後悔も喜びも、全部歌になれ。
ユーフォ三期第4話である。
美貌に張り詰めた緊張感をたたえ、緑輝以外には心を開かない月永求が何を隠し、何を奪われ、何を求めて北宇治高校にいるのか。
原作では分断されていた楽章を一つにまとめあげ、重大イベントであるサンフェスを駆け足気味にしてでも、一人の少年とその師たちの越し方を描いたエピソードである。
僕は穏やかな心根に強い信念を張り巡らせ、自分なりの靭やかな向き合い方で弓を握り続けている川島緑輝という人を尊敬しているので、彼女の誠心と三年間共に進んできた久美子との連帯が、月永求に届くお話はとても嬉しい。
求くん一人に強くクローズアップしたことで、ここまで三期を切り取ってきた部全体への大きな視線がギュッと窄まり、変わらず部長であり先輩でもあるのだけど、そういう肩書を少し外した黄前久美子の強さと頼もしさ……すこしおっちょこちょいで可愛い所も、より鮮明になった。
流れる時の中でも癒えないもの、変わっていくものを、死者に取り残されてしまった生者の視点から描くという意味では、妻と父に取り残されその彼岸として全国金賞を求めている滝昇という、作品全体を支える柱とも共鳴する回だったと思う。
死んでしまった求の姉と、生きてスタンプ贈ってくる麻美子を重ねる視点と合わせると、二期第6話”あめふりコンダクター”あるいは第10話”ほうかごオブリガート”で描かれた主題を、演者を変えて改めて描き直すような回であり、過去と響き合いながら北宇治の一員として心を固めた求の音が切り開く未来へ、確かに繋がる話数でもあろう。
というわけで今回は、薄暗い墓前にてCDプレイヤーで奏でられていた死せる音としての”愛の挨拶”が、求と緑輝の生きたコントラバスによって笑顔で光の中演奏されるまでを描く回である。
このお話がブラスバンドの生演奏……”Live”を主題としたお話である以上、墓前に奏でられる機械の音楽は作品の答えにはならず、己の指で、誰かの隣で、共に失われた曲を奏でることこそが、再生の証になるのだと告げるエピソードである。
部長として先輩として人間として、求のために部のために友達のために立派に奔走した久美子が、必死に頑張った報酬のように屋上で、その心地よい音色を聞き届けるまでのお話である。
三年間音楽と人間に向き合い、色々あった結果己を育てた彼女が、言葉と生き様でこじ開ける未来は灰色で狭い場所ではなく、光に満ちて音が拡がる場所へと繋がるのだと、僕らに改めて教える話数である。
グレーチングの境界線が、姉の死と祖父の優しさに境界線を弾く冒頭から、先輩や友人や家族の歩み寄りを受けて求が隠していたものを黄前部長に預け、姉の面影を見つつも川島緑輝でしかない演奏者と、肩を並べて一緒に笑うまでの物語である。
死と断絶に一人の少年が向き合い……切れていない状況に、色んな人たちが目を向け手を差し伸べて、それが暖かく光に満ちた場所であったこと、奪われ消えてしまったと感じていた音楽が自分の手の中に、未だあると思い出すまでの旅路である。
これまでずっとそうだったように、愛の物語であり、死の物語であり、生と音楽の物語である。
映画で自分たちの抱えた面倒くささを炸裂させ、乗り越えてスッキリ良い演奏者へと進み出せた他のニ年生に比べ、求くんの頑なな棘は未だ未解決の和音であり、今回一気に踏み込み解決していくことになる。
良いツラ褒めても名字呼んでも、即座にバチキレる面倒くさい先輩が唯一、部という社会につながるためのコネクターは、小さな体に抜群の演奏技術とたくましい人格を備えた、川島緑輝である。
彼女が間に入ることで求くんは、余人に見せない何かに苛立った姿勢を少しだけ和らげて、後輩と向き合い繋がることが出来る。
