イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

安田講堂 1968−1969

島泰三中公新書。1969年一月の安田講堂事件において、立てこもりの当事者であった筆者によって書かれた本。さてはて。ノスタルジックな本である。この本は1968年に始まり1969年で終わっている。逮捕後の獄中記はなく、筆者が「戦争」と大仰な言葉で語る安田講堂事件とその前段階についての本である。
ノスタルジーとは即ち美化である。いかに自分たちが革命の闘士であったか、戦った権力が、アメリカが、機動隊が卑劣であったか。全ては「正義」「同士」「青春」「抵抗」……。カギカッコ付きの大文字言葉で綴られている。
それが悪い、とはいえないだろう。僕は膝までつかる放水の中講堂にこもったわけではない。催涙弾で頭を割られたわけでもない。ガスで火ぶくれがおきたわけではない。1969年、僕は生まれていないのだから。
そんな生まれてもいない僕がこの本を読もうと思ったのは、歴史を少しは学ぼう、という考えからである。それはあったのだ。人が石を投げあい、冷水をぶちまけられあう戦いはあったのだ。だから、当事者の声を聞こうと思った。
そんなもの、ここにはなかった。当時の自分を冷静に位置づける視座も、学生運動のその後の崩壊についての言及も、学生運動を支えていた冷戦構造自体の欺瞞性への指摘も、ない。そこにあるのはノスタルジーだ。重ねて言うが、僕はその懐旧に何も言う資格はない。僕はそこにいなかった。それだけだ。
そして、この本は僕をそこには連れて行ってくれなかった。客観性の魔法を駆使して、安田講堂事件がいかなる場所であったかを感じさせてはくれなかったのだ。それを「白けてる」というのも、また自由だ。実際、僕は白けているのだろう。
色も音もなお遠く、実感も身命も薄い僕。筆者にしてみれば「大和魂」も「正義」も感じられない、「階級」の中で「地位」に踊らされた「プチブル」といったところだろうか? あえて反論するならば、では、その大文字の言葉たちがどれだけ僕の身を裂くのか、という一点を問いたい。
僕はいつだって、文字に裂帛の一撃を求めている。この本はそうではなかった。文字の力、論理の力、ルポタージュの力、体験記の力、客観の力、そのいずれも有していなかった。それだけの話だ。
そう、それだけの話だ。