イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ぼくらの 8

鬼頭莫宏小学館。アニメ化なんてしなかった、が合言葉のロクデナシ子供を殺して世界を救おうストーリーの八巻目。今回は2名ほど死にました。こういうことを書かなきゃならんというところで、このマンガがいかに趣味が悪いか、ということが解るとは思うのですが。趣味が悪いことが即ち、悪いことに直結するとは限らない(たいていの場合は直結するのですが)し、少なくとも趣味が悪いことに自覚的ではあると思います。
結局、ロボだ世界の命運だ、というフェイスをかぶせてはあるけれど、この話は子供が十二回(かもう少し)死ぬ話であり。そこのレイヤとはまたずれた場所で、鬼頭先生が独自の考えを混ぜてくるので見えにくくなるのですが、結局骨は底だと思うのです。そして、その骨はそれなり以上にしっかりしている。子供は死ぬ。いろんな死に方で死に、死ぬ前は生きている。まぁそういう話なのではないか、と。
んで、付随するレイヤーの話で。この話(つうか鬼頭漫画)が宗教っぽくて薄気味悪い、って言う感想は多分的を射ていて、鬼頭先生は生とか死とか社会とか、漫画ではあまり扱わない大きなものに関して確信を持っている。そして、それを漫画の中で語ることに躊躇いがない。子供が死ぬ話しを、ある意味ダシにすることに嫌悪感が無い。子供が死ぬ話しを書くことよりも、むしろそのことのほうが、鬼頭先生の趣味の悪さとして語られるべきじゃないのか、とも思います。
アンコの死がジアースへの全世界的擁護、という何かを生み出して終わる展開と、絶望よりも無力を抱えて雪の中で死んでいくカンジの話が今回は修められているわけですが。アンコの話にまとわり付く物語的人間中心主義(それをヒューマニズムと言ってもいいかもしれない)と、カンジの「鬼頭らしい」乾いた始まりと終わりと少しの耀きは、どうにも食い違う。
その矛盾も含めて、十二人の死に方と生き方の話しだ、という解釈もできるわけですが。例えば「なるたる」なり「ヴァンデミール」なりの祈祷先生に比べるとぼくらのは相当に「お話」になっていて、死に意味があることは割と多いし、なんだかんだで子供達は納得して死んでいく。子供達が死ぬ、という悪趣味な事態に、スッキリする決着を求めている僕たち読者も、それで筋が通っていると感じる。
そこには凄くグロテスクな構造が隠れているようにも思うわけであり、それに鬼頭先生が意図的であるか(おそらくは意図的だと思う)、そして僕たちが意図的であるか(あるべきか)というのは読者個々人が判別するべき問題なのでしょう。結局、劇作の手法としてはこの作品はそれなりに乾いていて、激情も諦観も、等しく乾いて流れていく。12人の子供達が死ぬ話として始まり、そして終わる。そのことを徹底するのは、僕にとって評価できることなのです。
今回僕が特筆すべきだと思ったのは、アンコが言葉を連ねるとき「個人は全体の奉仕者であるべき」という言葉を使ったことです。これは、ナカマの口癖でした。そんな感じで、死人はたまに顔を出して、死ぬべき生者に使用される。この言葉が、鬼頭先生の個人的な信条から来たのか、それともアンコというキャラクターが内側に秘めた劇的から来たのか、それを判断することは僕には出来ないのですが。どちらにせよ、単純にこの言葉をこの場所で使用したことは、悪くないことだったと思います。
さて、たくさん子供が死にました。また子供が死ぬのでしょう。今回のヒキは、鬼頭先生はつくづく好きなものを最後までとっておくタイプだな、と苦笑いせざるを得ない展開でした。まぁ悪趣味だよね。そういう話しをみて、色々考える僕もまた、悪趣味であるということ。読んでしまっている以上、単純に蹴っ飛ばして放り投げることは出来ないししたくも無いと、そう思います。一言で言えば、僕はこのマンガが嫌いではないのです。