とても未熟で孤独で、危うい姿勢は一人きりの帰り道、赤信号にぽつねんと立ち止まる姿勢からも透けて見えている。
ここに切り込むのが我らが黄前部長であるが、第2話で見せた椅子に体を休めない緊張感が、物語の最初からずっと一緒にいる四人だと少しほぐれて、友達の距離と態勢でもって椅子に収まることになる。
ここでは鬼のドラムメジャーも厳しい看板をおろし、北宇治カルテットの一人として仲良く語らい、問題意識を共有し、楽しく過ごしている。
こういう距離感も、部長になってしまった久美子の嘘偽りない構成要素の一つであり、友だちがいればこそ責任ある立場にも立つことが出来る。
二年間の歩みが育んだ、この密接な距離感をしっかり描くことで、支えなくフラフラ、他人を押しのけてなんとか立っている求の危うさと寂しさも際立ち、彼を大事な後輩として、演奏の主戦力として、部の一員として……死別の悲しみに傷ついた一人の月永求として受け止めていく、少女たちの温もりがどこから来るのかも、自然と理解っていく。
背中を向けた母校の親友とぶつかるサンフェスは、あくまで問題の発火点であって解決地点ではなく、ややサラリと描かれていく。
ここでも緑輝が(それこそ姉のように)親身に間に立つことで、ギリギリ求はわがままなガキではなく高校生の演奏者として立つことが出来ていて、しかし緑輝一人きりでは狭く閉じた関係性から、二人は出ていけない。
ここに助け舟を出すのが黄前部長の仕事となり、焦らずどっしり構えた姿勢から繰り出される青春パンチが、絡まった糸をゆっくりほぐしていくことになる。
その前段階として、画面の端でスケッチされるのが前回の衝突の後始末……泣くほど厳しい指導を叩きつけて結果を出したドラムメジャーと、彼女に導かれて初心者を脱した少女の、お辞儀の交わし合いである。
話の真ん中になることはないのだが、やっぱこの子を焦点として描かれる初心者の成長は爽やかで逞しく、とても”ユーフォ”っぽい画題だと感じる。
ボコボコに言われて傷ついて、涙を拭って立ち上がり練習して、頑張った自分を認めてあげられるパフォーマンスを、本番で成し遂げる。
厳しさと楽しさの間を漂うこのお話において、代表メンバーに選ばれる特別な存在だけが青春を戦っているわけではなく、部の仲間として必死に頑張っている仲間を、巧さを求め厳しさが目立つ麗奈も、踏みつけにしているわけではない。
ドラムメジャーとして厳しく求めた到達点へ、泣きじゃくりながらたどり着いた同志にしっかり労いの言葉をかけ頭を下げる、立派な先輩としての高坂麗奈。
その伸びた背筋は、特別な誰かとふにゃふにゃイチャイチャ出来る時間があればこそ成立していると、京都名物”JKの喋る足”が良く語っている。
やっぱこれ見ると、『京アニ食ってんな~~~』って気持ちになるね。
三年目の久美子たちは、100人超えの大組織の長として部をまとめ上げ、厳しさの中に相手の感情を受け止める優しさを表し、全員一丸となって全国を目指す姿勢を、率先して緩みなく見せている。
そんな張り詰めた緊張感が緩み、等身大の少女たちとしての絆や友情、そこから生まれる喜びが溢れ出す瞬間も、いきいきと描いている所が、複雑だからこそ面白い、人間の音楽としての”ユーフォ”の魅力を際立たせているだろう。の
ピリッとケジメつけて、初心者の頑張りをしっかり受け止めた麗奈自身の頑張りは、おんなじ立場に立つ親友しかもう受け止めてもらえない現状もそこには描かれていて、だからこそ久美子と麗奈はお互いに特別なのだろう。
そういう私的な甘やかさに、ずっと浸っていられないのが部長の辛さであり。
問題解決の糸口を見つけた青春は麗奈に手を降って、求の事情を知る元同級生へと切り込んでいく。
