イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

テヘランでロリータを読む

アーザル・ナフィーシー、白水社アメリカ文学者である筆者が、1979年のイスラム革命から1997年アメリカに移住するまでをつづった回想録。
なんとも奇妙な幅を持つ本であった。この本はホーメイニー革命家のイラン・イスラム共和国における知識人の生活記録であり、優秀な西洋文学(ナボコフフィッツジェラルドヘンリー・ジェイムズ、オースティン他)の読解書であり、美しい言葉による私小説でもある。ルポタージュというには劇的に過ぎ、詩と言うには生々しすぎる、そんな本だ。
ただ言っておきたいのは、この本を切り取るどの角度から見ても、この本が豊かであるということだ。例えば西洋文学の書物としてこの本を読む角度。名前だけが知られて存外に読まれていない(と僕は思う)書物であるところのロリータに、痛ましさの視座を持ち込む鋭さ。例えば私小説としてこの本を読む角度。全体主義的なイランにおいて、洞窟の賢者のように禁書を取り出す「魔術師」のキャラクターとしての切断面の見事さ。
どのような角度からも読めるし、どのような角度からも輝いている。それは筆者が選び出す言葉の美しさが強烈な土台となっているのは間違いないだろう。例えば一段落取り出してみよう。
そうして私たちはすわったまま、はてしなく話を紡ぎつづける。彼は長いすに、私は椅子に座り、私達の背後、ロッキングチェアの前にのびる楕円形の光がしだいに細く小さくなり、ついには消えてしまう。彼は明かりをつけ、私たちは話をつづける。 P466
明瞭で、良く磨かれた言葉だと思う。少々古めかしくかっちりした言葉だが、僕はそういう言葉がとても好きなのだ。そういう言葉で、例えばチャドルの着用を拒んでテヘラン大学を追われたことや、イラン=イラク戦争から帰還した学生が焼身自殺したことや、映画検閲を行う国家検察官が盲目であることが、イラン・イスラム共和国において文学を読むことをさまざまな形で続けてきた筆者の歩みと絡み合って書かれている。
豊かな言葉と視点で、とにかく丁寧に、そして分厚く書かれた本だ。とても面白かった。名著だと思う。