イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

パスカルの隠し絵

小柳公江、中公新書ブレーズ・パスカルの初物理学論文「真空に関する新実験」を、筆者の専門である古典文献学の立場から分析した本。サブタイトルは「実験記述にひそむ謎」であり、大きな主張は「新実験」に書かれている真空の証明実験を、パスカルは実際には行っていない、というもの。
僕は古典文献学も物理学にも疎いので、筆者の主張がどの程度の妥当性と新鮮さを持っているか、の判別は付かない。のだが、フランス十七世紀文学という方法論で、法学者・哲学者・文学者としてのパスカルではなく、物理学者としてのパスカルのテキストを読み込んでいくスタイルには非常に強烈な印象を受けた。パスカル自体が万能人であり、ジャンルを自在に超越する才能の持ち主であるというのもあるが、それと研究者の越境はまた別の話である。
このようなジャンルの超越は、繊細な心配りがなければ方法論の混同や資料読解の迷走などを引き起こしがちだが、筆者はあくまで文学者のスタンスを重視し、「科学実験を行ったように思わせる印象操作」をネガティブに評価しない立場を徹底している。ここで実験を指弾するスタンス、つまりは中立性や再現性を重視する物理学の立場をとっていれば、全体の筆致は混乱していただろう。
扱う問題が「自然は真空を嫌悪する」という、アリストテレスの権威に真っ向からぶつかる問題であること、ガリレオが教皇庁に拘束されて時間が経過していないことなど、物理学と政治と宗教が不安定に交錯している問題だというのも、この書物の混交的なスタンスを支持している。科学者の政治的なふるまいというテーマは、科学の独立不偏が疑われてから注目されたテーマであり、分野を横断する研究と同じく、ある程度新鮮な主題である。そのような主題と手段の混交の妙が、ページをめくらせる原動力になっている。
肝心のパスカルの実験の不在証明だが、物理学の手を借りつつも基本的には文献研究である。テクストを細かく解体し、意図的な沈黙や実験記述の不在を目ざとく見つける手腕は丁寧なものである。それら、物理学の視座では一種の詐術として切り捨てられるであろう記述を、レトリックの豊かさとして評価する価値の転倒が個人的には魅力的に写った。近代物理学の黎明として無批判に評価され、いわば棚の上に死蔵されているパスカルという科学者を、狡猾かつ巧妙なレトリック使いとしてアクティブにする行為は、なかなかに挑発的であろう。
実験図版も多数掲載されており、筆が時々個人的な意見に滑るが読みやすい。良著。