声は聞けるけど同じベンチには座らない、なかなか難しい距離感で受け取る、誰かが預けてくれなければ知ることの出来ない秘密の重たさ。
家族の情愛と死の重たさが複雑に絡む、因縁の鎖にがんじがらめにされた求自身は、己が何に悩み苦しんでいるのか、語ることは出来ない。
画面の両端を埋める石造りの柱が、彼が閉じ込められている愛の牢獄の様子をよく語るわけだが、ここから彼を出すまでの道のりは思いやりに満ちて遠回りで、結構複雑な経緯をたどる。
部長として先輩として、当人の頭を超えて非常に複雑な事情を聞いてしまった久美子は、勝手に他人の内側を推測していた己を恥じる。
その恥ずかしさすら素直に表には出せないのが、今の久美子の立場である。
自分で抱きかかえるしかない重たさを、カバンの持ち手をギュッと強く握る仕草に宿し表現する、身体的でありながら心理的な……極めて京都アニメーション的な表現が良い。
そして爆弾のような真実を抱えてなお、自分と部と目の前で苦しんでいる一人の人間をどこに運んでいくべきなのか、考え立ち止まらずに進むのが”先輩”というものだと、緑輝と共有できるのも、今の久美子である。
これまでそうであったように、緑輝は真摯に柔らかく頼もしく、聞いてしまった求の事情を受け入れ、受け止め、己の歩みを鑑みる。
周囲と上手くやっていいけない求の難しさが、事情は見えないながら何かを奪われた切実な痛みから来ているのだと、それに負けず音楽に向き合う姿勢があるのだと、一番近くにいたから解っていたけど、それだけでは足りない。
そう思い知ってなお、川島緑輝の微笑みは可憐で優しい。
この花のような柔らかさと美しさが、登場時から揺らぐことなくずっと続いて強いのが、僕が川島緑輝をいっとう好きな理由の一つである。
そんな親友の頼もしさをしっかり確認して、先輩になってしまった自分たちの今に微笑んで、久美子は明るい場所へと歩を進めていく。
どんだけ重たいものを背負ったとしても、それに押しつぶされて立ち止まれる時間はもう、青春探偵からは遠いのだ。
先輩になってしまった難しさを共有できる、友だちがいるからこそ勧める道。
しかしそこで姿勢を緩め、気楽になりきれるほど北宇治吹奏楽部部長の立場は甘くはない。
『部長ですから、特別に』と告げられる、求転校の可能性を一人抱え込み、久美子の憂鬱を反射して学校内部は大変暗い。
パタンと靴箱を閉じる仕草と、誰にも言えない秘密を抱え込んで部内政治を取り回していく久美子の現状が、豊かに響き合ってコミカルに重たい。
一番求に近い緑輝ではなく、自分だけが特権的に彼の事情を知ってしまっている。
踏み込もうとして拒まれた、親友の思いに報いるだけの真実を、胸の中に隠してしまっている。
そんな後ろめたさも組み合わさって、緑輝の告解を聞き届ける久美子の視線は大変複雑に揺らいでいる。
サンフェス会場では広々した夕日の中、共に明日に向かって進めていた二人が、滝先生から預けられた秘密によって隔てられ、電車のガラスが皮一枚、遠いところに居る息苦しさを示している。
穏やかにのらりくらり、感情と業が渦巻く吹奏楽部を見事に取り仕切っている黄前部長にも当然個人的な感情があって、これが漏れないように必死に頑張っていればこそ、部は(かつてのように)空中分解することなく、まとまりを得ている。
その苦労と苦悩を……僕らがずっと見守り愛してきた一人間としての黄前久美子が、部長という立場になっても死んでいないことを、三期は丁寧に描いてくれてありがたい。
先輩に、部長になってしまった久美子の社会的外皮の堅牢さは、組織としての北宇治を支える主柱でもある。
