃的な展開も刺さるわけで、ジワジワとフラウロス周りの描写を積んでいくのは大事だと思う。
その先に破滅が待っているとしても、だ。

『家族』といえば、オルガといい感じかと思ったステープルトンさんがおやっさんと交際していたのが発覚し、おめでとうと言えば良いのか、がっかりすれば良いのか、チャドと同じ表情になってしまった。
まぁ危ない橋渡りまくりのクソ童貞よりも、体臭キツくても包容力のある年上選ぶのは、考えてみれば当然か……これも新しい『家族』やな。
体臭という『自分らしさ』が、ステープルトンさんと(文字通り)交わることで変化する描写は、軽いくすぐりの中に『家族』の可能性を込めている描写で、結構好きです。
キチガイぐるぐる目で自殺領域に特攻したり、『家族』以外を切り捨てたりする以外にも、ちっとは生産的な可能性が『家族』にはあるんだよ、と告げてくれてる感じがした。
……まぁそういう『マトモ』な可能性を、現実の重たさと『家族』の狂気で引き倒していくのがこのアニメでもあるんだがな……マジ油断できねぇ。


一方腐れコロニーの反乱をすり潰すために出動した正義の軍隊アリアンロッドでは、ついにヴァダールの調整が完了しあの男が戦場に立った。
キマリスの一撃離脱戦術を更に磨き上げた感じの、蝶のように舞い鉢のように刺す闘い方は、ジュリエッタの言うとおり『綺麗』なものでした。
唯一の武器を抑えられて難儀した過去をちゃんと学習し、ハッタリ満点のブレード交換ギミックとか仕込んでいるところも良い。

己の行動理念を『復讐』と言い切る割には、生前の育ちの良い爽やかさを全面に出し、おそらくアイン=デバイスを搭載した愛機でまるでスポーツのように土人狩りを楽しむ姿には、根本的なカルマの薄さが匂っています。
そこら辺がジュリエッタを惹き付け、ラフタルや髭のおじさまのような『家族』になりえる存在としてヴィダールを認識させる足場になっているわけですが、やってることはクソ組織のクソ弾圧っていうことには変わりがないよね。
平等で俯瞰的な『正しい』視点を持ってしまったら、世界を変えるどころかまともに生きていくことも出来ないってのはこの作品のルールなわけで、最大限透明に見えるヴィダールもまた、『復讐』以外の歪みに捕らえられてるのでしょう。

初陣を華麗に飾って、ヴィダールさんも新しい家に馴染んだ感じですが、反面イオク様のポンコツっぷりはドンドン加速し、残念な存在に。
残念っぷりを散々笑ってマスコットとして愛着湧いたら、とんでもなく残忍な手段で命を刈り取られたカルタという例もあるので、異奥様の微笑ましい戦いも笑ってみてらんないですね。
このどこにも寄る辺がない感じは狙ってやっていると思うので、クズみたいな世界の『家族』がお互いの喉笛を狙う状況の中で、誰が生き残り誰が屍を晒すのか、期待して良いのか恐れれば良いのか、複雑なところです。


ほいでもって、お話の大きな極を握っているマクギリスは、生き残った元・親友の殺意を宇宙から浴びせられつつ、ニンフェットを己の膝で遊ばせていた。
アルミリアの幼い愛情に答えている姿には邪悪さと人間らしさが同時に香っていたが、あの時言っていた『人間が人間として生きられる社会』『ギャラルホルン創設当初の理念』『アルミリアへの愛情』というのがマクギリスの地金なのか、いまいち判断しかねるなぁ。
親友を裏切り、惚れてた幼馴染を生贄に捧げ、義父をぶっ殺してここまで進んできた男があの無防備な幸せの奥に、もう一枚何かを隠していました、と言われてもまぁ驚かんよね。
基本的にこの話、『家族』という呪いに縛られたキャラクターばっかり出てくる家族規範の話なんで、マクギリスの中でアルミリアが唯一『家族』となりうるなら、そこが地金なんだろうけど。

マッキーの語っていた『ギャラルホルン創設当初の理念』は、実はオルガが鉄華団を立ち上げた時の『俺達はネズミでも弾除けでもねぇ、人間だ』という叫びと通底している。
なればこそ、マクギリスがオルガと鉄華団を買いかぶる理由に今回納得がいくわけだが、それは同時に『組織も人間も、年月は理念を腐敗させる』という世界のルールを、鉄華団もまた回避し得ないことを意味している。
ギャラルホルンがどうしようもなく腐敗したように、鉄華団もそれを構成する少年たちも、時間と現実の蹉跌の中で変化し、あるいは劣化する運命から逃れようはない。
この作品においてあるのは変化だけであり、ネガティブな時間認識に基いて、成長や進化は幻想として退けられているのかもしれないなぁ。

全てが変化する中で時間を止めているように見える三日月と、その視線を背中に受けて時間を先に進めようと焦るオルガと、ギャラルホルンが生まれいでた黄金期に時間を戻そうとするマクギリス。
こういう三角形で見てみると、『火星の王』を廻る野望は、時間にまつわる理念の衝突だとも言える。
同仕様もなく腐敗していく現実の中で、黄金に輝くものを手に入れようと(もしくは取り戻そうと)願う男たちの焦点は、どうやったって戦場に合う。
なれば、嘘と真実の預言を権能とするフラウロスがオルガにどういう未来を持ってくるかは、今後の展開を支える要になるのだろう。
……死人に投げかけられた理想(もしくは呪い)に己を繋ぎ、過去の理想を現在に蘇らせようとするクーデリアの立場がどうなるんかね。


というわけで、色んな場所の色んな『家族』が、あるいは新しく生まれ直し、あるいはぶつかり合って軋むさまを、様々な予感含みで展開するエピソードでした。
タカキの決着を付け、地球編の後始末をした上で現状の地ならしをしっかりして、『火星の王』とアリアンロッドとの対決という導線を未来に引く。
シリーズ全体での仕事が結構明瞭で、見ごたえのある回だったと思います。

今回描写された野望や真心の果てに、腐敗していく現在の果てにどんな過去と未来を獲得するのか。
その道程の中で、どれだけの血が必要とされ、どれだけの理想が踏みにじられるのか。
不明瞭な明日に期待と不安が渦を巻き、興奮を静かに整える、いいお話だったと思います。
来週も楽しみですね。