イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

エウレカセブンAO 第23話・第24話 放送当時の感想

……難しいなオイ。
ぶっちゃけかなりこんがらがってますが、二回見返して思うところ取り合えず書きます。

お話としては、ラスト二話で超強引にまとめた感満載だった。
時間/並行世界移動と因果関係の前後が絡む、かなり面倒くさいネタを消化し切るには、やっぱ足らねぇ。
シークレットの思惑も、スカブの思惑も、トゥルースの願いも、エウレカレントンがやったことも、レントンがアオに接触してから15分で説明するのは、ちっと大忙しだったなぁ。

思い返してみると、もう少し時間配分巧く出来た気がしないでもないが、出来上がったモンがまぁ全てだ。
アオくんの話とすると、初期設定で色々揺らいだり不満を抱いていたアイデンティティには一応の答えが出ているといえる。
トゥルースさんをぶっ殺してエンド、女の子とくっついてエンド、みたいなところで落ち着かなかったのは好きだし、本当の世界に対しての強い拒絶は共感するところもある。
なんとはなしに爽やかに思える辺り、BMGの力って凄いネ。


無論不満も山積。
一番やべーなーって思うのは、時空放浪者/同族殺しというのエウレカの呪いを、全部アオに引っかぶせる形で話がオチたこと。
全部アオが望んだ形なので一見爽やかなんだけど、個人的にはアオがあまりにも飲み込み良すぎイイ子過ぎだと感じた。
そのイイ子さが、前作に比べてAOが受け入れられやすい最大の原因なんだけど、アオくんの人格一個に全部を仮託するのであれば、アオ以外の存在はなんのために物語の内部に存在していたの? ということになる。
その人格を構成するために必要だった、とするのならその時キャラクターは装置に堕してしまっているだろう。

大人っぽいオーラを漂わせていたイビチャは結局アオの犠牲に対してアプローチできなかったし、三人もいた女の子たちはわりかしテキトーというか恋なり友情なりのひとつの結論を付ける余裕もなく終わってしまった。
ナルとエレナはいいとして、フレアのまっとうな問いかけに関してなんで答えを出さないままシーンを閉じたのか。
フレアが最後に問うたのはつまり、今までの24話かけてやってきた怪獣退治(とその中で培われてきた関係性、自分たちの存在意義)の意味そのものなわけで、それが結論なしのぶつ切りじゃあ、構成に大きな問題がある、と言わざるをえない。
時空SFにしたいのであれば、最終二話で本当に唐突に出てきた設定その他が飲めるように細く伏線を張ってを消費しても良かったかなぁ、と。
のんびり怪獣退治してた時のスケールと、クォーツガンが出てきて、世界間移動が主軸になってからのスケールが巧くすり合わせ出来ていないように感じるし、クォーツガン以降に描写・説明しなければならない事象が沢山増えすぎて(何しろ全く別の世界が発生するわけだから)、前半に見られた丁寧なキャラクターと心理の描写が薄れたのも残念だ。


さらに言えば、コーラリアンとの相互理解の可能性、という前作ラストで見せた一つの結論を、前作のヒロインと主人公が直接否定してしまうのは、危ういなぁと感じる。
因果律の改変という危険なネタはしかし、登場人物の真心と視聴者の感覚をリセットしてくれるわけではないし、アオくんがどれだけ「偽物だから、失敗作だから否定してはいけない」って吠えても、レントンたちは自分の物語の結末を自分で否定する行動に出た。
正直自分はエウレカセブンに魂を揺すぶられたわけではないし、思い入れもそんなにはないけれども、その行動は前作に何かを預けていた視聴者に対しては結構な裏切りと感じられるんじゃあなかろうか。

以前日記で「アオは主人公に見えて実は、非特権的な登場人物の一人で、この話に物語的な支持を受けられる優先的な存在はいないのかも」とか書いたけど、(そこに痛みも苦しみもずっしりとあるとしても)実質的に子供を見殺しにせざるを得ない、「親のために俺死ぬわ」という子供の暴論に対し、超具体的な尺の都合でまともに反論もできていないのになんとなくOK出てるオーラのレントンが、特権的な主人公なのかも。
エウレカはかなり長い時間(これは物語無いという意味ではなくて、視聴者が見て感じて考える映像の時間)このアニメに存在してきて、苦しみながらアオくんを守って、という積み重ねが描写されてきた。
一方レントンがまともに言葉を駆使するのは、最終話だけ。(その短い尺の中で、設定と過去の出来事の説明、自分の行動理念の吐露まで何とかやってる辺り、結構上手いとは思うけども)
たとえ前作の積み重ねがあっても、これでは僕はレントンに特権的な許しを感じざるを得ない。
尺をやりくりしなきゃならんかったのは、最後にバディになるもう一人のアオたるトゥルースと主人公との関係性の掘り下げでも、どのヒロインを選択するかの描写でもなくて、余りにものわかりよく犠牲になろうとするアオくんに正面から対峙して、ただアオくんの主張を唯々諾々と飲むのではなく、相互に理解するためのシークエンスだったんじゃなかろうかと、僕は感じておるわけです。
そういう意味で、ラストのタイトルは「夏への扉」じゃなくて「愛に時間を」にスルべきだった!!!(無責任な妄言ブッパ)


とまぁぐたぐちゃ書いておりましたが、んじゃあこのアニメ嫌いなの、と聞かれると好きです。
ジュブナイルとして透明感と独特の空気がよく出ていたと思うし(途中で描かれた「こういう話になるんだろうな」と視聴者が感じ、「こういう話になってほしいな」と期待させる機能を持った、物語的な踏み石・伏線が有機的に機能しなかったのはさておき!)、アオくんの前向きな姿勢は嫌いじゃあない。
「本物」「普通」に関するベッキベキにひん曲がった根性とかも、個人的な好みにはビンビン来る。
作画が良かった、というか凄まじいのは言わずもがな。(アニメの中でその凄まじい作画がどういう芝居をしていたのか、という部分に関しては、かなり問題があると思う。落語的に言うと「徹底的にタダウマでフラがない」)

なによりまぁ、アオくんが僕は好きで、まっすぐでいいやつだったなぁと思っています。
アオくんのお話としては一応のまとまりがあって終わったのは、お話を消化する気持ちの上ではいいことで、その爽快感を得るためにイイコちゃんの自己犠牲をその親が飲まざるを得ないという哀しさてきには悪いことだ。
僕は、アオくんが世界とやらを背負って死んでしまうこと(先のことはわからないとか、意志の力でなんとかなるとか、そういう誤魔化しは僕は聞きたくない)が、相当に寂しいんだなぁと、ここまで書いてきて思う。
そういう刺さり方を、レントンの物語である前作は僕に対して行使できなかったわけで、だから僕はAOが好きだ、と書いて文章を閉じようと思う。
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