自分が崩れれば全てが終わってしまうと、日々の激務から思い知らされ続けている久美子が、お気楽でおっちょこちょいな本性を出せるタイミングはあまりない。
なので第2話の、電車に座らない北宇治トロイカの描写が冴えてもいるわけだが、今回はあんま部内政治の重たさを背負わず、人格的にも靭やかに完成された緑輝が青春探偵の相棒になることで、そんな鎧が少し緩むカットが多い。
求に死角から話しかけられ、思わずワタワタ慌てる黄前久美子の、この生き生きとした可愛さよ……。
どんだけ立派な先輩になっても、難しい顔で重荷を抱えていても、やっぱり久美子は久美子なんだと、だからこそそういう難題背負って頑張れるのだと、改めて思える場面があるのは、彼女をずっと見てきたファンには嬉しいものだ。
明るい自動販売機前でのコミカルなやり取りで、少し重たい空気を抜いた後、求と久美子は光と闇が複雑な色合いで同居するとても美しい場所……非常に”ユーフォ”らしい空間で隣り合う。
正面から向き合う緑輝との間合いではなく、お互い背中合わせ、視線が噛み合わないが声は通じる距離感を許しながら、ゆっくりとこちらに向き合ってくれるまで待てる場所。
久美子が頼れる部長だから……揺れる弱さを必死に覆いながら”先輩”を演じていればこそ、預けてくれる大事な真実を受け取るのに、ふさわしい場所。
揺れる心境を反射するように、流れる水面は美しく震えていて、宇治が水の街である良さが最大限生きていると思う。
かつて光眩しい窓縁に、幸せに輝いていたはずのコントロバスの音色……”愛の挨拶”。
他人の妬みと嫉み、理不尽な病魔と苦悩によってそれは陰り、求の心は大事なものが奪われてしまった空白から、未だ戻っては来ていない。
自分を縛り付ける重たい鎖が、ジャラジャラと尖った音を立てて他人を遠ざけている事実を分かりつつ、では先輩として大人のなりかけとして、適正な位置はどこなるのか。
緑輝の隣を、自分を守る温かな聖域としてギリギリ生きてきた青年は、ずっと目を背けていた居場所の問題へ、久美子部長が語りかけてくれるありがたさへ、ようやく目を向ける。
求が視線をどこからどこへ向け、その発信源である自分をどこに定位するかはエピソード全体を貫く演出であり、物理的立ち位置の変化によって心境と関係性の推移をスケッチしていく、ユーフォの筆致そのものとも言える。
温かな光に満ち、そこが安らげる居場所だったものが奪われた後の、なにもない虚無。
そこから目を背けられず、愛しさの引力に引き寄せられ引きちぎられてしまうから、求は見なくてすむ場所へと逃げ出した。
彼にとって北宇治は居場所ではなく、逃げ場所でしかなかったのだ。
しかしそんな痛みに目を向け手を差し伸べてくれる誰かの働きかけを受けて、彼の視線は既に失われてしまった過去ではなく、自分が今いる場所へと向き直っていく。
その代表として、北宇治吹奏楽部部長が堂々、死と愛に震える少年の視線をしっかり、美しい場所で受け止めるのだ。
離別の痛みに満ちた暗い場所から、逃げ出すようにしてたどり着いた北宇治で、求は消えてしまったはずの光がコントラバスを弾いている瞬間に出会う。
川島緑輝の輝ける天真は、少年の事情を何も知らぬままに、彼に必要だったものを惜しみなく手渡していた。
何も聞かず、ただ音楽だけを絆として繋がって、二人だけ満ち足りた音と光にたゆたう時間が、死や嫉妬や讒言といった、人間の世界を覆う暗くて痛いものに傷つけられた少年にとって、どれだけ救いであったか。
久美子に告げた自分の真実を、緑輝には告げない求の身勝手が、そこに宿る切実な祈りが、なにより良く語っているように思う。
緑輝ちゃんは自分を悪い先輩だと責めるけども、興味本位の正しさを振り回して人間の一番柔らかいところに切り込むのではなく、聞かずとも染み込むように伝わっていく音楽の力を信じ、感じて隣に立ち続けることは、誰にでも出来ることではない。
