イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

宗教と科学

上山安敏、岩波書店。1830年代から1930年代のプロイセン=ドイツにおける、ユダヤ教カソリックプロテスタントの相互の影響、並びにその言説に(そしてその言説「が」)当時の状況が及ぼした影響についての本。サブタイトルは「ユダヤ教徒キリスト教の間」
筆者は大きな問題として、以下の問いを置く。すなわち、第二帝政期以来変容してきたドイツキリスト教会(並びにその周辺地域であるスイス、プロイセンオーストリアポーランドキリスト教会)と、その内側に存在したユダヤ人社会とユダヤ教会の関係はいかなるものであったのか。
この複雑な難問を、筆者はまず三つの書物の読み込みから開始する。ニーチェ「アンチクリスト」、フロイトモーセ一神教」、ウェーバー「古代ユダヤ教」 この三つの書物を筆者は、「作者」から浮遊するただ文字の羅列として読むテクスト論の手法ではなく、当時のドイツの民族主義反ユダヤ主義・科学主義の勃興、政治的状況、それ以前の啓蒙主義的伝統など、さまざまな複合作用の結果生まれたものとして読み解いていく。
それは膨大な読みである。ヘーゲル、カント、フィヒテメンデルスゾーンからガイガー、グレーツ、トライチュケ、モイゼン。そして戦後活躍することになるブーバー、ショーレムアレント……。ドイツとユダヤキリスト教ユダヤに関わるおよそ全ての文献が複合作用の一因として丁寧に読みほぐされ、関係性を読解されていく。
そこには言説を言説界とでも言うべき聖域に保護する態度ではなく、政治と経済と宗教と暴力の交錯する、複雑な環境、荒々しい現実の自然の中に放り投げる姿勢がある。言説は利用される。政治に、経済に、軍事に、差別に。そのことを何よりも示しているのは、この本で論じられている時代の直後、ドイツはナチズムというベヘモス(リヴァイヤサン、ではなく、本著に敬意を表してこう言おう)に飲み込まれ、ショアという現実が発現することである。
筆者はそのことを常に念頭に置き、丁寧に、そして堅牢に、反キリスト・反反ユダヤ主義ドイツ人フリードリヒ・ニーチェが、ユダヤ精神分析フロイトが、ドイツ啓蒙主義の最高峰であるウェーバーが、いかなる時代に生き、いかなる政治の中に置かれ、いかなる状況で書いたのかを解析していく。
その結果はたとえば、いかにしてロマン主義から神秘主義へと繋がるドイツキリスト教の流れと、その中であえて地べたに投げ捨てられたユダヤ神秘主義の分析だとか、プロテスタント・ドイツ学術主義が、いかなる態度で「内部の異人」であるユダヤ教ユダヤ人文化と相対したのか。そのような具体的分析と絡みあい、一つの綾織をなす。
それは、新約と旧約の間の問題、ユダヤ人イエスを分析する歴史主義神学の勃興と、それに伴うアンビバレントなドイツ国民の感情に関する織物である。歴史の流れの中でうねり、混じり、変化していく思想の渦が、いかなる影響を政治に与え、いかなる影響を政治から受けたのか。それに関しての綾織である。此処では語りきれないほど沢山の、知識によって過去と歴史を読み解いていった結果生まれた、文字の綴れ織である。
それは豊かな織物である。筆者はナチス・ドイツという現代政治の(ある意味での)究極の化け物を常に視野に入れ、いかいしてショアが起こったのか、いかにして反ユダヤ主義はドイツ国民に浸透したのかを、細密な分析と確固たる視座を武器にして切り込んでいく。
それを支えるのは先に述べた三つの書物の読解であり、その読解もまた、現実政治への影響と現実政治からの影響の分析によって成り立っている。織物の縦糸と横糸、もしくは車輪の右と左のように、ここにおいて政治という名前の、否、虐殺という名前の現実と言説は一体化し、かつ精励な分析によって腑分けされ、我々の前に晒される。
何度でも言おう。それは豊かなことなのだ。安易に大文字の言葉を連ねるでもなく、現実政治との関わりを否定するでもない。言説が否応なく持ってしまう政治性を真摯に見つめながら、それを読解と分析によって、つまりは言説によって解析していく姿勢は、非常に豊かなのだ。荒地に鋤を持ち立つ人のように、この書物は豊穣な書物である。続編の「ブーバーとショーレム」が非常に楽しみである。傑作。