イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

年末! マリ見て一気読み 3

さて、「涼風さつさつ」から最新刊「未来の白地図」までの「祐巳の妹どーなんのよ」期まで読み終わり、マリ見て一気読みも終了です。22冊、間に掃除と食事を挟んで実読7時間てところですか。ここから、ちょっと「抜き」が多くなります。具体的な巻名を挙げると「バラエディギフト」「イン・ライブラリー」「チャオ・ソラッレ!」の三冊かな。
この話は短編集だったり番外編だったりで、本筋は大きく進みません。そのせいか、なんかあんまり評判は良くないみたいです。でも、僕はこの話が大好きです。今野緒雪という作家が、いかにリリアンという世界を、そしてそれを読んでくれる少女読者たちを大切に考えているか、伝わってくるからです。薔薇さまたちは本当に特別な、いうなれば星です。でも、短編集に書かれたなんでもない少女たち(まぁそれ以前にもたとえば「紅いカード」などもありますが)の物語は、優しさと鋭さに溢れている。それはやはり、愛情の故だと思うわけです。
んでもって。この九巻の間で非常に重要な動きをするのが細川可南子です。彼女は非常に不愉快な存在として登場し、「レディー、GO!」で初めてイラストが出、「特別でないただの一日」でその不愉快を根本から解決します。この、長い期間を書けたキャラクター印象の操作は、正直リアルタイムで体験していて巻き込まれた強烈なコントロールです。緒雪先生がどこまで彼女の動きを計算して書いていたかはわかりません。ですが、今回読み返していて一番の驚きだったのが、彼女がそうなる必然性というのはすでに、伏線という形で「彼女が不愉快だった時代」に小説テキストの内部に存在していた、ということです。
それがキャラクターの必然性から導かれた行動を伏線として受け取っているのか、それとも作家の計算の結果なのか。その疑問に、実は意味はないと思います。結果として、この九巻は「祐巳の妹誰よ」という大きな軸に関するうねりに、各々のキャラクターが各々の価値観と認識を持って巻き込まれる、という構造になっています。そして、その構造は最初の一冊である「涼風さつさつ」から十全に準備されていた、としか思えない周到性があるわけです。
さてはて、今回22巻全巻を通読して思ったのは、瞳子という存在の大きさです。まぁ僕自身が瞳子が本当に大好きだというのもあるんですが。彼女は「レイニーブルー」事件の原因とも捉えられるようなキャラクターとして書かれ、不快な部分を残したまま13巻ずっと存在しています。緒雪先生のキャラクター構築とストーリー展開の力を考えれば、読者の印象操作は容易であるにもかかわらず、です。
通読して鑑みれば、それはやはり、「銀杏の中の桜」というマリみてのスタンドポイントから存在していた瞳子というキャラクター、そして、少女達の内面の変化と、それによって生じるさまざまな行動のドラマであるマリみてという小説における瞳子の重要性のまさに象徴なのではないでしょうか。瞳子は読者が最も自己を投影するであろう主人公、祐巳に敵対的な言動を取る存在として登場し、行動し続けます。13巻もの間です。その単純な文字量こそが、瞳子の抱えるキャラクターとしての価値観と認識を、緒雪先生が重要視している証拠なのではないでしょうか。
ともあれ、やはりどの巻もとても楽しく読めました。通読すると、キャラクターは変化はしても変質はしない、非常に小説的な存在です。それは嘘です。変化は、前へと向かう方向性が強い行動です。が、現実でしばしば起こるのは変質といってもいい(まぁ、それは認識の問題が原因な部分も多々あるわけですが)後ろ向きな退行であったりします。でも、マリみての少女たちは前に、前に進んでいく。祥子も令も由乃志摩子も、そして祐巳も、前へ、とにかく前へ、傷つき、苦しみ、それを乗り越えながら進んでいく。その前進性は、やはりとても貴重で、素晴らしいものだと思うわけです。
そしてその行為を可能にしているのは、キャラクター造形の巧みさ、読ませる文章、印象的なエピソード、異なる価値観と認識を持つ登場人物たちが相互に関係し合ってうねる物語の面白さ。つまりは、小説としての面白さだと思うわけです。通読して見て、そのことを強く感じました。とても面白かった。マリア様がみてるを読み続けてよかったと感じたし、今後も読もう、と思った、そんな七時間の読書でした。