というか川島緑輝にしか出来ないことを、吹奏楽の地獄に姉を殺された求が”楽しい”北宇治に求めていたものを、彼女はしっかり手渡したのだ。
それは指先が血に塗れるのは当たり前、音楽を愛すればこそ苛烈に己を追い込み続ける、コントラバスの優しき修羅だからこそ背負い得た、愛しい傷と癒やしだ。
そういう柔らかな眩しさは、(少なくともこのタイミングの)黄前部長には求められておらず、彼女は全国を目指す演奏集団の長として、迷えるコントラバスが行くべき場所をしっかり示す。
しかしそれは社会的責務に駆り立てられた空言ではなく、前回サリーちゃんの私室で寝込む彼女に届けたように、己の胸の中から絞り出す誠の言葉である。
久美子が部長として他人を動かす時、必ず胸に手を当て思いを届けるジェスチャーが入っているの、三年になった久美子が人間関係とどう戦っていくのか、武器がどこから出てくるのか、一貫して描いていて好きだ。
求の過去や秘密、傷や重さと向き合った今回の旅路は、大事な後輩を守る個人的感情と同じく、そこから漏れ出す厄介事を未然に処理する、部としての公益を求めてもいる。
人間集団の中で求められる硬い外殻と、その中に満ちた個人としての柔らかな感情、それを満たしてくれる温かな友情の対比と融和を、鮮烈に描き続けているお話が最後に、決定的に求を動かす時、場面は暗く重たい場所へともう一度戻る。
そこではショーウィンドウのガラスは黒い鏡となって、過剰に自分ばかりを見ていた求の内面を改めて照らしている。、
心は音楽に出ると、久美子が部長として人間として真っ直ぐ告げた時に、車が通りがかって光を投げかける。
その時求は、緑輝だけが姉を奪われた世界の光なのだという、狭い価値観から脱却し、鏡写しのエゴイズムからも開放されていく。
眼の前の人が必死に差し出してくれる光が、既に自分の周りに満ちていて、頑なに拒絶していた祖父も親友も、多分この人と同じ温かさと眩しさで、自分に向き合ってくれていたことを悟る。
いわば久美子は、身勝手な望みをそれでも社会を構成する必須の祈りとして差し出し、そのことでなんとか光に近い方へと進んでいく世界の代表として、言葉と光を求に差し出した。
部として演奏をしていくのなら、共に全国を目指すのなら、鏡の中に狭く、個人的な痛みと癒やしだけを閉じ込めた関係だけでは、どうしても足りない。
コントラバスだけでは、ブラスバンドは成り立たないのだ。
ともすれば個人を置き去りにした、集団としての都合だけを押し付けかねない正論がどうすれば、自分が今たしかに感じている共感や愛を伴って求に届くのか。
それをやり遂げて、部長としての……あるいは傷ついた少年を前にした一人の人間としての責務を果たし切れるのか、久美子は震えを押し殺してスポットライトの中、微笑んで演じきる。
極めて、立派なことだ。
かくして石造りの墓所に閉じ込められていた月永求の物語は、生き生きとまばゆい新緑へと進み治し、逃げ場所だった北宇治は真実、彼の居場所へと変わっていく。
長くて短い遍歴を終え、ようやく表現者としての序奏を走り抜けた求が、久美子といっしょに窓の前……未来に向けて拓けていく場所に立っているのは、とても良い。
そこには風が吹き、光が満ちて、音楽が溢れている。
生きた場所だ。
だから求が”愛の挨拶”を彼の一番大事な人と再奏する時、心に宿るイメージに”みどり”の葉っぱが、生命の証があること……死別の痛みがそこを満たしていた時は閉じていた窓が、開け放たれたからこそ”みどり”がそこに在ることを、僕はとても嬉しく思う。
