イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

煙が水のように流れるとき

デヴラ・ディヴィス、ソニーマガジンズ。統計疫学の権威であり、クリントン政権下で政府の環境政策決定の根幹にも関わった筆者の、公衆衛生に関する本。知識としての統計衛生学の話だけではなく、産業界と科学界の対立と癒着、統計資料をめぐる不毛かつ不可避の争いなど、科学と価額の外側についても詳しく語る。
非常に多角的な本である。筆者は1948年に数日で20人(後の一ヶ月で50人)の死者を出した鉄鋼の街ペンシルバニア州ドノラの出身であり、自分の指の先も見えないような大気汚染に包まれた幼少期の回想から記述が始まる。高度成長に伴う「必然の痛み」としての環境汚染を、しかし筆者はただの経験としては語らない。彼女は後にそれらを専門的に扱う学問、統計疫学を修め、論文を書き、政府機関に所属して法制度決定のための研究を行う。
そこにおいて彼女のオリジンたるドノラは研究対象であり、同時に切実な思い出の場所でもある。この本は非常に科学的な本であり、統計を扱う学問に必ず付いて回る「得られた結果の妥当性をいかに判断するか」という問題に深く切れ込んでもいる。この「科学的判断」の領域で繰り広げられる産業界の分厚い横槍に関する話としても、この本は読める。筆者はその最前線にい続けたのであり、少々感情的ながらも、だからこそ切実な文体は臨場感を持って企業がいかに科学の勢力地図を書き換えにかかるか、を教えてくれる。
もちろんこの本は環境問題の本でもあり、筆者の立場は規制派である。本全体を通して伝わってくる主張は「科学的妥当性と経済損失をこねくり回しているうちに、ドノラのように死んでいく人は確実に存在し、それを減らすことが出来るのであれば、規制は行うべきだ」というものだ。ただ主張されればドノラの悲劇を経験した一個人の意見だが、自身の研究とそれを取り巻く統計疫学・公衆衛生学の研究成果と、それを発表し、評価し、実践する「場」の圧倒的な量の実例(企業・政府による御用学者の雇用や、金銭的圧力といったマイナス要素も含む)を差し出されたとき、それは主張から科学的な妥当性を持った意見へと代わる。
筆者も一番最初に認めるところであるが、統計は強力な武器であり、同時にその解釈を巡って意見が分裂する厄介かつ曖昧な手段でもある。いかにして現れた結果を読み取るかと、いう主観的科学としての統計学は、その曖昧さゆえに枝葉の議論に陥ってしまう危険性を常にはらんでいる。筆者自身の研究も、企業の御用学者によって論難され、実際の政策になるまで十年単位の時間がかかったり、いまだ実現しなかったりしている。
そこには20世紀初頭から今まで続く「理性の世界が崩れた後の科学」の問題点が、どっしりと横たわっている。科学はもはや独立していないし、産業と無縁でも、政治判断から距離をとることもできない。妥当性は立場と共に入れ替わり、科学的真実はプロパガンダによって色を変える。もちろん僧でない場合もあるが、この本で示されているように、そうである場合もまた、多数あるのだ。
そのような科学論としての角度以外にも、もちろん統計疫学の論としても、環境汚染の論としても、この本は非常に優れている。フロン、有鉛ガソリン、大気汚染など、具体的な化学物質とその規制を丁寧に追いかけ、科学の現場と政策、産業の現場が交わる瞬間を現出させてくれるのだ。そこには最前線で科学の武器を振るい続けた学者だけが持つ迫力が確かに存在していて、それが分厚い説得力となっている。
そしてもう一つ、この本が持つ側面は、筆者のライフヒストリーとしてのものである。大気汚染の町で生まれ、環境疫学を修め、企業と政治が入り込む学問の場所で矛盾と戦いながら言葉を発する女性。あえていえば、この本全体の論調は非常に環境保護論によっており、対立の立場への公平性は非常に薄い。感情的ともいえるその論調であるが、同時にそれが筆者が抱える切迫した危機感を伝える助けにもなっている。
さまざまな角度から読め、その一つ一つが非常にクオリティが高い。いろいろなものを与えてくれる素晴らしい本だといえる。傑作。