美しい思い出の中で、子どもでしか無い求は姉の演奏を聞き憧れるばかりで、隣り合って共に弾くことはできなかった。
しかし生の岸に置き去りにされた苦しみに引き裂かれながらも、弓を捨てずに引き続けていた彼は今、姉の面影を眩しく宿しつつも、姉ではないからこそ共にいる川島緑輝と肩を並べて、同じ曲を弾く。
それが世界に向けて広く解き放たれた音楽だからこそ、屋上に離れていても久美子はそれを聞き届け、秘密を抱えたり必死に顔を取り繕ったり、”先輩”を頑張ったからこそ生まれる物語の果てに、耳を傾けることも出来る。
この二重奏は、作品全体が目標とする吹奏楽競技の演目ではない。
ひどく密接に閉じて、しかしより眩しく拓けた場所へと手を引いて進んでいく、特別な誰かがいてくれればこそ奏でられる、私的でありながら公的でもある、人間の音楽だ。
この”愛の挨拶”に満ちた狭さと広さ、闇と光、嘘と真実の複雑な融和と美しさは、緑輝と求という主役にとどまらず、”響け! ユーフォニアム”というアニメ全体を包み込み、また前へと押し出す、とても大事な核だ。
このような数多の特別が、後悔や秘密や痛みの影と、希望や祈りや癒やしの光を混ぜ合わせながら響き合うからこそ、バラバラの個人が寄り集まった一つの楽団が、最高の音楽を奏でられると、このお話は幾度も描いてきた。
それがこのように美しく、切なく、眩しく描かれて終わること……終わるからこそ始まっていくことに、僕はとても幸せな気持ちを感じている。
エチュードが終わっても……終わればこそ、次の音楽がやってくるのだ。
響け! ユーフォニアム3、第4話『きみとのエチュード』、大変良かったです。
次回も楽しみです。
・追記 生と死、思い出と今が、色んな人の間を乱反射しながら照らしあって初めて、二人きりの練習曲の続きたる吹奏楽大合奏が、高らかに鳴り響くのだ。
ユーフォ追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2024年5月1日
相手を特定しない”きみ”との練習曲をタイトルに選ぶ今回は、久美子を筆頭とする部との社会性、姉の面影を重ねていた緑輝との個人的な繋がり、そして死せる姉が走りきれなかった、楽しい吹奏楽を求が弾き切る決意が、ここから始まるためのエピソードである。
死を絶対の終わりとしないために、音楽を特別な祈りとして未来に解き放っていく行いは、例えば滝昇とイタリアンホワイトを巡るエピソードの中で既に描かれているが、姉を殺した妬みや嫉みの萌芽を確かにはらみつつ、必死こいて火種を消して皆で全国を目指そうと、楽しさを忘れずガチろうと…
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2024年5月1日
あがく黄前部長の奮戦に助けられる形で、求は北宇治を死からの逃げ場所ではなく己の生、姉の願いを叶える居場所として、新たに選び直すことが出来た。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2024年5月1日
”きみ”とは生身を伴い光の中にある存在だけではなく、既に死んでしまってしかし終わってはいない、終わらせてはいけない音楽も含む。
そうして多彩な”きみ”を描いた今回は、死や理不尽や断絶や、生きる面倒くささ難しさ全部をひっくるめて歌にしてしまえる、音楽の力へ大きく踏み出すエピソードであり、そういう事を幾度も弾いてきた、ネトネト面倒くさいからこそ面白い”ユーフォ”らしさが、非常に色濃く出た回だった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2024年5月1日
傑作である。